日々想事ひびおもうこと...紫能神巳

 

 

3回飛んだら書くなって事だ。 - 2005年09月10日(土)

と、悟り済ましてそろそろ一週間ですか。
あのネタもこのネタも書くな、と神は言う。
神が言ってるんじゃなくてお前のパソコンがボロいんだよ、という意見はこの際スルーで。

じゃあ何の話しろって言うんだ!?神!
…とまで詰まってる訳がありません、日々是ネタですから。

私という幸せ者、というカンジです。
自慢に聞こえますか?そうかもしれません。
大切な人が居て好きなものがあって熱中できることがあって「…無理かも」と思ってたことも天恵としか思えないタイミングでどうにかこうにか。
人様のお力によって生かされております。
宗教家臭いですか?そうかもしれません。
私基本的に『新興宗教』嫌いですが、自分の中の信仰心は全然別の、全く知識とかそういうのは関係ないところでありますからね。
つか、そういうのない人とはお付き合いできかねます。
敬虔な気持ちになったことがない人っていうのはね、口ではいくらでも言えるでしょうが本当の本当に『無い』かと言うと、そんな事ない、と私は人性を信じてます。
『神様ありがとう』と一度も思ったことのない人っていうのはよっぽど幸せなのか何なのか。いやそもそも、居るのかどうかすら怪しいです。
『その事』が起こって10年後でも20年後でもいい、『神様ありがとう』と思う偶然が必ず転がってるもんだと思います。
それが神様の仕業かどうかは知りませんが、誰か、何かに祈りたいほど『ありがとう』と思う気持ちって、全く無いですか?
『何の恨みがあって…神!』と思う事も、ある意味何というか信仰心の裏返しですよね。まー人生、『一体何の恨みがあって…!』と思うことの方が多かろうけれども、『ありがとう』と思う瞬間も絶対あるんじゃないかなと思います。
でもね、『一体何の恨みがあって…!』の期間を乗り越えなければ、『ありがとう』の瞬間には巡り会えません。
『祈り』って言葉を『念』に置き換えた方が解り易いと思いますが、福沢諭吉以降の唯物論にはどうにもこうにも傾倒できない私。
『お札を踏んだけど何の祟りも無かった』って…言わんとする事は解りますが、天罰覿面ってわけでもあるまいし…と、明治期の学者さん達は思わなかったのかしら。と文献読み漁ってて不思議に思います。ええ、とてつもなく不思議です。
福沢論に追従することがトレンディ!という流れも解らなくはないですが、でも当時の学者さん達は、『じゃあ自分の手で先祖墓壊してみろよ』と言われてできたんでしょうか。
今現在ヒステリックなまでにオカルト現象(この呼び方も何だかな〜)を嫌う皆様、じゃあ貴方盆とか行事なしですか。墓参りもしませんか。ご先祖の位牌燃えないゴミに出せますか。とかちょっと思います。
出せます、って方はまあ『そうですか』としか言いようが無いですが。お友達にはなりたくないです。
『墓参り』は、子供にとってはよく解らない行事だったりしますが、歳を経るごとに理解できますね。
私だったら、やっぱり子孫にこうやって祀って貰いたい。その人生に、一瞬でも思いを馳せて貰いたい。
…自分ちの『天保●年』と書かれた墓石を見て、『…って幕末じゃん!』と思いを馳せ、どんな人だったんだろうと想像し、…という事があったりしたので改めて思います。
原形保ってるのが天保年間ですよ…じゃあ、あの形を成していない墓石とかは一体いつ頃のモノで…?とか思いました。いつ頃のものか、誰のものか解らないけど子孫は花と線香を手向ける訳です。これは自然な宗教心…というといかがわしく聞こえるので、まあ、信仰心、とでも言いましょうか。
何者かに向かってか解らないけれど、もういっそ(中華思想みたいですが)天に向かって、でもいいですが、祈る、って気持ちはありますよねぇ。
唯物論は人の自然な心を破壊するんじゃないかと思ったりしている今日この頃の私です。

…明日は選挙ですね。
一言捧げます。   迷走。
当然投票権の行使は致しますとも。ただ、それが本来、一体何処へ向かって放たれるべき矢なのか、解りかねている自分の不明が情けなくはありますが。


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