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おおみち礼治のてくてく日記 DiaryINDEX|past|will
自分には、そいつと出会わなくてはならない因子があったのだ。
世界は必然で出来ている。偶然で出来ているとしたら、運がいいからそうなり運が悪いからそうなったという――つまり、自分には何の原因もなく、ただ運なるものに振り回される人生ということになる。 そんな馬鹿な。 そうではない。ちゃんと自分に(その現象に出会う)原因があったのだ。その原因を見極めることこそ急務であり――前に「明らかにする」と書いたけれども、このことだね。自分が原因(中心)で――じぶんが「そう」だから、「そう」なったという必然があるだけだ。 原因が分かれば、自分の現在の状態にも納得いくものだ。これからどうやって生きていけばいいかも見えてくる。 ただ、今生だけで数十年、いままで「そうやって」生きてきた自分を即座に変えることは出来ない。簡単に変えられるのだとしたら、では、それまでの人生は何だったのかということになる。 だから、簡単ではない。簡単ではないが、わけもわからず運や他者のせいにして振り回さるのと、原因は自分自身にあるとして業(原因)を磨き落としていく人生とでは全然違う。 自分の原因が分かるのがベストだけれども、どうしても解けないこともある。そういうときは、無理に分かろうとしない――考えない方がいいね。片方の真理として「考えても答えはでない」のだ。 では、どうするかというと、ただ流す。流してしまう。そのことについて考えない。頭ばかり使ってきた人は、それでいいのかと不安になってしまうようだがそれでいいのだ。それでいいといえる背景には、絡まっていた因縁(原因)が無意識に解かれようとしているときに、そのことがぶりかえしてくる、という理解がある。せっかく解かれようとしているのに、頭で考えてしまうことで阻害(捕らえて離さなく)してしまうのだ。 だから考えない。流してしまう。 それでいいのだ。というより、そうするものである。 嫌なヤツが脳裏に浮かんできたらとらえず、ただ流す。頭に浮かんでくるにまかす。それでいつか消えていく。
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