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2006年03月31日(金)  末
年度末。

3月31日という日が、金曜日でよかったと思う。
31日に仕事をやりきって、翌日は好きなだけ寝られるじゃないか。これが木曜や水曜や火曜や、ましてや月曜だったらと考えると、気持ちをどこで区切ればいいのかわからなくなるもの。
それに、翌日が休みなのだから、何時までだって飲めるじゃないか。打ち上げと称して何時までだって飲んでもいいのだ。


仕事をチャカチャカとやって、他のメンバーの仕事を見てやって、書類にサインをして、目標売上げの数字がぐいぐいと上がるのを横目で確認しながら、パソコンの画面を何度も見直す。
やがて、夜になって全員で簡単なミーティングをして居酒屋に繰り出す。
会社を出てお店を目指して夜道を歩くとき、後輩の女の子が「なんだか今日はあっという間に終わりましたね」と溜息をついた。
それは虚しさのような溜息でもあり、疲れから出た溜息のようでもあり、ほっとしたような溜息でもあるように聞こえた。

とにかく、空腹の腹を満たしてお酒を飲み、また食べた。
隣に座っていた後輩はあっという間に酔っ払ってしまい、なぜだか涙目になりながら「何のために仕事をするんでしょうか」と、私と私の前に座っていた部長に言った。
周りの人間を巻き込んで、「何のために」と話した。
何のために。
その疑問は命題だよね。
社会のためと答える者もいて、顧客のためと答える者もいて、自分のためと答える者もいて、そんなメンバーの上に立つ部長はただそれを微笑みながら聞いていた。
そんな疑問は、一度は誰でも考える。まだ若いうちは何度だって考えることだろう。そして時がたつにつれ自分の中の疑問そのものが風化されて、いつかは「何のため」という感覚も風化されていってしまうのだろうか。

「何のために仕事をするのか」と考えるには何らかのきっかけがあるのだと思う。
人は、せこいことに、上手くいくことには疑問を持たない。上手くいかないことに、またふと立ち止まったときに根本を見つめ直してみたいと思うものではないだろうか。
私も、「何のために仕事をするのか」と考える。それはきっと私の答えは自分に帰って来る。「私のため」だ。誰のためでもない。だって、私は私でしかないのだもの。

その仕事を選んだのも、その仕事に取り組んでいる者も、私だからだ。全部、自分の意志で選んだことだからだ。

3時間近く、その店でメンバー達と飲み、部長と終電をつかまえて他のセクションの打ち上げに合流する。電車の中、その上司は何のために仕事をするか、どう思うんだと私に聞いた。
私は、結局のところは自分のためだと思う、と言ったら、上司は、そうかとただひとつ頷いた。


寒い明け方、私たちは飲み明かして始発の電車で帰路に着く。
2006年03月30日(木)  欲求をそぎ落として残ったもの
人間は、疲れとストレスがどんどん溜まると、とにかく頭が変になってしまいますね。
夜遅くまで仕事をしているメンバーの顔を観察していたのですが、

まばたきをしなくなる→口が開く→箸が転げただけで可笑しくなる→母音しか離せなくなる(ex.アー、ウー)→帰るのが億劫になる

と、こんな感じですかね。
それから、すぐに性欲が奪い去られますね。もうセックスする気が起きない。そもそも早く寝たいのでする気はないのですが、欲求すら起きなくなる。人間は、生命の危機(疲れやストレスでの生命の危機)を感じると子孫を残さねば、という生理があるそうですが、それすら感じないというのでは、私の生命の灯火はもう消えかかっているということですかね。
食欲もあまりないですね。昼食をとる時間すらあまりないという状況の中、食欲を満たすために無理をしようという気すら起きません。コンビニによる気力すらなく、口をあけて咀嚼するというのも面倒になります。
あとは、女性としての美の追求欲というんでしょうか。化粧を直すことすら面倒です。あと、排泄欲もね。おしっこしたいの我慢しますね。なぜかって、席をたってトイレに行くことすら時間が惜しいからです。営業中トイレを探すことすら面倒だからです。

すべての欲求をなくした人間には、何が残るんでしょうか。

とにかく、今は睡眠欲しか私には残されていませんが、他の欲求がないためなのか、この睡眠欲というのがとてつもなく強力で、朝なかなか起きられません。もうこの一週間ずっと二度寝しまくりで、毎日、遅刻ぎりぎりの生活です。

あと一日頑張りましょう。
2006年03月29日(水)  愛でる幸せ
夕方、いくつもの会社が営業を終えてビルからたくさんの会社員やOLが出てくる。帰り道、黒のスーツばかりを着た人たちが駅を目指して同じ方向に歩き出す。私もその群れにまざって歩き出す。
道に沿って並ぶ桜の花びらの下を、黒のスーツたちは歩いていく。
どこまでも並ぶ桜の樹。みな、無言で駅に向かうけれど、時々誰かが桜を仰ぎ、歩く速度を緩める。




うちのマンションのある通りの両隣の通りには、桜の樹がたっている。
会社からの帰り道、通りをひとつ曲がらずに桜ポイントの道を通ってみる。

真っ暗な空に道の真ん中にむかって桜の花びらが手を広げるように咲き誇っている。やはり、桜はたくさん樹が並んではえていると見栄えがいい。花びらがたわわに実って、ゆらゆらと揺れている。夜空に向かって携帯電話を突き出し、写真に収めようとする学生たちがいた。

私は、桜の咲く頃、自分を取り戻すようだ。
冬の寒い間、気持ちが鬱屈して何もかもが無意味に思える。自分でいることが嫌になる。
だけど、桜の咲く頃、私は外に出るのが楽しみになる。
ぼんやり桜を眺めて、ようやく春が来たなと感激することが幸せに思える。
恋人に、「そこの通りの桜、見た? 満開だったよ」と、夕飯を食べながらそう聞くと、「いつも寄り道して見てるよ。きれいだね」と、私と同じように桜を見るために一本奥の通りを歩いているようだった。
好きな人と同じものを見て美しいと思う幸せ。
2006年03月28日(火)  咲き誇る桜
昼間、ふと頭に浮かんだことを書き付けておきたいと思っていても、いざ家に帰って思い出そうにも記憶がどちらかに飛んで行ってしまって思い出すことができない。

その思いはその瞬間でしかないものなのだ。
だけど、ふとしたきっかけで同じ思いを心に繰り返すこともある。
そのきっかけは自分ではわからない。
咲き誇った桜をぼんやりと眺めていたからなのか。
電車の手摺に捕まった小学生の手の小ささに驚いたからなのか。
就職活動に奔走する新しいスーツを身に付けた大学生とすれ違ったからなのか。

その思いがその瞬間でしかないということは、
それはそれで人間らしいことなのだとも思える。
そして、その一瞬一瞬でしか思いを紡ぐことの出来ない私という人間は、
まだまだ未熟なような気もする。


あのとき思ったこと、なんだっけといま私は記憶を手繰ろうとしている。
そんな今も、今という時間のひとつであるということ。
2006年03月27日(月)  あの頃、あの練習場で
ある朝、ふふふんとドライヤーで髪の毛をブローしていると、めざましテレビからなにやら聞いたことのある名前が聞こえてきた。
あ、その名前、大学の先輩に同姓同名の人が居たなぁ、珍しい名前なのに同姓同名の人っているものだなぁ、とふとテレビの画面を振り返って見てみたけれど、うーん見たことない人。やっぱり同姓同名なんだなぁ、と目を鏡に戻そうとしたとき、頭の隅っこがピピっと鳴って、驚いたことにやっぱり彼女は、大学のときのあの先輩だった。

音楽大学の管楽器科を卒業して、シンガーソングライター(?)になったそうだ。
今の私は、大学の同じ科の友だちともう連絡すらとってないので、あの頃の先輩や後輩が今何をしているのかまったく知らない。それを、突然テレビを通してある一人の先輩の消息を知ることになり、とても驚いた。
彼女は、メジャーデビューを果たして私も聴きなれているCMソングを作ったりしているらしい。
あぁ、あのCMのあの曲が……。

品川の駅で彼女が映った大きなパネル広告を見上げた。
知らない人のようで、でも知っている彼女で、私はなぜだか随分長い間、その大きな広告を見上げていた。彼女の歌声を公式ホームページから聴いたりもしたけど、なんだかやっぱり知っている人のような知らない人のような。

管楽器の勉強をして主にクラシックの勉強をした人が、ポップミュージックのしかもピアノの弾き語りの歌い手になるということは、一体どういうことなのだろう。
私の記憶が知る限り、その先輩は大学時代、バンドを組んでいてたまに小さなライブを開いたりしていた。「おいでよ」と誘われたけど、行ったことはなかった。興味がなかったといえばそうだし、暇がなかったと言えばそうだ。だから、その先輩がどんな曲をつくってどんな歌声なのかまったく知らなかった。
普段の大学での先輩は、ちょっと青臭い言い方をすれば、すごく努力をする人だった。楽器の練習をひっそりとひとりで何時間もするような人だった。努力してはじめて練習場に現れる人で、その場その場で感覚を身に付けながら演奏するよりも、時間をたくさん要して自己練習をした後、皆との音あわせをする人のような印象がある。器用じゃなかった。でも、そういうタイプの人もいる。
その先輩からは、辛い・キツイというような言葉ばかり聞いたことがある。
もちろん、練習はきつい。演奏会へ向けての練習は、いま思い出すだけでも嫌になる。何より先輩への気の使いようが大変だった。
「私は私で、自分の演奏をするだけ。自分のベストを尽くすだけ」という飄々とした人間もいた中で、その先輩の疲れようは、私の中では際立っていたように記憶している。
だけど、練習以外の場でのその先輩は、飲み会の幹事を引き受けてくれたり、合宿の幹事を引き受けてくれたり、とても明るくて面倒見が良かった。お酒を飲むともっと楽しい人だった。
面倒見のいい部分が、もしかしたら、演奏会の練習をする中での疲れを際立たせていたのかもしれない。

その先輩がどれだけ管楽器を好きで練習していたかは私は知らない。
大学の頃を思うと、今の彼女はコンバートしたのだ。同じ音楽という業界の中でとらばーゆしたのだ。
ピアノへ。シンガーへ。
あの頃から、本当はそちらの方面へ進みたかったのかもしれない。
大学のあの四年間を、クラシックばかりだったあの毎日を、今の彼女は自分の中のどんな位置に占めているのだろう。
私はそれがとても知りたいと思った。
メジャーデビューを果たして、テレビでちらちらとその歌声が聞けるようになって、全国にプロモーションへ出かけライブをして、そんな彼女はあの四年間をどんな形としておさめているのだろう。

同じ音楽の世界でもそれは広い。広すぎて比較のしようがない。だけど、音楽という一言で言えばやはり同じ世界なのかもしれない。彼女は大学で学んだことの延長上に立っているといえるのかもしれない。
私にはよくわからない世界だ。

彼女の歌声を聴くと、あの頃、苦悩の顔をして演奏をしていた人とはまったく別人のように思える。今のほうがずっと楽しそうに見える。私の覚えている彼女の声とはまったく別人のようで、だけどその歌声こそがとても心地良さそうに聴こえる。
その歌の詞を追っていくと、彼女という人はこんな人だったのかと、はっとさせられる。私が大学のとき見ていた彼女は、ただの私の都合のいい解釈だったのかもしれない。人数の少ない科ではあったけれど、もっと別の先輩と仲の良かった私は、結局、彼女の表面しか知らなかったのかもしれない。
詞を見てそう思った。

人はそれほどわかることは出来ないのだ。たった四年間で。
今私が思うのは、彼女がどんな音楽を選んだにせよ、自分を表現できる自分の好きなものを選んだことを、私はとても羨ましく思う。
そうだ、私はきっと羨ましいのだ。
自己を表現して、世間に発表して、そして多くの人に支持されるのは誰にも出来ることじゃない。上手く言えないけれどそれを実現したその人はとても素敵だと思う。安易な言葉しか浮かばないけれど、素敵なことなんだと思う。

あのとき、あの練習場に来る前に、何時間も自己練習をしていたように、今を実現させるために彼女はきっといろんな努力をしてきただろう。音楽以外の苦労もあっただろう。
一曲を完成させるそのために、彼女がひとり黙々と楽譜を書いているのだとすれば、やっぱりあのシンガーはあの頃のあの練習場で楽譜を見つめていたあの先輩に違いないと、私は思う。
2006年03月26日(日)  ハーブティーって味ない
マッサージに行って終わった後、ハーブティーを出してくれることがあるんだけど、あれってどうにも苦手で。
あんまりハーブティーって好きじゃないし(ただの葉っぱじゃない?)、しかも、小店舗のマッサージのお店だと、入り口&レジの前でハーブティーを飲み終わるまでじっと店員さんたちがそばで待ってるんだよね。
しーんとした中で、私が飲み終わってお金を払ってくれるのを待ってんの。だからよけい焦るよね。早く飲んで帰ろう! って思うけど、葉っぱの味のする湯などそんなに早く飲めるわけでもなく。
私多分きっと、気軽に話しかけられやすいほうではないと思うので、「けっこう肩こってらっしゃいますねぇ〜」と話しかけられても、「はぁ、そうですか」……で会話が終わってしまうので、やっぱりシーンってなる。無愛想なつもりはないんですけどねー。
しかも、なんでか私がマッサージに行くとき、他のお客さんが誰一人いないんだよね。
ここって繁盛してないのかしら? 大丈夫かしら、繁盛してない店でマッサージしてもらって、と不安になってしまう。
いや、すごく「女性のためのお店」みたいな装飾のお店だし、アロマとかカラーテラピー(?)とかやってくれるんだけど、OLさんたちが好んで出かけそうなお店なんだけど、なぜか客がだれひとりいないんだよね。

その近所のマッサージのお店に程近いあるビルの地下に、これまたステキそうな(私のマッサージ店審美眼はあまりアテにならないかもしれないが)「有機ゲルマニウム温浴」のお店を見つけた。
いま、岩盤浴って話題じゃない? それやってくれるんだって! 酸素バーなんかもあるらしいけど、私はイマイチ酸素バーの必要性を感じない。酸素じゃない、所詮酸素じゃない。高濃度だろうが結局酸素じゃないと思う。マイナスイオンが流行ったとき、ちょっと胡散臭かったのに似ている。だって、理系の友だちが「マイナスイオンなんてね、とりすぎたらただの害なんだよ。マイナスイオンでリラックスなんてただの暗示。」と言っていた。
美の世界の仕掛け人(?)に私たち女性はあまりにも踊らされすぎてやしないか。
ま、「酸素バー? ふん、所詮ただの酸素じゃない」というのは、岩盤浴に踊らされる私の前ではまったくもって説得力がないけど。
行ってみたい……。岩盤浴。踊らされていたとしても、行ってみたい。

とにかく、そういうところにウキウキで行くよりも、お店のお姉さんたちと打ち解けた会話をして、あのただの緑葉っぱの味の湯にも慣れなければ、結局帰りには変な疲れが溜まっちゃうんだよ。
2006年03月25日(土)  和菓子な春
最近、お肌の調子がすこぶる良い。
なんてったって、もうすぐ春だ。
春になるとなぜだか眠くなる。仕事でイライラはするけど眠るのでお肌の調子がすこぶる良い。
春になると妖精が眠りの粉を撒いているらしいですよ。

だけど、やっぱり仕事でイライラするので甘いものを食べたくなる。
チョコレートがすっごく食べたくなって、コンビニのチョコの棚の前で「今日は何を食べようかな」とニヤニヤする毎日。
私の恋人は、日頃から甘いものが好きなのですが、池袋西武のデパ地下の食料品売り場に、たい焼きとたこ焼きを売っているお店があって、人気らしくいつも長い列が出来ている。
私は「行列の出来るほど美味い店」であっても、列に並ぶのが面倒なので、あまり興味をしめさない。なので、常日頃から甘いもの好きの恋人に列に並ぶ役は任せ、ふたりでほかほかのたい焼きを食す。

だけどだけど、チョコは食べるけど和菓子系はあまり好まない私。
あんこが好きじゃないし、抹茶も好きじゃないし寒天も好きじゃないので、ほとんどの和菓子を食べれない。
というかね、練り物(和菓子でもそういうのか?)が好きじゃないの。
一回すり潰したものを、今一度形状したものが嫌いなのだ。
だって、すり潰すとなんか「ゲ○」を想像するじゃない。それで飾り菓子みたいにきれいな色をつけたり、可愛い形にしたって、ゲ○っぽいんだもん。一時、ういろうって美味しいね! と思ってたけど、あれこそゲ○の最たるものと言ってよいかもしれないと思い直している。
もっと練り潰すにしても、和菓子ってなんかこう……粒子が粗いんだよね。ちゃんと濾して欲しいよね。なめらかになるくらいね。なめらかプリンみたいにね。

で、たい焼きの皮は私の担当、中身は恋人の担当になるわけである。
皮は大好き。
皮だけキレイに食べて、あんこだけ指でつまんで恋人にあげると、待ってましたとばかりあんこを見つめてにんまりしている。なんかその笑顔を見ていると女王様と召使いみたいに思う。

とにかく、はらはらと眠りの粉が舞う春。
よく眠り、美味しいものを食べ、お肌の調子がすこぶる良い。
早く桜が咲かないかなぁとベランダに出て外の様子を見てみる。その後ろであんこを食べる恋人。
2006年03月24日(金)  何もかもクサイ
なんだか最近、においに敏感になってしまいます。
人にはその人それぞれに独特のにおいがあると思うけど、自分のにおいってよくわからないね。

電車の座席の隣に座ってきた人からふわーっとその人のにおいが漂ってくるのが、最近敏感に気づくようになり、それに加えてどんなにおいも受け付けなくなってしまったのです。香水とか花のにおいとか、そういうものはいいんだけど、他人の体臭が生理的に嫌なのです。
すごく気になって気分が悪くなります。

なんかもう、世間を捨ててるおじさんっているじゃないですか。
もうすでに、異性の目を気にしなくなるおじさんというのでしょうか。
異性というより周りのどんな人間の目も気にしなくなるおじさんっているよね。
ああいう人たちって、どこでもかしこでも公衆の場でも、ゲップしたり鼻ほじったりするでしょう。
あと、「ああ〜ん」とかいって溜息つくおじさんとか。「かぁ〜っ」って喉のタンを出そうとしてるおじさんとかね。
もういやだ。ああいうおじさんの近くにいることで、どんな体臭を嗅がされているのか想像するだけで嫌になります。
おじさんが溜息つくたびに、私は息を止め、頃合をみてこっそり鼻をつまんで口だけで息をしています。だって、おじさんの口臭をなんで私が嗅がなきゃいけないのよ。
すんごく臭いんだもの。

あと、電車の中とか公衆の場で食べものを喰らうおばさんね。
このおばさんもさっきのおじさんと同じように周りの目をすでに気にしなくなっている類のおばさん。
何食べているのか知りませんが、もう臭いがぷんぷんするの、食べ物の。
臭いにおいの食べ物じゃないでしょうけど、なんかもう生ぬるい電車の中の空気とあらゆる人の体臭のにおいに混じって食べ物のにおいがどんよりと漂ってくるの。
キーーッ! ってなります。また鼻をつまんで口呼吸。


家に帰って恋人の体臭をこっそり嗅いでみましたところ、なんかやっぱりくさい。
他人の体臭が最近気になる。「お風呂でちゃんと体洗ってる?」と聞いたら「失敬だな!」と恋人は言うけれど、なんか変なにおいするんだよね。
私が一日中、鼻の穴の入り口に臭いにおいのものをくっつけて歩いているから、何もかもが臭いのかしら? と思って念入りに鏡を見たけれど、そんなものあるわけなく。
なんだろう。疲れているのかしら。
2006年03月23日(木)  ギャンついた話
今日は休日だった恋人が「髪切ったよ〜」とメールを寄越してきたけれど、その写メールに映っているのは明らかに坊主頭であるので、髪を切ったというよりは、寧ろ頭をまるめたというほうが正しいと思いますよ。やくざみたいです。

私は、よく巻き爪になります。
足の親指の爪のカドッこがくるっと指に食い込んで、イタイイタイになるのです。




中学生のとき、強烈な巻き爪になってしまい、あまりにも尖った爪が指に食い込んで赤い身が、私の指の赤い身が飛び出たのです。イタイイタイイタイイタイ。




で、母が街の病院に連れて行ってくれたのですが、ここは叔父が働く病院でして「こりゃ、たいした巻き爪だねぇ」と言って、叔父はいろんな看護士さんやら新米医師を呼んできて、観察させていまして、イタイイタイな私にとっては傍迷惑な話なわけです。どうでもいいから早く何とかして頂戴!とイタイイタイしていました。
で、大げさにも院長先生を呼んでくれ、やっと診察。
「まあ、こりゃ痛そうだねぇ。どれどれ……」と、手にはピンセットを持って私の足を持ち上げるやいなや、その手に持ったピンセットで、突然、私の身を引きちぎるではないですか。
突然ですよ。何の前触れもなく、何の予告もなく、私の体の一部の身を引きちぎったわけです。
ギャン! と私は大きな声で叫びましたが、私の身の一部は、銀色のトレーに乗せられ、無残にも看護士さんが持ち去っていきました。
さようなら、私の体の一部。

「ああ、よかったよかった。ちゃんと爪のかどっこは尖らないように切ってね」と院長先生は言ってさっさと立ち去っていきました。本当にこれが正しい治療の仕方だったのかどうか、今でもとても疑問です。

あの痛みは、私の人生でベストワンというかワーストワンをを飾る痛みでした。
巻き爪で身が飛び出てしまった痛みじゃないです。身を引きちぎられた痛みのほうです。
皆さんも、巻き爪には気をつけてね。
2006年03月22日(水)  思い出の人は思い出の中にしかいない
ろくに誰から電話がかかってきたかも確かめずに電話に出た。
頭の中で仕事のことばかり考えていたので、バイブする携帯電話に無意識に手が伸びてぼんやりと「もしもし」と答えてしまったのだ。

もしもしと返ってきた心許なさそうなその声は。
あれからどれくらい時間がたったかはもう思い出せないくらい、久しぶりの声だった。
今のお互いの状況を知るためにいくつかの質問を重ねなければならないくらい、とても長い時間がたったということだ。

苦い思い出になっている。
だけどときに、苦い思い出というものは、最も多くふと思い返してみたくなる感情だと思う。
それは自分にとっての慰めなのか、自己陶酔なのか、相手への恨みなのか、それはわからない。

もう僕のことを嫌いになってしまったんだろうね、と彼は言う。
僕のことをひどく怒っているだろうね、と彼は言う。
恋人に優しくしてもらっているかい、と彼はたずねる。
最後に、淋しいよ、と言った。

つくづく彼は淋しい人なんだと思った。
そして今、もっとも淋しいんだろうと思った。
そもそも淋しい人がもっとも淋しい瞬間。
早くおうちに帰りなよ、そう私は答えた。
夜空の桜を見上げながら、別れと出会いを予感させる春を感じて、再会の電話を私は切った。
2006年03月21日(火)  米つきバッタ
理由は知りませんが、うちの課のマネージャーは有給を消化しており出社しておりません。
このファッキンに忙しい3月の後半という時期に、なぜにそれほど休んでいるのか知りませんが、よくもマネージャーの上司は有給消化を認めたものだと、腹立たしいくらいです。

腹立たしい理由は、そのマネージャーの仕事がそっくりそのまま、この私に降りかかってくるからであり、それ以外の理由はありません。
もう、本当に大丈夫かしら? あのマネージャーはナンなの? 何様? この時期になにが有給? 休んでいいと思ってんのか、といくら心の中で罵っても仕方なく、人様には人様の事情があるようですから致し方ありません。

なので、毎日毎日メンバーの報告を聞き相談を聞き、課内の売上目標の管理をし、膨大な書類にハンコをぺったんぺったん押し、これ以上はんこ押したら、米つきバッタになっちゃうよってくらいペッタンして、加えて通常の自分の仕事もありますから、毎日遅くまで仕事をしていますが、皆様いかがお過ごしですか。
2006年03月20日(月)  恋人、弁明する
ということで、前回書いたとおり、私には奇行を繰り返す恋人がいます。

で、やっぱり私も奇人変人ビックリ人間とお付き合いするのは辛いので、どういうこってすか? と、勇気を振り絞って真相をたずねてみたところ、あっさりと被疑者は自白しました。

夜中、ぬぼーっと起き上がって私を見つめているのは、すべて私の不徳の致すところ。
というのも、私の寝相の悪さがあまりにもひどく、アッパーカット・チョップブロー・右カウンターが次々と繰り出され、健やかに眠っている彼はガードをすることも出来ず、口からマウスピースが飛び、セコンド(だれ?)からタオルが投げ込まれダウン、という次第なのでございます。
寝相の悪さに辟易した恋人は、起きている私に文句を言うと、100倍返しの文句を喰らうので、眠っている私に鋭い目つきで反撃をしていたという、そんなところでございましたです。

あと、壁をじっと見つめ続けていたのは、もうアレはただただ仕事で疲れて放心していたのだよ、と彼は弁明していました。
嘘やん。仕事でそれほど疲れていたように見えなかったけど。本当は宇宙人と交信していたに違いないのです。

ある休日、近所にノラ猫の溜まり場になっている駐車場があって、私たちはよくそのノラ猫たちを手なずけるべく撫でてやったりしているのですが、その日の恋人は縞模様の猫の頭を撫でながら、「お前は可愛いでチュねー、日向ぼっこでチュかー、気持ち良さそうでチュねー」と。猫が喉をごろごろ鳴らしてみゃあみゃあ鳴いて気持ち良さそうにしていると、「そうでチュかー、気持ちいいでチュかー。うんうん、そう、そうなんでチュねー」と、赤ちゃん語ならぬ猫語で会話していました。
何度か、うんうん頷いていたので、間違いなく彼は猫語が使えるようです。

動物に赤ちゃん語を使う人がいるのはわかりますが、実際に自分の恋人がそれをやっちゃった場合、私としてはどんなリアクションをしていいか悩みあぐねるね。

しかし、宇宙人と交信より、猫と交信しているっぽいね。
まあ、未確認生物・宇宙人よりか実存している猫と話せるということで、私の中での『奇人変人ビックリ人間』度は2ポイントくらい下げてやることにしました。
2006年03月19日(日)  恋人、宇宙人と会話する
たまにこういうことがあります。

夜中、ベッドが揺れたので目を覚ましたら、上半身を起こした恋人と目が合うのです。
闇の中で目を覚まして最初に見たのが恋人の真正面の顔で、しかも相手もこっちを見ている、なんてあまりにも怖い話じゃないですか。

初めの頃は、「眠れないの?」なんて優しい言葉もかけていたりしましたが、最近は、「なに?」とやや切れ気味に、だってじっとこっちを見てるなんて怖いから切れ気味に「なに?」なんて言ってしまったりしています。
私が寝ぼけて、そんな夢を見ているのかとも思ったけど、ぜったいにあれは夢じゃない。翌朝になって本人に訊ねればいいのですが、翌朝には私もなぜかすっかり忘れてしまっている。でも、翌々々日くらいにふと思い出して、訊いてみようかしらなんて思うけれど、なんだか不気味で怖いので、面と向かって「アレはなんのマネなのよ!」と聞くこともしていません。

先日、見てしまいました。

私がご飯を作っていてやけに恋人が静かなので、何をしているんだろうとふと見てみると、壁をじっと見つめている恋人がいるのです。じっと。真っ白いなんの飾りもない壁なんです。そこにはなにもないはずなんです。だけど、何かをジッと観察しているような視線で、彼は壁を見つめ続けているのです。

私は思ったの。
この人は、もしかして宇宙人と交信しているのかなと。ピピピとね。
本当に馬鹿馬鹿しい話ではありますが、その彼の交信している姿を見つけたとき、恐怖に鳥肌がたって「いぃーーやぁーー!」と叫びました。ムンクの叫びみたく、ヒッチコックの映画みたく。

まあ、どうでもいいよ。宇宙人と交信しようが火星人と会話しようが。
とにかくこの奇行については、私は恋人ときちんと話し合う必要があると強く思います。
2006年03月18日(土)  故郷を思う
実家の町の名前が変わったらしい。地方自治体も大変ですね。
母が電話して教えてくれましたが、もうすっかり町名を忘れてしまいました。あ、『町』じゃなくて『市』になったんだったかしら? 忘却の彼方。
母は地方公務員なので、合併以前以後の仕事がどんどん増えて大変そうです。

ネットサーフをしていたら、その実家のある町を紹介するサイトを見つけてしまいました。厳密に言うと、その町で行われているあるイベントを紹介するサイトだったかと思います。ふと見つけるとかなりドキッとしてしまいますね。しかもちょっとお洒落サイトなの。
友だちや知っている人の名前が(たとえ伏字であっても)見つけてしまうとこれまたドッキリ。
たまにこっそり見に行っています。

インターネットってなんだかおかしなものですよね。言語の壁さえ越えれば世界中のどんな情報だってみることが出来ます。その真偽は別としても。ニューヨークについて調べたいと思ったらいろんな情報が手に入って、今まで行ったことのない街でもある程度の知識は得られて、自分の中に様々な想いをかきたててくれます。
だけど、遠くに思いを馳せるがあまり、自分の出発地点の情報が同じ条件で手に入ることに気づいた途端、「ああ、地球って丸いんだね。へへ」なんて思うのです。
言ってる意味わかりますか。わかりませんね。
まあとにかく、地球って丸いんだね、と我が故郷のサイトやニューヨークの情報サイトを見て思ったわけです。で、そのあと「へへ」って笑ったのは、知ってる風景をインターネットで見つけて面映い思いになったからです。

インターネットで故郷を思う。へへ。
2006年03月17日(金)  手を伸ばせば
僕は変わらずここにいるし、遠くに行ってしまうわけでもないのに、どうしてあなたは遠くに僕を探そうとするの?
そばにいないと思うのは、僕が遠くに行ってしまったわけではなくて、あなたが遠くに行ってしまっただけなんだよ。
僕は手を伸ばせば届く場所に。
だけどあなたは、手を伸ばそうとせず、ずっと向こうへ駆けていった。


と、彼は本当に私にそう言っただろうか。
記憶は曖昧になっている。
だけど、もし彼がそう言ったとしたなら、ふと思い出したその言葉を、今の私はやっと納得することが出来たようだ。
ああ、そうか。そういうことか。と。

いいと思う。
とても時間がかかったとしても、少しずつ少しずつ理解していければ。
それでいいと思う。
2006年03月16日(木)  個条書き
・今さらながら、の話ではありますが、ドラえもんの声優が代わって以降、初めて声を聞きました。聞き慣れてないといえばそうなんだけど、なんかへンだよね。

・辻仁成がまた、女流作家とコラボ(?)して本を出しましたね。『冷静と情熱のあいだ』みたいな女性の視点と男性の視点から描いた2冊の本です。相手はなんだか韓国の作家さんらしいですね。またー?!って感じですが今回も話題になるのでしょうかね。

・とにかくね、JALはもうヒドイ会社だね。いろんなトラブルが露呈しているけど、他の航空会社もそうなのかしら? JALだけがどんどんいろんなことが発覚してしまっているだけで、他の航空会社も同じようなものなのでしょうか。だとしたら、怖い話しです。どうして企業として信用を回復しようとしないのか不思議です。

・パラリンピックはもっと盛り上がってテレビ放送をして欲しいところだけど、WBCは興味がなく見ませんでした。ちなみに、私のイナバウアーの角度はあともうちょっとです。

・松田龍平主演、村上龍原作の映画『昭和歌謡大全集』のDVDを観ました。これすごく面白いです。はじめは、本で読んでいたのですが、この本の何が面白いのかよくわからず、最後まで読まずに映画を観てみました。映像にしてみたらとても面白かった。頭をあんまり使わずに楽しめます。馬鹿馬鹿しくて傍迷惑で。
ちなみに、原田芳雄という俳優はとても素敵です。昔はきっと(今も?)、ニヒルでハードな俳優さんだったのでしょうけれど、この映画の中の原田芳雄はいいキャラクターで笑えます。

・ちなみに、そのDVDを借りるときにCDも5枚程度借りてしまいましたが、明日、返却しなければならないという時点で1枚しか聞いていません。しかも、ながら聴きであまり真剣に聴いてません。明日までに完聴すべく睡魔と闘い頑張ります。
スーパーカー/岡村靖幸/ボニーピンク/フリッパーズギター/ハナレグミ
今まで聴いたことのないジャンルの音楽です。

・最近、メールの調子が悪いらしくメールがちゃんと届いていないかもしれません。もし、返事がまだ来ないんだけど……、って人がいましたら今一度メールを。お手数ですが。
2006年03月15日(水)  ある日
今日という一日。

二度寝をした後、起き上がりぼんやりとしながら顔を洗って、素早く支度をして家を出る。それほど混んでもいない電車の中で大沢在昌を読む。

午前中はふたつのミーティングに出る。
お通夜のようなミーティングがひとつ。議論のたえないミーティングがひとつ。
昼前、フロアに顔を出した部長と話をする。ゆっくり話がしたかったけれどお互いあまり時間がなく、「まあ、ゆっくり飲みにでも行こう」と行って別れた。

後輩の男の子が、「飯、行きますか」と言うので駅ビルの中のパスタ屋へ。3軒並んだパスタ屋の真ん中の店。仕事の話をしながら、私はボンゴレビアンコ。彼は明太子スパ。改札をくぐった後、彼と別れて電車に乗る。
JRに乗り地下鉄に乗り、派遣スタッフとスタバの前で待ち合わせをして職場見学へ。1時間、たっぷりと話を聞く。和やかな空気の中にもぴりりとした緊張感。派遣スタッフを駅まで見送って、お礼をして別れる。

そこから歩いて5分程度のあるビルへ。最近、仕事の悩みがあるという別の派遣スタッフと面談。「今は、気になることや不安ばかりだとおもうけど、もっと違う視点で考えたら何てことないことかもしれないですよ。自分が何もしなくても円満な職場はないのだから、少し工夫しないと、ですよね」と話した。『円満な職場なんてない』と言った自分の言葉が、やけに白々しいなと思った。メモ帳に“円満”と書いて黒く塗りつぶした。その後、談笑をして「前向きにならないとダメですよね」と、彼女が笑った。
そこから更にまた歩いて、あるビルへ。5人のスタッフを廊下に呼び出して、契約の話をする。
○○○×○。
23歳の男性の派遣スタッフが、ピアスをしていた。以前会ったときには、確かしてなかった。「穴、開けたんですか?」と自分の耳たぶを触りながら聞くと、「ピアスしないと塞がっちゃうんで」と答えた。

職場の人になにか言われなかった? ピアスのこと。
―――いや、別に。禁止でしたっけ?
あまり良くはないんですけどね。
―――そうっすか…。
でも、どうしてですかね。女性のピアスはお洒落として受け入れられるのに、男性のピアスは年配の人たちにとっては受け入れがたいもの、みたいな雰囲気ありますよね。
―――まあ、いい顔はされないですね。
職種によっては、ピアスが禁止という場合もありますし、企業の社風によっては好ましくない場合もありますから。今一度派遣先に確認してみましょうか。

企業側にそれとなく、ピアスのことを聞いてみた。
担当者は、「○○君のこと? いいんじゃない、別に。 成果さえ残してくれればどんな格好でもさ」と言って笑っていた。早速、派遣スタッフの彼にメールをして、「結果を残してくれれば服装なんて気にしないそうですよ。頑張らなきゃいけないですね」と送った。
“結果さえ残せば”という厳しさ。派遣契約には結果が求められることが多い。結果のみが求められる、と言ってもいいのかもしれない。ピアスがOKだったことに諸手をあげて喜ばず、自由があるからこそ厳しいのだということ、彼に少しでも伝わってくれればと思う。

夕焼けがあのビルに反射してキラキラ輝いている。残り1件の企業をまわって会社に戻る。半分くらいの営業が会社に戻ってきており、アシスタントはぱたぱたと走り回っている。自分のマネージャーと簡単なミーティングをして、今日は大事な商談があると言っていた後輩の話を聞いて、メールをさばいて、書類を作って、派遣スタッフたちにいくつか電話をかけて、21時半に退社。
池袋の駅に着いたとき、別の事業部にいる同僚から電話がかかってくる。マンションの前にたどり着くまで話をして、今月中に一度食事にでも、と行って電話を切った。

シャワーを浴びているとき、「あっ」と思い出す。
あとひとり、あの派遣スタッフに電話をかけ忘れた。でも、時計はすでに0時をまわっている。しまったと思う。パスタオルで髪の毛を拭きながら手帳に赤ボールペンで「○○tel」と書き込む。

ふと、淋しいと思った。誰かに私の話しを聞いて欲しいと思った。ふいに思った。
今度飲みながら、今度ご飯でも、そんな約束はやがて忙しさの彼方へ飛んで行く。
私に結果だけを求めず、私に正しい答えを求めず、ビルに反射した夕陽じゃなくて、淋しいと思わない一日があればいい。
恋人に会いたいと思うときに会いに行き、食べたいものを時間を気にせずゆっくり食べて、ゆっくりタバコを吸いたい。


誰かの話を聞くよりも、本当は私自身が話したい。
私の話しを誰かに聞いて欲しい。そう思った。上手く話せないかもしれないけど、途中で白けてしまうかもしれないけど、それでも誰かに何かを話したい。
だけど、私は明日も明後日も、誰かの話しを聞きに行き、誰かの悩みを聞きに行き、ミーティングをして打ち合わせをして商談をして。そんな毎日。そのうちの一日が今日という日。
2006年03月14日(火)  『決闘!高田馬場』
パパパ パパパ パパパ パパパ パルコ歌舞伎。
ということで、三谷幸喜の『決闘!高田馬場』を観劇してきました。
あらすじ・キャストはこちらから→(Click
楽しかった! すっごくおもしろかったー!

あの格式高い歌舞伎からすると、このお芝居はきっと正統派な部分からは外れてしまうのでしょうし、古い歴史在る歌舞伎からすると『ナシ』なものも『アリ』になってしまうようなお芝居だったのでしょうね。役者さんたちも「この歌舞伎には賛否両論あるかもしれないけど……」と言っていましたし。
だけど、私はちっとも歌舞伎を観たことがないので、その辺のことはよくわかりませんでしたが。
それに、何の知識もなく行ってしまったので、「ヤスベエって誰?」「あ! この人忠臣蔵の堀部ヤスベエなんだ! へー!」と、無知なのが幸いして楽しさ倍増でした。

三谷幸喜のコメディー的なところと、見栄をきってポーズを決める本格歌舞伎的なところがいろいろ織り交ざって、初めて歌舞伎を観る人にとっては安心して観やすいものだったと思います。(もちろん、これが正統な歌舞伎からすると異端児のようなお芝居だったと承知した上で。)

なんて、あんまり感想をアレコレ偉そうに書くのは恥ずかしいし、あんまりボキャブラリーもないのでこの辺で。

よくNHKで観る歌舞伎なんかでは、後ろのほうで鼓や横笛や太鼓を叩いたり、唄っている人いるでしょ?(アノ人たちのこと、何て言うのかしらね?)あの楽団(?)の人たち、カッコイイね! そちらばかり気になってしまいました。あと、役者が見得をきったり立ち回りをするとき、細長い板を打ち付けて「カチャン!」ってやる人いるでしょう?「パタン!」だっけかな。「チャチャン!」かもしれない。(擬音語って難しいね)とにかく、あの板を叩いている人も格好いいね!
もし、私が男に生まれ変わったなら、今度はあの楽団の歌う人になるよ。それくらいカッコよかったもの。あ、でもやっぱり歌舞伎役者になる。うんそうする。

んー、大学で習ったんだけどなぁ。日本音楽の歴史について、歌舞伎の後ろのお囃子さん(?)みたいな人たちについても勉強したはずですが、すっかり……。
とにかく、ああいう雅楽、というか和楽的音楽に三連符があることに驚きました。
このお芝居のテーマ曲があるのですが、その中で『パパパ パパパ パパパ パパパ パルコ歌舞伎』って唄っているんです。パパパって三連符。日本の古き音楽は3で打つ音楽はあまりないような気がしていたのでとても新鮮でしたよ。三連符。
そういう新鮮さが、パルコでの歌舞伎だからこそなのかもしれないけどね。

とにかく面白かったよ。
市川染五郎がね、見栄をきったときにね、遠くからでも眉毛が逆ハチの字でクイッて上がったのがわかったよ。あれって、どういう顔の筋肉なんだろうね。すごいね、染五郎。

はぁー、すごいねぇー、すごいねぇーって、そればっかり。なんて私は語彙の少ない人間だろうと思いましたよ。あー、それにしてもすごく面白かった。
こんだけ楽しかったなら、恋人にもみせてあげたかったなと思いました。
ぜひ、みんな観て頂戴! 今度WOWOWでもやるらしいのでチェキです。
2006年03月13日(月)  恋人のことを考えたい
とうとう仕事へ行くのが嫌になって、今日は休みをとった。
たぶん、明日も休むことになるだろう。
と言っても、私たちは今年度中に消化しなくてはいけない休暇日数が決められているので、それをクリアするために休みをとったのだ。駆け込み休暇。

何も予定のない一日。
テレビはついているけれど音はない。
パソコンからずっとリピートされている曲が聴こえてくる。
今日は、恋人のことを考えていたかった。

だけど、そんな私の元に何度も何度も電話がかかってくる。
会社用の携帯電話は休むことなくひっきりなしに音を立てる。
休暇だというのに、誰も私を放っておいてはくれないらしい。
いちいち、どうでもいい用件ばかりで辟易してきた。

人に頼ってばかりじゃなく、少しは自分で考えたら?
どうしたらいいか私に聞いてくる前に、まず自分で考えたらどう?
自分で考えても自信がなかったら電話をしてきて?

私は自分の後輩に対してそう答えた。
休みだというのに、早くも携帯電話の充電がなくなるほど、私はさっきから電話の対応ばかりしているのだ。少しイライラしていたのだ。電話を切った後、強く言いすぎたと思ってももう遅い。
彼らにとって、私はすぐ身近に居る先輩であり、上司である。彼らは私の後輩でもあり部下でもある。私に判断を仰ぐのは当然だろう。
だけど、私はずっと彼らの側にはいられないのだ。
いつかふいに私が居なくなったとき、困るのは彼ら自身じゃないだろうか。
それにみんな子供じゃないんだから。

今日は、恋人のことを考えていたかった。
だけど、集中できなかった。
ずっと恋人のことだけを考えて過ごす一日とは一体どういうものなのだろう。
2006年03月12日(日)  cantabile
私は大学時代、管楽器を専攻していたんだけど、オーケストラの授業で、あまり管楽器の出番がない曲(もしくは楽章)を練習するときは、その授業の間ずっと椅子に座って楽器を吹かずに終わるときもあった。
同じ管楽器の専攻だった友だちが「音楽の練習をしていると精神的に強くなれるよね」と言ったのが忘れられない。
指揮者が弦楽器のメロディーだけを取り出して、同じフレーズをしつこく何回も弾かせ「それは違う、もっとこうだ」、「違う、もっと情熱的に!」「もっと表情をつけるんだよ!」なんてやらせているのを、ずっと私たちは聞いて待っているのだ。30分だって1時間だってずっと。同じフレーズを聞かされると頭がどうにかなってくる。だけど、誰かと喋って気を紛らせることもなくただぼんやりと静かに指揮者が私たちに注目してくれ「じゃあ、管楽器も一緒に」と言ってくれるまで待ち続ける。
精神的に強くなれる。

音楽用語の中にカンタービレという言葉がある。
カンタービレとは歌うように、という意味だ。
指揮者が「もっとカンタービレだ!」と大声を張り上げ棒をふる。
弦楽器の弓がそれにあわせて大きくうねっている。
ビオラのあの子も、ヴァイオリンのあの先輩も、体を揺らし指揮者に応えるように弓を揺らせている。それに呼応するように指揮者は情熱的に棒をふる。

カンタービレ カンタンド カンターレ

私たち管楽器が歌えるのはまだまだ先のようだと思った。
2006年03月11日(土)  敬う人敬わない人
今日、素敵だな魅力的だな、と思える人に出会った。
数時間もおしゃべりしていたけれど、そんなに時間がたってもまだ話したりなくて、え?もうこんな時間? と、それぞれ別の道にわかれて歩いて行くのがとても惜しかった。

どこかの喫茶店のカウンターに横並びに座って、だけど、私は体をその人の方向へ向けて、「それで?」「そのあとどうなったの?」「それって、〜〜ということ?」「それでどう思ったの?」などと、ずっと質問しっぱなしで、その人の話ばかり聞いていた。

魅力的な人というのは、自分と比べて、自分にはないものを持っている人や、自分の憧れをいとも簡単に自然とこなせる(ように見える)人だ。
だけど、ときに憧れや羨望の眼差しが先行してしまい、彼らがどれだけ苦労して今の彼らがあるということのプロセスを見逃してしまうことが多い。

魅力的な人に出会うと、私は敬うというより嫉妬をする。
自分には出来もしないくせに、一人前に負けず嫌いの根性だけが頭をもたげて、嫉妬してしまう。だけど、本当の嫉妬というものは、彼らのプロセスにおける苦労や努力に嫉妬するものであり、結果だけを取り出して嫉妬することは、とても薄っぺらく浅はかだ。悪くすれば相手の意義を尊重していないことになるのではないだろうか。

相手を尊重しない人間は自分も尊重してもらえない。

だけど、思い違いをして欲しくないことは、私のその薄っぺらな嫉妬であっても、尊敬の眼差しがあってこそのことだということだ。私の方法が今まで間違っていたのだ。それを認める。

敬わない人間は、自分も敬ってはもらえない。
その場限りの嫉妬ばかりする人間は、何の成長もならない。
魅力的な人に出会ったからこそ、私の明日は少しでも陽が射す一日であればいいと思う。
2006年03月10日(金)  泣き笑い
一日中、頭痛がした。
同僚たちが「今日はやけにあたたかかった」 と言ったので、どうやらさっきから寒気がしているのは風邪のせいではないかと思った。

部屋に帰って恋人と会った。
私のおでこに手のひらをあてて、「熱はないみたいだけど」と言った。
それから、私の目を見て「熱はない」と言った。

顔が歪んでとうとう涙が我慢できなくなった。
やめてやめて、今泣かないで、と自分に頼んでみたけれど、願いは聞き入れてもらえなかった。

年末ごろから春が始まるまでのある時期だけ、一年という時間のその時間だけ、私の心はどうにもできない沼に落ちていってしまうようだ。毎年毎年、この時期に私は私でいることが嫌になる。
出来ることなら、今すぐにでもその窓を開けて、大きな声で叫んでしまいたくなる。

恋人は「思う存分」と言った。思う存分泣きなさい、と。
なんだかその言い草が私はとてもおかしくて、泣きながら笑った。


恋人がシャワーを浴びているあいだ、ソファーに脱ぎ捨てられていた彼の洋服は、胸の部分だけ少し濡れて湿っていた。私の涙でそこだけ濡れて湿っていた。
2006年03月09日(木)  『3月9日』を聞け
3月9日
って、レミオロメンの日じゃないですか、今日は。

あの曲はいいよね。なんかちょっとノスタルジックになりがちな曲だよね。
私、「粉雪」って曲があまりにも好きじゃないので、え? レミオロメン? フン! と思っていたけれど、ふと街角で『3月9日』を聴いて、「この曲いいじゃん、誰歌ってんの?」と思って、まんまとやられてしまった。
ちなみに、レミオロメンと同じ事務所(もしくは、同じレコード会社?同じプロデューサー?)の桜井和寿が、『粉雪なのに、叫ぶ感じに違和感があっていい』と言ったらしい。まあ、ギャップがあって面白いとは思うけど、あんまり叫ばれるのもどうかと思う。

それにしても、最近のJPOPというのは、似たような人・似たような曲ばかりある気がして、あまり魅力を感じない。『3月9日』にはやられたけど。
コウダクミ? アノ人ずっと前から歌ってたのに、最近すごい盛り上がってきたね、人気が。何がすごいって、彼女の曲がすごいっていうより、話題づくりからくるその売り方がすごいよね。あの売り方のお陰で今の人気があると思うのだけど。偏見だけど、心からコウダクミの音楽が好きな人って、きっと最近からファンになった人にはいないと思うよ。

あと、スキマスイッチとレミオロメンってあんまり区別つかない。
いまだに、リップスライムとキックザカンクルーが区別つかないように、なんだかお互いがかぶって仕方ない、スキマスイッチとレミオロメン。まあ、『3月9日』にはやられたけど。

あと、大泉洋、出すぎね。最近、全国出過ぎ。

と、偉そうなことばかり言っている私が最近なにを聞いているかというと、あ、もちろん『3月9日』もそうだけど、あれね、やっと韓流ブームが私にもやってきたかというこの一曲。
RUI(イ・スンチョル)の『さよならさよならさよなら』って曲。なんかのドラマのエンディング曲だよね。なんか、これもノスタルジック。80年代の歌謡曲ってかんじでノスタルジック。
「いいよねー」ってDLして聞いていたんだけど、聞いているとなんかだんだん鬱々としてきたので、一回くらいしか聞かずそのまんま。私の100円返して。ということで、やっぱ『3月9日』。
やっぱ『3月9日』が一番いいです最近。
2006年03月08日(水)  静かに受話器を置いた
あれは、私がいくつくらいの時だったろう。
もう小学校の高学年だったと思う。
一人っ子だったので、私はひとりで過ごすことが多かった。
ある平日、学校から帰ってきて、夕方に放送されていたアニメを見ていたかもしれない。
誘われれば友人の家でもどこへでも遊びに出かけたけれど、自分から積極的に誘って遊ぶことはあまりしなかった小学生だったと思う。
それでひとりぼっちで遊ぶことになろうと、ひとりぼっちで家で過ごそうと、それはそれで“淋しい”とは思わなかった。むしろ、誰か友だちと連れ立って遊ぶことが特別なことで、ひとりで過ごすことはごく自然なことだった。そんな部分が一人っ子の特徴であると私は思う。

それでも、私は退屈だった。
ひとりがごく自然だと思う子供でも、退屈には勝てない。
なので、私は、べつに用事もないのに母方の祖母の家に電話をかけようと思った。
「おばあちゃん、何してる? あいは今学校から帰ってきてね……」などとおしゃべりしようと思ったのだ。
寝転がってテレビを見ていたところへ、電話をひっぱってきて、私は祖母の家の電話番号を押した。何度か呼び出し音がしてがちゃっと相手が出た音がしたとき、私は寝転がって受話器を耳にあてていたものだから、するりと手から受話器を落としてしまった。
慌てて体勢を整えて、受話器を拾って耳にあてたとき、受話器の向こうの祖母がこう言っているのを聞いた。
『○○くんかな? おーい、○○くん? 電話してきたの? おばあちゃんよ』
祖母が呼んでいたその名前は、いとこの中でも一番幼い男の子の名前だった。
『また電話でいたずらしてるのかね? おばあちゃんだよ。○○、○○くん』

私はなぜだか、ものすごく悲しくなって淋しくなって何も言わずに電話をがちゃりと切った。
悲しいくらい胸がズキズキしていた。

祖母はこのとき、まだ電話の使い方さえ知らない幼い孫が、電話をおもちゃにして誤って短縮ボタンで祖母の家に電話をしてきたのかと思ったそうだ。今までもそういうことが何度かあったらしい。受話器の向こうで可愛らしく「アー」「ウー」という声が聞こえてきたので、祖母は幼い孫の名前を何度か呼んであやしたのだ。

私が電話をかけたこのときも、最初は相手が何も言わなかったので、またその子が謝って短縮ボタンを押して電話をかけてきたと思ったらしい。


私は、祖母が幼いいとこにとられた気がした。優しい声で孫の名前を呼ぶあの声を聞いたとき、祖母の違う孫への愛情を見てしまった気がしたからだ。私はもうお姉ちゃんになってしまったから、だから、もうおばあちゃんは私のことを好きじゃないのだろうか。おばあちゃんは私にもこんなふうに優しくしてくれたことがあるだろうか。
なんだかとてもショックだった。
私がかけた電話なのに、別のいとこだと思い込んで電話に出た祖母に、とてもショックを受けたのだ。

祖母に可愛がられなかったことなど、今まで一度だってなかった。
むしろ、他のいとこはきょうだいがいる中で育ったのに、私だけ一人っ子であることを心配してくれたような人だ。いま、大人になればそれがわかる。

だけど、そのときはそれがショックだったのだ。
誰かの愛情がみなに平等に降り注がれることを、私はそのとき知らなかった。
私だけが独り占めできるものが、この世にあると信じて止まなかったのだ。
いとこ達の中で、一番年上だった私は、年下の子の面倒をみるとか、お姉さんらしく振舞うなどということを、母から厳しく言われたけれど、いとこと過ごす以外の私のコミュニティはいつも大人だらけで、私は一番幼い立場であることに居心地よさを感じていたのだ。

何も言わずに静かに受話器をおいて、私は泣いた。
知らなかったことを、無理やり見せつけられたような、ショックな気分だったからだ。
とても悲観的で自意識過剰な子供だった。
2006年03月07日(火)  もちこたえる
私が笑えば恋人も笑う。

だけど、私はあまり恋人の目が見られない。
私が視線を外すと恋人は俯く。
私がしゃべらないと恋人も話すのをやめる。
それはあまりにも悲しいので、私は一生懸命笑顔をつくろうとして笑った。
そうしたら、恋人も笑った。

ほら、初対面で会った人がムッツリ怒ったような顔だったら、誰だって無意識に不安な気持ちになるでしょう。相手が笑顔だったら、みんな無意識に笑顔になるものだ。
それと一緒。

だから、私はにっこりと笑いかけて、恋人もほんわりと笑った。

テレビも電気も消してベッドにもぐったとき、僕は持ちこたえるよ、と彼は言った。
僕は、もうどこまでも落ち込むようなことはやめて、どうにかここで持ちこたえてみせるよと言った。
だけど、私はまだ恋人の目をあまり見ることは出来ない。
部屋のどこかがみしっといって、風が窓をたたいた。

私は一生懸命暗闇の中で笑顔をつくってみたけど、彼がそれに応えて笑ってくれたかはわからない。
2006年03月06日(月)  きりりとした緊張感
今日、大きな工場の中に入って、働く人たちをぼんやりと眺めていた。

普段、かぶることのないヘルメットをかぶって、コンクリートの地べたに簡単に書かれた横断歩道のしましまや、心許ないくらい直線ではない2本の白い線の間だけを歩かされた。
その通路以外は歩かないで下さい。
機械や製品には手を触れないで下さい。
思わぬ怪我をしてしまいますから、と前もって言われた。

時々、カンカンカンと硬くて高い音が聞こえたり、
突然、耳をつんざくほどの機械のうなる音が聞こえたり、
どこかでアラームが鳴って赤や緑のランプが点滅していた。
私はその度に、首をまわして音の鳴るほうに目をやった。

そこで働く人たちは黄色のヘルメット。見学者である私のヘルメットは白色。

彼らは、騒音の響くこの工場の中で、淡々と平然と働く。
うろたえる人も慌てる人も急いでいる人もいない。
ベルトコンベヤーは一定の速度で止まることなく動いていて、向こう側ではオレンジのマグマみたいな溶けた鉄が流れていた。
ここにあるすべてのものが、みな、黙々としていた。

私は、その中で非日常を感じていた。
黙々と一定のスピードで淡々と平然と働く人たち。
突然鳴り出す音にも、突然流れるマグマにも、慌てることなく働く人。
私の日常からは、それが非日常的なものを感じた。

彼らは、だから非日常と感じる私の存在にも気に留めることなく、ただ黙々と。
自分の持ち場を、自分の仕事を、自分の責任を、ただこなすだけ。

けれど、淡々とした風景にも、自分のした仕事がこの大きな製品の一部になることの緊張感をはらんでいる気がする。自分が手を抜いてしまえば他の工程でどれだけ素晴らしい仕事をしたとしても、出来上がったものは製品にならない。
どこかでピリッとした緊張感を感じる。
「黙々と、淡々と」はどこか熱を帯びた集中力すら感じさせる。

静かな緊張感をたたえる彼らを職人と言うのかもしれない。
2006年03月05日(日)  ギブミーパスポート
最近、Mr.BIGの「To Be With You」なんて聞いちゃったりしている。
Mr.BIGというアーティストが一体いつデビューしたどこの国のどんな人たちかなんて、あまりよくわかっていないけど、嫌いじゃない。アメリカンな気がして。(アメリカ人?)

少し前から、海外に行ってみようかと思いはじめた。
今までなんだかんだと海外へ行く機会を逃し続け、一度も国外に出たことがないというちっとも自慢できないハコイリムスメなわけだけれど、もうそろそろ出ちゃってもいいんじゃないかしら。と思うのだよね。日本をね。
そして、何十時間もかけて飛行機に乗ってわざわざ海外へ行くのならそれなりに目的を持ってなくちゃ意味がないわけで。

人間、今の私のように苦境を迎えると外へ外へと逃げたくなってしまうもので、日本じゃもの足らず海外へ逃げて言ってしまいたいわなんて考えるよね。(結局、帰ってくるけどね)
まあ、どこへ行こうと何がどうなるわけでもないけれど、海外へ旅行をしたり移住をするときには、何かを求めたり期待しちゃいけないと思うのだよね。変に何かを期待して行ったとしても、結局、そこで何をするか何を見るかが問題であって、海外へ行った途端、私の人生劇的に変わるわけでもなくね。なんかこう、非日常を、刺激を、外へ外へと求めるのは、あなたそれ現実逃避っていうんじゃないかしら、今の生活にも刺激なんていくらでもつくれるものらしいよ、なんてね自分に言い聞かせてみたりね。
と、ハコイリムスメの私が言うにはやや説得力に欠ける言葉だとは思いますが。

だけどね、見たいものがあるのです。それが東京にはないもので、日本にはないものだ。
たとえばね、何百年も昔に描かれた絵とかね、彫刻とかね。時を越えて今この時に、その本物のモノがまだ残っているということだけでも素敵じゃないですか。それを見に行きたいよね。
あと、9.11が起こったとき、もうあのビルから避難出来ず上階に取り残された人たちが、ビルから飛び降りたんだって。そのときの状況はよくわからないけど、とにかくあの飛行機が衝突したときに、もう逃げられなくなってあのビルから飛び降りた人がたくさんいたそうです。
私が丁度9.11を特集したテレビ番組を見ていたとき、その飛び降りてきた人たちが地面に衝突したり、ガラスにぶつかる音を放送していたのを聞いてしまったのです。
痛ましいなというより、惨かった。なんだかそういう光景をテレビ越しに覚えていたりするのです。
テロとか、報復とか、それについて自分なりに何かを考えたり、思いを馳せたり、主張を持つことは、私にはまだ出来ないけれど、その光景はあまりにも惨いなと思った。

というそんな理由で、行こうかしらと。
アフリカのサバンナとかも行きたいんだけどね。それはまた上級者になってからね。
でまあ、その、なんですか。パスポートっていうんですか?
5年だか10年だかおばちゃんわかんないけど、あれはパスポートっていうものですか?
あれをね、とらなきゃ、なんだよね。まず、それが第一歩目だわよね、ねー。
で、都庁に行けばいいの? 「ください」つって都庁に行けばいいの?

まず、そこからスタートだよね。
2006年03月04日(土)  なすすべもなく
シャワーを浴びようと思って裸になったまま、玄関の前に立てかけてある姿見の前に立ってみた。

とても強い何かが喉元まで溢れてきそうなんだけど、人はそんなに何かを吐き出せるものではないのかもしれない。
涙がとめどなく溢れてきそうなんだけど、なんだか最近泣けなくなってきた。
泣けなくなってきた理由は、きっとこの人の前でなら泣いていいんだ、という存在を失くしてしまった様な気がするからなのかもしれない。
もう恋人の前で泣くのはよしたほうがいいと考えた。
泣きたいのはきっと私だけでなく。
だからこそ、私が先に泣いてしまったら、彼の涙は出るタイミングを逃してしまうだろう。

心の綺麗な人になりたい。
心に余裕がある人になりたい。

今にも泣きそうになりながら、自分の裸を鏡に映して、私は何もなす術がなかった。
2006年03月03日(金)  もっと有意義な合コンなら
「女の子ふたり連れてきて」と、某男子から言われて、お互いの会社の同僚を連れて一緒にのみましょうと言われたので、女の子ふたりに声をかけたんだけど。
「女の子ふたり連れてきて」と性別及び人数を具体的に指定されたときに、私は気づくべきでした。
これは単なる飲み会じゃなく合コンだとね。

これって合コン? と気づいたときは、時すでに遅く、お相手の男性連中に言わせると「飲み会=合コン、でしょ?」だってさ。そうなの? ふーん。
うっとうしいことこの上ないんだけど。
正直なところ、自分で言うけど、合コンで浮いてしまうんだよねー、私。
なんか、途中でものすごく馬鹿馬鹿しい気持ちになって上の空になってしまうんだもの。

基本的に、会社の先輩・後輩の力加減が働いているので、男性の中の一番先輩にあたる人を周りの男子は一生懸命「ヨイショ」してんだよね。先輩男子にどうにか女子をくっつけようとして、
「先輩男子 ←→ 女子3人  +周りを盛りたてる後輩男子2名」みたいな図式。
わかる? こんな感じなの。
たとえば、私がね後輩男子とふたりで話していると、「オイオイふたりで仲良くしちゃってさー」みたいな。先輩男子以外と口きくのを周りがなんとなく阻止している気配がしたんだよね。
もうどうでもいいじゃん。小学生かよ。

結局、男と女が集まればそれはすべて恋愛関係になるのかい?
お互い初めましてな人間が集まれば、お互いいろいろ話したくなるのに、それは結局、「ひゅーひゅー」(死語)と囃し立てられ「抜け駆けかよー!」とからかうものなかい?

だから、合コンってヤダと思う。
最終的には、男と女でくくらないと気がすまない場じゃないですか。
男と女のカップルをつくって終わらないと気がすまない場じゃないですか。
うっとうしいことこの上ないよね。

でさー、またその場の会話が、
・ 自分から男の人に告白できる?
・ 自分から積極的にアタックするときどんな風にするの?
・ どんな男性が好きなの?
・ 束縛したがるほう?
・ セックスって自分から誘える?

なんていう、恋愛観の話ばっかり。まあ、別に恋愛の話をするのはいいとおもうけど、ほとんど男子からの質問で女子が答え、女子の答えに「あ! それオレって当てはまるかも! オレと付き合うといいよ!」みたいな、自分と合うか合わないか一方的に相性チェック?みたいなことをされたりしてね。女性としての品定めされている気分だったよ。
それでも、私が連れて行った同僚達(女子)は、「きゃー」とか「あはは」とか、その場の雰囲気に合わせて嬌声をあげたり喜んだり笑ったりと、彼女たちは偉いなぁとなんだか感心してしまった。

この人たちが秀でて馬鹿馬鹿しい会話をする人たちなんだろうか。
この男子たちは本気で可愛い女子を探しに来ているのだね。
あわよくば恋人になりたいんだね。
まあ、合コンってそういう場か。
とってもつまらない場でした。
もっとこう有意義な「はじめましての出会いの場」にしたらいいのにね。合コンって。男女問わずいろんな人と知り合えるような形式だと全然面白いと思うのだけどね。

「あいちゃんは、自分から積極的に男性にアプローチできる?」と聞かれたので、ほとんど馬鹿馬鹿しくなっていた私は「べつにー。」といい(どうでもいいじゃん、バカ)と思いながらちょっと浮きつつ、「あいちゃん、ノリ悪いんだからもうー!」って、バカじゃないの。なんであんたたちのノリにあわせなくちゃいけないの。早く終わらないかなーと、早々にその場をあとにした。
2006年03月02日(木)  人との距離
私って実は、人付き合いがどうしようもなく下手くそなのかもしれない。
近くに寄りたいのに、わざとそっぽを向いたりとか。
話を聞きたいのに、目を見なかったりとか。
すごく好きだからこそ近づきすぎて疎ましがられたりとか。

うまく立ち回っているつもりで、実は誰とも上手く付き合えていないのかもしれない。

人と上手く付き合うってどういう意味なんだろう。

私も傷つかず、誰も傷つけないということでいいのだろうか。
正しいことってこの世にあるのだろうか。

私はよく、誤解されやすい人だねと、何人かの人に言われたことがあった。
私は、それを聞いて初めて自分の知らなかった自分に気づいた。
というより、気づこうとしなかった自分に気づいた、というべきなのかもしれない。

せっかく優しくしてくれた人に、せっかく親切にしてくれた人に、
私は私は、期待に背いてしまうことをしてしまった。
そんなことをするはずではなかったけれど、自分が傷つきたくなかったのだ。
自分を守るために、せっかく優しくしてくれた人をがっかりさせた。
そして、今、その人をがっかりさせてしまった自分に、とても傷つけられて落ち込んでいるのだ。

どうやったって、結局傷ついているじゃないか。
だったら、誰とも付き合わず、ずっとひとりでいるほうがいいんじゃないだろうか。
だけど今でも、私はじゅうぶんに孤独だと思う。
充分に孤独じゃないか。
2006年03月01日(水)  トゥーランドット
私は、村主選手を応援してたけどな。
なんとなく、アスリートって感じがするじゃない。アイドルなあの人はあんまり興味ないなぁ。

だけど、プッチーニを選曲した荒川選手は好印象でカッコよかったですね。
私もあの曲好きだから。

毎晩、風呂上りの柔らかい体でイナバウアーにチャレンジする日々。
だけど、イナバウアーって聞くと、「24」を思い出してしょうがないんだよね。
Will / Menu / Past