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2004年04月26日(月)
■『動物化するポストモダン』 ★★★★☆

著者:東浩紀  出版:講談社  ISBN:4-06-149575-5  [EX]  bk1

【内容と感想】
 近代からポストモダンへと時代が遷るにしたがって、イデオロギーやナショナリズムといった「大きな物語(社会などを一つにまとめあげるためのシステム)」が凋落した。また日本は敗戦により日本的な文化が断絶し、アメリカ的な文化に取って代わられた。筆者はオタク系文化の構造がポストモダンの歴史の流れを反映しているとし、オタク系文化の特長を読み解くことでポストモダンの本質を捉えようと試みている。

 この本ではポストモダンという時代に人はどう変わっていったかがなかなかわかりやすく説明されている。オタク系の文化が切り口となっているので、身近に凡例を見て来た私には納得しやすい。また、ここで触れられている時代も体験して来て実感がある。それから提示されているモデルを当てはめると、それまで理解しにくかったことに説明がつくものが多々ある。また馴染みのない哲学的なことが要所を押さえて分かりやすく説明されているのでとっつきやすい。

 近代に見られた「大きな物語」は時代が遷るにつれてあちこちが機能不全を起こし、日本では1970年代に凋落した。ここではその後のポストモダンは「スノビズム」と「動物化」の二者択一しかなかったのだと述べられている。まず1970年代から1995年頃までは「スノビズム」により支配されていた。これは形骸化した価値観にしがみつくことで「大きな物語」の代用に虚構を捏造し、喪失感を埋める試みだった。しかし1995年以降、虚構を捏造する欲望すら失われ、即物的な欲求を満たす「動物化」へと変化してきているという。

 興味深いのが、近代とポストモダンで世界の捉え方が違っていることだ。近代では世界を「ツリー・モデル(投射モデル)」で捉えていた。これは意識に映る表層的な世界(小さな物語たち)を通して、それらを規定する「大きな物語」をその深層に読み取る捉え方である。そして自分自身はその物語を通して決定される。

 一方ポストモダンでは世界を「データベース・モデル(読み込みモデル)」として捉えている。意識に映る表層的な世界(小さな物語)の深層には、もはや「大きな物語」は存在しない。代わりに、小さな物語をどう組み合わせてどう読み込むかというシステム(大きな非物語)が存在し、自分自身が「小さな物語たち」を読み込むことで世界を決定づける。それらは読み込み次第でいくらでも異なった表情を表す。

 私は世界をツリー・モデルで捉えている。私は子供の頃からずっと本を読んでいたが、本を読むというのはその背後の「大きな物語」を読み取るという作業だった。SFを好きなのは、SFが世界観を作り上げるからで、それが「大きな物語」の喪失を埋めるのに近いからかもしれない。私が本を読み始めた頃、おそらくそれらの本の作家達はまだ近代の「大きな物語」の中で生きていた。彼らは世界をツリー・モデルで捉え、私もごく自然にツリー・モデルとして捉えるようになったのだろうと思う。

 しかし、一方でデータベース・モデルでの捉え方に移行してきているのも納得できる。子供の頃からコンピュータゲームで育って来た世代の人達にとって、ある大きなシステムがあり、その生成するバリエーションを読み込むことで世界を捉えるというのは極自然だろう。

 とはいえ、一方でツリー・モデルで捉えている人達がいて、他方でデータベース・モデルで捉えている人達がいるとなると、そのコミュニケーションが齟齬をきたすのは無理ないことかもしれない。以前私の意図がどう説明しても曲解されることがあり、どうして決めつけられるのかと不思議に思ったことがあった。これをデータベース・モデルで読み込んでいたからだと考えると納得が行く。客観的に「相手がどうか」ではなく、相対的に「自分がこう読み込みたい」のようなのだ。

 筆者はポストモダンの人間性が「動物化」していることを、あまり良いことだとは捉えていない。私から見てもあまり良いとは感じられない。ではデータベース・モデルで世界を捉えている人たちから見るとそれでいいのかというと、そうでもないらしい。読み込み次第で横滑りし、バリエーションだけが無数に増殖するだけで、いつまでたっても安定する状態にはたどりつけないという欠点があるそうだ。

 ともあれ、この本ではポストモダンのの実情が解説されただけで、まずは議論するための土壌を整えるのが目的のようだ。また、今回は男性を対象とした分析がほとんどだったので、次は女性の分析も読んでみたいと思う。



2004年04月22日(木)
■『バルバラ異界』1・2 ★★★★☆

著者:萩尾望都  出版:小学館  ISBN:4-09-167041-5/4-09-167042-3  [SF]  bk1bk1

【あらすじ】(1巻カバーより)
西暦2052年。他人の夢に入り込むことができる“夢先案内人(ゆめさきガイド)”の度会時夫(わたらいときお)は、ある事件から7年間眠り続ける少女・十条青羽(じゅうじょうあおば)の夢をさぐる仕事を引き受けることになった。そして、その夢の中で青羽が幸せに暮らす島の名<バルバラ>をキーワードに、思いがけない事実が次つぎと現れはじめ…!?

【内容と感想】
 私の最も好きな少女漫画家の一人、萩尾望都。ここしばらく幼児虐待ものを長期連載していた。そちらのテーマには私はあまり興味がないため読んでいなかった。SFネタが復活したのは久しぶりなので喜んでいる。

 あらためて考えてみると、萩尾望都の作品はこれまでも象徴的な要素がストーリーの中にふんだんに盛り込まれていた。しかし今まではあまりそれを意識せず読んでいた。というのも、ストーリー構成が秀逸なので要素はさりげなく溶け込み、特に意識しなくても十分楽しめていたからだと思う。

 ところが、この作品は従来と違ってストーリーより要素の意味深さが目立つ。ストーリーの合間に要素があるのではなく、矢継ぎ早なイメージの展開の隙間を縫ってストーリーで補足しているかのように感じられる。だからこれまで以上に話があちこちに飛んでいる気がするし、把握もしにくい。

 とはいえ、よくよく読んでみると、けっしてストーリーもなおざりというわけではない。枝葉をそぎ落とされた濃密なストーリーが繰り広げられている。また、重い話が伏線もなくいきなり淡々と展開されるのに驚く。しかし要素の詰め込み方がそれ以上で、ストーリーを圧倒している。これを一つにまとめあげる構成力はすごい。以前『百億の昼千億の夜』を原作と読み比べた時も、構成のうまさにうならされたが、この作品も並大抵ではない。

 表面に見えているストーリーは、以下のようなものだ。ある事件を境に眠り続ける少女青羽の夢に、時夫が夢先案内人として入り、彼女を夢から覚まそうとする。彼女は「バルバラ」という異世界の島で幼い子供になって幸せに暮らしている夢を見ていた。これをきっかけに、ある事件が浮上してくる。それは青羽の両親が何ものかに殺された猟奇的な事件で、青羽が眠り続けるきっかけとなった。ところがこの「バルバラ」は時夫の息子のキリヤが創りあげた想像上の島だった。どうやら青羽とキリヤはどこかで繋がっているらしい。時夫が青羽に関わり始めてから、「バルバラ」は次第に現実世界へと形を表わしてゆく。


 『スター・レッド』で扱われたイメージはここにたくさん出て来ている。火星で戦いがあったことや荒涼とした火星の砂のイメージはまさにそうだ。砂は作者が好んで使うモチーフで、『マージナル』『銀の三角』『偽王』『城』『左利きのイザン』などにも登場している。また鳥篭で眠る予言者の千里も『スター・レッド』の鳥の名前の火星人予言者達と重なる。

 バルバラで光合成をしている半分植物化した群像のような女性達のモチーフは、 『ハーバル・ビューティー』にも登場している。 これはどうやらかつての火星を支配していた意識を共有する生命体ではないかと推測される。

 『X+Y』でタクトが固執するアイテムとして登場した凧も、バルバラで千里や子供達によりあげられている。『X+Y』では凧とイカロスの翼が関連付けられていた。これは自由への象徴なのだろうか。

 青羽の引き起こすポルターガイストは、『ポーの一族』を思わせる血とバラを降り注がせる。これは永遠に生きる者の象徴か。またポルターガイストは『スター・レッド』や『X+Y』では制御できない力として現れていた。

 『トーマの心臓』でタイトルになっている心臓は、ここではグロテスクなカニバリズムとして登場している。それが結晶化しているという。『モザイク・ラセン』では、水晶は少女を閉じ込める檻として描かれていた。一方キリヤは夢の中で追われたあげくガラスを割り、目覚めを象徴する鶏が鳴く。これはキリヤが少女を脱したことを示唆しているようだ。また『スター・レッド』では星は赤い目を黒く見せるためにコンタクトレンズをはめていた。エルグに会ったことで、このガラスが砕け散る。目を覆う少女としての檻を砕き、少女に同化するふりを止め、星は自分が自分自身でいられる火星へと旅立つのである。

 両親による精神的な虐待は、『残酷な神が支配する』『メッシュ』『イグアナの娘』『半身』などに、再三出て来る。これは彼女の作品に根強い。またこの作品に登場するキリヤの母はかなり思い込みの激しいタイプで発言が痛い。

 他にもさまざまな思わせぶりな要素がたくさんあるのだが、意味を捕らえきれないものも多い。過去の作品をもう一度読み直し、各々の要素が何を表わしているかを捕え直さないと理解しきれないかもしれない。だが残念ながらほとんどの萩尾作品を実家に置いてきてしまった。先にあげた要素の類似点も、記憶違いのものがあるかもしれない。


 おそらく青羽とキリヤは対立して描かれている。章のタイトルに「希望」と「絶望」としるされていて、希望が青羽、絶望がキリヤだとわかる。おそらく、青羽は永遠の少女、キリヤは従来の少女像に順応できない女性を象徴している。意味のありそうなモチーフやキーワードを思い付くまま二人にそれぞれ当てはめてみるとこうだ。

青羽=少女=無垢:
希望・眠り続ける・全体意識・植物との融合・血とバラ・金魚・かつて水で満ち共通意識のあった火星・カニバリズム・結晶・読めない異国の文字で書かれた本・飛べない身体・ゼリー状に溶ける人形・免疫不全・拒絶反応・アレルギー

キリヤ=少年=変異種:
絶望・覚醒・砂の火星・父親により精神的に捨てられる・少女の残酷性を持つ母親からの精神的な虐待・お神楽の猩猩の面・結晶を割り鶏につつかれる・プリオンタンパク質

 時夫はどうやらその職業通り、ガイドの役割を果たしているようだ。今後青羽は目覚めるのか、キリヤは救われるのか、謎がどう解けていくのか楽しみである。



2004年04月19日(月)
■『南極大陸』(上・下) ★★★★★

著者:キム・S・ロビンスン  出版:講談社  ISBN:4-06-273919-4/4-06-273920-8  [EX]  bk1bk1

【あらすじ】
地上最後のフロンティア、南極大陸。雪と氷に閉ざされたこの地にも、地球温暖化の影響が現れていた。南極条約更新の調査のためマクマード基地を訪れていたウェイドは、大男の作業員「X」、魅力的な女性ガイドのヴァルたちと出会い、想像を絶する「氷の砂漠」へと旅立ってゆくが!?近未来アドベンチャー小説の傑作登場。(上巻カバーより)
極点基地を経てロバーツ油田探査基地を訪れたウェイドは、そこでマクマード基地から移ってきた「X」と再会する。ところが過激派環境保護グループによる妨害工作で基地は破壊され、GPSも使用不能になってしまう。ヴァルたち南極ツアー一行も合流し、脱出をはかるが?希望と感動を呼ぶ、新感覚局地冒険小説。(下巻カバーより)

【内容と感想】
 南極を舞台としたエコ小説。解説では本書を「自然文学(ネイチャー・ライティグ)」というジャンルに位置づけている。

 ストーリーは作者がこの作品の前に書き上げた『レッド・マーズ』、『ブルー・マーズ』、『グリーン・マーズ』という火星三部作と、大筋でよく似ている。どちらも厳しい自然環境の中でテラ・フォーミングを最低限に抑えながら、土地に根ざして生きていこうとしている人々の姿を描いている。

まず南極に恋をする。すると心が引き裂かれる。(上巻P9)
 この小説はこんな印象的な書き出しで始まる。主人公 X はガイドのヴァルに振られたことで傷心していた。しかしマクマード基地は狭く、どこに行ってもヴァルと出会う。またASL社の一般野外作業補助員(GFA)である彼は、全米科学財団(NSF)の科学者(ビーカー)との立場の違いにも悩まされている。GFAは交換可能な部品扱いしかされない。仕事に誇りを見出せず、作業は極限の寒さの中、おまけに報酬も見合わないと感じながら働いている。ある日 X は運転中の南極点陸上輸送車(SPOT)を何者かに奪われる。

 一方ヴァルはガイドの仕事に限界を感じ始めていた。ヴァルのクライアントは南極大陸の歴史に名を残した探険家たちの足跡をたどろうとする。無謀にも貧弱な装備までそのまま真似、自分の体力を過信し、無謀なツアーをしたがる。そして悲惨な結果になるとガイドを責める。

 そんな中、アイス・パイレーツによる一斉テロ事件が起こる。それをきっかけに、これまで隠れ住んでいた「フェラル(野生に返るもの)」と名乗る人々が自分達の存在を明らかにする。彼らは南極という土地で、自給自足をしながら土地に根ざして生きることをめざしている。南極条約が見直され、南極での労働形態も大きく変わっていくことになる。


 こうした物語の筋に絡んで、南極での探検の歴史が紹介される。1911年に南極点に初到達したアムンセン、一ヶ月遅れて到達したスコット、初の南極大陸横断を試みたシャクルトン。これらがとても面白い。

 中でも風水師で詩人でジャーナリストのタ・シュウによって語られるナレーションがすばらしい。何でもいいから一番になりたかったアムンセン、英雄になることを望んだスコット、南極に恋しそこで暮らしたかったシャクルトン。タ・シュウは彼らが何をなしとげたかではなく、彼らが探検のさなかにどう振舞ったかを評価し、それぞれの背負う「宿命の生」について語る。それは人の一生の中の、運命を変えうるある一瞬である。

 特にシャクルトンへの評価が高い。彼は当初スコットと共に南極点への一番乗りを目指した。しかし引き返さざるを得ず、その探検でスコットと決定的に決裂する。アムンセンとスコットが南極点に到達した後、シャクルトンは大陸横断をかかげて試みるが、失敗に終わる。にもかかわらず、ここではシャクルトンの行為が賞賛されている。彼は自分と行動を共にした隊員を気遣い、励まし、目的を果たすことよりも生きて帰ることを選んだ。また極限の状態で自分の食べ物を他人に分け与えた。一方スコットは死を選んだ。

 とはいえ、足跡ツアーに辟易したヴァルは、ツアーの参加者がスコットの探検を無意味だったと考えることに反発する。彼らの探検を「エドワード七世時代のあわれな謬見、あるいはポストモダンのあわれな体現。そのどちらにも選択すべきものはない。」としながらも、少なくとも彼らは誰かの足跡をたどったわけではなく、そこで生活し、自分の真の生を生きたのだと評価する。それは他人の真似をして何かをわかった気になっている人たちに対する批評である。


 かつて南極は軍人により支配されていた。陽(ヤン)の支配が強すぎて、彼らの生活は単純で野蛮だった、とタ・シュウは指摘する。しかし変化が訪れる。
南極点到達第一号をめざした男たちのレースを思い出してみてください。滑稽ではありませんか?ほほえましいながらもやはり滑稽です。一九六九年の休戦記念日、六人の女性はまったくべつの解決策を見出しました。彼女たちは腕を組み、飛行機から南極点までならんで歩いたのです。そうすることで、自分が一番乗りだという主張ができなくなる。彼女達はこの方法が最善だと考えたのでしょう。彼女らの新しいストーリー。こうやって、南極における陽(ヤン)の支配、軍事的ピーターパン的支配は終焉を迎えました。そして南極は、完全なヒューマン・ワールドへと踏みだしていきます。男と女、陰と陽の均衡ある世界、ともにあちらへこちらへとうねる世界、そう、いまわたしが話しているこの世界へ。(下巻P339)

 また彼はアメリカ人が協調と充足を身につけ、破局を避けられるかどうかを憂う。一人ひとりが協調の一端をにない、特に科学は信頼がつくりあげる共同体でなければならないと説く。また別の箇所では別の人物により科学が政治を牛耳っていることも述べられ、科学すら、何を信じるかという共同体により作り上げられていることが示されている。


 ところで、作者は実際に全米科学財団(NSF)の奨励金で南極に行き、その経験を踏まえてこれを書き上げたそうである。火星三部作でも、南極は地球上で一番火星に近い環境であるため訓練地として登場している。作者は火星三部作を執筆中に、南極行きのためのNSFの奨励金に応募したが、当時執筆中の小説の舞台は火星であって南極ではなかったため落選した。火星三部作を書き上げたあと、今度は南極小説を目的に掲げて再び申請し、無事審査に通って南極に赴いたそうだ。そうして書き上げられたのがこの作品である。火星三部作でも彼の風景描写は美しかったが、この作品でも風景の描写はすばらしく美しい。そしてひたすら寒さが厳しく、凄みのある自然の姿が描かれている。



2004年04月07日(水)
■『バカの壁』 ★★★★★

著者:養老孟司  出版:新潮社  ISBN:4-10-610003-7  [EX]  bk1

【内容と感想】
 一元論へ痛烈に警鐘を鳴らした一冊。少し話題が振れぎみなので細部に捕われていると作者の主張が汲み取りにくいが、多元論を目指すことが争いを無くしより良い未来の築ける方向性だと、一貫して示唆している。つまり、命の多様性を礼賛している。

 この本は手近にありながら何となく読まなかったのだが、実際に読んでみると私にとっても考えをまとめるためにとても重要な本だった。今まで漠然と考えたり感じたりしていたことが、一歩進んで言葉となって、ここで説明されていた。またそれまで気付いていなかったこともいくつか指摘され、既製概念を覆された。

 タイトルとなっている「バカの壁」とは、興味のない人に何かを説明してもそれが理解されない、そんな壁のことである。実はこのタイトルがあまり好きではないのでなかなか読む気になれなかった。ここでは意思疎通をさまたげる壁の正体がいろいろあげて説明されている。その一番の原因は、人によって興味の対象が異なり、脳の中での処理のされ方も異なっていることである。また同じ人の中でもその時の状態で感じ方で処理のされ方が異なっている。そして中でも気をつけなければならないのが安易に自分が絶対正しいと思い込むことで、思考を停止してしまう状態だという。

 私にとって新しい視点となり面白かったことの一つは、
本来意識というのは共通性を徹底して追求するものなのです。その共通性を徹底的に確保するために、言語の論理と文化、伝統がある。人間の脳の特に意識的な部分というのは、個人の差異を無視して、同じにしよう、同じにしようとする性質を持っている(P48、49)
という指摘だった。そもそも意識に何か性質があるかもしれないという発想そのものがなかったので面白かった。確かに言葉が違っても何らかのコミュニケーションが成立するところを見ると、意識は共通化しようとする性質を持っているのかもしれない。

 また、
「個性」は脳ではなく身体に宿っている(P52)
という指摘も私には真新しくて面白かった。個性はもともと初めからその人に与えられている(備わっている)ものであり、(それをどう磨くかはもちろん個々人の努力や興味によるのだろうが、)それ以上でも以下でもないのだそうだ。

 それを聞いて私は友人の言ったことを思い出した。彼女の姪は小さい頃から読書好きなのだそうだが、いわく、それは親が絵本を読み聞かせたから読書好きになったのではなく、生まれながらにして姪自身が読書を好きだったのだと。好きだから親に本を読んでくれとせがむ。食事の途中に抜け出してはいつの間にか本を読んでいる。親が本を読み聞かせたかどうかに関係なく、まさに生まれながらにして本好きだったのだと。

 作者は、そもそも個性は肉体の差違の中にあるので、それを意識の中に無理に求めることは止め、むしろ意識はいかに共通できるかを求めることの方が重要だと説く。
 むしろ、放っておいたって個性的なのだということが大事なのです。(P69)
 それより、親の気持ちがわからない、友達の気持ちがわからない、そういうことのほうが、日常的にはより重要な問題です。これはそのまま「常識」の問題につながります。
 それはわかり切っていることでしょう。その問題を放置したまま個性といってみたって、その中で個性を発揮して生きることができるのか。
 他人のことがわからなくて、生きられるわけがない。社会というのは共通性の上に成り立っている。人がいろんなことをして、自分だけ違うことをして、通るわけがない。当たり前の話です。(P69、70)

 それから、人は本来変化するもので、情報は変化しないものなのだが、現代ではそれが逆転して認識されている、という指摘も面白かった。
流転しないものを情報と呼び、昔の人はそれを錯覚して真理と呼んだ。真理は動かない、不変だ、と思っていた。実はそうではなく、不変なのは情報。人間は流転する、ということを意識しなければいけない。(P54)

 言われてみれば、自分のことを時の流れの中で連続して自分であると認識しているが、全く同じもの(情報)から受ける印象は、その時々の状態や気分によって確かに変化する。経験するということは人を否応なく変えてゆく。知らなかった自分に戻ることは出来ず、身体も変化し続けている。

 最後に、結論として述べられている一元論と二元論の話はとても興味深い内容で、私が今まで考えて来たことを補い一歩進めてくれた。作者はここで一元論を否定し、二元論(多元論)の世界がより良いのだという考えを強く主張している。

 実は私の好きな『ハイペリオンシリーズ』(ダン・シモンズ作/早川書房刊/SF)と『イティハーサ』(水樹和佳子作/集英社・早川書房刊/SFコミック)がこの二元論の世界を目指す話で、私はこれにとても共感していた。『ハイペリオンシリーズ』はその最終巻の『エンディミオンの没落』で、「生命は多様性を目指すべきだ」という思想が選ばれる。またイティハーサは「答えが一つしかない」未来を拒否し、「人それぞれにそれぞれの形で」答えがある未来を選択する。どちらも素晴らしい名作で、しかしそれ以上に私はそこに提示されていた、「それぞれに合った価値観が同等に存在する」という世界観に惹かれた。対するたった一つの形態なり答えなりでは、いずれ停滞し失速してしまう未来しか予測されない。

 作者の否定する「一元論」も前出の二作と同様、一つしか無い正しさを目指す考え方のことを差す。一つしか無い正しさは、自分が間違っている可能性などいっさい考慮せず、他者の正しさを自分の正しさとは違うという理由で否定する。一元論は排除することか組み込むことで、相反する意見をこれまで駆逐して来たし、これからもそうであろうと予測される。
 一元論と二元論は、宗教で言えば、一神教と多神教の違いになります。一神教は都市宗教で、多神教は自然宗教でもある。(P195)

 対して、ここで言う「二元論」とは、例えば陰と陽のように、異なるものが同等に存在する考え方だ。どちらが正しいかではなく、立場により正しいことが異なるという考え方だ。だからここで言う「二元論」=「多元論」である。絶対的な正しさは無いが、他者の正しさを認め得る、寛容な考え方である。日本古来の八百万の神々はまさにそれだ。

 別に私は宗教にも哲学にもまったく詳しくないのだが、女性がありのままの形で存在することは、この二元論の元でなければ窮屈だということを、経験的に感じてきた。それは無理矢理合わない靴に足を入れる様なものなのだ。

 ところで「二元論」をググッてみたところ、「善悪二元論」などの言葉が多く引っ掛かり、作者の言う意味での二元論とは少し違っていた。善悪二元論といった考えはここで言う一元論と同じである。一つの絶対的な正しさとして「善」が提示され、それと合わない考えは「悪」として排除される考え方だ。この考え方の恐さは、二つの異なる善が対立する時、自らの信じる善の絶対的な正しさを追求するあまり、互いに対立したものを悪として排除し、お互い譲り合わないことである。これは終わりのない戦いしか生み出さない。

 では、作者の言う一元論とか二元論とは何なのかを検索してみた所、どうやら哲学の世界で「絶対論(主義)」と「相対論(主義)」と呼ばれるものがこれとほぼ同じものに見えた。

 作者は楽で思考停止状態の一元論から脱して「人間であればこうだろう」ということを不変原理に置くべきだ、と提唱している。その普遍原理(方法・手段)がきっと愛であったり思いやりであったり優しさであったりするのだろう。一元論のままそれを実行しようとすると、自分の考える正しさに固執しすぎた時押し付けになるし、対立した時には排除することになる。だから意思の疎通が成り立たない。二元論を守りながら対話と理解によって解決しようとする姿勢が重要なんだろうと思う。

 現代世界の三分の二が一元論者だということは、絶対に注意しなくてはいけない点です。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教は、結局、一元論の宗教です。一元論の欠点というものを、世界は、この百五十年で、嫌というほどたたき込まれてきたはずです。だから、二十一世紀こそは、一元論の世界にはならないでほしいのです。男がいれば女もいる、でいいわけです。
 原理主義というのは典型的な一元論です。一元論的な世界というのは、経験的に、必ず破綻すると思います。原理主義が破綻するのと同じことです。(P198)
 一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。(P204)

 それこそが『バカの壁』の正体だとくくられている。


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