amatelasuの日記

2004年06月07日(月) コミュニケーションの可能性。

 前回でコミュニケーションは根源的に不完全だとという趣旨のことを書いてみた。
でも、ちょっと考えたら「もしかしたら出来るかも?」と思ったことがあったので、今回はそれを書いてみる。

 完全なコミュニケーションが可能となる手段、それは「消費行動」かもしれない。消費の中でも最も完全なコミュニケーションに近いと思われるのは自己目的化したメディアの消費である。
 メディアの消費が自己目的化するというのは、いかなる事態か。プリクラやメールにもその傾向はあるが、主にインターネットと関連のあるメディアにその傾向が濃く出ているように思う。(単なる感想だけど。)
 そのメディアを使うこと自体が目的である。これがメディアの自己目的化である。友達との記念となる物を残したいからプリクラを取る、なんて考えている学生はほとんどいないだろう。プリクラはプリクラを撮るという行為自体が楽しみであり、プリクラというメディアを利用すること自体が目的化している側面がある。
 あるいはインターネットでのチャットやHP開設。おおざっぱに言えば「○○がやってみたい。」という動機で始められる消費行動がそれにあたる。その「○○」の部分にインターネットやゲームなどのメディアを当てはめると、それはつまり自己目的化したメディアの消費と言えるのではないだろうか。
 つまり、メディアを通じて「伝えたいこと」を伝えたいのではなく、メディアを利用すること自体が目的である場合がある。ただ、使ってみたいと思っただけ。ただ、使うことが楽しいので使っている。それら、「使うこと」が目的のメディア利用が、僕は完全なコミュニケーションに最も近い行為ではないかと思っている。

 前回の話で感じたのは、もしコミュニケーションから「伝えたいこと」を抜けばコード化の手順を省ける、という事実だ。「伝えたいこと」が初めからないのなら、メディアに合わせたメッセージの変換は必要ない。
 メディアの規則を理解し、蓄積された前例を範例として新たに構築する作業をすればよい。それは新たなメッセージの構築であり、元からあったメッセージの変換ではない。つまり、最初にメッセージが成立する場が「私」ではなく、初めから「メディア」上にあることになるのだ。
 そうなると、メディア上で生まれたメッセージは完璧にメディアの規則に従っているはずである。メディアの規則に従っていない部分があるとすれば、それはイレギュラーであり、メッセージの製作者のコミュニケーション能力が疑われることとなる。
 自己目的化したメディアの消費においてのコミュニケーション能力とは、「伝えたいこと」を巧みにメディアの特性に合わせて変換することではなく、いかに正確にメディアの規則を把握し、それに従うか、という能力になる。
 話がやや脱線したが、自己目的化したメディアの消費において、メディア上で初めて発生するメッセージは、理論的には、メディアの規則に完璧に沿った方向へ向かうはずだ。
 となれば、完全に固定されたコード化と解読の規則を持ったメディアがあれば、完全なコミュニケーションが可能になるかもしれない。

 完全に固定されたコード化と解読の規則を持ったメディア、とは身体の存在を無視しているので永久機関のからくりを探すようなものかもしれない。
 なので、それは措いておいて、最初に提出した結論、「消費行動」の話に戻る。なぜ僕が「消費行動」に完全なコミュニケーションの可能性を見出すかと言えば、そこには「○○を使いたい」という目的と「○○を使った」という結果がともなうからだ。動詞は「買う」でも「食べる」でも「行く」でも、なんでもいい。それこそ、メディアの規則に沿った動詞を入れればよい。
 そして、人と人は「○○を使いたい」という目的ではなく、「○○を使った」という結果の水準で繋がることが出来るのではないだろうか。
 通常のコミュニケーションで言えば目的は「伝えたいこと」と対応する。一方、結果は「メディアに載ったメッセージ」に対応する。消費を通じた完全なコミュニケーションとは「○○を消費した」という純然たる事実が伝わることによって可能となる、と僕は考えてみた。
「僕はROをやった。」
「私もROやった。」
この二人はROをやったという事実で、完全な一致を得ることが出来る。


 もちろん、その事実を認識するために言語や視覚などの身体的メディアが必要で、そこには常に誤読の可能性が付きまとうのではないかという問題もある。
 思いつきの荒削りすぎる考えだ。けれど、コミュニケーションの変容や日本人の「内面」の変化を考えるとき、これらの考えはあるいは有効な視座を与えてくれるかもしれない。と思ってみたりする。

 日本人には「内面」や「ほんとうの私」なんてものは初めからなかった。と言うのを僕はけっこう信じてる。あるいは、日本には強烈に「自己」を植えつけるシステムがないのかもしれない。(それらは戦後教育の成果かもしれないけれど、僕にはよくわからない。)
 だから、「内面」を必要としない、ただ使うだけの行為にここまで順応できるのだ。それはバブルを盛り上げた一要因ではないかとも密かに思ったりする。
 内面がなく勤勉。だから、新しいメディアの規則をすぐに学習し、応用し、発展させる。
 だって、確固たる内面があったら新しいメディアが登場するたびに、その確固たる内面を新しいメディアに載せるための変換の訓練をしないとならない。それだとちょっと対応が遅い。迅速な発展のためには、順応速度を鈍らせる確固たる内面は不必要なのだ。

 話がずれて、最後はだいぶ乱暴になってしまったけれど、とりあえず今日はこんなことを考えてみた。


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