| 2001年11月29日(木) |
鳴き声は「やっほー」 |
羊もたまには「メー」以外の鳴き声を発したいだろうにねぇ・・・ かわいそうにね。
まぁね、殆どの場合<理由>なんてものは無いに等しいよ、うん。 理由なんて、あって無いようなもの。 でも、それは僕が過剰なまでの無神論者、とか、運命論者であるという事とはちと違う。 それは、先っぽの見分けの付かなくなって使い物にならなくなった毛糸の玉の様に、表現するのも難しい事なんだけど・・・ 簡単に言えば、その場の自分の思い付き次第で周りの状況が変わっていくような事、と言えようか。
[24:35頃] 素早さを兼ね備えた大胆不敵な波が僕を襲ってきた。 その時、僕は何をすればいいのか分からなくなった。 部屋の南側の窓の方を見て、その辺りを目でなぞっていくと、一つの絵が目に入った。 今年の春頃だろうか?不本意にも縮小コピーの施されたルノワールの絵のコピーが、安物の額に収まって掛かっていた。 白くて口の広い花瓶に、何本もの色とりどりな、全体的にパステル調の花がそこから溢れんばかりに収まっている。 絵の周りを囲う白い枠にはこう記されている。 AUGUSTE RENOIR 1841〜1919 普段この絵を目にする事は極めて少ない。 だが、こうして現に目に入ってくると、やけにそれが現実味を帯びてくる。 次第に輪郭がはっきりとしてき、やがてそこに存在するものとなる。 僕は、この安物の超縮小レプリカを目に焼き付け認識しているたった今、それも現在進行形で僕の中でそれは実在している。 <そこにある>ということはどういうことなんだろうか? 僕がこれを美術館で買っていなかったら(買ってもらっていなかったら)、それはそれでも実在していることになるだろう。 しかし、僕の中では、それは実在しているかどうかに関わらず、意識をされない存在ということになってただろう。 では意識されないということは、僕にとってはそれは存在しているものと言えるのだろうか? これは、けっこう大事な概念だと思う。
ところで、久しぶりに高校の修学旅行で買った船(トロール漁船型)のオルゴールを鳴らそうと巻いてみた。 巻く所は船のお尻に付いてるスクリューだ。 最初、ねじってもならなかった。 が、回した方向とは逆に無理矢理人差し指で回してみると、懐かしいような、忘れていたような音色が静かに鳴り出した。 手を放しても、錆付いていたそれが昔の勘を取り戻したかの様に回り出した。 こんな曲だったっけ? ・・・ それが鳴り終わるのは、思ったよりも突然の事だった。 部屋の中は静まりかえり、外に降る雨の音がしんしんと伝わってきた。 僕は世界中から一人取り残された存在のように思えた。
今日、ナイナイのオールナイトを楽しみにしてたのに、いつもと違う感じに始まり、結局違う人がやっていた。 寂しい夜だ。
もう少しで近所の山に登って「やっほー」って叫びに行きそうになるくらい、寂しい夜だ。 しかも、頭を垂らし股からふもとを覗く格好で・・・
―END―
|