のづ随想録 〜風をあつめて〜
 【お知らせ】いよいよ『のづ随想録』がブログ化! 

【のづ写日記 ADVANCE】

2004年12月30日(木) お見舞い

 本当にびっくりしたことなのだが、同じ部署で働いている派遣社員の女性が、仕事中に倒れてしまった。12月の半ば頃のことである。彼女は会社からタクシーでワンメータ程度のところにある病院に救急車で運ばれたが、今はもう集中治療室を出て、一般病棟に移っている。
 すこしクールなキャラクターで、俺がちょっと彼女の揚げ足を取ったとしても負けじとしっかり返してくる。そんな彼女だったから、一般病棟に移ったとはいえ、どんな風に彼女を見舞ったらよいのか、俺は正直なところすこし悩んでしまった。何度か彼女の様子を伺いに病院に足を運んでいる後輩社員に聞けば、多少後遺症のようなところもあるけれど、普通に話はできますよ、とのこと。相当退屈しているらしい、ということを教えられたので、では雑誌や文庫本、漫画などを持っていってあげようということになった。
『動物のお医者さん』を知らぬ人はいないだろう。後輩がこの漫画を持っていく、というので、俺は同じ作者が書いている『Heaven!』というフレンチレストランを舞台にした漫画をお見舞いに持参することにした。
 土曜日の昼前の病院はまだ面会時間ではなかったが、看護婦はそれを咎めるでもなく、彼女の病室を案内してくれた。そっと扉から中を覗くと、白いベッドに横になりながら文庫本を読む彼女が、いた。
「具合はどう? 大丈夫?」
 俺と一緒に見舞いに来た後輩の女の子が声をかけた。
「ああ、すみませぇん……」
 彼女はこちらに気づいて、ゆっくりと上体を起こした。
 すこし会話をしたが、なるほど後輩の言うとおり、こちらが心配しているほどは具合が悪いわけではなさそうだった。「明後日には退院するつもりなのに、病院がそうさせてくれない」「甘いモンが食いてえ」などと減らず口を叩いているあたりは普段と変わらない。よかった。
「のづさんも漫画を持ってきてくれたよ」と後輩。
 ありがとうございます、と彼女は言ったが、俺は用意したコミック本を2冊手渡しながらいつもの調子で答えた。
「ナニを買ったらいいか、迷ったんだけどね」
「?」
「月刊アマチュア無線。月刊建築技術。現代用語の基礎知識なんかもいいと思ったんだけど」
「いくら退屈でも、そんなもん読みません」
「大丈夫。だから漫画を持ってきてあげたよ」
「また変な漫画でしょう」
「下手にウケを狙えないかな、と思ってまともに漫画を買ってきたけど、ここまで元気だったら、もう少しウケを狙いたかったなあ」
「病人ですから、アタシ」
「とりあえず、買ってきた漫画は“2巻”から買ってあるから」
「なんで“2巻”からなんですか」
「いろいろ考えたんだ。もしくは“ドラえもんの1巻を3冊”とか」
「意味がわかりません」
「ドカベンの偶数巻だけ、っていうのもいいでしょ」
「飛び飛びなんだ」
「そう、途中は想像してください」
「大体ドカベンなんて読みませんよ」
「じゃあ、ドラゴンボールの全巻。ただし、中身とカバーを全部入れ替えてあるっていうのはどうだろう」
「嫌がらせですね」

 年明けにはまた、手渡した漫画の続きを持ってお見舞いに行こうと思っている。彼女の一日も早い回復を願う。



2004年12月19日(日) チキン弁当

 久々の更新である。更新が滞っていた間、何度もココへ足を運んでくれた奇特な方、大変お待たせいたしました。
 まだ年内に1、2度の出張の予定を残しているとはいえ、とりあえず先週で年内の大きな仕事の山を乗り越えた、という感じだ。来週は取引先との軽い忘年会があり、“彼女”のクリスマスコンサートに出かける予定だ。おまけに25日には『トライ・トーン』という俺が愛してやまないアカペラグループのクリスマスコンサートにも夫婦そろって行くことになっている。聖夜にアカペラコーラスを満喫、というのもなかなかではないですか。

   ※   ※   ※

 出張で足を運んだ山形へ向かう新幹線の車内誌で見かけた記事で『チキン弁当』を紹介していた。
 今は幼いころのクリスマスの想い出をモチーフとした松本人志作詞の『チキンライス』というクリスマスソング(なのか?)が話題を呼んでいるけれど、俺には『チキン弁当』にまつわる幼い記憶がある。
 『チキン弁当』をご存知か。駅弁のひとつなのだが、もしかしたら食したことがある人もいるかもしれない。
 チキンが入っているバスケットをイメージしたオレンジ色のパッケージに、から揚げが3ヶとチキンライスという、内容はシンプルな駅弁である。社会人となり頻繁に新幹線に乗るようになると、社内でビールと駅弁――というヨロコビも覚えるのだが、俺は駅の売店でいつもこの『チキン弁当』を見かけると、少しだけ胸が締め付けられるような不思議な感覚を覚えるのだ。

 幼い頃小児喘息を患っていた俺は、小学校の6年間をほぼ毎週、母に連れられて都内の病院に通院していた。毎週木曜日、授業を給食前で早退して自宅に戻り、母と一緒に地元の駅から1時間ほど揺られて病院に向かい、たった一本の注射を打ってもらうのだ。時には常備の喘息の薬ももらっていたような気もする。その頃母はパート勤めをしていたはずだから、この木曜日には俺と同じようにパートを早退していたのだろうか。
 元気なときは問題ないのだが、喘息の発作が出ている状態で病院まで行くこともしばしばだった。あの喘息の発作の苦しみというのは経験者でないと理解できないだろうが、食事どころか呼吸すらできなくなってしまい、子供ながらに「死ぬ」と何度も思ったものだ。うずくまるようにして背中を丸めると少しだけ呼吸が楽になるのだが、母と一緒に病院に行かなければならないときに、苦しさに道端にうずくまったりすると母は厳しく「立ちなさい」「歩きなさい」と俺を叱り、強く腕を引いた。俺はまさに母に引きづられるように病院まで連れて行かれるのである。
 そんな状態で病院にたどり着き、いつもの注射を打つと(あまり酷い発作のときは点滴を打ってもらうこともあったが)発作はあっという間に治まってしまう。呼吸することを実感することってあまりないと思うが、俺は子供の頃から呼吸できるヨロコビを知っていた。
 それまでの発作が嘘のように病院を後にすると、母もすこし穏やかな表情になっていた。
 帰宅の電車に乗る上野駅で、俺は時々『チキン弁当』を買ってほしい、と母にせがんだ。売店のショウケースに並ぶ見本には派手なオレンジのパッケージに好物のから揚げが入っていて、なんともチキンライスも美味そうに見える。もともと鶏肉好きだった俺にはこれほど魅力的なものはなかった。
 今から思うと、母が上野駅で俺に『チキン弁当』を買ってくれるのは、こんな風に発作が治まったときだったようにも思える。
 病院での治療が終わる時間はだいたい4時過ぎ。そんな時間に駅弁を食べたいなどといっても「晩御飯が食べられなくなる」と叱られるのが常だったが、時折、俺は母が買ってくれた『チキン弁当』を常磐線の対面座席で母に見守られながらモリモリと食べて帰るのである。
 今になって、母はどんな想いでわが子が『チキン弁当』を頬張っている姿を見つめていたのだろう、と思う。



2004年12月08日(水) なんだろう

 忙しかった仕事も今日でひと山を越えた感じとなった。実際のところ、今の俺を取り巻く仕事環境というものは“山”とかいうものではなく、どちらかといえば“山脈”に近い。越えても越えても、そこには山。徒労感すら漂う。明日からはまた次の山を越えなければならない。
年末に向かって、また出張のスケジュールがばたばたと舞い込んできた。明後日は日帰り仙台出張(もちろん牛タン食って帰ってきます。)週明けには神々の国・島根県出雲市に三度足を運ぶこととなっており、帰ってきた足で会社の忘年会に顔を出し、翌日にはそのまますぐ山形県だ。
 なに、山形県? ものすごく寒そうじゃないか。たぶん雪降ってんぞ、雪。大丈夫なのか、俺。
 しかしまあ、いったいどういうスケジュールか。こんな調子で年末を迎え、ばたばたと正月休みが過ぎ去り、またいつもの生活に戻っていくのであろう。
 12月。あっという間の一年が今年もラストスパートを迎える。


 < 過去の生き恥  もくじ  栄光の未来 >


のづ [MAIL]

My追加