| 2005年03月21日(月) |
第17回公演「けれどスクリーンいっぱいの星」パンフ掲載ごあいさつ |
ごあいさつ
いよいよペナントレースも開幕。ウッズ加入で今年のドラゴンズからますます目が離せなくなってきました。
そういえば昨年この芝居の稽古が始まるころ、僕は生活の一部のようにナゴヤドームに通っていました。 それはそれは幸せな日々でした。 しかし同時につらい日々でもありました。 あんなにナゴヤドームで強かったドラゴンズなのに、僕が見に行くととにかく負け続けるのです。 昨年の成績は14試合で3勝11敗。 勝率.272。 その最たるものは日本シリーズ。 ナゴヤドームで行われた4試合のうち1戦、6戦、7戦と全て負けて50年ぶりの日本一を逃してしまったのです。 ある劇団員からはナゴヤドームに近づくなといわれました。 でも、ドラゴンズだって負けて胴上げしてるからいいや、などとよく分からない理屈で自分を慰めたりもしました。
それでもある意味幸せなことに、昨年ナゴヤドームで2回の胴上げを見ています。 一つは西武ライオンズの日本一の瞬間(泣)。 そしてもう一つが川崎の引退試合です。 川崎はジャイアンツキラーの代名詞と共に鳴り物入りでヤクルトからドラゴンズに移籍してきました。 背番号はエースナンバー20。 ところが、あっと言う間に肩を壊し、昨年のペナントレース開幕戦で先発に起用された以外、4年間何も仕事をしないままドラゴンズを去っていきました。
そんな川崎が目の前でドラゴンズとスワローズ両軍の選手に胴上げされているのです。 僕はこの胴上げを見ながら涙が止まりませんでした。 どこか自分に似ているような気がしてならなかったのです。 それは決して裏方である演出の自分を投影したわけはなく、自分自身が元々夢見た世界に対して川崎と同じ故障で挫折を味わったからです。
僕は大学時代槍投げの選手でした。 当時、ものを遠くにとばすことなら誰にも負けないと思っていました。 日々トレーニングに明け暮れ、今では考えられないような体型をしていました。 大学2年になって槍の記録も伸び始め、今までつらかった陸上競技がだんだん楽しくなってきた矢先のこと、右肩に強烈な痛みが走りました。 川崎が「心臓を刺すような痛みだ」と自分の怪我について語っていましたが、まさにそんな感じです。 走っても歩いても寝ても痛いという状況で二進も三進もいかなくなり、まずは自宅近くのお医者さんに向かいました。 そこで受けた処方のとおりトレーニングを続けました。 ところが状況は一向によくなりません。 焦った僕は、もう一件のお医者さんのドアをたたきました。 そこで言われたのは「どこの医者だ、そんな処方をしたのは。競技はあきらめなさい。」というものでした。 当時の僕が今ぐらいの大人だったら、きっとその医者を医療過誤かなんかで訴えていたんでしょうけど、20歳そこそこの自分にはそんな知恵はなく、お先真っ暗になった道の前に立ち止まるしかなかったのです。 そんなころ、「お前、競技できんで暇だろ。主将やってくれ。」といわれ、裏方に回ることで表舞台で活躍する人たちのバックアップをすることにしたのです。 それは自分の性に合ってる合ってないということではなく、このまま陸上に関わっていける方法は、それしか道がなかったのです。 それに、これまで競技を続けてこれたのも、こうした仲間がいたからに他ならないし、だったらこの人達を支えていこうと思ったのです。 もちろん現役への復帰をずっと模索していきました。 この肩の痛みから解放される方法や、反対に騙しながら投げる方法やいろんなことを試してみました。 でも選手としては結局ダメでした・・・
そんなこんなでいろんな戦いはあったけど、卒業の時にはみんなに胴上げされ、涙を流してくれる人までいました。 あの時はっきりと僕は何かの役に立ったんだなということを実感できたのです。 何かになることは出来なかったけど、何かの役には立てるんだと。
きっとドラゴンズの中の川崎もそんな存在だったんだろうなと思えてならないのです。
そんなころから何かを支え続けるということに興味と喜びを感じ始めるようになりました。
気がついたら、今こうして劇団の代表になり演出も手がけるようになっていました。
でも思うんです。 やっぱり表舞台にたてる何かになりたいなって・・・贅沢ですかね?
本日はご来場誠にありがとうございます。
この芝居は僕みたいな人を勇気づけるための芝居です。 でも、難しいことを考えず、思う存分楽しんで頂ければ幸いです。
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