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あるこのつれづれ野球日記
あるこ
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2002年04月23日(火)
Restart 〜がんばれ、藤原監督!〜


「あんたの部屋、どうにかならんか。あのアホみたいに積んである野球雑誌。足の踏み場がないやないの」

 そういや、あまりの汚さに我ながら嫌気がさして、ここんところ、自分の部屋でゆっくりすることがない。たまるばかりの野球雑誌の存在は分かってはいたけれど、何かのときのために…とずっと捨てるに捨てれず、今日に至っていた。

 でも、いつまでの山積みにしておくわけにもいかない。一発発起して、部屋の掃除をすることにした。カーテンを開けると誇りが舞い、思わず咳き込んでしまった。お恥ずかしい限り…。

 手始めに指摘のあった野球雑誌の処分から着手した。処分と言ってもやはり名残惜しい記事はあるわけで、それを1冊1冊調べて、切り抜いていった。

 出来るだけ非情な目を持って、容赦なく古雑誌ボックスに入れて行ったが、そんな私の手もある野球雑誌を見て止まってしまった。

 「輝け甲子園の星(1992年3+4月号)」

 今から10年前の野球雑誌。日刊スポーツ出版社が出している10代の女性にターゲットを絞った高校野球専門雑誌だ。

 この号は、センバツ大会に出場する選手を紹介しているいわゆる選手名鑑号。当時の私は、これを見てお気に入りの球児くん(ああ、恥ず)たるものを作って来るべき甲子園に備えていた。

 パラパラとページめくってみる。
 今ではすっかりメジャーになってしまったプロ野球選手たちもあどけない顔で紙面におさまっている。ああ、若いなあ。なんて思って見ていた。

 北から紹介されている名鑑も、PL学園まで読み進んだ。当時のPLには、松井(稼頭央(当時は、和夫)=西武)や今岡(阪神)など豪華なメンバーがいる。

 「あー、すごいなあ。おもしろいなあ」などと独り言を言いながらページをめくろうとしたとき、ふと1人の選手の名前に目がいった。紙面の一番端っこ。背番号「15」の選手。名前を、藤原弘介という。

 身長171cm・体重61kg。控え捕手で、右投げ左打ち。昭和49年7月27日生まれで、50Mを6.5秒で走る選手。

 選手紹介の最終項目「こんな男です」と称された自己PRの欄には、「将来は監督になりたい」。

 PL学園・藤原弘介現監督、その人だ。
 お若い監督だとは思っていたが、まさか同世代(1つ上)だとは思わなかった。びっくりした。それに、10年前の夢をきちんと実現させているなんてすごいなあと思う。名鑑に写っていた当時の監督は、やはり今よりかはあどけないが、面影はしっかり残っていた。

 ここから彼は何を思い、どういう人生を歩んできたのだろう。そして、指導者となった今、何を思い、選手にどういうこと伝えようとしているのだろう。無性にPLを応援したくなった。

  こういう発見が出来るから、野球雑誌はなかなか捨てられない。


追伸:藤原選手の甲子園通算成績は、1打数0安打。緒戦の四日市工業戦で代打出場し、その後ライトを守っている。

(一部敬称略)

参考文献:「輝け甲子園の星(1992年3+4月号)」(日刊スポーツ出版社)
「報知高校野球1992年5月号」(報知新聞社)