僕は他人を理解しない。 これはたぶん、中学生ぐらいから薄々気付いていた。 根っこは小学生の頃からある。
あのころは単に一人で居るのが好きなだけだと思っていた。 それは今でも僕の基本属性として存在しているのだけれど、それはあまり根本的な問題ではない。 それは単に孤独で自己に没頭する時間を過ごせば解消される問題だからだ。 解消されるならば問題ではない。
では何が問題か? 解消できないこと。 他人を理解しないこと。 それに伴う他人と触れ合えない、という感触。 僕は他者を全く理解しない。 あるいは考慮しない。 僕が考慮するのは他者の反応、そしてそれによって自らに生じる反応。 相互作用。 その自分の側に起こる結果。
だから、おそらく僕は究極的に他人と機械を同置する。 僕にとって他人は原理的に確立の揺らぎが大きい機械と同値と言える。
機械の操作は自己との対話である。 結果は全て自己の働きかけの投影である。 つまり、僕は他人と対話をしてもそれは自己に向けて発せられている。 僕は僕にしか向かっていない。
おそらく、僕は他人が存在している事を知っている。 けれど、僕は僕にしか向かっていない。 最終的に全ては僕の感覚に還元される。 同情も共感も対話も喧嘩も接触も全て、僕が僕の感覚を通じてしか感じられない現象であり、つまり全て僕自身なのだ。
そこに他人の存在が示唆されても、触れ合うことは出来ない。 まるで黒須太一の放送のように。 僕が知り得るのは他人の反応という現象。 他人そのものを知る事は出来ない。 僕の感覚と、他人の感覚は別の世界だから。 他人と感覚を共有したなら、それは二人の自己を統一した新たな「僕」という一人の自己の誕生でしかない。 同じ感覚を有する人間。 それは同じ人間だ。 だから、それらは他人ではない。
問題はそれでも他人との触れ合いを求めている事だ。 そして、おそらく他者と触れ合う事が不可能な事が根本的な問題ではない。 僕がそれを引き受けられない事が問題なのだろう。 明日はそれを少し考えてみよう。
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