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2006年02月28日(火)  逃げるな2月
はぁー、2月も終わったね。
2月は逃げるって本当だね。お正月はつい先日だと思ったのに。


・早く免許の更新をしないといけない。
今度はゴールドらしいよ。
ペーパードライバーの身分でゴールド免許証ってなんかちょっと恥ずかしいけどね。

・花粉が舞っているらしい。
重度の花粉症の恋人は、今から手洗い・うがい・服をはたいて部屋に入れ! 洗濯物は室内で干せ! と宣言した。
ちょっと神経質になりすぎてやいないかしら? 
だって、ここ私の部屋なのにどうして服をはたかないと自分の部屋にあがれないの。

・パーマが早くもとれてしまった。
一ヶ月ももたなかったね。いっつもそうです。パーマがとれやすくって。
費用対効果を考えると私の髪の毛はパーマに向いてないらしい。


明日から3月。年間で一番忙しい時期になりました。
2006年02月27日(月)  ぐずぐず
まあ、いいよ。
もう、いいよ。
いろいろ考えすぎて頭が痛い。

恋人の言葉はたくさんあり過ぎて、私の頭の中に染みこむまでにはまだまだ時間が必要らしい。

結局、いつかはこうなるはずだったのだ。
誰が恋人であっても、結局は、いつかは、こうなるはずだったのだ。
いつかは、結婚しなくちゃいけない。
いつかは、子供を産まなくちゃいけない。
だから、いつかは誰かと結婚の話をしなくちゃいけない。
だからこそ、きっとこうなるはずだったのだ。

結婚するとかしないとか、ぐずぐずぐずぐず言って、ぐずぐずぐずぐずして、ぐずぐず、だらだら、めそめそしてさー。結局、そうなるんじゃん。

ってねー、もういいや。
もうあんまり考えないようにしよう。
難しいことは先送り、
答えを出すのが面倒なことは先送り、なんて
なんだか卑屈になってしまいそうだ。

恋人の言葉は重たすぎて、私の中に整理して置いておくにはまだまだ時間が必要だと思う。
2006年02月26日(日)  結婚ってなんなんですか
たまには、酔っ払って帰ってきてそのまま酔っ払いながら日記を書いてみるっていうのもいいと思う。

なんだかんだと、私は最近、恋人と真剣な話し合いをしたり、真剣に喧嘩をしたりしていたけれど、結局、どうなったかというと、「あなたの好きなようにしなさい」と恋人に言われたので、そして私は自分の好きなようにして、喧嘩を終わらせ、元のサヤに戻ったのだ。元サヤ。
別に真剣に別れ話をしていたわけではないので、元サヤもなにもないのだけれど、ほら、結局私たちって結婚適齢期ですから、なんだかんだと結婚したほうがいいのかしら? なんて思ったりしてしまうのです。

私の恋人は、なぜだかとても達観しているように見える。
どこか、達観しているように見えるし、どこか醒めているようにも見えるのだ。
ずーっと前にも、この日記に書いてきたけど、(というか、私は何故そんなことを書いたか今になっては不明だけど)彼は、私の前ではとてもデレデレしている。

悪く言えば、私に甘いし、私に優しい。私にしたいようにしていいよと言う。
私はそれに満足している。

人には、相手が満足することが自分の満足に繋がる人間が居る。
恋人がそんな人間であるのなら、彼が私に優しく私に甘い人間であることは当然だと思える。
だけど、私はたぶん逆なのだ。自分の満足と相手の満足がイコールであればいいな。とは思っているけれど、イコールじゃない場合、「不幸だね、悲しいね、辛いね」と言ってただただ困るタイプなのだ。
あくまで、私の満足が一番。

私たちって、このままでいいのだろうかと思う。
結婚しなくてもいいのだろうか。
恋人のままでいてもいいのだろうか。
あなたの好きなようにしていいよという恋人は、本当に満足しているのだろうか。
いくつも言葉を重ねた結果、恋人は私の好きなようにすることがイイコトだと結論を出している。
私のことを分かりきった上で、あなたの好きなようにしなさいよと言う。
なぜかそこが達観しているように思える。
うまく言えないけど、恋人は私のことを先読みする。私がどう思うか先読みした上で、デレデレしているくせに、はははと余裕で笑って「あなたの好きにしていいよ」なんて、達観している。
なんだろう、彼のアノ余裕は。

もう少し、結婚しないでこのままで暮らしてみることにする。
というか、『結婚しちゃえよ』と頭の半分で思っているけれど、『本当に結婚していいと思っているの?家族をつくれると思ってるの? 誰かの親になれると思っているの?』と半分で言っている自分もいる。

なんだろう、自分。
何が怖いというのだろう。
結婚の何が怖いんだろう。
子供を産むことの、家族を作ることの、何が怖いというのだろう。
自分で自分がわからない。

男の人は、自分の恋人が「結婚は出来ない」と言ったとしても、同じように恋人のまま寄りそい続けることが出来るのだろうか。
私は、きっと自分の内面を克服しないと結婚はしないと思う。
そして、加えて言えば、私の恋人が私に対して余裕を持っている限り、この人とは結婚しないだろうとも思える。
結婚ってなんなんですか。
2006年02月25日(土)  裏切り
私の後輩が、人に裏切られてことってありますか? と私に聞いた。
どうだろう、と私は少し考えた。

私の中にはきっと、裏切りという言葉はない。
裏切られたと思うことはない。それが痛みになって傷になってどこかでひっそり私を苦しめる、ということはなかったと思う。
自分で思い当たる部分がないような気がした。

きっとそれは、たとえ裏切られたとしてそのとき悲しんだとしても、きっと相手には相手の事情があってそうなったのだと、私は思うようにしているし、そんな風に自分を無理やり納得させているわけでなく本当にそう信じているのだと思う。
それが、私の整理の仕方なのだと思う。

私の信じ方が相手には心地よくなかったのだろう、とか。
私の期待が相手には重かったのだろう、とか。
私が知らない間に私は相手を傷つけてしまっていたんじゃないだろうか、とか。
そんな風に、私は考えるからだ。

裏切りって、とても重たくて辛いことだと思う。
もしかしたら、私はその重みや辛さから逃れるために、無意識に自分に言い聞かせているだけなのかもしれない。
もしそうだとしても、私にとって裏切りは最大の負の感情・行為だと私は思うからこそ、そんなひどい話、滅多に起こるわけない、ありうるわけない。だから、これは裏切りでも何でもなくどこかに私が見えてない理由や事情があるはずだと、どこかで高をくくっているのかもしれない。

私には見えないものがたくさんある。
そして、物事にはきっと理由や理屈や事情がある。
それは人それぞれで、百人いれば百の理由や事情があるのだと、私は前提として思っている。
2006年02月24日(金)  世間に認知してもらうこと
久々に、悔しい気持ちになった。
不甲斐ないというよりも悔しかった。
そのクライアントと1時間話し続けたけれど、結局、話は結論には至らなかった。

そこで働いている派遣スタッフについて私と担当者の意見が食い違ったのだ。
私は、「派遣スタッフの心情も考えるべきだ」と考えた。けれど、相手は「お金を払っているのは私たちなんだから契約に反しない限り、どんな扱い方をしても自由だ」と言った。
顧客のリクエストに応えるのが営業サービスではないかと言われると、仰る通りだと私だって思う。
けれど、きっとお互いの望む「満足感」が少し違ったものなのだ。
私は、ずっと先のこと、たとえば最終的な満足感を求めて、そう提案したつもりだったけれど、クライアントは“いま望んでいること”、悪い言い方をすれば“目先の満足感”を訴えたのだ。

クライアントが私に言った「どんな扱い方をしても自由だ」という働かせ方を派遣スタッフに望むと、今は彼女も応えてくれるかもしれない。だけど、そのうちじくじくした気持ちで働くことになり、不満が漏れるようになり、モチベーションを保てなくなるだろう。それは容易に私にもクライアントにも想像できたことだ。そうなったとき、果たしてそこにクライアントの満足感はあるだろうか。
けれど、その点についてクライアントは、「モチベーションが保てなくなれば、そのときは契約を終了させる」と言った。そしてこうも言った。「モチベーションを保たせるのは派遣会社の仕事であって、私たちは派遣スタッフの心情を考える立場にはない」と。


ただ、悔しかった。
派遣契約にとどまらず、労働者は企業にとって一体なんだというのだろう。
労働力はただのモノであると考えることしか出来ないのだろうか。働いているのが人間だということに思い及ばないのだろうか。
もちろん、就業中の派遣スタッフをサポートするのは派遣会社の仕事だ。モチベーションを保たせるのは派遣会社の仕事だ。だからこそ、「今の働かせ方だと、彼女は保たないだろう」とクライアント側と相談しているのだ。それが、私たちが“派遣スタッフをサポートする”というスタンスだ。
責任という線の引き方が、このクライアントとは違った。

私が求めていた、クライアント・派遣スタッフの「最終的な満足」=お互いの関係が良好であること、長く安定した派遣スタッフの労働力を企業に提供すること、というのは、きっとこのクライアントが求めることではなかったということだろう。

ただ、悔しかった。
世の中の働き方は多様化している。その中で企業がレベルの高い労働力を確保するには、たくさんの工夫や、これまでとは違った努力が必要になってくるのではないだろうか。
「派遣は、社会の労働意識の低下に繋がる」と言われるけれど、私は社会がまだ派遣契約のメリットやその上手な使い方を知らないだけではないだろうかと、ただただ思う。
けれど、そのメリット感を世間に認知しきれていないのは、私たち営業担当や派遣会社の力不足だとも思っている。

派遣スタッフをたくさん使って事業を成功させた企業はある。
だけど、それはまだごく僅かだとも思うのだ。

このクライアントにも同様だと思う。
私が、もっと上手く伝えられればわかってくれたかとも思う。
悔しいのは、クライアントがわかってくれなかったこと、人をモノとしか考えていないと思えたこと、それに加えて、相手が納得できるよう商談できなかったこと。
それが理由なんだと思う。

悔しかった。ただただ悔しかった。
2006年02月23日(木)  ムラムラする春
私が、「もうすぐ春だね」と思う瞬間というのは、近所のノラ猫が子孫繁栄に励んでいる声が聞こえた瞬間だ。
あの規則正しい、野性的な泣き声はソレに違いないと私は常々思っているのだけれどもね。

その声を聞くたび、ああ春だねと思うと同時に、自分も何かしなくちゃいけないんじゃないだろうか! と、無駄にソワソワしてしまう。なんかこう、子を育まなきゃいけないんじゃないだろうか、とかね。そういう意味で。まあ、ムラムラする方向ではないけれど、ソワソワしてしまうのだ。

あの音、なんなの?
と、恋人は窓から真っ暗な外をのぞいている。
これこれしかじか、ではないかと思うよ。
と、私が言うと、恋人も「春なんだねぇ」と言った。
そう、春なんです。
もうじき。
2006年02月22日(水)  生ける屍
最近の深夜のオフィスは、生ける屍がたくさん居ます。
みんな、忙しくて生ける屍になってしまうのです。本当にご苦労なコッテす。

先日、後輩の男の子と営業同行をしたのだけれど、お互いに朝からクタクタ感いっぱいで、電車の中でたった一駅分の移動でさえ眠ってしまいました。
ふはっと起きると、そこはもうすでに隣の駅で、やや寝ぼけていた私は「ああ、降りなきゃ。ここで降りなきゃ」とフラフラ立ち上がってドアに向かって電車を下りたのだけれど、後輩クンはまだ席でスヤスヤ眠っていて、起こすのを忘れて山手線に連れて行かれるところでした。あぶないあぶない。

っていうか、なんで私がいちいちアンタを起こさなきゃいけないのよ〜。
しっかりしなさいよぉ〜。
と、私がぶつぶつ言いながら駅の改札を抜けようとしたら、ピンポーンピンポーンと改札が開いてくれません。なんでや? と思って手元を見たら、名刺入れをあのスイカのピッってところにかざしていました。
しっかりしてくださいよぉ〜。と後輩クンが言った。
生意気だよね。
2006年02月21日(火)  『レインマン』
椎名桔平のお芝居の『レインマン』を観たよ。(クリック。)


本当にねぇ、私はねぇ、中学生ぐらいの頃からねぇ、すごく椎名桔平が好きなんです。だってハンサムじゃない。とは言っても、好きは好きだけどべつに出演しているドラマや映画を隈なくチェックしているほどではなく、CMなんかでチラッと見かけて「まあ、ハンサムね」と思う程度だけれど。

男友達がたまに、
「いい男が居ますぜ。椎名桔平似ですぜ。」と、どこかの悪代官に擦り寄る金持ち商人みたいに、椎名桔平似の男がいるから、紹介するから合コンしようよと言いますが、別に椎名桔平似はあくまで似ているだけであって、それが何だというのよ。私がカッコイイなと思うのは、椎名桔平であって、それに似た男の人はどうでもいいわけよね。ということをいちいち説明していますが、彼は先日も「いい椎名桔平似の男がおりますぜ、へへへ」と言っていました。
どうでもいい話ですけどね。

まあでも、ちょっとは椎名桔平を見たいわね。
いや、合コンに行ってみようかしら、というわけじゃなく、お芝居の話ね。
好きなら観たいよね。ということで、行ってきたというわけです。

あの有名な『レインマン』という映画をお芝居にするってすごく面白いと思わない?
お芝居って、平面の板の上でどんな風に創って「はい、ここは車の中のシーンですよ」とか、「ここは自宅のシーンです」とか「ここはレストランのシーンですよ」とか示すのかなっていうのがまず面白いと思うの。
具体的なレストランのセットを組んだり、車内のセットを組んだりするのもいいけど、抽象的なセットで俳優のお芝居で風景を喚起させるっていうのは、どんな風にするんだろう、ってすごく興味がもてたりします。なんだか上手く言えないけど。
あとは、映画やドラマなら、見せたいところを見せたい角度で映像に残したりできるよね。
ここでこの男の表情を見せて欲しいと監督が思ったなら、男の顔のアップをいれたりすることが出来ると思うけど、お芝居ってお客さんが見ている部分って結構まちまちだと思う。
それもまた楽しい。その空間は隅々までお芝居で緻密につくられているんだなと思うと、面白いと思うのです。
あとはライブ感とかもね。

お芝居、面白かった。知っているストーリーとはいえ切なかったし悲しかったけど、キレイだったなと思いましたですよ。それにしても、ダスティン・ホフマンが演じたあの役を演じた橋爪さんという役者さんは、すごくカッコ良かった!
椎名桔平見たさなミーハー心で行ったにも関わらず、お芝居にのめりこんでちょっとうるっときてしまった。
2006年02月20日(月)  濡れた道路に滲む
だまって車に揺られていると、運転席に誰かが座っていることを忘れてしまう。
自分だけの世界に没頭してしまいがちになる。
窓を振り向くと、ぼんやりと自分の顔が見えた。もっと顔を近づけてみると、濡れた道路に赤信号の点滅が滲んでいるのが見えた。

シートに体をもたれさせて、じっと目を閉じると、誰かが私の耳元で囁く。
「もっと真剣になれよ」と私の耳元で声がする。
私は目を開いて今どのあたりを走っているのか確かめた。

誰かと誰かがわかりあうということは、一生の時間をかけてもまだ足らない。
それが面白いということだし、それが難しいということだろう。

あともう少しで自宅に到着する。
だけど疲れきっていたので、瞼が重く自然と目が閉じてしまう。
また誰かが私の耳元で囁いた。
「もっと人と向き合いなよ」と聞こえたような気がした。

私の乗った車はゆっくりと私のマンションの前で止まった。
運転手はサイドブレーキをひいた。
エンジンは止めない。
私は車をおりた。
2006年02月19日(日)  『桜飛沫』
先日、阿佐ヶ谷スパイダースの『桜飛沫』というお芝居を観にいった。
長塚圭史という人は新進気鋭の演出家らしいですね。あの人の息子なんでしょ。

私が大いなる失敗を犯したのは、目が悪いくせにメガネをもたずにお芝居を観にいってしまったことで、しかも席が3階というお安いチケットだったので、まったく誰がなんの役やら確認することが出来ず、衣装の色や形を覚えて誰がいま舞台上に出ているかなどと、最大限の想像力と推理力を駆使して3時間頑張りました。

ちょっと、難しいお芝居でした。メガネをもってしても、想像力や共感する気持ちをフルに活用しないとなかなか掴めないお芝居でした。
長塚圭史のお芝居を観たのははじめてでしたが、なんだかアノ人、ヘラヘラしているようで、けっこう鬱屈した部分を持った人なのかもしれないね、とちょっとわかった風なことを思ってしまいました。
いろいろ人には好みがあるので、ああいうお芝居が好きな人もいるんでしょうね、なんて。
またわかったようなことを言ってしまいました。

観劇してから少し時間がたったので、あまり感想など出てこないですが、なるべく映像化しないお芝居にしたいそうなので、WOWOWとかDVDにはならないかもしれないですね。もう東京公演は終わってしまい、あとは地方での公演があるみたいですが、見れなかった方は残念ですね、と別にみんながこの芝居を観たい筈はないのに、ちょっと偉そうなことを言ってみたりしました。

しかし、長塚圭史。
もうちょっといろんなお芝居を観てみたいと思います。
と、またわかった風なことを言ってみました。
2006年02月18日(土)  繋がらない電話
風邪をひいた。
なので、恋人との喧嘩は一時休戦だ。
押入れの奥から体温計を探す恋人の背中を見ながら、このままうやむやに喧嘩も終わってしまえばいいのに、と思う。

何度も浅い夢を見た。
ほとんど仕事をしている夢で、夢の中で私はキリキリマイになって仕事をしている。
鳴り止まない電話を無視して、私はただひたすらパソコンに向かっている。
そして、私は誰かに電話をかける。
宙で覚えているはずの電話番号なのに、うまく指がボタンを押せない。
1を押したいのに、4を押してしまう。
一度、受話器をおろしてまたあげる。
5を押したくても勝手に指が6を押してしまう。
また受話器をおろし、あげる。
早く電話をかけたいのに、早くあのことを伝えなければいけないのに、一刻も早く相手の声を聞いて無事を確認したいのに、私は自分の押したい番号を押せずに何度も受話器をおろす。
その間にも、周りの電話が、ルルルルルと音をたてて私を呼んでいる。

私は泣きながら電話をかけている。
そんな浅くて苦しい夢を見た。
2006年02月17日(金)  早く、気づけ
今の自分は、誰かのせいにしたり環境のせいにしたりして、自分で勝手に塞ぎこんでいるだけだと思う。

上司がだらしないから?
母との関係がうまくいってないから?
父が不甲斐ないから?
異母兄が優しすぎるから?

だから、今の私がうまくいっていないと思っているだけだろう。
解決の糸口はもっと別のところに、もっと近くにあるのに。
そんなに難しくなく、そんなにわかりづらいわけじゃない。

早く気づけ、自分。早く楽になればいいのに。
早く抜け出して、早く冷静になれ。
そう思う。

そう思うのに、どうすればいいのかわからないと泣いている自分もいる。
誰かに助けてもらいたいのに、誰にも触られたくないと思っている自分もいる。

恋人がそんな私を見つめている。
それは軽蔑するような冷たい視線なのだろうか。
それとも温かく見守っていてくれているのだろうか。
2006年02月16日(木)  僕を必要としない
恋人と喧嘩をしたまま、恋人は長期出張に出かけてしまった。
喧嘩を残して去られるのは悲しい気がする。
もしかしたら彼は、私と一緒にいても安らぐこともなく楽しむこともないんじゃないかと思える。
私はどうだろう。
恋人と一緒にいて、安心したり楽しんだりすることが出来ているだろうか。

数日間、恋人は連絡を寄越さなかった。
私も連絡をしなかった。
昨日、彼は東京に帰ってきた。
「あなたは、僕のことを、時々、必要と、しないよね」と、彼は言葉をひとつずつ切って穏やかに言った。
あまりにも穏やか過ぎて、私は最初意味がわからなかった。
そして、今、私は考えている。
恋人を必要としないということと必要とするということ。
それは、ひとりで考えることではないと恋人は言った。
それこそが、僕を必要としないことではないかとも言った。

その通りだと思う。
私と恋人は今、お互いの心地よい居場所を見失ってしまっている。
2006年02月15日(水)  「愛している」ということ
みんなは、「愛している」という言葉を使ったことがありますか。
私は、心の底から「愛している」と誰かに伝えたことがありません。
「好き」だとか「ずっと一緒にいようね」とか、恋人にそんな風なことを言ったことはあるけれど、「愛している」とは言ったことがない。
しょっちゅう「愛しているよ」という男の人もいれば、たまに口にする人もいたりする。

愛しているという感情は一体どういうものなのだろうかと思う。
どの感情が、愛している、という感情なのかわからない。
そしてきっと、具体的な感情を指して「愛している」とは言わないことだろうとはわかっている。それは感覚そのもので、誰にでも同じ条件で等しく訪れる感情ではないこともわかっている。

私は、愛していることが何なのかわかっていないので、誰かに「愛している」と言われてもいまいちピンとこなかったりする。むしろ、萎えてしまうことさえある。悲しいことだね。

私の『愛しているよ観』は、中学生の頃から変わっていない。

とても小さいとき、母に「愛しているってなあに?」と聞いたら、「お母さんはアイちゃんのことを愛しているってことよ」と言った。
そうか、お母さんが私に抱いている感情は、「愛」なのだなと思った。
そして、私はその言葉を忘れておらず、だからこそ「愛している」ということがわかっていない。

だからこそ?

私と母の関係が愛というなら、愛はとても不幸なことだと思える。
悲しいことだ。
2006年02月14日(火)  来年は90%くらいですかね
男性の皆さん、チョコレートはもらえたでしょうか。
OLの70%は、「バレンタインデーは必要ではない」と言ったそうですね。
私もその70%の中に混ぜていただきたいものです。

今日、営業先から会社に帰ってきたら、数人の男性社員に「あ、あいさん、チョコレートありがとうね」と言われたけれど、私は一切チョコなど配っておらず、なのでお礼を言われる筋合いもないが、話しにあわせて「ああ、どういたしまして」と答えておいた。
デスクに戻ってパソコンをたちあげていたら、隣の席の女の子に「あいさん。チョコレート代1000円ください」と言われた。
数名の女性がお金をあわせて、豪華なチョコをいくつか買い男性社員に配ったそうな。私も頭数に入れておいてくれたのね。こりゃどうも。ひとつも仲間にいれてとは頼んでいないけれど、お金集めに頭数を数えてくれたのね。こりゃどうもどうも。
1000円を払ったら、その女の子は、「はぁ〜あ。バレンタインデーなんて面倒くさいなぁ」と呟いた。

ということで、「バレンタインデーの煩わしさの真実」をここに。
2006年02月13日(月)  会話をする必要性
私は誰かとお話しすることが好きだ。

対話するうちに、その人の輪郭がぼんやりと見えてくる瞬間が好きだ。
自分の中にある、これまで出会った人たちのデータとデータを繋ぎ合わせたり組み合わせたり展開させたりしながら、この人はどんな人だろうかと興味を持つことが好きだ。

相手に慣れてきて輪郭がはっきり見えてきても、その人のすべてを理解しきるまでにかかる時間は、きっと私が死ぬまでの時間をもってしても、理解することはないと考えている。

私は、以前の仕事で営業職のイロハを学んだ。
イロハの中で自分なりの仕事のスタンスを知り、社会を知った。
そして、今の仕事の中で人と人とのビジネスを越えたコミュニケーションの心地よさを知った。同時に、重たさを知った。邪悪な意味で言えば、コミュニケーションの中で計算高く人を誘導することを知り、人を支配できることを知った。
私はたぶん、言葉で人を傷つけることが出来るし、人を惑わせることが出来る。相手の弱みがわかり、相手の愚かさや矛盾に気づくのが早いと思う。それと同様に、言葉で人を安心させることが出来るし、人を安定させることが出来る。相手の良さを相手に知らせることが出来る。
何を言うかと言われても、その点においての自分の能力は周りよりやや優れていると、自分で思える。それが仕事をする上での私のプライドでもあるからだ。

けれど、仕事以外での場面で、私は誰かを支配することも出来なければ、惑わすことも出来ない。なぜなら、その場に居る私は、私そのものであるからだ。そして、支配したり惑わす必要性もないからだ。
誰かと会話をすることは、自分を豊かにさせることだと思う。
支配も戸惑いも勝ち負けや損得もなく、誰かと対等にお互いが同じ分だけ会話できるという関係性は、私にとって水のようで空気のようなものだ。
その必要性は、周りの人間よりも私はやや高いと思える。それこそが私の性質であり、私そのものである。

その必要性の高さは、ときに私を苦しめることがある。周りを戸惑わせることがある。
けれど、その苦しみはきっと私が私である以上、一生付き合っていかなければいけないだろう。
その付き合い方を、今考えるときなのだと思う。
2006年02月12日(日)  気づかなければよかった
孤独だと思う。
とても孤独な気分がする。
誰かと接しているようで、誰とも繋がっているような気がしない。
自分から拒絶しているくせに、誰かに拒絶されているような気がしてならない。

孤独を感じる。
はじめ、孤独であることは楽だと思っていた。
そして、それそのものが孤独だと思っていなかった。
ひとりでいることが楽だと思っていた程度だ。

だけど、気づいてしまった。
この感情は、孤独であるということだと。
そして、孤独であることは淋しいことだと。
気づかなければもう少し自分を騙せていたのに。
気づかなければこの感情をもう少し先延ばしに出来たのに。

孤独を解消する方法がわからず、
私はただジタバタすることしか出来ない。
それこそが、孤独だと思う。
悲しいことだと思う。
2006年02月11日(土)  なんとも
恋人以外の男性とデートをしたら、それがあまりにも楽しくなくて、それが更に罪悪感を感じさせた。恋人への罪悪感だ。

では、そのデートが楽しかったら私は一体罪悪感があっただろうか。
それはわからないし、どうでもいいことではないかと思う。

粗末に扱いたくなることがある。
恋人ではなく、自分を。
自分を傷つけることは、私にとって自分を慰めていることなのではないだろうか。
傷つけて傷つけて、「ああ、私って可哀想。」「ああ、私ってなんてひどい人間だろう」そう思って、自分を責めるのだ。
自分を責めることは、自分を慰める行為に近い。
ちっとも慰められる行為ではないくせに、それでどこか自分で納得していたりもする。

なんとも。
2006年02月10日(金)  色気のある人生
自分のキャリアを積むということは、どういうことかと考える。

男性が、私とそんな話をするとき、必ずと言っていいほど、「君はそのうち結婚して子供を産むだろう。その予定も考慮しながら考えるべきだよ。将来のことを」と言う。
そうか、女性は結婚と出産という大イベントがあるわけだ。結婚して兼業主婦でありながら仕事を続けるということ、妊娠して子育てのために産休・育休をとりながら仕事をするということ。そういうことも考えなければいけないのか。
とても、面倒な話だ。
それにしても、いまだ社会では、女性の結婚と出産は仕事のキャリアをつむということにネックになるととらえられているようだ。なんだか気の抜けるナンセンスな話だとは思うが、現実的な話だとも思う。

「あなたの人生にはまだまだ色気があるから。どんどんいろんなことにチャレンジすべきよ」
年上の女性が私にそう言った。
彼女は、結婚して離婚して子供を育て上げて、そしてまだまだキャリアをつもうとしている。私は、彼女のようにバイタリティー溢れる人生を過ごす勇気はないが、やり遂げてきた彼女を見ていると、気の抜けるナンセンスさもどこかへ吹き飛ばしてくれそうな気がしてくる。

人生に色気があるとはどういうことだろう。
これから先、もっとたくさんの魅力的な希望があり選択肢があるということだろうか。まだ人生が大きく左右するような振れ幅の大きい選択肢が残されているということだろうか。
その言葉の真意はよくわからない。

けれど、私は考えなければいけない。
そして、まだまだ考えたいと思う。
私が社会で何ができるかということを。
これから先、どんな風にして過ごすかということを。
2006年02月09日(木)  誕生日ありがとう
27歳になりました。

休暇予定だったけれど、急遽出社することになってしまいました。
仕事がドタバタだったから。
なんら変わらない一日でしたが、お天気が良かったのでそれだけでもいい気分です。

27歳かぁと何度も思う一日。
これからどうやって生きていこうかと思う一日。
誰かから「おめでとう」と言ってもらえる一日。
前向きになれる一日。
恋人と一緒に祝う誕生日は、とても気持ちの良い一日。

だけど、「お母さん、私を産んでくれてありがとう」とは思えなかった。
そんなこと思いつかず、感謝することを忘れていた。
私はまだ母に感謝することが身につかない人間なのかもしれない。
いつの日か、自然とそう思える人間になれたら。
2006年02月08日(水)  あと一歩で落ちる
私は、「してはいけない」ということをしてみたくなる。

私は、自分にいろいろなことを強いている。こうしないように、ああならないように、こんなことを起こさないように。いろんなことを頑なに強いている。
その頑なさは、自分で言うのもおかしいが真面目すぎるほどだ。
たまにそれがつまらなくなるときがある。
自分の真面目さに嫌気がさすのだ。

してはいけないことに手を伸ばしそうになる。
誰にも言えない。
してはいけないこと。
それは「秘密」と言えるほど可愛らしくもない。

そっちに行ってはいけないよ、後戻りできなくなる。
きっと後悔すると叫ぶ自分。
そして、それを俯瞰して見ている自分もいる。

ふたつの境で私は迷っている。
してはいけないと自分に強いたからこそ、それをしそうになる自分。
2006年02月07日(火)  貴重な存在
雪なんて降らなかった。
真夜中、雪まじりの雨のようなものは降っていたけれど、朝、目が覚めて窓をあけたら雪は少ししかつもってなかった。
とても残念。楽しみにしていたのに。

大学生の頃、友だちとコンビニで買物をして店を出たら、しとしとと雨が降っていた。
音大生だった私は、なんともロマンチックなことに『雨が降っているのは、誰かがどこかで泣いているからなのかもしれないね』と言った。自分でもあんなことを言ったことを思い返すと、ひどく恥ずかしくなって、どこかの穴にでも隠れたくなる。
だけど、一緒にいた友だちは、何にも恥ずかしがることもなく、『そうだね、そうかもしれないね』と言ってくれた。
私は、その友達の言葉を思い返すたび、ああ私は素敵な人に囲まれていたんだと思える。そのときのことを忘れない。

大人になるとね、周りの人たちは何にも言ってくれなくなる。
何にも教えてくれなくなって、誰も叱ってくれなくなる。
私は社会に出て、それに気づいた。
私がなにか間違ったことをしても、指摘してくれない。
ほっとかれるのです。
「アノ人、間違ってるのに」って周りの人がわかっていても、誰もあえて言ってあげようとは思わないものなのだ。だって、いい大人なんだから、ここは学校じゃないんだから、社会なんだから誰もが一から十まで正してくれるわけではない。
「アノ人、あの考え方ちょっとおかしいんじゃないのかな?」と、誰かが誰かに疑問を持ったりしても、あまりそれを露にすることはない。いちいち反論してばかりじゃ、丸く収まらないからだ。出来れば小難しいことは平和に終わらせたいし、望んで角の立つようなことはしたくないと考えるのが自然だと思う。

だけど、たまに、社会人1年生や2年生の人間は、周りの先輩達にあれこれ口や手を出されたりしながら、仕事を覚えていく。私も、数人の新人の面倒をみたことがある。一から十まで、メールの書き方から電話のかけ方や郵便の宛名書き、送付状や名刺の渡し方、言葉の使い方など。
社会で大人になりきらない人間には、時々だけれど誰かが何かを教えてくれる。誰かが何かを指摘してくれて、話を聞かせてくれるし、悩みを聞いてくれる。
そのうち、経験が積み重なり、自分なりの仕事のスタイルが出来ると、そのうち誰も何も言ってくれなくなる。誰も間違いを指摘してくれなくなり、そうしてほっとかれる。

私も実際、誰にも何も言われなくなってきた。あれこれ指示されずとも自分で仕事をするようになってきた。誰かに相談しなくてもある程度は自分で判断できるようになってきた。
誰かに手出しされずに仕事をすることは、自由で気が楽で楽しい。
だけど、時々心もとない。そして淋しい。
間違いを間違いだと気づかない自分にずっと気づかないままなんて、惜しい。
自分以外の他者の意見が聞けないことはとても淋しい。

だから時々、誰かの言葉を素直に聞きたくなる。
誰かに乞いたくなる。
それは依存することではなく自立するために必要な要素だと思うのだ。
私に何かを言ってくれる人が、そして私の言葉を聞いてくれる人が、私の周りにいてくれることは、とてもラッキーなことだと思うのだ。貴重なことだと思うのだ。

あのとき、コンビニを出て空を見上げたとき、私の言葉を素直に聞いてくれて、『そうかもしれないね』と言ってくれたあの友達は、私にとってとてもかけがえのない存在なのだ。
2006年02月06日(月)  明日は雪
今朝のニュースで、「今夜から雪が降る」と言っていた。

今日は雪らしいですね、と外回りで人に会うたびそう話して、仕事を終わらせ電車に乗る。
昨年、恋人に買ってもらった手袋をつけたまま、単行本のページを開くのは至難の業だ。

電車の向こう側に広がる真っ暗な街には、まだ雪は降っていない。
家に帰ってすぐ熱いシャワーを浴びて、温かい紅茶を飲んだ。
夜11時を過ぎて、窓を開けてみたら、雨交じりの細かい雪が降っていた。

外を歩く人は、傘をさしている人もいればさしていない人もいる。
私はいつかの朝、「雪だよ」と言う声で目が覚めた。
声に起こされて窓を開くと、一面雪で眩しかった。

明日の朝、雪は積もるだろうか。
電車は走るだろうか。
雪だるまはつくれるだろうか。
子供たちははしゃぐだろうか。

美味しい紅茶に声が漏れて、真っ暗な夜に白い息が溶けていった。
2006年02月05日(日)  万が一忘れているのなら
どうでもいい話だと思うし、誕生日の話題ばかりで申し訳ないのですが、あと数日で私の誕生日なんですけど、恋人が何にも言ってくれない。
「もうすぐ誕生日だね」とか、「プレゼントのリクエストは?」とか、なんも言ってくれない。
友だちや同僚には、散々「もうすぐ誕生日なんだよね!」とウザいくらいにアピールしていたというのに、恋人が何にもソレに触れてくれないので、唯一、恋人の前では言いそびれてしまっている。

何が欲しいか聞いて欲しいとか、欲しいものがあるとか、そういうことではないけれど、「もうすぐ誕生日だね」と、一緒にワクワクしてくれるくらいはしてくれてもいいとは思う。
もしかして、忘れてたりして。それは厳しいな。

ちなみに、うちの会社はバースデー休暇があるので、誕生日はお休みなのだけど。恋人に「9日、お休みなんだ」って言うのが怖い。「え? なんで休みなの?なにかの日?」とか言われたら、怖い。
わざと、カレンダーに赤丸印をつけておくのはもっと厳しい。

もし、忘れているのなら、私は『恋人が私の誕生日を忘れていた』という事実を受け止める自信はない、それを誕生日の当日に知らされるのはもっと自信がない。なので、できるなら自然発生的に恋人に気づいていただきたいと思う。できるなら、私の居ないところで気づいていただきたいと思う。
何かのきっかけで「ハッ!」と気づいて欲しいものだ。もし、万が一、恋人が忘れていたら、の話だけど。

タイムリミットは近づいているんですよ。
早く気づいて頂戴。
2006年02月04日(土)  便器に正座
昔、テレビで和田アキコが「二日酔いにはスイカがいい」と言っていたので、「スイカスイカ」と冷蔵庫をあけてみたけど、この季節にスイカがあるはずない。
あの和田アキコが言うからには間違いないのに!

今週は、飲み会が多くって飲みすぎてしまい、とうとう週末に久々の二日酔いになってしまいました。また、歯医者に行っていたのだけど、口開けたとき吐くかと思ったくらい。あまりにも気持ちが悪くて、テレビの画面を見ることができませんでした。

恋人が二日酔いに効くツボを押してくれたものの、一向によくならず、仕方ないのでずっと便器に向かって正座をして「吐きたい!吐きたい!」と念じること1時間。
すっきり吐いてすっきり週末を迎えることが出来ました。

吐いたら気分がよくなる人と、余計に具合悪くなる人がいるよね。
私は前者。なので、二日酔いにはスイカじゃなくて思いっきり吐くことが大事だと勉強になりましたが、その前に飲みすぎなきゃいいんですけどね。
仕方ないよ、だって楽しいんだもの。
2006年02月03日(金)  あんぐりーです
エクセルシオールで、次のアポまでの時間つぶしにコーヒーを飲んでいた。
時間がたくさんあったので、ずっと単行本を読みふけっていたら、知らない間にお店が混み始めて、時間も充分にたっていたので、もうそろそろ出ようかなと思ってふと顔をあげると、スタンドテーブルって言うのかしら? 立ってコーヒーを飲むテーブルあるでしょ? そこで、外国人のおじいさんが立ってコーヒーを飲んでいたので、「あらあらまあまあ」と思って席を立った。

でも、私はやっぱりどうしてもシャイなジャパニーズなので、「どうぞ、あそこの席座ってください」と声をかけることができず、おじいさんに気づいてもらえるようにオーバーアクションで、「ここ空きまーす」とアピールするように、おじいさんと目が合うまでカバンをごそごそしてみたり、コートをゆっくりと羽織ってみたりしていたら、上手い具合におじいさんと目が合った。

アイコンタクトで、「どうぞ」「こりゃどうも」というやり取りをして私がテーブルを離れたら、ジャパニーズサラリーマンの二人組みが、さささと目にも留まらぬ早業でそのテーブルに座ってしまった。
私が狭いテーブルの間を抜けるのをおじいさんは待っていてくれたのに、反対側から図々しいジャパニーズサラリーマンズは入ってきやがり、座りやがった。
なんてこった。

すると、おじいさんは私に向かって、「残念だね」というふうに肩をすくめて眉をさげ、またスタンドテーブルに戻っていった。私はなんでか知らんけど「ソーリー」とおじいさんの背中に呟いてしまった。

もう! あのおじいさんに座った欲しかったのにさ!
なんて空気の読めないニッポンジン!
2006年02月02日(木)  幸せな大人になるということ
先日、誕生日を迎えた同じ歳の友だちに、おめでとメールを送ったら、返信がかえってきた。

『一足先にオバサンになったよぉー。アイちゃんはあと少し26歳を楽しんでね☆
でも、数日後には……、オバサンの仲間入りだね★首を長―くして待ってるよ(笑)』
と書いてあった。

妙齢(?)の女の人が言いそうな言葉だと思った。

自分で自分を、年寄り扱いしたり、女性ならオバサン呼ばわりするのは、勿体無いわけで。実際、私はもうすぐ27歳になるけど、上を見上げれば私たちより年上の人はたくさんいて、その人たちには私はどんなに頑張っても敵わないわけで。
でも、「どんなに頑張っても敵わないから」と諦めるんじゃなく、かなわないから面白いと思えたりして。

小学生のとき、担任の先生が言った。
「みんなは、上級生にはまだまだ敵わないよ。だって、あいつらはキミ達より1年も2年もたくさんご飯を食べて、遊んで勉強してるんだから。もし、その1年、2年を追い越したかったら充実した生活を送って、素敵な大人になりなさい」

私はそれを聞いて「そうか」と思った。
私たちがまだハイハイをしている頃、1学年上の人たちはよちよち歩きをしたり、言葉をしゃべったりしていて、私たちがまだ足し算を勉強している頃、彼らは掛け算の勉強をしていたのだ。
そうか、年上の人たちにはそれなりに過ごしてきた時間があって、物理的にその時間に私は敵わないけど、毎日楽しく過ごしていれば誰よりも素敵な大人になれると、あの頃純粋に私はそう思った。
誰よりも誰よりも幸せになれるんだと思った。

だから、年齢だけで自分で自分を「大人扱い」してはいけない。
歳をとったと決め付けることは勿体無い。
年齢は確実に毎年増えていくけれど、年齢が増えても増えても敵わない人はたくさんいる。
年齢を重ねたからといって、何かが突然解決されるわけでもなく、突然希望が見えるわけでもない。


私は以前、自分は30歳まで生きればそれでいいかなと思ったことがある。
理由をはっきりと言葉にすることは出来ない。
生意気に達観したつもりなのかもしれないし、女性特有の30代への恐怖があるのかもしれない。
だけど、たとえば自分の好きな30代の作家やアーティストや音楽家や俳優のことを考えたとき、彼らはまだまだ若く、だからこそこの人の作品をこれからももっともっと見ていきたい、と思える。彼らがまだまだこれからいろんなパフォーマンスを行ってくれることに、私は期待して楽しみにしている。
30代、40代、50代、まだまだ先は長く、彼らがどんな作品をつくってくれるのか楽しみなのだ。
そう考えると、自分も30代、40代、50代を迎えて、それを楽しむことに希望を感じるときがある。

なんだか上手く言えないけれど、そう思えることがある。


私も人のことを、「この人オバサンだなぁ」と思うときがあるけど、同じ年齢でも「オバサン」だと思える人と、そうは思えない人がいる。たぶんきっと、「オバサン」だと思える人は自分で自分の事を「オバサンである」と認識している人じゃないだろうか。

誰かに挑もうとしたり、何かに臨もうとするとき、自分はオバサンにはまだなれない。
オバサンだと思った時点で、なにかに挑戦する意欲が失せていくような気がする。
2006年02月01日(水)  そんな朝
久々に髪型を変えまして、パーマなんかをくるくるっとね。

そんでもって会社に出かけたら、ある男の営業マンが、「あ、髪型変えた?」と言ってくれました。
「そうなの、パーマしたの」と答えたら、「僕はそっちのほうがいいと思うよ」って、サラッと言って颯爽と去って行った彼を、カッコイー!と思った。

似合うねとか、可愛いねとか、キレイだねとか、そういう言葉より、「そっちのほうがいいと思うよ」ってほうがなんだか嬉しかったりする。

女性は、褒められるよりも、
『僕はそれをいいと思う』と言われたほうが嬉しいものじゃないかしら。

そんな朝。
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