旧あとりの本棚
〜 SFブックレヴュー 〜
TOP はじめに 著者別 INDEX 新着  

はてなダイアリー
ギャラリー




















旧あとりの本棚
〜 SFブックレヴュー 〜
Copyright(C)2001-2004 Atori

連絡先
ICQ#24078473







2004年03月28日(日)
■『プラネテス』4 ★★☆☆☆

著者:幸村誠  出版:講談社  ISBN:4-06-328937-0  [SF]  bk1

【内容と感想】(ネタバレあり)
 『プラネテス4』は私にはとても違和感があった。登場人物のさまざまな選択や発言がどうしてそうなるのかよくわからないし、極端過ぎるような気がしたのだ。

 このもやもやした疑問の大部分は、lepantohさんの解説で説明がついた。『それでいいのかプラネテス』と『無垢で純真で汚れをしらず清く正しく美しく名もなく清楚なアナタ、『プラネテス』』では、このエピソードの本質が鋭く分析されている。

 結論を引用するとこうだ。(フィーは)
自分の周りの者を「クソみたいな」社会と大人、に定義して、汚くすることで、彼女は自らのイノセンスを回復したのです。
なるほど、謎だった展開に説明がつく。

 4巻の大部分を占めているフィーのエピソードはこんな内容である。

 フィーはいつの間にか軌道機雷を見過ごせるようになっていた自分に気付く。息子のアルに触発されて機雷に反発しようとするが、折しも共和国がアメリカの宇宙艦船に対して機雷を使用する。ちゃんとした大人になれないと悩むフィーは、自分を社会に適応できずに誘拐の疑いをかけられてしまった叔父と重ねて思い起こす。非常警戒宙域に侵入してデブリを拾い続けたのも空しく、米軍の攻撃で共和国宇宙軍の軍港は炎上し、その軌道は使用不可能となった。フィーは「こんな世界私なんかの手には負えない」と感じて地球に戻り主婦業に専念する。しかし一匹の犬と出会ったことで気を取り直し、デブリ回収の仕事を再開しようと決意する。

 あらためて読み直してみると、おかしな点が数々見えてくる。

 フィーの息子は約束していた犬のしつけが守れなかった。叱ったが反抗され、それを許してしまった。確かにすっぱい水の出る無駄吠え防止首輪は人間のエゴかもしれない。しかし、だからといって犬のしつけをしなくて良いということにはならない。しつけの仕方もその首輪しかないわけではない。事実マンション住人から遠吠えに関する多くの苦情が寄せられている。飼ってる動物もマンションで飼うには多すぎる。犬8匹、猫4匹、さらに新たな犬が2匹加わるのだ。散歩だってアルの体力の限界を超えようとしている。犬をセーブしきれなくなって事故に遭ったり犬が子供に怪我させても、不思議はない状況だ。そこまでして犬を飼いたいなら、なぜ人里離れたところに引っ越すなどして飼わないのか?そもそも「犬は昔はオオカミだった」から「エサにつられてしっぽふっていいコいいコーされ」るのが「かわいそう」、という考え方自体が、人間のエゴからくる感傷とは言えないだろうか。

 それから、軌道機雷に反対するのなら、なぜ反戦派のサンダースと手を結ばないのか。政治家に使われるのが嫌だから?この瞬間、機雷除去は目的ではなく口実になっている。サンダースがフィー達の映像を無断で利用したのは行き過ぎだが、これは真実の「捏造」のように描かれているが「脚色」ではないか。それに機雷に反対するなら、機雷を作って儲けている会社に所属することは問題にならないのか?機雷により得た利潤はフィーの給料に還元されている。そこに矛盾はないのか。

 また、叔父さんの問題も、確かにひどい仕打ちを受けたかもしれないが、人はどんな時代に生まれようとその時代で生きて行くしかないのだから、適応する努力を放棄したなら、隔絶して生きるほかない。そういう人をも受け入れる余地がある社会をめざすべきだろうが、適応する努力(責任)を放棄した側である「ちゃんとした大人になれない人」の側から一方的に居場所(権利)が無いと嘆くのは、立場が違うだろう。


 フィーのエピソードはlepantohさんの説明で納得できたので、もうひとつ違和感を感じたエピソード『グスコーブドリのように』を考えてみる。これは2巻で起きた木星往還船のタンデムミラー・エンジンの事故のエピソードから続いている。ヤマガタはこの事故で亡くなった優秀なエンジニアだ。事故の責任者だったロックスミスとヤマガタの妹カナの会話がこのエピソードの主な内容だ。

 ロックスミスが兄を殺したと非難するカナに、彼の死は彼が「グスコーブドリだった」からだと告げる。そしてカナの愛は彼をとらえたことなどなかったと指摘する。ここではカナの愛が修羅として描かれている。

 では、ブドリの妹のネリもカナと同様に修羅に陥ったのだろうか。

 宮沢賢治の書いた『グスコーブドリの伝記』(原作はこちら)とはこういう物語である。

 ブドリは幼いころ飢饉を体験し、父母を亡くし妹と生き別れる。農業に従事し、気候の影響による不作や農作業のきつさを体験する。やがて気候を調節する仕事に興味を持ち、火山局の技師となる。自分が農業で体験した辛さを他の人々に味わわせたくなかった。ブドリは夜も昼も一心に働き勉強し、大きな成果を上げることができた。それはたいへん感謝され、はじめて生きがいを感じる。また生き別れていた妹とも再会でき、充実した日々を送る。しかし幼いころ体験したような飢饉が再び訪れそうな前兆があった。ブドリはいてもたってもいられなかった。ブドリが提案した寒波の回避策は、確実に一人の人間が死ぬことがわかっていた。ブドリは自ら志願して、自分の命を犠牲にして寒波を食い止め、人々を救った。

 原作にはネリがカナと同じように修羅に陥ったという描写はない。また読んでみても修羅にはならなかっただろうと思える。確かにブドリの身を案じて心配はしただろう。死んだ時に悲しみはしただろう。しかしカナのように満たされない思いに苦しめられることはなかっただろう。なぜならネリはブドリから愛されていたからだ。それは「それからの(ブドリがネリと再会してからの)五年は、ブドリにはほんとうに楽しいものでした」というくだりからもよくわかる。

 一方カナはヤマガタから愛されてはいなかった。それはロックスミスから2ページにわたる見開きの一コマで強調して、指摘されている。
君のその愛が 彼をとらえた事などないのだよ(4巻P58、59)
 ではなぜブドリを目指していたはずのヤマガタは、ブドリがそうだったように自分の妹を愛さなかったのか。カナの愛情が押し付けがましかったという可能性もあるが、ヤマガタがブドリの本質の自分の身の回りの者を愛しその幸せを願って犠牲になったということを履き違え、形だけ真似していたからではないか。だからこのエピソードでは、妙に自己犠牲の部分だけクローズアップされているのではないだろうか。また彼の犠牲で幸せになった人の姿が見えて来ないのもそのせいではないだろうか。少なくともカナは幸せになってはいない。それにヤマガタが死ぬことでカナの死が救われたわけでもない。彼の唱える「みんな」は抽象的で、一番身近な妹はその中に含まれていない。カナが夜も眠れずご飯ものどを通らない程兄の身を案じる気持ちを見過ごすことができたし、彼女の愛を疎んじた。なぜなら彼が考えたグスコーブドリとなるための条件は「自己犠牲」で、カナの心配はそれを阻害するものだったからではないか。

 もちろん彼の犠牲で幸せになった事例が具体的に書かれていないからといって、全くなかったとは限らないし、ロックスミスは「膨大なデータが手に入った」と語っているので、少なくとも木星往還船のエンジン開発には役に立ったのだろう。では、この木星往還船とは、どういう宇宙船だったのだろうか。

2075年11月 EDC(地球外開発共同体)は木星系における恒久的な資源採取基地の建設を今世紀中に実現させると宣言 その先鞭となる有人木星往還線を<フォン・ブラウン>号と命名する(2巻P5)
 木星に行くのは資源を採るためらしい。ではこの時代、それほどエネルギー不足なのかと言うとそうでもない。
今世紀はじめ石油時代が終わってからの人類は代替エネルギーを求めての試行錯誤に明け暮れた 太陽光発電 天然ガス ウラン 海底メタン… そして月だ 月のヘリウム3を手に入れて問題は解決したかに見えた (中略) 莫大なエネルギーを手に入れた人類は月を足がかりにさらに遠くへと拡がりつつある(1巻P119〜120)
 エネルギーは月に莫大にある。しかし宇宙防衛戦線のハキムは語る。
ぼくの祖国はなハチマキ 中東のごく小さな国だ 国土のほとんどが砂漠だ それでもぼくのじいさんの代までは石油が採れたからなんとかやっていけた だが今はすっかり見限られた荒野にあるのは朽ちた油田とパイプライン 貧困が内乱を呼び子供達は育たずに死に先進国はぼくらに対人地雷と小銃しか売ってくれない 月がそうであるように木星の資源もまた宇宙開発の先進国のものになる 我々は何も変わらない(2巻P116、117)
 つまり、莫大なエネルギーはあるのだが、一部の先進国により独り占めされており、木星でも同様のことが行われようとしている。ヤマガタの言う「みんなの幸せのため」で恩恵を受けるのは、すでに月に莫大なエネルギーを持ちながら、それを貧困な国には分け与えず、さらには木星のエネルギーまでも独り占めにしようとしている国ということになる。もちろんハキム以外の人は別の解釈をしているかもしれないが、これを否定する説明もない。ブドリのように切羽詰った状況でないことは確かだ。

 カナが修羅に陥ったのは、ヤマガタがブドリのような人だったからではなく、ブドリになりたい人だったからではないだろうか。本当に誰かを幸せにしたいと思っている人は、その対象を遠くへ遠くへ求めたりせず、まずは自分の身の回りの者から幸せにしようとするものではないか。ヤマガタの目指す「みんなの幸せのための自己犠牲」には、「みんなの幸せのために犠牲になってる自分が好き」というナルシズムが感じられてしまう。ロックスミスは「君も私もヤマガタ君の死に何の影響も及ぼしていない」と言うが、自己完結してしまって他者から影響を受けない所も、ナルシズム故の様に思える。「みんなのため」と唱えていながら、本当は自分のためだったことがカナを修羅に陥れたのではないだろうか。

 自分の欲望(ゆめ)を満たすために家族の心配を省みないヤマガタは2巻でミイラになって地球に戻ってきたファドラン航宙士と本質的に同じだ。しかしファドランのエピソードではそれは「くっだらないヒロイズム」と切り捨てられ、「愛のない選択は決して良い結果になりません」とタナベに一蹴されたのに対し、このエピソードではヤマガタは「くだらないヒロイズムで愛がない」とは責められていない。「くだらないヒロイズム」が「みんなの幸せのための自己犠牲」という美名をまとっているからだ。そして美化されたとたんに問題とされないところに、この作品の矛盾がある様に思うし、怖さがある様に思う。


 ところで2巻で「宇宙船しか愛せない」と自ら豪語したロックスミスがここではなぜグスコーブドリなのだろうか。これは私には何度考えてもよくわからない。ただひとつ、作者が自己犠牲を払うことをブドリと解しているとすると、とりあえずの説明はつく。ロックスミスは事故の犠牲者の遺族から罵倒されていて、それがロックスミスの払っている自己犠牲ととらえられている。

 しかし原作のブドリが身の回りの者を愛したとか、他人の辛さを見過ごせなかったという部分が大きく欠けている。324人を犠牲にでき、大量のデブリを発生させられた時点で、彼はブドリとは言えないのではないか。あげくに、エンジニアが死に過ぎたせいで人手が足りなくなり、かつての恩師に協力を求めている。これは人を使い捨てにした酬いなのではないだろうか。

 またロックスミスの唱える愛も、どんなものを想定しているのか、よくわからない。
心理(真理の誤植か?)の探求は科学者が自らに課した使命です 「本物」の神はこの広い宇宙のどこかに隠れ我々の苦しみを傍観している いつまでもそれを許しておけるほど私は寛容な人間ではない 神が愛だと言うのなら我々は神になるべきだ さもなくば… 我々人間はこれから先も永久に…真の愛を知らないままだ
(レティクル座の異性人の属する銀河連邦が愛を与えてくれる、という展開にならなければ良いのだが…)原作のグスコーブドリなら、それよりまず、実際に愛することを実行していただろうと思える。ロックスミスをグスコーブドリとするのは、このままでは少し乱暴なのではないだろうか。

 『プラネテス』が今後どう展開するのかわからないが、1〜3巻では自分のヒロイズムのために他に犠牲を強いる人間のエピソードが描かれ、4巻では自分を美化するために他に犠牲を強いる人間のエピソードが描かれている。もしかするとこれは作者の周到な伏線で、これからそれが覆るのかもしれない、とちょっぴり期待してみる。怒りも人を傷つけるが、偽善も人を傷つける、という対比なのかもしれない。整合性はとれているので、4巻の内容が今後覆されて、「やっぱりこれではだめだよね」と成長物語になってもおかしくはない。ぜひそういう展開になってほしいと思う。



2004年03月14日(日)
■『夢の果て』1〜3 ★★★★☆

著者:北原文野  出版:早川書房(早川JAコミック)  [SF]  ISBN:4-15-030703-2/4-15-030705-9/4-15-030708-3  bk1
【あらすじ】(1巻カバーより)
核戦争による放射能汚染のために文明は滅び、生き残った者たちは人が住めない状態となった地上を捨てた。長い年月が流れ、人類は地下都市を建設し文明を復活させていたが、行き過ぎたESP研究所によって、超能力者は混乱させるもの(Perplexer)、略称Pと呼ばれ、恐れられると同時に、秘密裏に捜査・発見・抹殺される運命にあった。そんな社会に生まれた一人の少年を中心に、人間の愚かさと優しさを哀切に謳いあげたSFコミックの傑作

【内容と感想】(ネタばれあり)
 迫害される超能力者、スロウの生涯を描いた物語。作者はPシリーズという未来史を書き続けていて、この『夢の果て』もそのうちのひとつに当たる。このシリーズでは超能力者は“Perplexer(混乱させるものという意味、略してP)”と呼ばれ、普通の人々から恐れられ、迫害されている。

 どうやら過去に大きな大戦があったようだ。地表は放射能で汚染され、住めない。人々は地下に都市を作り、現代とさほど変わらないレベルの暮らしを営んでいる。そんな設定がこのシリーズの世界の背景だ。

 人々の間には、時々“P”が生まれる。大人になってからその能力が現れるものもいる。“P”を見つけたら通報しなければならない。通報された“P”はP病棟に送られ、治療される。“P”は「ほうっておくと人間にない力をつかって犯罪を起こす」と信じられ、学校でもそう教えられている。

 8歳のスロウは母ステラと弟サモスの3人で幸せに暮らしていた。しかしスロウはテレパシー能力のある“P”だった。ステラはスロウの能力に気がつき、悩む。愛する息子を通報しなければならない。しかし治療という名目でP病棟に送られた“P”は、病死と偽られて実際には殺されていた。偶然そのことを知ったステラは、他人に殺されるよりは自分で、と無理心中を図る。また、サモスが後ろ指をさされないようにするため、催眠術で偽りの名前を覚えさせ、置き去りにした。しかしスロウは死なず、生き残ってしまった。こうして彼の苦難の人生が始まった。

 この世界では、普通の人々が“P”を恐れる理由は希薄だ。教え込まれた固定観念に従い、盲目的に怖いと信じている。“P”への差別は、異質なものに対する恐怖と無理解から起こっているように思える。“P”が良いにせよ悪いにせよ関係なく、ただ“P”は怖いという固定観念が働いている。その差別意識はまるでナチスによるユダヤ人弾圧や中世の魔女狩りのように思える。

 “P”は“P”であるということにより、絶えず生き方の選択を迫られる。それに対して普通の人々は見たくないものに蓋をして、手を汚さずに楽な生き方をしているように見える。もし身近な人間に“P”が現れると、そこで初めて戸惑い、途方にくれる。しかしこの作品では、見たくないものに蓋をする生き方も決して無傷でいられるわけではなく、愛するものを失ったり、思い出さえも持っていられなかったりする。

 この迫害は普通の人たちによる差別意識のために起こっているのは確かなのだが、しかし実際には普通の人たちはあまりに自分の意思を持っていないため、迫害を企てる側にすら回れていない。本来なら迫害は、マジョリティ対マイノリティで成り立つものだと思うのだが、この話ではマイノリティ対マイノリティという構造になっている。私としてはこの構造に納得がいかないのだが、作者はよほど、マイノリティがどう生きていくべきかということを描きたかったのだろう。

 ここには二つの生き方が提示されている。マイノリティとして生まれついた自分の不幸を不幸とみなして他人を愛することなく一人で生きる生き方か、自分自身はぼろぼろに傷つきながらも他人を護り愛する生き方か。もちろん愛する生き方が良いに決まっていると言うのは簡単なことだ。しかしぼろぼろに傷つきながらそれを実行するのは、いかに大変なことか。

 その他にも各エピソードで、“P”と普通の人間や、“P”同士の関係が、友情、恋愛、兄弟愛、信頼、裏切り、葛藤、嫉妬など、さまざまな角度からシミュレートされ、描かれている。“P”達があまりに痛々しく、読んでいてつらい。


TOPはじめに著者別 INDEX新着