のづ随想録 〜風をあつめて〜
 【お知らせ】いよいよ『のづ随想録』がブログ化! 

【のづ写日記 ADVANCE】

2003年02月26日(水)  突破

 なんともはや、俺がこんなところ(滋賀)にいる間に、『のづ随想録』の総アクセス数が5000を突破してしまったではないか。これは結構すごいことだなあ。
 足掛け3年、ほとんど――いや全く屁の役にも立たない落書き文を日々書き連ねているが、それでもこの俺を知る数名の人々が多少の関心を持って時々ココを覗きに来てくれる。これは正直にありがたいことだ。
 なにしろ、俺という存在を忘れられていない、ということが実感できるのが嬉しい。
 なるほど、オノレのホームページを根気強く更新し続けている人は、こんなところにもそのモチベーションを保つ理由があるのだろうなあ、と、今思った。
 アクセス数が4900を超えた段階で、久しぶりに『キリ番5000をゲットした人にはなんかあげますキャンペーン』的な告知をココでしようと思っていたのに、あれまあれまというウチにアクセス数は伸び、実は5000を超えてしまっていることにもついさっき気づいたのですね。あはは。

 で。

 おそらく、『5000』をゲットした人はその事実に気づいていないかもしれないけれど、もし、そんな人がいたら直ちに出頭してください。日々、ココを覗きに着てくれている感謝の気持ちも込めまして、ワタクシから心ばかりのプレゼントとして、京都名物『生八ツ橋』をお送りいたします。あ、もし、生八ツ橋が嫌いでしたら、『京都限定・抹茶あずきポッキー』『京都限定・抹茶マーブルチョコ』などの京都限定シリーズお菓子でもいいです。
 勿論、自己申告。『4999』とか『5001』でもプレゼント対象といたしましょう。さあ、奮ってご応募を。

 また、京都限定お菓子や『生八ツ橋』『おたべ』を是非食べたいので、家に送れ――というリクエストがございましたら遠慮なくお申し付けください。喜んで京都まで買いに走っちゃうよお。
 そういう、ナンカの理由があれば休みの日などに目的を持って京都まで遊びにいけるんだよね。

 以上、『のづ随想録・5000アクセス突破感謝キャンペーン』のお知らせでした。



2003年02月23日(日)  成長

 滋賀への出張もいよいよ1ヶ月を迎えた。この土地に来た頃はまだまだ本格的な寒さが続いていて、ほぼ毎日のように雪がちらつき、駐車場に停めた営業車のフロントガラスは毎朝しっかり凍り付いている、という極寒の日々だったのだが、俺自身がこの寒さに慣れてしまった、ということを差し引いても、確実に春は近づいていることを実感する。思えばつい先日の「本日の最高気温 −1℃」などは、冬将軍のラストスパートだったのかもしれない。凍える部屋にいるときも、ちょっと前までパジャマの下にトレーナーを着込み、厚手の靴下をがっちり履いていたが、今はトレーナーも靴下もさほど必要ない。日中も多少寒さが和らぐ日が続いている。
 確実に春は近づいている。
 そんな折、埼玉に残したツマから写真付きメールが俺のケータイに届いた。
『うちの一郎たちもこんなに大きくなりましたよ』――というような内容のメールに添えられた、大きくそしてたくましく育った我が家の一郎たちの画像。思わず頬をゆるめる俺。
 誤解のないように、さっさとオチを言ってしまうけれど、“一郎”とは今ツマがベランダで育てているチューリップの芽の名前である。都合11個の球根が淡い緑色の芽を出した時点で俺は彼らを“一郎”“二郎”……と順番に名づけていた。「そんな名前はやめて」とツマは当初嫌がっていたくせに、最近ではツマの方から『一郎が……』というメールを送ってくる。
 ツマの“弱い”ところのひとつがコレだ。俺のテキトーなネーミングを拒否しつつも結果的にすぐに受け入れてしまうところ。我が家ではさまざまな事柄やモノに名前をつけることがよくあって、例えばツマが実家から頭髪がツンツンしたぬいぐるみをもらってきたとき、風貌がどうみても「兵頭ゆき」にしか見えなかったそのぬいぐるみを、俺は『兵頭』と名づけた。真っ向からそのネーミングを否定していたツマだったが、いつのまにかそのぬいぐるみは『兵頭』で定着してしまった。
 俺の健康を気遣って、ツマは俺の好物のひとつである“豚汁(とんじる)”を作るとき、時折豚肉を控えめにするときがある。
「今日は豚(とん)ぬき豚汁だよ」 とツマが言うのに対し、俺はすぐさま、
「それは“汁(じる)”だよ」と言った。ナンカ汚そうな感じでいやだ、とツマはその名前を否定したが、次にその“豚汁”が食卓に並ぶときはツマのほうから、
「今日は“汁(じる)”だよー」 と言ってしまうのだ。
―閑話休題―
 もしかしたら俺の滋賀出張の間にチューリップの花が咲き終わってしまうかもしれない、という想いで俺は一郎たちと別れた。今日届いたケータイの荒い画像からも、緑色に力強さが増し、少しずつも大きくなっていることが伺えた。その画像を見た後、俺は訪問先へ向かう車の中で家へ電話をかけた。
「メールありがとう」
『うん、一郎たちも大きくなったでしょう?』
「奴らはどれくらい増えたの」
『今、八郎くらいかな』
 聞けば、4月から5月には一郎たちが赤や黄色に咲き誇ることだろう、とツマが自慢げに言った。
 なんとかこちらでの仕事をきっちりやっつけて、一郎たちが美しく花咲くのを我が家で見届けたいものだ。

 確実に春は近づいている。



2003年02月19日(水)  失態

(前回までのあらすじ)
 魅惑の合コン的飲み会に残業のため参加できなかった俺は、同僚からの飲みの誘いに乗り、近所にあるレストランバーへ急行した。

※ ※ ※

 カウンターの同僚Mはすでにワイン1本を空けており、かなり上機嫌だった。その向こうにはややごついイメージのバーテン風の40代後半の男と、“ともこママ”と呼ばれる30歳前後の女性がいて、カウンター客のMの相手をしているようだった。
 俺はMの隣の丸椅子に腰掛けると、バーテンがかなりフレンドリーな口調で俺に話しかけてくる。
「で、何飲むの? とりあえずワインでしょう? Mくんもワインにいってるし」
 Mを名前で呼ぶなど突然のその対応に俺は一瞬ひるんだ。
「もう、俺がここに座った瞬間から、この人、こんな調子なんだよ」
Mがすかさずそう言って笑った。店の雰囲気には似つかわしくないような、バーテンのフレンドリー接客は決して嫌味なものではなかったので、俺もすぐに打ち解けることが出来た。まあ、俺はあまり人見知りをするタイプでもない、ということもかなり手伝っていたと思うが。
「いや、とりあえず、ビールください。生ビール」
「ビールなの? ワイン飲みなよ、ワイン」
「いーじゃないスか。ビールくださいよ」
 ともこママが静かな微笑を浮かべながら俺の前にビールグラスを置いた。そして、とくに意味もなく4人で静かに乾杯をした。
 そこからはあっという間であった。
 バーテンのテンションとこちらのテンションが丁度いい具合にマッチしてしまい、その場はかなり盛り上がっていった。俺とMはバーテンにノせられるままにワインを次々と空けてゆき、気が付いてみればワイン5本、ビールと水割りを少々をやっつけ、時刻にして午前3時半。
 ここまでの量と時間を費やして酒を飲んだのは本当に久しぶりだった。バーテンがしきりに『ワインは体にいいからね』を繰り返していたが、確かにかなりの量のワインを胃袋に流し込んだにもかかわらず、ふらふらに酔うことはあっても決して気分が悪くなることはなかった。ワインの効能は別としても、楽しい“呑み”だったことが体調を維持させたのかもしれない、と俺は部屋に戻る道すがら、ぼんやりと考えていた。そして、その翌日は朝8時に上司とマンションの玄関で待ち合わせをし、9時には俺の担当の客先へ訪問しなければならない――というような仕事のこともなんとか思考できていた。
 部屋に戻って、午前4時。シャワーを浴びる気力もなく、辛うじてパジャマに着替えた俺はそのまま倒れるようにベッドに溶けていった。

 起床、9時15分。
 漫画だったら、ベッドから飛び起きる俺の頭上には『どひゃー!』とかなんとかの効果音が大きめに描かれていたに違いない。
 会社の始業時間の9時を過ぎている、などという問題ではなかった。8時の上司の待ち合わせを完全に寝過ごし、すでに客との約束の時間も過ぎてしまっている。
 こんな大チョンボは入社以来初めてだ。
 大急ぎで身支度を整え、営業車で訪問先へ突っ走る。途中、携帯電話で上司に連絡、素直に詫びた。
「どうしたのかと思ったぞ。お前にしちゃあ珍しいな」
 と軽く受けてくれたのが幸いだった。

 もう朝の3時、4時まで呑むようなことは控えよう――しみじみと思った琵琶湖湖畔。



2003年02月15日(土)  序章

「もう、仕事終わります?」
 同僚のMがスーツの上着に袖を通しながらパソコンと格闘している俺に声をかけた。
 このプロジェクトの出張に来て以来、『他の人のための仕事:自分の仕事』の比率が果てしなく『8:2』くらいに近い比率になっている。
 俺はメンバーの最若手の一人でもあり、特にパソコン業務など他のおっさん達に出来るわけがないので必然的にその類の仕事がこちらに回ってくるのは納得していた。だが、それでも『雑用』とか『おっさん達のお手伝い』と言ったレベルの仕事をやらなければならないことも多く、この日も午前中からずっとそんな調子で一日を過ごし、俺自身の仕事は一向にはかどらなかった。
「河原町の駅に着いたら連絡ください、迎えに行きますから」
 Mはそう言い残して事務所を出て行った。
 滋賀と京都の営業事務所の女性社員との飲み会が急遽セッティングされた、と聞かされたのはその日の午後だった。娯楽の少ない滋賀ライフ、俺はなんとしてもこの飲み会に参加するつもりだったのだが、なにしろ仕事が片付かない。俺はMの背中にひとつ丸めた紙くずを投げつけると、再び仕事に取り掛かった。
 20時を回り、「もうやってられるか」状態になった俺は適当に仕事にキリをつける体制に入った。今からなら何とか21時過ぎには飲み会に合流できる――。
「ただいまあ」
 そこへ疲れた表情でTが事務所に戻ってきた。50歳を超える大ベテラン社員だ。
「ああ、いいところにいた」 俺の顔を見るなり、Tはカバンから書類の束を取り出し、いつもの博多弁で言った。「この決裁書を回さんならんけん、ちょっと見てくれんね」
――またか。
 俺は引きつった笑顔で書類を受け取ると、ミスや不備がないかのチェックを始める。
 ミスだらけ。不備だらけ。決裁書として成立してないだろが!――と言いたいところをぐっと抑えて、
「……すみません、Tさん。この書類なんですけどこーしてあーして……」
 ひとつひとつを訂正したりやり直したり作り直したり。これはハマった――俺は魅惑の京都飲み会をあきらめる電話をMに入れた。結局、その書類の束がようやく出来上がり、事務所を出たのは11時半を回ろうとする頃だった。
 今後この調子であのおっさん達の面倒を見ていたら、俺自身の仕事はいつやったらいいんだ。まあ、5年に1度くらいしか本気で怒ったりしない俺だが、この時ばかりはさすがに怒りがとろ火でぐつぐつとわき上がってきていた。
 営業車でマンションへ向かって夜の琵琶湖沿いを走っていると、ケータイが鳴った(ちなみに着メロは『聞いてアロエリーナ♪』)。Mからの電話。実はマンションの近くのバーで飲んでいるから、よかったら来ないか、という。俺に断る理由はなかった。今日のこの怒りはなんらかの形で発散しなければならない。ああそうだとも。俺はタイヤを鳴らしつつMの待つバーへ急行した。
 『かくれ家』という名のそのレストランバーは、一般の住宅街のなかに突然現れる。どこにでもあるような二階建ての住宅で、一階をレストラン、二階をバーに改装してある。重いガラスの扉を押し開けると、ユニフォーム姿のご婦人が現れ、俺を二階のバーへ案内した。
 薄暗い間接照明の店内に、カウンターの一番奥でMが独りで飲んでいる以外に、客は手前の丸テーブルにアヤシい雰囲気の中年カップルがいるだけだった。Mは俺に気づき、自分の横の椅子を指差して俺を促した。
 悲劇はここから始まった。



2003年02月11日(火)  悲惨

 鼻血というのは体質によって出やすい人と出にくい人といるのだろうか。
「俺、鼻血って出したことないんだよな」と言ってのける人と俺は何人か会ったことがある。普通、誰でも子供時代などはちょいちょい鼻血を出して首の裏をトントンしてもらった経験がありそうなものだが、体質的に鼻血が出にくい人というのはそういう経験もないらしいのだ。
 俺はどちらかというと前者のほうに該当した。今でこそ鼻血など出すようなことは滅多にないが、社会人となる前までは時折鼻血状態に陥ることは少なくなかったような気がする。

 多分、高校1,2年の頃だったか。まだその時はサッカー部に所属していて、日々ツラい練習に耐えてボールを追いかけていた。
 その日の練習で、俺は運悪くチームメイトが放った低い弾道のセンタリングを顔面で受けてしまい、そのままもんどりうって倒れた。打ち所が特に悪かったということはなかったが、鼻の中を傷つけたらしく、家に帰っても鼻血が治まらない。食事をしているときも、テレビを見ているときも、宿題をやっつけるために机に向かっているときもずっと鼻にはティッシュが詰められていた。しばらくすると出血は治まったような感じになるが、ちょっと鼻をこすったりするとすぐまた鮮やかな赤い血が顔を出す。
 なるべく鼻にさわったりこすったりしないように注意しながら、俺はその晩を過ごした。そしてベッドに入る頃にはようやく出血も治まったようだった。
 翌朝。
 その当時、俺は(半分ウケ狙いも含めて)自分の弁当を作っていたので、毎朝5時半頃には起きていた。前日の夕飯の残りを弁当箱につめ、玉子焼きなどをちょちょいと作るだけの簡単な手作り弁当である(鮭フレークをご飯の上に『ハート型』にちりばめたりしていた。ばかだ)。
 俺はベッドから起き出し、大あくびを二つほどして階下に降りていった。そのまま洗面所で鏡を見ると、そこには見事な化粧を施した歌舞伎役者が、いた。
 事の顛末は容易に想像が付いた。どうやら俺は眠っている間に違和感のある鼻をこすり倒したらしい。当然、傷の癒えない鼻腔からはふたたび鮮血がどくどくと流れ出した。俺は寝相が悪く、大抵右や左に体ごと向けて眠っているので、そのまま鼻から流れ出した鮮血は左の頬を伝い、寝返りを打つとそのまま鮮血は右の頬を伝っていった。寝返りの数だけ左右の頬には縦横に伸びる幾筋の鼻血の乾いた後がくっきりと残され、歌舞伎役者と化した俺は今にも見栄を切りそうな勢いだった。
 一瞬、面白いと思ったが、なにより早朝の光の中で鏡の中の歌舞伎役者と対峙している自分が情けなかった。



2003年02月08日(土)  追突

 午後6時に事務所に集合せよ、という指令が下った。これまでの各員の業務の進捗状況の確認および懸案事項の整理等々の打ち合わせを行う、という。本来、毎週月曜日の午後イチが定例会議――という予定になっていたが、そこはこの仕事が会社全体を巻き込んでいるプロジェクトでもあり、予定は未定であり決定ではない、ということか。
 打ち合わせは6時過ぎから始まった。いろんな問題点が露見され、白熱した打ち合わせは4時間以上に及んだ。
「そろそろ、終わりにしよう」
 リーダーの一声がなかったら、間違いなく日付が変わっていただろう。
 普段はなかなか出張メンバー全員がそろうことはないので、このままそろって食事をしよう、ということになった。滋賀県ではそこそこ名の知れた『来来亭』というラーメン屋が目的地。それぞれが自分の営業車に乗り、6台の車が連なって走り出した。
 鼻歌交じりで、俺はすぐ前を走るリーダーの車に付いて行った。その前の車がやや急ブレーキ気味だったので、ハザードを点滅させつつリーダーの車がゆっくりと停止した。俺もそのまま余裕を持って停止。

 ずがん。

 俺のすぐ後を走っていた先輩社員の車が結構なスピードでそのまま俺の車に追突した。乗用車のCMで見るような衝突耐久テストのダミー人形よろしく俺の体が前後に大きくしなった。とっさに“自分が前の車に追突した”ような感覚に陥り、俺は思い切りブレーキを踏んだ。
「大丈夫か!」
 追突してきた車の先輩社員が飛び出してきて、俺の車のウィンドウを叩いた。
「だ、大丈夫です」 無意識に俺は首の後ろを押さえていた。そのまま車を降りようとしたが、同じように車から降りてきたリーダーが俺の様子を見て、
「動くな、そのまま車に乗っとけ」
 と言った。はじめのうちはナンともないと思っていたが、徐々に軽い頭痛を覚え、首と背中に違和感を感じ出した。しかしこれは、“追突された”というあたりからくる「気のせい」であるような気もしていた。見れば、追突の衝撃で運転席のカーナビの画面がこちら側に大きく傾いている。先輩社員はしきりに俺にあやまり、「病院に行ったほうがいい、病院に」を何度も繰り返した。
 同じ会社同士とは言え、一応警察を呼んでおこう、ということで、しばらくしてからパトカーに乗った警官二人がやってきた。彼らは事務的な質問を二、三して、懐中電灯で俺と先輩社員の車の追突した箇所を照らし、簡単にメモのようなものを取ると、警官二人には早くも“お役御免”の雰囲気が漂いだした。先輩社員が警官に近くの救急病院の場所を尋ねるが、どうも彼らの周りには明らかに“他人事”の空気が充満しており、口には出さずとも『ぶつけたのはお前なんだから、そういうことは自分でやれよ』と右の頬に書いてある。
最近テレビで見た誠実実あふれる警察官とは対極のところにいるタイプの警官のようだった。
 救急車を呼ぶほど大げさな事故ではないので、俺の車は追突現場の近くのファミレスに残し、警官が教えてくれた近所の市民病院へ向かった。
 時刻は11時をとうに回っていたが、夜間緊急診療を待つ人々が何人か待合室にいた。
 受付を済ませ、待合室の長いすに座って呼ばれるのを待っていた。隣の長いすには小学生くらいの少女が毛布に包まれてぐったりとしている。どうやら40度くらいの熱があるらしい。深夜の病院も休みなくタイヘンなのだ。
 思ったより早く、俺の名が呼ばれた。すぐに首のレントゲン写真を撮る、というので先生の後について別室へ。ふと、「バリウムを飲んだ腰を前後左右させた記憶」や「身体をまっすぐ突き抜けるような激痛が走」の記憶がよみがえった。どうも最近、俺は病院づいているなあ。
 レントゲン室の前で、さらにまた名前が呼ばれるのを待つ。
 ああ、なんか大げさになってきたなあ。ちょっと頭痛はするけど、明日になりゃあ治まっているだろうしな。他の先輩達も俺の診察が終わるのを待ってくれているようだし。
 俺が診察室を出ると、待っていた先輩達が駆け寄ってきて、「大丈夫か?」「先生はなんて?」などと言うのだろうなあ。俺はそこでなんて答えたら面白いだろうか……。こんな状況でもこんなことを考えている自分が情けない。
 撮影したレントゲン写真を見て、先生はかなり感心していた。
「あなたはまだお若いので、ひとつひとつの骨の形もしっかりしているし、等間隔に並んでいます。かなり理想的な首の骨です。変な言い方ですが、あなたに追突した人は“いい人に追突した”と言えるでしょうね。時々加害者の人に同情したくなるような被害者の首の骨ってのもありますからね」
 日常にはまったく支障はないが、ちょっとした車の追突の衝撃程度で首の骨にトラブルが出る危うい状態の人もいるらしいのだ。そういう意味で俺の首の骨はかなり理想的だというのだ。
 とりあえずの診察は終わり、俺は診察室を出た。暗い廊下の向こう側で、同僚達が輪になって俺を待っていた。俺は頭をかきながらその輪に加わった。
「大丈夫か?」
「先生はなんて?」
 満を持して、俺は答えた。
「――妊娠三ヶ月って言われました」

 どうやらイマイチだったらしい。



2003年02月04日(火)  調査

 仕事柄、コンビニエンスストアを覗くことが多い。それはわが社のお店の運営状況をチェックする場合であり、また、競争相手の他チェーンのお店の運営状況、品揃えなどを探る『競合店調査』という場面だ。
 今、俺は“すでに他チェーンを経営しているお店をわが社のお店に替える”という、ある種特別な仕事で滋賀県に長期出張に来ているわけだが、これは今まで俺が現場で行っていた仕事と本質は変わらない。周辺の諸々の状況を調査し、試算し、商談する。その一場面が、『競合店調査』というわけだ。
 調査のために“七拾壱”や“老孫”(諸事情により一部表記を変更してお送りしています)などの競合店に入る。「いらっしゃいませ、こんにちわ」の声があるかどうか。客であるこちらを見て言っているかどうか。そのままお弁当、おにぎりなどが並んでいるオープンケースに直行、その時間での品揃えや商品量を見て、売り上げ予測の判断材料にする。そのまま、商品を探しているフリをしながら一通り店内を回り、同じく品揃えや陳列状況などをチェック、大体この時点で「まあ、たいしたことねーな」とか「結構売ってる(※)じゃねえか」とか「やる気あんのか、この店は」とかのおおよその判断は出来てしまう。
 こうしてコンビニの商品をチェックする機会が多いが、チェーンによって若干品揃えも違ったりすることもあるので、時折びっくりするような商品を発見することがある。今日はコノ話がしたかったんだ。前置きが長い。
 いつぞやも最近流行の“フィギュアモデル”をテーマにしたことがあったが、このテの商品の勢いはとどまるところを知らない。小学生あたりに人気のありそうな「ツーピース」「コナン」(コナンと言っても最近は“未来少年”ではなく“名探偵”だというから嘆かわしい)「仮面ライダー龍騎」……、枚挙に暇がない。「タイガーマスク」、一時的に売り場に並んでいた「江口寿コレクション」は本気で買いそうになった。
 つい先日発見した究極の商品。

「駅弁フィギュア」

 ……誰だ、商品企画したのは。
 有名な「横川の釜飯」、「いか飯」、「だるま弁当」など、有名な駅弁がフィギュアとしておまけに入っている。俺自身、特に学生時代は毎年新宿の京王百貨店で行われる『駅弁フェア』には必ず足を運んでいたほどの駅弁ファンではあるが、まさかこうしてフィギュアブームに乗ってくるとは。6種類ほどラインナップがあるらしいことがパッケージに描いてある。
 はっきり言って、欲しくない。

 フィギュアブームを支えるコンテンツのひとつが、ちょうど俺達くらいの世代のハートを掴んで放さない『ガンダム』。これは今もその表現を変えてさまざまなフィギュア商品としてコンビニに並んでいることは皆さんもお気づきだろう。
 今日、家の近くの“労尊”(引き続き一部表記を変更してお送りしています)で見つけたガンダム商品には笑った。

「花めくり機動戦士ガンダム」

 ……誰だ、商品企画したのは。
 花札にガンダムをあしらっている。普通、こんなことは考え付かない。花札独特のあの描画の中にさまざまなモビルスーツやらガンダムキャラが添えられているのだ。これはかなり違和感があって実は面白い。
 花札とガンダムの両方を知る人でないとこの感覚は伝わらないかもしれないが、黒い地面に大きく白い月が描かれた『坊主』の札の中央で、『首なしガンダムがラストシューティング』(ガンダムの最終回を思い出してください)している。すごい画でしょ。

 俺の競合店調査はいつしか単なる宝探しとなっている。


 < 過去の生き恥  もくじ  栄光の未来 >


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