浅間日記

2006年02月28日(火) 棄権せよ

危険部位混入発覚後の「返品分」の行方が気になるんである。
追跡もされず流通した数十トンのことではない。
成田空港や港湾で足止めされている、1366トン、14億円分の牛の肉だ。

何しろ、日本食肉輸出入協会というところは
保管費用も含め、膨大な損害を被ったことになり、
米国食肉輸出連合会に補償を求めているが、確実でない。
もちろん、米国がわざわざ船賃を出して自国にもって帰るわけがない。



一見、普通の肉。自分が口にするわけではない。売れば金になる。
そういう、ビジネス上の誘惑が多い、人道に反するものが存在する。

ビジネスと人道性が勝負することに、私はもう完全に近く失望している。
だからこれは、私には、実に気味の悪い存在なんである。

もし補償がなされなければ、不信感はさらに高まるだろう。
補償の行方に関わらず、なるべく早く然るべき方法で処分し、
さっさと、その肉に関わるビジネス上の権利を放棄してほしい。

処分にあたっては産業廃棄物の「動植物性残さ」又は
「動物系固形不要物」になるはずだから、
処分の画像から管理票(マニフェスト)のA〜E票まで、
この際きっちり公表してもらいたい。

2004年02月28日(土) 瑣末なことだ



2006年02月27日(月)

フィリピン海兵隊員数百人が、海兵隊本部に立てこもる事件。
非常事態宣言が出されたようだ。

日本では、二二六事件の日と重ね合わせた所感をもつ人もいるだろうか。

あの、無数の島の集合体である国をまとめるのは
容易ではないだろうなと思う。
政権は強気でいなければ、あっという間に国家の体をなさなくなる。

2004年02月27日(金) 青い空にヘリ



2006年02月26日(日)

みぞれ雪。
HとAは遊びに行ってしまい、居残りの私は残業である。

ため息、仕事、ため息、仕事、で行進する。

いっそのこと「嫌々やるのなら、もうやらんでいい!」と、
誰か私の仕事を、私からとり上げてくれないだろうか。



2006年02月23日(木)

仕事のはかがいかず、締め切りは近い。

職業人としての能力と緊張感が、実は少しずつ
衰えているのではないか、という不安。

一人仕事では、そういう点に常に気をつけていないと、
何かしているようで、何も成していない場合がある。

このままでは駄目だ。駄目になる。

2004年02月23日(月) 死ねない犬



2006年02月20日(月) 参政権は金で買う

自民党が、外国人や外国法人の持ち株比率が高い企業からの政治献金が受けられるよう政治資金規正法の緩和について検討に入った、というニュース。



金は出すが口は出さない、ということは当然ないだろう。
投票権などなくとも、金で参政権は買えるのである。


国民に等しく参政権が与えられた時期など、考えればほんの最近のことだ。
私の祖母などは間違いなく、成人してから選挙権をもったはずだ。

そして、それ以前の、明治から昭和の初めまではどうだったかといえば、
納税条件というかたちで「お金持ちしか政治に口だしできませんよ」
ということになっていた。

納税条件が直接国税15円以上だった明治23年の有権者数は、
全人口のうち、たったの1.1%である。

でも今でも、結局のところ、世の中の大切なルールは、
「1.1%の人たち」によって左右されている。そんな気がしてならない。

権利や権力というのは、人が生涯かけた血か汗か、
さもなくば金を出してやりとりされるものらしい。
そして生涯かけた血や汗は、金に比べて圧倒的に分が悪い。

2004年02月20日(金) 春がほどけていく



2006年02月19日(日) 踊る阿呆に見る阿呆

世界のトップクライマー達とのちょっとした交流会に参加したHは、
自分のクライミングを見直すいいきっかけになったよ、と嬉しそうに話す。

ここのところ仲良し登山クラブみたいな感じで岩場へ向うHに対して、
この人の挑戦はもう終わりかな、と思わないでもなかった。

そのことは家族として確かに嬉しい、歓迎すべきことなのだけれど、
何か私が好きだったものとは違うものが山岳業界から返品されてくるような違和感があったし、
今度の遠征で大きな遭難をしそうな不安も拭えなかった。



だから私は、目標を高く据え、生き生きとした目で話し、
久しぶりに彼らしい定位置にもどったHに嬉しくなったんである。

そしてつい、まずいことに、後先も考えず
「じゃあスロベニアに1年ぐらい行ったらいいじゃん」
などと、口にしてしまったという訳である。

2005年02月19日(土) 嘘笑い禁止令
2004年02月19日(木) ファンタジーと生きる その2



2006年02月18日(土)

週末を使って、とんぼ返りの上京。
今回は訳あってHも一緒である。

少なくとも5年以上は滞在しようと思っている、という
Mちゃん家族との、しばしのお別れの会。

日本人が標準装備する価値観に固執しないMちゃんと話をすることが、
私はもう先から好きで、お互い家族をもってからもその楽しさは続いている。

そのこだわりのなさは、Mちゃんが国際派だからかもしれないし、
元々の性格かもしれないし、あるいはその両方なのかもしれない。

2005年02月18日(金) 模倣と社会
2004年02月18日(水) 馬鹿でもないし迷走でもない恐怖



2006年02月16日(木) ベルゲン

霧の中のハイウェイを、南へ行く。

本日は、グリーグピアノ協奏曲。
ノルウェーの、ベルゲンの、天と地が近いところの音楽。

子どもが本能的に怖がりそうな音楽のように聴こえる。
なぜならば、とても原始的だからだ。
胎内から出る時の、激しい誕生の記憶が蘇るような。

白と黒、明と暗、陰と陽の二階層が迫り、そして完全なる結末。
終末思想である北欧神話の影響か。

誕生と死、終わりと始まり、破壊と創造。
生命力というのは、「保健体育」みたいにニコニコ道徳的なものではなく、
私達のものでありがなら、私達の手に負えない激しさを備えたものであることを、思い知らされる。

かと思えば突然、暗雲の中から光が降り注ぐようなタイミングで、
美しい調べが、救われるのは勝手だが、別にこれで誰を救うつもりもない、
という風に奏でられる。

2005年02月16日(水) 散歩の必要
2004年02月16日(月) ファンタジーと生きる



2006年02月15日(水) 歌があった頃

NHKラジオを聴きつつ、写真の整理。
ときめきインタビューという番組。

失礼ながらあまりパッとしないコーナータイトルの割には、
メモをとりながら聴く価値がある、なかなか面白い番組なんである。


本日は、小島美子さん、国立歴史民俗博物館名誉教授の話。
日本中の民俗音楽を、数多く収集している方だそうである。

蔵に閉じこもった母親を元気づけるために、
生まれてから現在までの出来事を2時間も歌い続けた息子さんの話。
本当に元気になって、蔵から出てきたんですよと、氏は面白そうに語る。

そして、自分の思っていることを表現する手段としての音楽は今でも健在ですと、
他にも沖縄や秋田や奄美の面白い事例を沢山紹介。



以前読んだ「ポピュラー音楽の世紀」という本から察するにこれは世界的な傾向と思うけれど、

音楽市場が成熟する以前、人は、小鳥がうたうように、
実にのびのびと、自分の言葉を自分のメロディにして、
人を慰めたり、励ましたり、愛を伝えたりしていたのらしい。

なんだか私には、素敵すぎて夢物語のようである。

2005年02月15日(火) 善意の文章、悪意の文章



2006年02月14日(火) 春と光と私

本日も、お外の仕事である。

山では鳥が鳴き、鹿の寝床は雪が溶け、
木々の冬芽はすっかりふくらんだ。

身体が地割れして、中からむくむくと何かが湧いてくる。
冬の間は指1本動かすことさえ苦痛だったのに、
今はとにかく、心拍数を120以上にしたくて仕方がない。

もう春だということだけで、
何故か毎年私は、訳もわからず嬉しくなるみたいだ。

頭がおかしくなったことを自覚するというのは、
頭がおかしいのや否や。

2004年02月14日(土) 見えないナイフ



2006年02月13日(月)

本日は、お外の仕事である。

先週は、私向きでない面倒な書類仕事が多かったので、
よい気分転換として楽しもうと思っている。



2006年02月10日(金) 低反発人間の希望

気温は日々ギコギコと上がったり下がったりしながら、
それでも確実によい方へ−春へ−向う。
だからもう、私には寒さは恐れるものではない。



昨今の、○点セットなどと揶揄される出来事やなんかから、政局を思う。

あと10年頑張ればきっとよくなるとか、子孫の時代にはよくなるとか、
そういう布石らしいものが、政治の舞台からは一切、見当たらない。

当たり前の理屈が、当たり前に壊されていく。
科学も道徳も弱弱しく、無力である。

誰かの利益とか思惑とか暴力とか、見えない小さなもやもやが降り積もって、
何かを知り「そんなことも気付かない国民は馬鹿だ」と言う人にさえ、
まだ知られていない事実が山のようにある。

こんなことを繰り返していたら、きっとそのうち私はあきらめて、
低反発まくらみたいに凹みも尖りもしなくなるのだ。



人々が現在にも未来に希望をもてなくなった時、
それを元気づけることができるのは、同じ立場の者同士でしかない。

「チャップリンの独裁者」ラストシーンで、
「あなたがたは幸福を生み出す力を持っている。人生は美しく、自由であり、すばらしいものだ!」
と演説したのは、一介の床屋の主人であって、政治家でも軍人でも、
ましては独裁者でもないのだ。

2005年02月10日(木) out of order
2004年02月10日(火) プライベートライアン登山隊



2006年02月09日(木)

もうすぐ3回目の子産みをするKちゃんは、
たまに朝会うたびに、雰囲気が変わってきている。

なんだかオーラが出てきてるねえ、と言うと、はにかみながら笑う。

Kちゃんは普段ならば、何を話しかけても、あきらめとか退屈が言葉の先ににじみ出ていて、
それは多分、生まれ育ったこの土地の地縁とか慣習に縛られているせいだろう、
と感じていた私は、この時も不自由そうなリアクションを半ば覚悟していた。
だから、Kちゃんの笑顔は、すごく意外で、そして素敵だった。

2005年02月09日(水) ゲームオーバーなのではない



2006年02月08日(水) 低減の提言

雪の中、散髪に行く。

どうも私は散髪中に駄考する癖がある。
今日はどういうわけか、環境負荷低減の方面に雑念がわく。

コンビニに置いてあるコピー機も、
今どき恥ずかしいあんなツルツルの紙でなくて
再生紙を選べるようにしてほしいとか、

スーパーで売っているビールやなんかは、
昔みたいに冷えたのを少し高くして売ったらどうだろうかとか。

ふと気付いたら、すっかり短髪になった私の頭が鏡の中にあって、
それがあんまりAと瓜二つだったから、可笑しくなった。

2004年02月08日(日) 



2006年02月07日(火) 話が通じない話

家で仕事。外は雪。

予算の話を全くしない予算委員会のラジオ中継に耳を傾ける。
与党のやらかしたヘマとか、怪しげな事件の追及が続く。

「サキホドライモウシマシタヨウニ」という科白は、
あんた、ちゃんと私の話理解してないね、と言う意味か、
立場上これを繰り返すしかないんだよ、と言う意味か。

与党議員が、「アナタの仰る通りで、判断の誤りでした」
などと言うはずもない。
小泉総理など、耳掃除でもしながら答弁しているみたいだ。

議論すべき場で、不毛な議論が展開することは、
「大事なことは別の場所で誰かが勝手に決めている」証である。
答弁を通じて、国民にものすごい不安感と無力感を与えている。



引き続き仕事。途中で電話勧誘が2件。
テレホンアポイントと言えば聞こえがいいが、電話勧誘である。

勤めている時は知る由もなかったが、昼の時間帯はこうした電話が多い。
インターネット加入とか、水道管の修理とか、
子どもの教材とか、着物の販売とか、実に多方面から御用聞きが来る。

要りませんと普通に断っても、大抵は話にならない。
ある時、仕事中ですと告げたところ、慌ててあきらめたので、
以来、この手のものはそうして断るようにしている。
大抵はすまなそうに電話を切る。

つまり、仕事中でなければ、日中家にいる人の貴重な生活時間を、
自分の仕事で突然奪ってもよい、と思っている。

そこのところが一番腹立たしい。



2006年02月05日(日) アナログ的現在

しょぼいスキー場へ行く。

子どもを遊ばせるには、しょぼいスキー場がうてつけだ。
何より、大きなスキー場の、ちびっ子広場やなんかでは定番の、
大音響で鳴り響くデジタル音楽がないのがありがたい。

静かな雪の中、近くで、そして遠くで、
子ども達のはしゃぐ声が聞こえる。

同じ声は一つもなく、同じ言葉も二つとない。
だから、音も風景も、ゲレンデにいる子ども達が遊び育つこの時も、
連続的に変化しながら、かけがえのない一瞬のものと感じる。


子どもの遊ぶ場所では、子どもの遊び声が聞こえれば、それで充分だ。

2004年02月05日(木) 粗末にされる男と粗末にされる女



2006年02月03日(金)

仕事をしていたら、一昨日から氷を登りに行っていたHが帰ってきた。

この人は、山から帰ってきた時はいつも、
本当にニコニコ嬉しそうである。

2005年02月03日(木) 寒気
2004年02月03日(火) 河川敷の贅沢



2006年02月02日(木) 老賢人はどこへいった

ラジオで、脳年齢を推定するゲームの話題。
自分は何歳だっただのと、タレントがはしゃいでいる。

驚いたのは、「劣っているほど高年齢」とする評価基準。
私はてっきり、逆の評価をするゲームだとばかり思っていた。

従って、このゲームで50歳の人が70歳と推定されることは、
喜ばしいことではないのらしい。



考えたり判断したりといった、脳みそが担当の仕事は、
経験を積み重ねた老人の得意分野ではなかったか。
物語の中だって、若者は迷い苦しむが、老人は揺るぎない。

年を重ねていくことは、素晴らしい、価値あることだ。
そうしたことを全く加味せずに、能力の衰え=年寄りと断定する、
寂しく乱暴な通念のゲームに、私は、本当に驚いたのだ。

人間の能力の使い方−生き方−について、私達は、
どうしていいのか分からなくなっているみたいだ。



そして、もう一つ言うと、
私達が気をつけなければいけないのは、
年をとって考えられなくなることではない。
考えないまま年をとることだ。

2004年02月02日(月) 何が無事なものか



2006年02月01日(水)

Hと映画に出かける。

三谷幸喜という人は、才能が枯渇しない人だなあと感心。

終わった時には雪になっていた。

2005年02月01日(火) 真贋の話
2004年02月01日(日) 春と氷


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