会う人会う人に左内腕にチューブが刺さっているのを見せて悉く厭がられている衛澤です。
昨日、友人たちと一緒に映画を観てきました。観たいと思いつつ見逃がしてしまったと思っていたら、私のタイからの帰国のタイミングに合わせたかのように海外の賞を受賞し、リバイバル上映がはじまった「
おくりびと」を観ました。
小林大悟は東京で小さな楽団のセロ(チェロ)奏者を生業としていたが、楽団が急に解散してしまい、それを機に音楽から退き、故郷山形に妻とともに移り住む。新たな仕事を探していたところ、求人広告で稀れな好条件の求人を見つけ、大悟は早速面接に向かう。しかしその会社は事務所に棺桶が三ツも置いてある妙な雰囲気の会社で、社長は碌に面接もせず大悟の顔を見ただけで「採用」と言った。
会社の名前は「NKエージェント」。社名の「NK」は「納棺のNK」だと社長は言った。「ノーカン」が何であるかよく判らないまま、大悟は納棺師の道を歩みはじめ―――というのが「おくりびと」のあらすじ。
全編に渡って流れるセロの音は心地よく、納棺師の動きの一ツ一ツは流麗でかつ荘厳です。二時間一〇分の上映時間がちっとも長く感じられない、観やすい映画でした。
「納棺師」という職業を主に見る映画であることは予め知りながら私はこの映画を観たのですが、映画を観る前から、また映画を観てからも、納棺師というのは貴い職業だと思っています。しかし、劇中で大悟はNKカンパニーに勤めはじめて暫くは知人友人にも、そして妻にさえ自分が納棺師であることを隠し、そしてそれがばれてしまうと知人友人は大悟を蔑んだり恥じたりの言葉を本人を目の前にしながら口にし、妻は「汚らわしい」とさえ言います。私は銀幕を見ながら、何故そのように納棺師が忌まれるのか、俄かには判りませんでした。
「死及び死者と相対する」ということに多くの人が偏見を持っていて、ときに卑しいこととされてしまう事実を私は知らず、この日まで想像もしていませんでした。一緒に映画を観た友人たちと鑑賞後に意見交換をしましたが、友人たちも異口同音に「何故、納棺師を卑しく思うのか判らない」と言っていました。私は自分がまだものごとを多面的に見ることができていないと思いました。
私は自分に葬式は不要であるとずっと考えてきました。遺体は死んだときの姿でダンボール箱にでも入れて焼却してくれればいいし、式典は一切せず死亡届を出してくれるだけでいいと、そのように己れの末期を思っていました。しかし「おくりびと」を観て、式典はやっぱり要らないけど納棺だけはして貰いたいかな、と思いました。
暑さ寒さも彼岸まで。そろそろ寒い時期の飲みものが自動販売機から姿を消します。名残りのしるこドリンクを愉しみたいと探しまわっていた私は、このようなものを見つけました。
缶コーンポタージュに続く総菜っぽい缶入り飲料、缶クリームシチューです。190g入り。シチューミックスでつくったものよりも、ちょっとしょっぱみが強いです。
コーンポタージュにコーンの粒々が入っているのでシチューにはミックスベジタブルでも入っているのだろうかと期待しましたが、具は入っていませんでした。具がないと飲んだだけではシチューだと判りにくいです。
当市では本日、桜が咲きました。今日おはぎを食べたところなのに、すっかり春だなあ。