衛澤のどーでもよさげ。
2005年08月09日(火) ゴ。

その影が視界をかすめるようになったのは何も最近のことではなく、幾らか以前からたびたび見掛けてはいた。黒と言うほど黒くもない、焦茶色の一ト片。さかさかさかと素早く視界の隅っこを駆け抜けていく。この、と小さく舌打ちをしたぼくが新聞紙を棒状にまるめる頃には既にその姿は何処にもないのだ。

直接に何か厭なことをされた訳でもないのに、ぼくはどうしてこの焦茶色の生きものを始末しようとするのだろう。ときどき、そんな疑問を感じながらも気付かない振りでばしばし床や壁を叩いていた。でも、少し前にそうしなくなった。

考えてみると、ぼくは焦茶色の「ゴ」が付く生きものに、痛いことや気持ちが悪いことをされた憶えはないのだ。一度だけ足の上を這われたことがあるけれど、それも一瞬のことで、それがぼくの生死に繋がるような重大なことだったかというと、そうでもない。その一瞬だけ、背すじにもぞもぞと体毛が逆立つような奇妙な感覚を味わっただけだ。
穏便に生活したいのは、ぼくも「ゴ」もきっと同じだ。だから、身体をかじられるだとか、痛い思いでもさせられない限りは殺生はやめておこうと思った。この部屋に住むのなら家賃を払ってくれ、とも思った。

友人がこの部屋に遊びに来ることになった。友人は、「ゴ」が大嫌いだ。

来て頂く客人に厭な思いをさせてはなるまい。噴射して暫く部屋を閉め切っておくタイプの殺虫剤を使うことにした。ほんとうは一匹一匹に直談判をして出て行って貰うのがよいのだろうが、それをしている暇もなく、おそらく「ゴ」は人語を解さないしぼくは「ゴ」の言葉を知らない。
ちょっと高価な殺虫剤を仕掛けて、ぼくは暫く部屋を空けた。

白い雲がもくもくと湧き立つ夏空の下を走って、ぼくは外出先から帰宅した。部屋の扉を開けると、玄関先に焦茶色の「ゴ」が腹を見せてひっくり返っていた。殺虫剤ってほんとうに効くんだな、とぼんやり考えた。
部屋の真ん中と、台所でもそれぞれ一匹ずつ、都合三匹の「ゴ」が悶死していた。台所で見つけた一匹は、まだ足の一本で力なく空を掻いていた。

部屋の中一杯に身体に有害な霧が満ちて、苦しくて逃げまどって、その末にここで「ゴ」たちは身体をひっくり返してじわじわと死んでいったのだろう。それが容易に想像できてしまう姿で、何れも動かなくなっていた。

害虫とは言っても、ぼくは害を実感したことがないのに。

申し訳ないことをした、と思う。思うだけで、きっと明日にはこう思ったことすら忘れてしまうのだろう。何れ同じような気持ちでもっと大きな生命を奪うのかもしれない、と、ぼくは自分を気味悪く思った。


【今日の贅沢】
かけそばに天ぷらをひとつだけ載せる倖せ。


エンピツユニオン


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