| 2005年05月16日(月) |
スクールデイズ-その三- |
僕の狙い通り、スクールデイズをキーワードにこの日記にアクセスしてくる人がついにハナハルを超えた。 ということで、しばらくはスクールデイズをネタに日記を更新してみようと思う。 昔からこの日記を読んでいる人は面白くないかもしれぬが、そこはしばしの間かんべんを。
で、 私は前回、スクールデイズのキャラクターたちは、プレイヤーにとって完全に異質な他者であると述べた。 だが、これはこのゲームのシナリオが優れていることを意味しない。 なぜなら、スクールデイズというゲームが、ゲームのキャラクターを他者として提示することを可能にした、という部分にのみ私は批評の可能性を感じるからだ。 もちろん、娯楽として耐えうる作品ではある。 しかし、それ以上でもそれ以下でもない。 商業の理論の中に組み込まれた優れた商業作品である、としか言えないだろう。 にも関わらず、スクールデイズは形式的に作品の先に批評へと続く道を示しているという部分を私は評価したい。 このゲームを出発点として、あるいは現在のPCゲームを問い直すことが可能になるはずだ。 それがすなわちギャルゲー批評となるのではないかと思う。
そういえば、同じようなことを「天使のいない12月」をプレイした時に考えたような気がする。 傑作ではなく、良作や駄作から出発する批評しか現在のPCゲーム業界ではあり得ないのだろう。 僕はしばらく作る方に力を注ぎたいので、誰か先に道を作ってくれないかと思うのだが。 なので、もしも本当に僕の思うギャルゲー批評の道を歩きたいという人がいれば、道案内くらいはしてあげたいなと思う。
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