amatelasuの日記

2004年06月06日(日) 完全なディスコミュニケーション

あまり日記に書くことが浮かばない時に更新は滞ります。
気分で書いているので、書く気分にならないときは書かない。
ま、更新の要請があたったので、てきとーな言葉で茶を濁しておきます。


 メディアを通さないコミュニケーションは存在しない。それは言葉であったりメールであったり表情や場の空気。作家であれば作品。あらゆるコミュニケーションにおいてメッセージはメディアを通さなければ他者に届かない。(広義の)メディアを利用せずに可能なコミュニケーションがあれば教えて欲しいくらいだ。
 メディアには限界がある。それは全てを伝えられない、という限界だ。全てのメディアにはコード化と解読という手順がある。例えば、何か伝えたい「内容」があったとして、話して伝えるならその「内容」を言葉に変換する必要がある。これがコード化。メールならメールの文面を作る。作品を作る。これら「メッセージ」の作成は全てコード化と言える。
 そして、それら「メッセージ」を受け取った側は、そのコード化された「メッセージ」を解読し、意味を判断する。

 現実的に全てを完璧に伝えるメディアは存在しない。特に哲学の領域で問題とされる「他者の痛み」を伝えるメディアはない。自分が身体に感じた感覚を他者に正確に伝えることは不可能である。
 「だいたいこれくらいの痛さだよ。」と伝えることは出来るが、それは自分が感じた痛みが、他者の身体にそのまま再現されたわけではない。この点において、あらゆるメディアは発信者が持っている「メッセージ」を必ず不完全な形で他者に届ける。

 実はコード化とはメッセージの創造ではないかと思っている。たとえ「伝えたいこと」が歴然とあったとしても、それを何かしらのメディアに載るように加工した瞬間、それは元の「伝えたいこと」と完全なイコールではなくなる。それは「メディアに載ったメッセージ」という新たな別個の存在に変化している。
 そして、「伝えたいこと」ではなく、その「メディアに載ったメッセージ」が他者に届けられ、他者は彼が持っている規則で「メディアに載ったメッセージ」を解読し、「送り手からのメッセージ」として受け取る。
 この手続きを省略したコミュニケーションは有り得ない。あったら教えてほしい。


 そうなると、コミュニケーションとは常に完全なるディスコミュニケーションであるという結論に達する。
 コミュニケーションが「伝えたいこと」を伝達する行為だとすると、必ず「伝えたいこと」は伝わらない。なぜなら、メディアに載った瞬間、それは「メディアに載ったメッセージ」に変容するからだ。もちろん、残滓は多分に残されているはずだが、それが既に「伝えたいこと」と同一ではないことも事実だ。
 つまり「伝えたいこと」は、それを伝えようとする主体から離脱することは不可能であると言える。「伝えたいこと」が「私」から決して離れられない以上、それは決して他者には届かない。
 よって、コミュニケーションを「意思疎通」と邦訳する場合でも、私のなかに発生する「意思」はメディアを通した瞬間に「メディアに載ったメッセージ」に変容するので、他者と意思を疎通することは根源的に不可能である。
 つまり、凡庸な独我論のようだが、自己と他者が別個の人間である限り、コミュニケーションは常にディスコミュニケーションなのだ。これは形而上学的な話ではなく、現実的な水準での話だ。
 それこそ、ニュータイプのような人間が出現しない限り、コミュニケーションは有り得ない。


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