Dynamite徒然草
Dynamite徒然草

2021年08月15日(日) 戦争と平和。

1945年。
私の父は8歳で、私の母は6歳。
父は賑やかな大阪の町のこれまた賑やかな心斎橋近くで床屋を営む家の長男で、
母は佐賀県北部唯一の町唐津ですら結構な田舎だというのに
そこからまた直線で10キロ以上離れた山間の
周囲は山と川と田畑しかないが、お手伝いさんや子守さんなんかがいたりする大きな農家の長女。

3月。
大阪の町はけたたましい空襲警報に叩き起こされる。
外へ出た父は、家の前の道を大勢の人が同じ方向へ走って逃げるのを見た。
幼い弟をおぶって出てきたおかあちゃんは、みんなの逃げる同じ方向へ行こうとした。
すると先に表に出て様子を見ていたおとうちゃんが戻ってくるなり言った。
「川へ逃げたらあかん。ええか、反対へ逃げるんや」
おかあちゃんは心配そうに言う。
「でもみんなあっちにいってますよ」
それでもおとうちゃんはきっぱりと言う。
「人は人や」

あとはもう、大勢の人が逃げるのとは反対へ反対へ。
引っ張られるその手を離さないよう必死で走った。
道の両脇の家はどんどんと燃えていく。
あっちもこっちも燃えているから熱くてたまらない。
「道の真ん中を走るんや」おとうちゃんが言う。
小さな弟をおぶったおかあちゃんも必死でついてくる。
怖いとかどうしたもなく、ただただ人の流れと反対へ逃げた。

どれだけ走ったか覚えていない。
やっとのことでたどりついたのは神社だった。
おとうちゃんは井戸から水を汲んで飲ませてくれた。
ただでさえ毎日お腹が空いているうえに長いこと走り続けてよけいにお腹が空いた。
「おとうちゃん、おなか空いた」
「起きてるから腹減るんや。はよ寝え」
まあ、言われるのわかってたけどな。

夜が明けると大阪の町は焼け野原で死体ケ原だった。
家も店もご近所さんも学校も友達もみんな焼けてなんにもない。
みんなが逃げていった川は死体だらけだった。
「おとうちゃんが反対や言うてくれんかったら、ぼくらもああなってたんかなあ」
誰も何もこたえない。
それからの記憶はもうずーっと毎日毎日腹が減ってたまらんことだけ。


8月。
母はその日ものんきにお友達と遊んでいた。
そういえば最近うちの村には見知らぬ大人の人たちがよくやってくる。
いろんなものをうちのおじいさんに持ってきては
頭を下げて野菜とかお米と交換して帰っていく。

ふーん、お米がこんなにたくさんの着物や帯と交換できるんだ?びっくりー。
わたしはおもしろいなあと思って見ているけれど、
おじいさんはおもしろそうな顔はしないで、
かわいそうな人を見るような目で着物をみてる。

夏の山の緑はきれい。
夏の空は青くてきれい。
そういえばこのまえ、青い空のたかーいところをキラキラしたのがゆっくり横切っていったの見たんだっけ。すごいふしぎ!
あれはいったいなんだろうな?光がキラキラしていてすごくきれいだったな。
次に見かけたらおじいさんに聞いてみよう。うちのおじいさんは何でも知ってるからね。

田んぼの稲には穂がついてきた。
うちのお米はとってもおいしいから好き。
うちのお水は夏でも冷たくっておいしくてだーいすき。
庭のお花摘んだらおじいさんにおこられるかなあ。
にわとりに追いかけられるの嫌だなあ。

家に帰るとみんな座敷に正座してラジオを聞いていた。
偉い人が来たみたいにして座ってる。
おっかしーのーと思って見てたら、うちのおじいさんが言った。
「日本が負けた」

ふーん。それよりうちのにわとりは小屋に入れたままにしてくれないかなあ。



ーーこれが私の両親の「戦争の記憶」


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書いてる人 : Dynamiteおかん