衛澤のどーでもよさげ。
2019年03月10日(日) 図記号。

株式会社石井マーク」という会社が大阪市内にあります。私たちが日常でお世話になっている「表示」というものを専門に扱ってらっしゃる会社です。Twitteアカウントの運営もなさっていて、私もフォローさせて頂いています。大変愉快なイラストとともに興味深いTweet(以下Twと表記)をなさいますので、楽しいと同時に大変勉強になります。

その石井マークさんのTwについて、うにうに考えていました。うにうに。

「ピクトグラムに含まれる表現に『先入観を植え付ける可能性』があるかといえば、少し前提を整理する必要があります」
このような書き出しで、石井マークさんのベビーケアルームとトイレの図記号についてのTwははじまりました。9つのTwが連なっています。詳細は実際の記事をお確かめください。

その一連のTwを拝読して、私は少しもやっとしたのです。Tw4つめ〜8つめ、トイレの図記号とそれがはらむの問題の指摘について。それがどうも、「女性はスカートを履いているとは限らない」という指摘を、文面通りにしか理解していない(と思われる)Twだったからです。

女性は女性でないものを「女性である」、或るいは「女性はこれを使うものである」と、多くは女性ではない者たちによって規定され、そのために息苦しい・生きづらい境遇に追いやられてきた歴史があります。

近年浮上してきた「ダサピンク現象」なんてのも、それが目に見えるかたちになってきたものでしょう。「ピンク=女の子の色」、「女の子はピンク色が好き」というようなことが何者かによって勝手に決められてしまって、「これほしいけど、ピンクじゃなければなあ」という選択肢の狭さを生み出したり、身につけたくもないピンク色を強要されたりなんてことが、たくさん起こっている訳です。

もちろんピンク色が好きな女性もたくさんいます。それはピンク色が好きな男性がたくさんいるのと同じことです。それが何故、女性のものと規定されてしまったのか、不思議ですね。

さて、「女性はスカートを履いているとは限らない」という指摘は、石井マークさんがTwの中で仰っているように「実際の女性は必ずしもスカートをはいているとは限らないから」されているのではない、と私は考えています。そして女性の図記号の問題点はその部分ではなく、「スカート」という「衣服」によって「女性」が表現されていることなのだ、と。

何故、自分の性を特定の衣服で表現されなければならないのか。その表現は「女性はスカートをはくものである」或るいは「スカートは女性がはくものである」という根拠のない定義によって生み出されている、また、そのような女性が望んでもいない定義を勝手にしているということではないでしょうか。

特定のものを女性を表現するものに規定することで、女性はその「特定のもの」に存在を縛られることになり、さまざまな選択肢を失ってきました。私は既に女性ではありませんが、それでも現行の女性の図記号で厭な気分にはなるし、体調によっては大変苦痛に感じることもあります。そして、このように感じるのは私だけではありません。

一定の利便性を提供している一方で、女性の図記号は一定の苦痛も生み出しています。

石井マークさんはこのように仰っています。
「人間の様な『見た目で分からないモノ』を見た目で分かる様にする為のサインは『人間とは必ずこうあれという見本』を示す仕事まで請け負っちゃいないンです」

そのようなことを図記号に望んでいる人はいるのでしょうか。女性の図記号の問題を指摘する人たちは、そのようなことが問題であると言っているのでしょうか。

そして「見本』を示す仕事まで請け負っちゃいないンです」と石井マークさんが仰る一方で、「スカートをはいた人のシルエット」によって「女性」を表すという図記号は、「女性は必ずスカートをはいている」という「見本」を、女性にも女性でない人にも示すという仕事を確かに請け負ってしまっています。

それは女性の図記号をつくった人にそんなつもりがあろうとなかろうと、です。それが証拠に、ユニセックスファッションがポピュラーになって久しいというのに、いまだにスカートは「女性の衣服」という固定概念から解き放たれることがありません。

もちろんこれは図記号だけのせいではありません。しかし、「スカートによって女性を表す図記号」が長らく日常の中に入り込んで、人々の意識に刷り込まれる一因になっていることは確かでしょう。

この点については石井マークさんも仰っています。
「『ステレオタイプ』な男女表現が『学習性』によってトイレの図記号として認知されてきた経緯はありましょう」

トイレの図記号に限らず女性の図記号が「スカートをはいた人のシルエット」ではなくなる、ということがないことには、たとえこの世の女性のすべてがスカートをはかなくなっても「女性=スカート」の認知は人からなくならないのではないでしょうか。これが各人の好悪にとどまらず、「苦痛」や「苦悩」までも生み出していることを、図記号をつくっている人は、石井マークさんは、おそらくご存じない。

「『人間とは必ずこうあれという見本』を示す仕事」を負えなどとは申しません。むしろ逆で、「こうでなくてもいい」ということに加担してほしいのです。「スカート」という衣服のかたち、即ち「女性ではないもの」で女性を表すのをやめる方法を考えて頂きたいのです。

石井マークさんのTw8つめをまるごと引用させて頂きます。
「何かの目的の為に設計されたグラフィックシンボルには、常に『何の為に・誰の為に』というファクターを切り離せませんし切り離すべきでありません。
表現が適切か否かの基準も、本来の目的を担保するか否かに繋がっています。
『誰の為に』をガン無視した人の『配慮』ばっかり聞いてても仕方ねえんです」

図記号は「誰のために」?
図記号を使う人のためにではないのしょうか。「スカート=女性」の図記号によって傷ついたり苦しんだりしている人も、やはり図記号を使わざるを得ないのです。「配慮」を求めたいこの人たちは「『誰の為に』をガン無視した人」ではないのではないか、と思うのですが、どうでしょう。そして「配慮を求める」ということはいけないことなのでしょうか。

石井マークさんはTw7つめではこのようなことを仰っています。
「とはいえ男女別の脱糞・放尿シーンをリアルに表現する方が「配慮」だといえましょうかね」

この仰りようはおそらく皮肉なのだろう、ということは拝察するのですが、図記号における性別の表現について、図記号をつくるプロとして限界を認めなさったように解釈できてしまいます。

「男女別の脱糞・放尿シーンをリアルに表現」する図記号を拵えなくても、トイレの男女別は図示できるでしょう。現在のトイレの図記号はそうですよね。男性の図記号と女性の図記号がある。女性を「スカート」という「女性ではないもの」を使うことなく表せば、「脱糞・放尿シーンをリアルに表現」しなくても「配慮」につながるはずです。

「スカート」という特定の衣服を着けた人のシルエットを用いずとも、女性を表現する方法はあるのではないのでしょうか。男性の図記号は「ズボンをはいた人」では表現されていないのだから。

ということを考えて、もやっとしていたのです。うにうに。

石井マークさんも図記号や表示つくる立場の人として、うるさいことを言われて腹が立つことも多かったのだろうと思います。そんなにうるさく言うならお前が自分でつくれよ、なんて素人くさいことまではお考えではないでしょうが、此度のようなTwをした御心持ちは拝察致します。

しかし、私などのような「ど素人」ならいざ知らず、石井マークさんのようなプロなら、スカートを使わない女性の図記号を探れると思うのですよ。それも素人考えなのでしょうか。

何れにせよ、ここでひとりごとのようにもにょもにょ言うのではなく、石井マークさんに直接申し上げた方が建設的ではありましょう。しかし、この真意をお伝えするためには、抑圧されてきた女性の歴史だとか、望まぬジェンダーを押しつけられる者の苦痛であるとか、そういったものをご理解頂くことから必要になる訳で、それをどのようにすればいいものか、悩ましいのであります。

以下、余談です。

石井マークさんの中の人は私と年令や趣味がかなり近い方のようです。イラストで示してくださるネタがベタベタな感じで「私に」とても分かりやすく、共感せざるを得ないものが多いです。件のTw9つめに示されているのはTVアニメ「サイボーグ009」(1979版)のOPテーマ「誰がために」ですね。ということが私の年代のヲには直ぐに分かっちゃう訳です。

て訳で、石井マークさんはきっと40代以降のヲの方だなあ、ということです。この点で石井マークさんには勝手ながら親近感を抱いております。お慕い申し上げましてよ。


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