「いつのまに僕らはヒーローものに対する見方が変わったんだろうか?それは仕方のないことなんだろうか?」
最近、映画に関わる話ばっかりしているように思えるけど、それは裏を返せば日常のことにも繋がる話だから、「もう、この人ったら映画の話しかできないの?」と思わないよーに。 僕はどんな話でも映画に絡めて話せる才能があるだけの事である。(笑)
まぁね、さっきこんな事を思い付いてしまったのですよ。 最近は特に、所謂ヒーローものといわれる映画って敬遠されてるなーと。 そんな風潮があるなーと。 そういう風に感じたんです。 まぁね、「どうせ勝つんでしょ?」っていう事とかは思いますよ、誰でも。 というか、そういう風に思うのはそういった類のものが性に合わない人達なんだろうけど、少なくとも「この主人公は最後には勝つだろう」という事は誰でも承知の事なんだろうってことですよ。
スーパーマンは困っている人を助け、人口の少ない村の村長は復興の為に日夜努力する。 芸人は人を笑わせようと必死であるし、医者は人命を救う為にメスをもつ。 そういった事は当たり前だが自然の流れである。 大切なのは、何でそういう事を主人公がするのかを、理由をはっきりさせる必要はないにしろ、そういう所を描けてるかどうかなのである。 そこが、ヒーローものの大事な点である。 この事はキューブリックの映画には必要ない。 ただし、ヒーローものには必要だろうと思う。 「ヒーローに最後戦いの末勝って欲しい」 なんてことを観る人に思わせたならそれはその映画が成功したと言えるだろう。
ヒーローものの映画は、言わば人が誰でもそうであったらいいなと思う願望を描いたものだ。 もし自分がそのヒーローなら戦いがあればそれに勝ちたいし、困っている人を助けるだろう・・・ いや、待てよ?別に人を助けない場合だって日常の自分にはあるではないか? そういう事が面倒くさいなと思って「あーやめた!」って事を思ったりするじゃないか? 映画の中のヒーローみたいに自分が日々を生きているかなんて問えば、明らかに答えはNOじゃないか? そんな風に客に思われたなら、その映画は失敗したものであると言えよう。
ただ親切そうな人間がふらっと現れ、道端で倒れている人を気遣い救急車を呼ぶというのがヒーロー映画ではない。 悪という存在がいるからそれに対して善な主人公ができる。 この図式をもつ話というのは、実際にはなかなか現実の世界では見えにくい事である。 警察が泥棒を捕まえるのが善と悪の図式であると誰が言い切れるだろうか? ということである。 なので、ヒーローものというのは、簡単に言ってしまえばこういう事で、誰でも現実には善と悪の思いを抱えながら日々を生活していて、その中でどうその二つを戦わせていくか?というのを具体化させたものがヒーローの存在する映画の中の世界なのである、という事だ。 なので、ヒーローは絶対に悪の存在に向かっていかなければならないのである。 そして、善の存在からして見れば、悪という存在は許されないものなのである。 だから、善は悪に勝つのである。 心の中の善は、絶対的な存在なのである。 ただし、どういう事が善なのか?というのは人それぞれなので何とも言えない。 ただ、人の心の中には善という存在に勝って欲しい!という本能的な思いが備わっていると言う事だけは言える。
ヒーローが勝つという事は、誰にとってもそれが理想なんだろう。
最初に、何でヒーローが悪と戦うかを描いていなければ・・・と言ったが、それは簡単にいえば、戦っている姿そのものが、<何で?>の答えになっているのだろうと、ふと思った。 究極的にいえば、戦った末の勝利があれば、ヒーローものは成立するのである。 人を救うということは、自分にとってその人を救う気持ちがあればそれでいいのである。 人を救う事が善、というよりは、人を救う事がしたいと思える自分が、ヒーローにとっての善なんであろう。
―END―
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