ヤグネットの毎日
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梅雨明けした京都は暑さを通り越して、サウナに入り続けている状態。夏本番である。 21日の午前中、日本共産党京都府委員会の副委員長である水谷定男さんの夫人、故・和代さんの葬儀に参列した。水谷副委員長は、長く京都の選挙対策の責任者をつとめられている。95年から99年まで、京都府委員会の政策宣伝部のスタッフとして僕は、府内各地の選挙を転戦して政策やビラづくりを手伝う機会が多かった。 ある北部の選挙でのこと。なかなかビラの構想がまとまらず、徹夜してつくった僕のつたない原稿を民家に泊まり込んでいた水谷さんのところにもっていくと、布団から飛びおきて点検をしていただいたものだった。
たしか93年の赤旗スキーまつりでのこと。当時僕は、京都の事務局をしていたが水谷夫妻も参加していた。ところが、和代さんがスキー中に足をねん挫するというアクシデントがあった。その対応にあたふたしたものだった。そのときも、和代夫人の足をかばう水谷さんの姿をみて、とても夫婦仲がよく、友だちみたいな関係だな、と感じたことを覚えている。
出棺の直前、喪主として水谷副委員長があいさつをした。まっすぐ前をみつめ、毅然としたあいさつだった。それがまた、涙をさそう。そのなかで、わすれらない言葉がある。こういう趣旨だ。
それぞれが、必死にいきてきたものだから、家族そろって食事をすることなど、ほとんどなかった。亡くなる一ヶ月ほどは、病室で家族四人で食事をして、談笑しながらいろんな話をした。とても喜んでいた。その楽しい思いを胸に、安心して永眠することができたにちがいない。 党専従という仕事の性格にもよるが、水谷副委員長は、現場主義をとても大切にする人だけに、あちこち飛び回る日々が続いたにちがいない。 誰もが笑顔で、家族のだんらんを味あうことができる社会をめざして政治を変える先頭にたって、戦いつづける一人の職業革命家。自分の幸せだけでなく、人のために生きることを喜びとする革命家は、その最愛の妻の人生の最期に、「家族そろって食事をとりながらの団らん」という、人間としてごくあたりまえの願いを実現することにこだわり、そして続けた。
現代社会において家族そろって夕食をとる、その喜びをわかちあうことは、庶民にとっては、一つの「たたかい」なのだ。 だってそうではないか。 企業の容赦ないリストラ。若い労働者は小さな子どもを抱えながら、長時間・過密労働。テレビから流れるのは、腐り切った利権政治の醜態。年老いた父や母に十分な医療や介護を受けさせられるか、心配の種はつきない。 妻の臨終の直前にあって、彼がいちばんしてあげたかったこと=家族の団らんは、幾千万の庶民の願いと重なりあうものだ。大多数の人々の幸せのために、人々の悩みや苦しみをわがこととして生きるという、日本共産党員としての生きざまを見るおもいだった。和代さんも、そんな夫の生きざまを誇りに思っていたにちがいない。
そしていつも、最後におしよせてくるのは、「お前はそんな生き方ができているか」という自分自身への問いかけである。そのことを反すうするたびに、涙があふれでた。
それにしても、和代さんは享年53歳。あまりに早すぎる死ではないか。
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