ヤグネットの毎日
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| 2002年07月29日(月) |
平田オリザ著『芸術立国論』を読む |
最近僕が強い問題意識をもっているテーマの一つに、芸術や文化が社会に果たす役割、というものがある。何度も引用して恐縮だが、今村克彦さんが、ご自身が指導するダンスチーム「今村組」について、テレビで語った次の言葉とそれを読み取った僕の次の言葉に、僕の問題意識は端的に示されている。
僕らは、祭りの関係者や祭りのチームなど、そういうものに評価される踊りをしようとは、というか、僕はさせようとは、思っていない。 そこにいる、おじいちゃんだったり、おばあちゃんだったり、同じ若者だったり、その人らが本当に笑顔になれる踊りをしたいな。その笑顔を感じさせたい。札幌でも、本当に自分たちの踊りを喜んでくれる人がいる。札幌という大きなところにきて、私たちのチームなんて、屁のようなもんだ、と思っているヤツがいっぱいるかもしれない。でも、そうではない。お前らの存在価値はそんなところにあるんではない。もちろん、心は、技や踊りをとおして表現しなければならないと思うが、あいつらの心をめいっぱい、技、踊りで表現したときに、あいつらの値うちというのは、見ている人を通じて、自己確認ができるんだ、それが「今村組」にとっても、あいつらの今後の生き方にとっても、すごいいいことではないかな。
この言葉を聞いて、僕は次のような感想を日記に書き記した。 踊りや技を通じて心を伝え、見て喜んでくれる人たちの姿を通じて自己表現し、自己確認ができる。人は、自分がこの社会の中で、この世界の中で、かけがえのない存在であると認められたときに「生きがい」を実感できるものだ。「自分」というものの表現の仕方や自己確認のあり方は、いろいろあっていい。他に一人としてない「自分」を見つけだすことを応援してあげる、少しだけ手伝ってあげられるチャンスや「場」があるかどうかが、大切なことだ。音楽や芸術は、その「場」であり「手段」なのだろう。
芸術が人間や社会に果たす役割を考える学問を、「アート(ツ)・マネジメント」と呼ぶこととも、恥ずかしながら平田オリザさんの『芸術立国論』(集英社新書)で初めて知った。線を引きつつ考えながら読みすすめたので、少し時間がかかったが、読み終えたので感想を書いておく。
「日本再生のカギは芸術立国論をめざすことにある」という平田オリザさんの言葉に、「大上段に構え過ぎではないか?」などと斜に構えた僕だったが、読後の感想は、決して大袈裟ではなく、この本には、日本をそして日本人を元気にする方法のキーワードがちりばめられている」というものだ。 あとがきでも著者自身が述べているが、本書は2つの視点が最初から最後まで貫かれている。 一つは、大きな国家目標を失った日本が、個人のそれぞれの価値観を大切にする成熟社会へと移行する中での、芸術文化の役割を考えること。もう一つは、高度消費者会の中で、「参加する芸術」という視点で芸術文化をとらえ。さらに教育や文化政策についても考えていくこと。
この2つのテーマについて、それぞれ著者はどういう考えを述べているのか、その全体像は本書をぜひ読んでいただきたい。とても一回の読書感想では書ききれないほど、たくさんの内容がつまっている本だ。だから、いつもながら、「つまみ食い」式に、僕が赤線をひいたところを、箇条書きで紹介したい。
◆これからの地域社会になぜ芸術文化が必要なのか
かつては地方にこそ、無駄なもの、無駄な時間、無駄な空間が流れていた。伝説、伝承、お化け、鎮守の森、祭り…。ところが、村落共同体が崩れ、全国一律の近代化を達成した日本では、そんな無駄なものはどこを探しても見つからない。だが、無駄な場所は時間を失った地域は、価値観も画一化し、重層性を失っていく。バブルとそれ以後の不況によって、国民の精神を一様に狂乱や沈滞へと巻き込んでいるのは、まさに社会が重層性を失い危険な状態にあるから。失ってしまった何ものかを、私たちは、別の形で取り戻す方策を真剣に考えなければらない。それを可能にするのが、文化が芸術ではないか。著者は、こう提起する。 では、文化や芸術は地域社会や自治体において、どんな役割を果たすものなのか? 著者は、演劇を専門にする劇作家であり、演劇を例にして次のようなことが語られる。
芸術の創造現場では、あらかじめ決まっていることなど何もないのだ。お互いの価値観をいったん尊重し、その個々の価値観はそのままにして、それを摺り合わせていくところから、創作の過程が開始される。そして、この新しい問いかけ、「異なる価値観を異なったままに、新しい共同体をつくる」という試みこそが、いままさに地域の共同体、地方自治体に求められている事柄なのではないだろうか。ここに、自治体が文化行政に関わることの、もっとも積極的で今日的な根拠がある。
ここから著者がさらに、これからの自治体のあるべき姿として、選挙権を持たない小さな子どもたち、あるいは、いまその自治体に住んでいるわけでなない市民など、「明日の住民」にもコミュニケーションの視野を広げているか、またそのための手段として「交流の広場」となる、文化やスポーツなどの基盤整備を行っているか、が大事だと指摘する。
人はもはや、そこに住んでいるからというだけでは共同体の成員になるわけではない。その共同体が提示する価値観に共感できるものがなければ、しなやかな帰属意識はうまれない。さらに、その価値観も一様ではなく、多種多様でなければならない。ここに芸術文化行政の難しさがあり、また可能性がある。
これだ!行政自体がもっと文化性をもたなければならない、という僕の考えはまさに著者の指摘とぴたりと重なる。うれしい!
◆芸術は生き死にの問題か
僕の先輩である京都音楽センター代表の時田裕二さんが、感想を述べておられた箇所である。
著者が講演会にいくと、「医療や経済生活は生き死にの問題だが、芸術、文化はなくても死なない」と芸術文化の役割を低めるような声を聞くことについて、著者の考えが展開されている。
著者の反論を少し長くなるが引用したい。
しかし本当にそうだろうか。自殺者が年間三万人を超えるこの時代に、果たして行政は、それに対して有効な施策を行ってきただろうか。凶悪化する青少年犯罪が地方都市に広がるこの時代に、なんらかの処方箋を、私たちはもっているだろうか。 日本の行政は、身体(健康)や頭(教育)には、ずいぶんお金をかけてきたが、こと精神については、まったく予算を使ってこなかったのではなかったか。(中略) 多発する青少年犯罪には、「心の教育」が叫ばれるが、いったい、その「心の教育」とは何か、を誰も明確には示せない。(中略)命の大切さを知るために、豊かな生活を捨て、コンピューターを捨てて自然に帰ろうと語るのは簡単だ。しかし現実にはさまざまな困難がつきまとう。少なくとも、いまの豊かな生活の水準を維持しながら、青少年に命の大切さを実感させようとするならば、さまざまな現実を疑似体験するシステムを、社会の側が用意していかなければならないだろう。 芸術が社会において果たせる一つの大きな役割がそこにある。いまこそ私たちは、芸術文化を享受する権利を守ることは、「生き死にの問題だ」と力強く主張しなければならない。
社会をつくり、前にすすめていく力は人間の共感能力や共同する力。そして、よりよく生きたいという心の内面からおしあがってくるエネルギーではないか、と最近つよく考える僕にとって、最初にも書いたように、日本を再生するカギをこの芸術や文化が握っていることを、深くつよく実感させた著作だった。
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