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あるこのつれづれ野球日記
あるこ
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2002年03月08日(金)
対話の時間

 
 以前、ある野球関係者とお会いして、話を聴かせていただいたときがある。その方がおっしゃっていたことだが。

「今の子供は、もっと出来るはずやねん。でも、昔と違って、ただ“やれ”と言われたって動かへん。自分で納得せなあかんのやろな」

 なぜしなければならないのか明確な理由を聞き、ちゃんと納得した上で、自分が“そうしたい”と思う意志が芽生えなければ動かない。
 
 実は、私のそのテの人間である。


 今日、青春18きっぷを使って、鳥取まで出かけた。そこである高校の練習を見せてもらった(もうバレバレだけど(^^;))。そのときに、ふと前述した関係者の言葉を思い出したのだ。

 小1時間くらいので何がわかるのかと言われればそれまでなのだが、1つの練習が終わったあとのミーティングが長かったのだ。

 指導者を中心に輪になる。指導者が気付いたことをアドバイスする(私の仕事における欠点を指摘されいるかのごときの内容にびっくりした。やっぱり、「野球」は人生に通じるんだ…)。

 また選手に挙手させたり、選手の中から代表者みたいなのを出して、フォームとかを実演で指導していた(ように見えた)。

 野球の雑誌や本を読んでいると、「対話やミーティングを大切にし、時間を割いています」という指導者も少なくない。しかし、“とにかくやれ”で育ってきた年輩の指導者にとっては、結構骨の折れる仕事なのではないかと、人ごとながら心配になる。


 私の母方の家系に、学校の教師が多い。だからなのか、私の場合は塾講師という形ではあったが、「子供に勉強を教える人になりたい」と思っていた。

 塾の講師、家庭教師のバイトをした。挫折したけど、塾の会社にも入った。教育実習で教壇にも立った。

 でも、出した結果は、「私は、子供に勉強を教えることなどできない」だった。

 それは私の頭や学力の問題もあったが、最大の要因は、子供からの「なんで勉強しなきゃいけないの?」という質問に答えられないからだ。

 確かに、私の中には答えがある。でも、それで子供を納得させられない。実際、子供に話したことがあるが、受け入れられなかった。そんな曖昧な私が「教師」や「講師」として勉強を教えることなどとても出来ない。

 今でこそ、「教えることは、教わる側に学ぶことである」と考えてはいるが、それでも1つに夢を断ち切ったことに悔いはない。


 だからこそ思う。
 子供の「なぜ?」に明確に答え、子供が納得し、実行出来るようになることの難しさが。そして、その時に生まれるであろう計り知れないパワーが。

 管理と放任のバランスは、野球に限らず指導において非常に難しいと思う。でも、少しでも「なぜ?」に答えてくれる対話の時間があれば、子供はどんなにか救われるだろうと思う。


追伸:理屈なしの情熱や誠実さが子供の心に響く。そんな心の交流も失われて欲しくない。理由があることは大事だが、理由があることが全てではないとも思う。なんだか矛盾するけれど。

お詫び:事前に「今回の旅行のことを書く」と言っていたにもかかわらず、内容を変更して誠に申し訳ありませんでした。今回の旅については、機会をみて追記、あるいは、今後の日記に取り込みたいと思っています。