遠出をして、映画を観てきた。「
ヱヴァンゲリヲン・序」。バスと電車を乗り継いで二時間。そこまで行かないと、地元の映画館では上映していないので。
でも、往復四時間と交通費三〇〇〇円と観賞料一八〇〇円を費やしても、観てよかったとぼくは思った。地元の映画館が時期を遅らせて上映をはじめたら、もう一度正規の料金を支払って観に行くと思う。
ここまでを読んで「そんなにおもしろいと言うなら観に行こう」と思った人は、ちょっと待ってほしい。ぼくはこの映画を万人に勧めるということは、したくない。
もともと、テレビ放映版から「新世紀エヴァンゲリオン」という作品は精神を病んでいたり病みかけていたりの者には危険な作品だった。この作品をきっかけに実際に自らを死に追いやった者がいるのだと精神科医の口から直接聞かされたことがあるし、ぼく自身、テレビ放映版の総まとめとも言うべき「THE END OF EVANGELION」を劇場で観た際に持病のパニック障碍の発作である過呼吸を起こしている。今回の「序」も観終わった際に「はい、大きく呼吸をして……」と自分で唱えなければならないくらいにはなった。
だから、誰にも彼にも「いいから観に行け」なんてとても言えない。
テレビ放映版から「難解である」と言われ、「衒学的である」とされてきた「エヴァンゲリオン」であるが「ヱヴァンゲリヲン」として「REBUILD」された今作もやはり同様である。しかし、比較の対象としていいものかどうか判らないが、大江健三郎作品の難解さと比べればまだ素直だと言えるとぼくは思う。
しかも、今作は前作から一二年を経たからこそ仕上がった「REBUILD」即ち再構築版である。「REMIX」とも「REMAKE」とも違う「REBUILD」は、「再構築」であると同時に「Re:BUILD」、つまり構築若しくは構築することへのレスポンスであるとも解釈し得る。
「一二年も前の作品をいま更焼き直しか」などと観もしないうちから言うのは早計過ぎる。「エヴァンゲリオン」と「ヱヴァンゲリヲン」とは基礎を同じくしながらまったく別の作品であると考えるべきだろう。
それこそが「REBUILD」の意味である。空白の一二年間は再構築のために必要だったのだ。
どのようなかたちであれ、一度けりをつけた作品を再構成することは難しい。それは生まれてから成人するまでを育てた子供を、手が離れて後にもう一度しつけ直そうとするのと似ている。一度手が離れた作品は二度と作者の手には戻らないのだ。だから本来、作者自身が「焼き直し」をすることは不可能である。
それ故、庵野秀明総監督が取った方法は「REBUILD」即ち再構築であったのだと推し量ることができる。別の言葉でこれを端的に表しているのは「換骨奪胎」だろうか。実に巧妙に必要な部分を抜き取り、新しいかたちへと産み直している。
テレビ放映版制作時に最終的に犠牲にせざるを得なかった「画」の部分は、そのときの無念を晴らすかのように存分に手がかけられている。現在のアニメーション界の限界点が提示されているかのようではある。確かにきれいだ。しかし、残念ながらぼくは改めてこう思うに至った。「きれいである」ことと「巧い」ことと「正確である」ことは、それぞれ別のことなのだと。
これは「画」の部分だけではなく、物語の点でも言える。
とても巧くまとまっている物語ではある。しかしぼくは物語を書く人間だから、どうしても物語を書く者としての視点で観てしまい、「画」の部分よりも気になる部分が多かった。
それは、昨今の物語作品の多くがそうであるように、人物の心情を描写でなく台詞で表してしまっていることや、予め提示しておかなければ受け手(観客)が物語の流れを把握するときに困るはずのものを提示していなかったりという部分である。
「わざと」かもしれない。そうであるならその真意を受け手は探る必要がある。「犠牲にせざるを得なかった」のかもしれない。そうであるなら犠牲によって活かされた何かを大切にしなければならない。
「難解である」ことと「不親切である」ことは違う。大抵の物語は難解であっても理解するに必要な道具はすべて物語の中に組み込まれている。そうでなければその物語は破綻していると言える。
そのように、すべてがきちんと構築されているはずの物語を「判らない」と言うのは、「物語に組み込まれた、理解するに必要なものを探し出す」能力や「理解するに必要なもの」を使って「物語を理解する」能力に乏しいと言っているのと同じことだ。作者に文句を言ってはいけない。
逆に、作者も自分が物語に組み込んだ要素によって自分が考えるのと違う解釈をされてしまったとしても、それを決して訂正してはいけないのだ。
というようなことを観終わってからいままでずっと考えているのだが、お読みになってお判りの通り、この考えはまとまってはいない。おそらく、一人で考えていてもまとまりきらないのだろう。
それは、「序」を観るまでのぼくがこれ等のことについて考えるのを休んでいたことからも判る。「自分ではない誰か」が「自分」を構築するためには不可欠なのだ。
取り敢えず、「ヱヴァンゲリヲン」という文字列はタイピングしづらいので何とかならないか、ということと、上映が終わった直後にぼくの傍を通りかかった学生と思しきお嬢さんが「何処が違うのか判らん」と言っていたので「全然違うやろうが!」とグーで殴りたくなったということは、憶え書きとして残しておきたい。
作品表題に付いている「序」とは能や雅楽の構成である「序破急」の第一段階である。続いて「破」、「急」と続くのだが、「破」において早くもテレビ放映版では見られなかった展開が待ち受けている。物語をじっくりつくり込むという点でも時間は必要だが、もしかしたら庵野監督は「序」が受け手の体内で熟成するときを待っているかもしれない、と思った。
「ヱヴァンゲリヲン」は四部構成である。「急」の後には何が待ちかまえているのか。「急」の次も、サービスサービス!(ミサトさんはいつも何をサービスしているのだろう)
【今日の自ら】
ホットマンゴーオレを飲む。アイスの方がおいしかったことよりも同じ値段でホットの方が半量だったことが悔やまれる(氷の分少ない)。