| moonshine エミ |
| 2002年08月28日(水) 「揺らぎ」を愛おしむ | ||||
| 財政難の昨今(←私の財布が。)、出費は控えようと思いつつも同僚を誘って飲んでしまう水曜日。まだ新しいアイリッシュ・パブに行く。パブなので食べ物はまあ、ついでといった感じでもあったが、お酒のおいしさは本物! 早く帰ろうと思いつつ、4杯飲んでしまう。おいしいお酒と、気心の知れた友達、楽しいおしゃべり。この魅力には抗し難い。 さて、「ら抜き言葉」という言葉を耳にしたことがある人は多いだろう。 “可能”の意を表す動詞を、「見られる」ではなく「見れる」、「起きられる」ではなく「起きれる」というふうに言い表すことで、主に若者を中心に、現在ではかなり広がっているもの。 「♪ あれから僕たちは 何かを信じてこれたかな」 と、SMAPの代表曲「夜空ノムコウ」でも、正面きって恐らく意図的に、使われていますね。 往々にしてこういった場合、ひとくちに「若者を中心に」とはいっても、辛抱強くたくさんのデータを集めると、同じ人が同じようなシチュエーションでも、「見れる」といったり「見られる」と言ったり、語彙にバラツキが見られることがあります。 これを、言語の「揺らぎ」といいます。一人の人の語彙でも、まだハッキリとは定まっていないのです。 「ら抜き言葉」のような現代言語現象に対して、やれ「日本語の乱れ」だのといって嘆く向きも多いとのコトも、ご存知の方は多いと思います。 不肖ワタクシめ、いたってたいした研究成果は残さない不真面目学生だったものの、大学では応用言語学というのを専攻したのでありますが、言語学においての大局的学説では「言語の経済性」というものがありまして、古文を引き合いにすれば分かるように、話し言葉にせよ書き言葉にせよ、言葉というものは時代に応じてわかりやすく、またシンプルに変わっていくものだ、と言われております。 美しい日本語を受け継いでいきたい気持ちは勿論ワタクシにもあるものの、自称良識ある大人が眉を顰めようと口を酸っぱくしようと、言葉もまた時と共に、変節していくのを免れはしない、というのが、人間科学にもとづいた言語学の立場であるということを習ったとき、私はある意味、希望を感じたものだ。 人間たるもの、たくさんの人と接し外界の様々な刺激を受けながら、自己を確立させ時には考えを変えていく。変わるまでの間には、当然、葛藤があったり、ゆらゆらとした「揺らぎ」が生じたりする。 ある組織、ある社会で定められ、当然とされる考え方も、全部を絶対的なものだと決めつけるのはある意味怖いこともある。先入観、偏見といった類のものに捕らわれて動けなくなることも、然り。 自然の流れで、あるいは意志をもって変わっていくことを拒絶せずに、受け容れたい。 恋に落ちるスピードも、 仕事とプライベートとの比重のおきかたも、 好きな洋服や音楽だって、人によって違う。当然ながら。 それに自分にしたって、自分の生活に満足したり、何かを追いかけたり、道を見失いそうになったり、他人を羨んだり、その繰り返しだ。 だけど、そんなことだって生きて生活してる以上あたりまえのことで、迷ったりわかんなくなったりする自分を、それでもいいんだよ、と受け止めたい。 結局、自分と違う環境にいる人を理解するのはとても難しいことで、それを「私にはわかんない、そんなの」と見切って思考停止に陥ることも避けたい。 迷ってしまうくらいにいろんなものを見て、考えて、ゆらゆら揺れながら、ゆっくり自分の答えを選び取っていきたい。 ・・・などと、最近つらつら考えていたんだけど、友達と話してて再確認した、今日という日だったのでした。 |
||||
| << | □ | >> | ||||