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あるこのつれづれ野球日記
あるこ
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2002年09月27日(金)
そこで、“私”はどこにある?


 今まで私は、文章に関してこれといった指導を受けたことがなく、ずっと我流で書いている。それはそれでいいかな?と思ってはいたのだが、どうも進歩がないように思えて、人に文章を見てもらうことにした。身近な審査員は、父。工業系の仕事をしてた父は、在職中に論文を書くことがあったので、何かいいアドバイスがもらえるのではないかと思った。

 ところが父に指摘されたのは、そんな文章の技巧のことではなかった。ある日の日記を簡単に清書して父に読んでもらったのだが、一番最初に出てきた言葉は、「で、“私”はどこにあるわけ?」。父曰く、私の気持ちや私の思ったことがほとんど出ていない、隠しているというのだ。びっくりした。私は知識や情報に劣っている点を自分でもわかっていて、それを自分の気持ちを書くことによってカバーしている。自分の気持ちは書けている。そう思っていた。それだけにショックだった。

 2,3日前の日記に、『私は試合内容や、選手のことを伝えたいわけではなかった。それらを見て自分がどう思ったかを伝えたいのだ。』と書いている。そして、『自己表現のために、文章を書いている』とも。ところが、「“私”はどこにあるわけ?」と言われる悲しき実態。情けなくて泣きそうになった。これなら、「ボキャブラリーがない」とか「文法がおかしい」と言われた方がまだマシだ。

 『自分の思いを表現したい』、そう思って書き始めた文章。確かにそれを目指していたはずなのに、一体どこで間違えたのだろう。過去の日記を読み返してみた。過去にはときおり、自分の気持ちが書いてあった。今より見苦しくて、書き散らかしているという言葉がまさにピッタシのバタバタしている文体、それでも自分はこう思っているんだと一生懸命伝えようとしていた。

 私は、風景や出来事や人のなりを伝えることが苦手で、それを何とかしたいといつも意識していた。たとえば、野球場の広さや規模、スタンドの様子、選手の体格や投げる球、その日の天気、そばにいる人の会話…、事実を確認する作業に追われていた。いつからか、それを書くことが自分の思いだと勘違いしていた。そこで自分はどう思ったのか、真剣に向き合うことを忘れていた。日記下部の『<これから』をクリックするたびに、気持ちが重くなっていった。横滑り、上っ面の文章。くだらない。

 あるコンクールに応募して、プロの作家さんに自分の書いた文章を見てもらった。『本当に読みたいことが書かれていない』とあった。本当に読みたいこと、最初は選手の気持ちかな?と思った。そんなの私は選手じゃないからわかんないよ、取材なんて出来ないし。でも、今日、父と話してわかった。ひょっとしたら、私の気持ちなんじゃないかな…と。

 「かっこつけることなんてあるか、自分の気持ちを丸裸にしてみい。人は大人になると、失敗や体裁が怖くて、どんどん自分の気持ちを隠すようになる。でも、文章はそれやったらあかんねん。おまえに何があるっちゅーねん。何もないやんけ。あるのは、自分の気持ちやないのか?私はこう思った。こんなことを感じた。同じ文句を言われるんやったら、ありのまっま書いたらどうやねん」、父の言葉。

 早速、考える。私はどう思うの?何を感じたの?
 …出てこない。出そうしていないのかもしれない。自分ってどこにあるの?確かに私はここにいるはずなのに、自分が何を思っているのかよくわからない。ただ、このままではダメだと思う。すぐにリハビリ始めなきゃ。

 今日からは、自分の気持ちを大切にしよう。見たもの、聞いたこと、触れた感触、それらに対していちいち、「私はどう思ったの?」と問いかけていこう。起承転結や文体や、助動詞の使い方はそれからでいい。