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| 2002年06月30日(日) ■ |
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| 「失うものは、何もない」 |
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今日は、応援している高校の最後の練習試合を見に、地元にある同校のグランドに足を運んだ。生憎の天気だったので、出足が鈍ったが、運動がてらの30分ウォーキング。
試合は、6回まで進んでいた。同点だった。時々雨が降り、楽しみにしていたデジカメ撮影を断念した。
試合は終盤にお得意(?)の集中打で9点をたたき出し、勝利を飾ることが出来た。次のバッターを信じてつなげた打者一巡。いい試合を見せてもらった。
さて、試合中、いつもお世話になっている父兄さんに、「このあと、激励会やるんで、残っといてね」と声をかけられた。この学校では、例年抽選会の翌日にシングルで練習試合をしたあと、グランド横にある室内練習場で激励会を行う。
試合終了後、1時間弱で準備が整い、激励会が始まった。選手や父兄さん、OB、学校関係者というそうそうたるメンバーの中、どさくさにまぎれて潜入。
父兄さんの司会のもと、激励会は順調に進んでいく。そんな中、一番印象に残ったのは、監督さんの言葉だ。
ある日、試合に負けたあとミーティングをしたそうで、そのとき話したのが、「失うものは、何もない」ということだったという。
その試合。私も見ていた。対戦相手は、ほぼ毎年試合するチームだが、見た限り今まで負けたことはなかった。それが、今年はただ負けるどころか、大敗だったのだ。
どんな試合にも、どんな選手にもいいところはある。そう思い続けた私だが、この試合に関しては、どんなにがんばっても、いいところを見つけることができなかった。勝ち負け以前の問題だった。
目につくもの、耳に入ってくるもの、その全てにイライラし、うだるような暑さが体にまとわりつくだけだった。
「野球、なめとんか!」などと野暮なことを言いたくなった。ここで一発怒鳴って、応援生活をジ・エンドにしようかとも思った。
ああ、あれがどん底だったのか…。 当時のことを思い起こしてみた。
「失うものは、何もない」。 監督さんの明瞭ながら低い声は、私の胃袋の奥に沈み込むように響いた。
言葉自体は失礼ながら、使い古されありふれたものである。けれど、今日ほど真摯に受け止めたことはない。そのあと、“エラーはいいから、前向きにプレーしよう”と続いた。
春の大会の敗戦から、このチームを信じられなくなったことは否めない。今でも素直に“甲子園目指してがんばって〜”とはよう言わない。“とにかく、野球をしてください。勝ち負けはそれから”というのが正直な思いだ。
一時は、嫌悪感すら抱いていたほどだ。先週の試合を見に行きさえしなければ、アンチになっていたかもしれない。
しかし、ここに来て、その原因が少しわかった。当時のチームは、自分のイヤな部分を写し出す鏡のようだったのだ。自己嫌悪に陥りそうなので、具体的なことは言わない。それに、選手もチームも当時とはちょっと違ってきている。もちろん、いい意味で。
だから、「失うものは、何もない」という言葉が響いた。今の私も「失うものは、何もない」のかもしれない。
いや、失くしたくないものはある。家族、友人、恋人…。でも、私自身には何もないと思う。卑屈な意味ではない。ただ何もしていないから。それだけのこと。
エラーが怖いからと言って、ボールを追わないんじゃ意味がない。ボールは、グラブを差伸べない限り、永遠に捕れない。けれど、下手でも何でもグラブを差し伸べたら捕れるかもしれない。捕れるようになるかもしれない。エラーのことは、エラーしてから考えればいい。
でも、一歩を踏み出すには、まだほんのちょっと勇気が足りない。仕事のこと、将来のこと、体重のこと…。
この夏、また選手から教えてもらうことが増えそうだ。
追伸
このところ、試合を見に行くと、「HP見ているよ」とか「HPやってるんやって」とか声をかけていただくことがある。“嬉し恥ずかし”というのは正直な心境。(でも、ありがとうございます。やっぱり、嬉しいです)
激励会が終わったあと、父兄さんに声をかけられた。 「ホームページに、うちの子のことを書いたもらったそうで…。いい記念になります」 心臓が飛び出そうになった。
6/23付の日記で取り上げたA君の親御さんだった。お父さんとはよくお話をさせていただくのだが、お母さんとお話させていただく機会にはあまり恵まれなかった。でも、書きたいと思える選手に出会えたことに感謝をしています。
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