時々日刊たえ新聞
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2006年02月26日(日) 旅先で教会へ行く

三日目は日曜日。当初から大分の教会の礼拝に出席し、O先生を驚かそうと決めていた。ホテルから歩いて近いところに大分キリスト教会がある。前日確認済み。
教会の方々に「どちらから?」と問われれば「札幌から」と言い、「どうしてこちらに?」と問われれば「娘の受験に付いて来ました」と答える。娘も沢山の方にお声をかけていただいた。そのうちO先生がやってきて顔を合わせるなり、わー!と感激して下さる。娘が受験校の名を言うと「その学校の先生が、うちの教会にいるんよ」と言う。紹介して下さる。大学案内のパンフレットでお顔を見たことがある。(笑)後日その先生の文章を読んだら、歴然とクリスチャンだとわかる。(微笑)いい出会いだなと思う。初めての教会、初めての方々、何の違和感もない。ゆったりと礼拝に参加した。同じ信仰に立って心を込めて礼拝が捧げられている事を心地よく感じた。藤田牧師の説教に心打たれたんだけど、タイムリミットのため割愛ね。(^_^;)
大分教会の多くの方に「大分に来てね」と言っていただいたけれど、結果はすでに出ておりまして(これを記しているのは3月11日)不合格でした。(^^;)居心地が良くて何だか本当に娘を大分に送りたくなったのも本心です。
礼拝後Uさんにホーバー乗り場まで車で送っていただいた。ホーバーって知ってます?船でもなく、海面すれすれを疾走する乗り物です。大分市から空港までを30分足らずで移動できる。乗り心地は…良くない。下降する感覚が苦手。でも終わりの頃は下降も少しだけ快感になっていましたが。(笑)
この旅はわたしたち親子にいい旅をさせるために神さまがプレゼントして下さったものと信じます。(笑)もっと沢山面白いことがあったけれど、それは心の小箱に閉まっておこう。(笑)最初から最後まで楽しかった!感謝!


2006年02月25日(土) 中津探訪(長いです)

受験しに行く娘と大分駅で別れた。娘は駅前のバス停に向かい、わたしは白いソネットという特急列車に乗って中津に向かった。わたしにとって九州は「中津」だと思っている。(笑)わたしの愛する松下竜一さんの住まいがあり、松下さんの著作を通して中津の川や地を愛している。松下さんの生業は物書き。「豆腐屋の四季」が有名だろうか。そして「反原発、環境権確立」を掲げて「草の根通信」を発行していた(2003年倒れる寸前まで)。わたしたち夫婦は結婚した頃から草の根通信を読み続けて来た。わたしは20年前、息子と二人で中津を訪れ、松下さんたちが開催していた「平和博覧会」に行ったことがある。そして松下さんの自宅にお邪魔し、北門橋に案内されて山国川でしばし遊んだ。草の根通信読者にとって北門橋は特別ステキな場所なのだ。カモメや鷺が集う場所、古い町らしい静かで豊かな光景。「ビンボーひまあり」の松下さんが毎日妻と犬と連れ立って散歩した場所。わたしは松下さんの愛した中津を20年ぶりにまた味わいたかった。松下竜一さんは2004年6月17日に亡くなられた。

9:30頃中津駅に降り立った。駅の案内所で地図をいただこうと思ったら、係りの女性に「自転車で周ったら?今おひなさまを見せるイベントをしているから会場を巡ってみたら?」と薦められて、喜んでお言葉に従った。市の無料の自転車を借りた。こんなに狭い車道を、自転車で走っていいの!?車が渋滞にならない?(笑)札幌の道路とはまるで違うね。地元の人に倣って車を気にせず堂々と走ることにした。
最初から不思議なおひなさまの会場に出会った。 70歳代の女性が描き作っているのだと言う。(画像参照)その色、表情、形、すべてに新鮮な(不思議な)感動を覚えた。また、留守番している人が親切な方で…茶菓までいただきました。m(__)m幾つか由緒正しいお雛様を拝見して、そのうち中津城に行き当たった。20年前に来た時、北門橋の土手際にお城があって観覧車があった。今は観覧車は無い。方向としては間違っていないことを確信する。お城を周って川に出た。橋があった。そうだ!ここが松下さんに案内されて立った橋だ!橋を真っ直ぐ行けば松下さんの家があるはず。自転車を走らせてその辺を探したけれど表札を見つけることが出来ない。2回ほど行き来したがわからなかった。ま、いいや。20年前にも行った福沢諭吉翁の旧家と資料館を観覧した。観て外に出たら売店の人が「ずいぶんゆっくり観覧されましたね」と言う。掲示物を隈なく読んで回ったからね。(時間がたっぷりあるもんだから)それからまた松下さんの家があると思しき辺りを走ったが見つけなかった。これはもう、神さまが松下家には行かんでよろしいとされたんだなと諦めた。(笑)
裏道を選んで走って古い街並みを味わった。ふと目の前のお店の看板に記憶を呼び覚まされるものがあった。草の根通信でしばしば目にしていた「大地」という名。あ、sugaさんの店だ!(面識全くありませんが)お腹も空いていたのでこれは入らないわけには行きません。お店には「第三世界ショップ」と書かれていてエスニックな手作り品が並ぶ。美味しい薬膳カレーをいただく。いただきながら、草の根通信の読者であること、20年前に平和博覧会に来たこと、今松下センセの家が見つからずに帰って来たことなど話す。sugaさんはすぐに松下センセのおうちに電話して下さり、地図を書いて教えてくれた。その地図の通りに行くと、まさしく「松下竜一」の表札と行き会った。その前をおそらく5-6回通っていた。(^^;わたしに中津を十分に堪能させようと思って、神さまはわたしをさすらわせたのかな。(笑)
奥様のyoukoさんが迎えて下さる。松下センセ存命中は決して前面に出ず、静かに松下センセと共に生きてきた人。松下センセに欠くべからず人。松下センセの部屋は本が天井までびっしり並ぶ。(20年前もそうだった)窓際に遺影が置かれているのが違う。お線香を手向ける。一つの壁全体を覆う大きな写真パネルがあって、その写真の松下センセがステキな笑顔をしている。youkoさんとしばしお話する。ご夫婦の機微をセンセの文章を通してよく読んでいたけれど、よくセンセを支えられましたねと心の中でつぶやく。松下家を後にして自転車を走らせるわたしは、すべて目的を達した思いで、早く大分に帰ろうと思った。時間もちょうどいい。大分駅に帰り着いたのが15時だった。

先にホテルに行って(2日目は違うホテルにした)娘の連絡を待つ。娘の乗ったバスがホテルの近くまで来ることがわかり、終点まで乗りなさいと教えた。最後の試験を終えた娘と、中津で良い時を過ごしたわたしは笑顔で無事に落ち合った。試験結果なんて、もうどうでもよろしい!(笑)


2006年02月24日(金) 大分に出発

大分に受験に行く娘にくっついてわたしも行った。
どうして大分まで?と聞かれたらわたしは応えに窮しない。(笑)1、娘の担任が「絶対受けろ!」と言ったそうだから、素直に従ってみたら?とわたしは娘に勧めた。(お母さんも行ってあげるからと付け加えた)2、大分に行ったら中津に行ける。(行くぞ!)3、大分に行ったらO先生に会える。(会いたい!)O先生というのは、うちの教会の教育担当牧師を勤め幼稚園園長をされた方。

この旅は受験という大きな目的を持ちながら緊張感がなく、わたしを大いに楽しませ、かつ娘を大いに成長させた。大分空港から大分市に向かうバスの中、娘はわたしに寄りかかって眠り始めた。わたしは携帯電話で、ある看護学校のホームページを開いた。この日Web上で合格発表があることを知っていた。娘は大分の受験が終わるまで確認しないでおこう、その看護学校が落ちていたら25日受験する元気が失せるから…と弱気なことを言っていた。わたしは娘の番号が無かったら黙っていようと思った。が簡単に番号を見つけてしまった。その途端「いりちゃん、合格だよ!」と口走っていた。娘は素直に喜んだ。合格を知るってホント嬉しいよね。娘は安堵して本心から「いりはそこでいいや」と言った。ホラね、欲が無い!(笑)
ホテルに荷を置くと娘とわたしは受験校を確認しに行った。その帰りのバスの中で娘は語り出した。「神さまはいりが望んだ通りにしてくれなかったけれど、今はそれで良かったと思う」と。彼女は今春開学する札幌市立大学の看護学部に入りたかった。一校一人と決められている推薦を取り付けて推薦者の選抜試験を受けたかった。一般入試は倍率が上がる事が十分予想されたので、推薦による選抜が有利であることを彼女もわたしも悟っていた。わたしはかなりの確率で推薦されるんじゃないかと思っていた。おそらく娘もそう思っていただろう。しかし希望者がもう一人いて、その彼女が推薦された。娘の落胆は大きかったと思われる。明るく振舞っていたけれど。
そのことを旅の途中で娘は「良かった」と言い表した。「いりを高慢にさせないために神さまはそうしたんだろうなって思う。神さまはいりに一番良い道を与えてくれているんだと思う」この言葉を聞いただけでわたしはこの旅の目的を達したような充足感を味わった。娘がこんな風に神さまに感謝できる事、明るく心が落ち着いていることがとても嬉しい。合格不合格なんて大したことじゃない!神さまを知る事が一番の知恵だよ!わたしも豪語した。(笑)
その後入ったお店「ビーンズ・カフェ」でお豆腐のコース料理をいただいた、事の外美味しかった。ビールも飲んだ。いい気分でホテルに戻る。わたしたちは神さまに感謝して眠りについた。


2006年02月22日(水) 本をいただく

19日(日)教会で礼拝の前に、一人の女性から本をプレゼントされた。前の週に「○○って本知ってる?」と聞かれて「知らないワ」と応えた記憶がある。すっかり忘れていたけれどその本をわたしに下さったらしい。夕方、ソファに寄りかかって本を広げる。最初の言葉から引き込まれてしまった「病気になったらどんどん泣こう」次のページに「痛くて眠れないといって泣き/手術がこわいといって涙ぐみ/死にたくないよといって めそめそしよう」その次のページに「恥も外聞もいらない/いつものやせ我慢や見えっぱりを捨て/かっこわるく涙をこぼそう」と続く。そして「またとないチャンスをもらったのだ/自分の弱さをそのまま受け入れるチャンスを」とある。この後も珠玉の言葉が続く。これは自らが病気を経験したカトリック司祭が書いた詩なのです。
一気に読んで感動に包まれたわたしは、まず娘に「この本はすばらしい!」と言って無理矢理読ませ、夫にも「絶対損しないから読んでみて〜」と手渡した。夫曰く「うん、確かにいい本だ」
わたしにこの本を下さった方の感性はすばらしい!わたしは紙に感動をしたためてFAXでお礼の言葉を伝えた。一冊の本との出会いはわたしの人生を豊かにしてくれる。良い本によって生きる姿勢や心持ちが変えられていく。その本とは『「恵みのとき」病気になったら』詩・文/晴佐久昌英氏で絵/森雅之氏。サンマーク出版。機会があったらあなたも手にとって開いてみて下さい。


2006年02月21日(火) 娘とわたしの決意

娘は自分のことを「いりは・・・」などと頻繁に言う。自分のことを名前で呼ぶのは幼いんじゃないか?とわたしは娘に言った。ところがわたしは娘のことを「いりちゃん」と書いたり話したりする。「いり」と呼び捨てにすることは、滅多になく、ちゃんと「ちゃん」を付けてしまいます。これまたどうかと思う。(笑)お互いに直して行こうと話し合った。
娘は「いりはね」と言うのを減らして行くそうです。わたしは「いりちゃんはね」というところを「娘はね」と言い換えるでしょう。お互いがもう少しまともな社会人になるために。(笑)

ところで我が家のもう一人の子供(と言っても23歳ですが^^;)「さんちゃん」はやっぱり「さんちゃん」がぴったりだから、さんちゃんの場合は「ちゃん」で呼んでもいんじゃないか?という結論に至りました。(笑)


2006年02月12日(日) 途中報告

今日礼拝の後の歓迎と報告の時間に司会者から、○○ちゃんといりちゃんが志望校に合格しましたという紹介があったらしい。らしいというのは、わたしは直接聞いていない。託児当番でホールにいたから、ホールに流れるスピーカーの声を聞いていたある方が「今誰かが合格したって言ってたみたいだけれど、いりちゃんのこと?」と言い出して、まさか、いりちゃんの合格ぐらいの事でいちいち言わないでしょう・・・と思った。が本当に紹介されたらしい。(笑)そのため、今日は何人の方に「いりちゃん、おめでとう」とか「良かったね〜」と言われたことだろう。その度に「まだ他にも受けるんですが」とコメントしてしまった。

10日(金)にO市立高等看護学校の合格通知をいただいた。ここが受験の皮切りであり、彼女が全く自信がなかった様子だったので、家族皆手放しで喜んだ。最初の一歩を祝ってデコレーションケーキを買って帰宅した。「どこも受からないかもしれない」と言っていたわけだから、これでひとまずナースへの道は開かれた!安堵して神さまに感謝の祈りを捧げた。

実際の所今まで三つの看護学校を受け、これから三つの大学の看護科を受けようとしている。ここは大丈夫!と言えるところがないから、これだけの併願になったのだと思う。(笑)看護学校は一次試験に合格してから二次試験(面接)が課せられている。そのため受験してから合格発表まで1ヶ月近く経過している。何てじれったい試験なんだろう。(笑)
さて、神さまは彼女をどこに赴かせようとしているのかなぁ。


2006年02月04日(土) 愛機(パソコン)危うし

ノートパソコンのコードを突っ込む所が接触悪い。問題は本体側。すでに夏前からおかしかったんだけど、何とかなっていたのが、今週はなかなか電源が入らない。やっと接触している。そのうちネット接続ままならなくなるかもしれません。このノートパソコンはパソコン使うごとにコードを接続しています。う〜む。考え直さなくちゃいけないなぁ。

さて、いりちゃんの受験ですが、ただいま進行中。公立の看護学校数校受験し一次試験終了、二次試験(面接)に臨みます。大学の看護科はこれから。本人はいたって明るい。しかし時々「どこも受からないかもしれない」と口走るのは本心らしい。受験生の苦悩を感動を持って(わたくしが)観察中。すべて終わったらレポートしたいと思います。(笑)
沢山の方々に祈られている事を娘もわたしも知っています。今まで彼女を支えて下さった方たちに感謝してひとまずのご報告。m(__)m


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