| これからの課題 |
山積みになった本がある。 叔父さんが送ってくれた本だ。 寺山修二の「家出の勧め」や坂口安吾の「堕落論」「白痴」 織田作之助「夫婦善哉」といった名作から 震災関係の本、世界から見た日本人一般に関する本まで 色々ある。ただ、これは全部読めていない。 大学に入る前にもらった物だが、大学に入ってから読もうと考えたまま、 結局忙しいのと、その存在を忘れたままでついに 三年目を迎えてしまった。なかなかどうして読めないもので、 知らないうちに別の本を買ってしまったりする自分がいるのが厄介だ。 高校の新聞部の先生に「文章力を上げるには色々と本を読むこと」 といわれて早数年。未だに数をこなせていない。 文章力の無さというのは決定的で、それはこの日記にも 如実に表れている。いつもいつも頭の中で考えていることを、 うまく表しきれていないのが現状だ。 それに表現力にも乏しい。後で読んで訳のわからないことが多い。 頭の中では、わかりやすく読みやすい流れるような文章を志してはいるけど、 結局中途半端なままだ。 自分の文章というのを確立するにはまだまだ程遠いとは思うが、 もっともっと文章が上手くなりたいと思う。 人の文章を読むことで文章力が上がるのをパクりだという人がいるけれど、 その人は日本語を捨てる覚悟が必要だと思う。 誰の文章にも影響されずに名文を書いた人というのを僕は知らない。 現代のどの作家も多かれ少なかれ誰かの影響を受けている。 漱石も鴎外も一から文章を作り出したわけではない。 あの人たちは学生時代に多くの本を読み、そこから影響を受けているのだ。 あの芥川だって古典を好んで読んだから「羅生門」「鼻」のような 名作を生み出しているのだ。(宇治拾遺物語だったかな?) 現代の作家に於いては言わずもがなである。 現代教育で国語をちゃんと習うのだから、必ず良い文章、 日本語として綺麗な文章を読むことになるのだから、 これで影響をを受けていないという人がいれば、それは大嘘つきか、 もしくは単なる恩知らずの傲慢な人間のどちらかだ。 人が文章を書く上で誰の影響も受けていないなんてありえない。 たとえどんなに適当な文章でも、それは誰かの書いた文章が 頭の中にあって書いた物だ。日本語の文章の書き方を 一から習ったことよりも読んだ文章の方が確実に頭に残る。 文法だけで良い文章は書けない。それは英作文をやった人間なら わかるはずである。良い例が無ければ書けない。 もし、文法だけで良い日本語の文章が書けると言う人がいるのならば、 是非会ってみたいものである。そして、その人が過去に 本を読んだかどうかも知りたいものである。 本を読んだ時点で、それは嘘なのだから。どんな適当な本でも。 今の自分は将来的に文章の仕事をするなんてとても考えられないけれど、 伝えたいこと、理解して欲しいことがある限り 良い文章を書きたいという欲求は尽きないはずだ。 それが無くなれば文章を書く意味は僕の中では無くなる。
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2002年03月14日(木)
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