元からスポーツ全般に対する興味は薄いが、今回の五輪には憎しみすら覚えるので、心の平安のために先週末からテレビは殆どつけていない。 せめてニュースぐらいは見たいのだが、ニュースも大半が五輪関連。 そればかりかニュースの枠すら競技の中継のために潰される事もあり、最早正気の沙汰ではない。 民放ならさもありなんだが、NHKまでもだ。BSのワールドニュースが2週間も休みってどういう事なの。働き方改革とか言って体良くサボってんじゃねえよ。受信料返せや。 テレビ局の人間って頭おかしいんじゃないの?と思わざるを得ない。
ツイッターを見ていたら私と同じような人がいて、その人は「五輪見たくないからYouTubeでショパン・コンクールの予備予選をBGM代わりに流している」とツイートしていた。 何そのお得情報!という訳で、ここ数日は音楽之友社の特設サイトのお世話になっている。予備予選の結果付きなので、その場で自分の耳の判定も出来るという優れもの。 五輪同様、本来は昨年開催予定だったのが、武漢肺炎の世界的大流行のせいで1年延期になったそうだ。 そしてそのお蔭かどうかはわからないが、アーカイブで見られるという僥倖。 パンデミックが無かったとしても、私のような一般庶民は、そうそうワルシャワなんて行けないもんな。 昼間は殆どずーっと流しているものだから、ネットから離れても、一日中頭の中でショパンの何かしらの曲がぐるぐる回っている。幸せだからいいけど。
世界的コンクールの予備予選だが、皆が皆上手な訳ではない。 上手な人もいれば、えっこのレベルで出て来たの?それとも調子悪いの?という人もいる。 でも、それだけではない。 「ミスタッチが無いのにつまらない演奏」というのがあるのだ。 いや勿論私は弾けないんで、上手は上手なんだけれど。 画面に目を移すと、ちゃんと感情込めて弾いているようには見えるのだが、聞いていてつまらないのだ。 その人は落選組だった訳だが、何なんだろうねあれは……と帰宅した主人に言ったところ、彼はこんな話をしてくれた。 「どこで読んだか忘れたけれど、『音楽は再現の芸術である』って評論があってね。 楽譜に書かれた音をなぞるだけではない、作曲家が楽譜に書き切れなかった諸々を汲み取って表現してこその音楽なのだっていう話。 シオンが気が付いたのはそういう事だよね」 なるほど……あの奏者に足りなかったのは、そういう所なのか。 主人にも何人かの演奏を聞いて貰ったが、 「あーこれはなんか聞き流しちゃう系の演奏。弾いてる本人だけ楽しいってタイプ」 と判定、果たしてその人も落選していた。 そんな主人が注目しているのが、日本人YouTuberピアニスト。 その人の演奏は、「安心して聴ける演奏」と主人は言っており、勿論予選通過。 こうなると、主人にも全員分の演奏を聴いて貰って、誰が優勝するか預言して欲しくなって来る。 全部は聴いていないが、私が注目しているのは医学生ピアニスト。 いい演奏をする人なので、休学して本選に集中して欲しいぐらいである。 10月が楽しみだが、今度もネット配信してくれるのかな……。
開催直前に、随分味噌が付いたものである。 五輪開会式に関わった2人の芸能人、小山田圭吾と小林賢太郎について書いておこうと思う。 因みに私はどちらも存じ上げない。 けど一応コーネリアスの音楽はむかーしラジオで耳にした事がある。 そして数年前に子守の手伝いに行っていた時、甥っ子と一緒にテレビの前でピタゴラスイッチ待機中に「デザインあ」のクレジットを見て、この番組で流れているのがコーネリアスの音楽なのだと知り、そう言えばそんな雰囲気だなと思った程度である。 今回の報道が出るまでは、この人がコーネリアスのメンバーだった事も、その鬼畜の所業についても全く知らなかった。 一方の小林賢太郎という人については、問題のコントを発表したお笑いコンビ「ラーメンズ」の存在すら知らなかった。 ネット検索して、元相方には見覚えがあった。大人のピタゴラスイッチに出ていた人だ。 なるほど、教育テレビにも食い込んでいるようなネットワークがあって、そこから開会式に呼ばれた人々なのかなと何となく推測した。 さてこの2人、どちらも過去の問題行動が明らかになって五輪の担当から外された訳だが、辞任と解任、そして決定までの期間を考えると、その対応の差に物凄く違和感を覚える。 しでかした事の酷さを比較すると、小山田の方が問題としては大きいと思うのだ。なのに解任ではなく辞任。しかも五輪委員会は擁護、続投させる事を一度は表明している。 一方の小林に対しては、ホロコーストネタはユダヤ絡みだからなのか、同じ五輪委員会の判断とは思えないほど、対応が迅速であった。しかも解任、クビである。 イスラムとユダヤは世界的にアンタッチャブルだからな……そらそうなるわなとは思ったが、本人の謝罪コメントは小山田のそれとは違って、物凄くしっかりしていて、少なくとも私は読んで納得出来るものであった。
因みに私は、作品と人格は切り離して考えるべきだと思っている。 作者がクズの詐欺師だったとしても、「一杯のかけそば」に涙した人は多かった。 グレインジャーがSM好きの変態だとしても、「リンカンシャーの花束」が名曲である事は変わらない。 セクハラ大魔王だとしても、デュトワの作る音楽は素晴らしい。 作品は、背後の物語ではなく、作品自体で評価されるべきである。
しかし若気の至りだとしても、何十年も昔の話が甦って、現在の自分の足を引っ張るなんて、恐ろしい事である。 私は人前に出ないように、目立たぬように生きて行こうと思ったのであった。
|