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2004年08月31日(火)  変化を遂げながら
午後9時過ぎくらいに四国を通過したらしい。
母に電話をして台風の様子を聞いてみた。
昼間からすごい風と雨だったので、台風に慣れている父や母でさえ、珍しく早めに仕事を切り上げて家に帰ってきたそうだ。スーパーにも行けなかったので、今晩はカップラーメンで済ませちゃったわと母は言っていた。
今は、中国地方に再上陸したらしく、明日の朝には東北地方に抜けるということだ。
関東はきっと今夜が雨風が強くなる頃だろう。

私の実家は四国にあって、毎年毎年台風を経験する地域だ。
幼い頃は、台風の時速が50キロであるとニュースで聞いて、まるで車並みのスピードじゃないかと、台風が国道の上を駆け抜けていく想像をしてみたり、台風の目というのは地上からだと一体どんな風に見えるのだろうと、締め切られている雨戸を微かに開け、空を見上げていたものだった。
台風で学校が休校になることを夢見て、台風で仕事を早く切り上げて帰ってきた父と遊び、台風でインスタントラーメンやカップラーメンが食べられることを喜んだ。
家の中が普段とは違う空気が流れ、締め切った雨戸は外の薄暗い明かりさえ通さず、幻想的な暗さに家中が包まれていたことを思い出す。
幸いなことに我が家は、台風からそれほど大きな被害を受けたことはない。
床上浸水とか誰かが行方不明だとか、そんなことは同じ台風のニュースでもどこか別の場所の別の出来事のように聞いていた。だからこそ、私は台風が来ることをワクワクして喜び、叱られたとしても隠れて雨戸を開け、台風で狂う空を眺めることを楽しんでいたのだろう。

今年は、いくつ台風が通り過ぎていっただろうか。
最近の東京は、肌寒さと蒸し暑さが混ざったおかしな天気だけれど、それでも台風がやってくることに、今が夏であると実感せずにはいられない。
恋人は、台風を聞くたびに私の実家の人間を心配する。
私の家が四国にあるから、私の父や母は無事だろうかと心配する。
これまではきっと、台風なんて関東を通過しないでいればきっと関心もなかったことだろうに、「台風が九州で……」なんてニュースを聞くと、「四国は大丈夫だろうか」と自分のことのように熱心にテレビを見始める。
きっと、ゴールデンウィークに彼を四国に連れ帰ったから、彼にとってはとても身近な場所になったのだろうか、身近な場所と身近な人間が住む場所になっているのだろうか。恋人にせがまれて私は実家に電話をする。「台風、大丈夫だった?」と。私はこれまで、四国が被害にあったと聞いてもたいして連絡を取ろうとしていなかったのに、彼にせがまれ私は苦笑しながらも彼の横で電話をする。彼が心配するほど、父や母や私にとっては日常茶飯事でそれほど深刻ではないのにね。

台風が関東をかすめる今夜。
私は彼と並んで窓の外を眺める。雨が窓を打ち付けてどこかの風鈴がまた狂って鳴いている。風が少し冷たくなってきて、もうすぐ秋なのだと少し淋しく思う。

もうすぐ秋が始まって、だから私たちも季節が変わるように少しずつ何かを変えながらこのまま一緒にいられたらいいと思う。そう思いたい。
秋の恋愛をしようねと言うと、彼は小さく笑った。
2004年08月30日(月)  キリエ・エレイソン
水曜の1時限目だったことを覚えている。
大学のときの水曜の1時限目は、合唱の授業だった。
私は、1時限目に間に合うように起きるのが、とても苦手だったので、よく覚えている。
水曜の朝はとても憂鬱だったのを覚えている。

私の通う音楽大学にはふたつの講堂があって、古いほうの講堂で水曜の朝9時前に女声の合唱の授業が行われる。古い木の匂いが立ち込めていて少し埃も舞っていた。中二階の窓から光が差し込んできて、神様の階段がいくつも見えた。教会のような厳粛さを感じるときもあれば、付属高校の高校生たちが体育の授業を行うときもある。
床にすえつけられた木の長椅子に私たちは順番に腰掛け、声楽の教授が来るのを待つ。

キリエ・エレイソン、主よ憐れみたまえと私たちは賛美歌を歌う。

長椅子の列の前に置かれたグランドピアノに向かい、教授はピアノを弾く。生徒はみんなコピーされた楽譜を手に立ち上がり、声を合わせてキリエ・エレイソンとそればかり繰り返す。
そんな歌声を、私はとても客観的に見ている。
みんなが立ち上がって歌うときも、何度も同じフレーズを繰り返して練習するときも、私は腰掛けたままじっとして耳を澄ます。キリエ・エレイソンキリエ・エレイソン、ただその歌声にじっと耳を澄ます。
体が静かに宙へ舞い上がるような錯覚がする。
講堂の中いっぱいに彼女たちの歌声が飽和して、神様の階段がきらきら光っていた。
その風景がとても気持ち良かった。
彼女らはキリスト信者でもなく、教会でイエスやマリアに祈ったことさえないのに、主よ憐れみたまえと歌う。私は、その祈りをただ客観的に聴いているのだ。
とても幻想的な気分になった。

水曜の朝、毎週、私はそんな時間を過ごしていた。大学生のころだ。

朝9時のまだ寝足りない気持ちを彷徨いながらも、キリエ・エレイソンと、ただじっと座ったままその歌声に耳を傾けて静寂を感じていた。


キリエ・エレイソンと歌うその歌を、さっきふと思い出した。
2004年08月29日(日)  別れを乞う
私は膝をついて彼を見上げる。
下から見上げて何かを乞う。私はいつも彼に何かを乞う。
きっと、私が出会った男性の中で彼は唯一私の乞う人であり、彼以外の誰かに私が乞うことはあり得ないかもしれない。私が誰かの前で膝をつくのは、彼が唯一の人だろう。とても大切な、たとえば何かの本質を乞うことを私は他の男性にはきっとしない、これまでもこれからも。
だから、たぶん今の私もきっと彼に何かを乞うている。

8月の最後の土曜日に、私と彼は再会の約束をして、一度は私も彼に会える日を心待ちにしたけれど、でも結局、会いには行けないと私は彼に言った。過去に好きだった人に会うことは、それが完全燃焼されて完結していることであれば、容易いのだけれど、そうでない場合は会うことは適切ではないこともある。

会いたいとは思う。素直に会ってみたいとは思う。
ただ、会うには重過ぎると感じる。
会うにはまだ時間が十分にたっていないと感じる。
私にはそれがあまりにも大きすぎて、今、私の手の中に持っているものをすべて捨てたとしてもまだ足りないほど、その大きさが自分にのしかかってくるような気がして、怖くもあり、けれど会いたくもあった。

今の恋人のほうが大切だからとか、他のいろんなことが大変だからとか、そういうキレイ事を言うわけではなく、ただただその昔の彼のことが大きすぎて私にはきっと堪えられないだろうと思った。
私が堪えられなかった。
手の中にあるものを捨てる勇気がなかったとかではなく、私が堪えられなくて、自分が怖かった。私自身が彼に会うことを嫌がったのだ。会いたいのに会いたくなかった。

私は利己主義なのだ。
私が嫌だから、私が辛くなるから。すべてがそういう理由なんだ。
たとえば、その彼の将来を思ってとか、今の恋人との関係を思ってとか、そんなこと本当は少しも考えていなくて、私自身が悲しくなるのを避けたのだ。自分を守るために、自分のために。

全ての理由は、とてもつまらないエゴに満ちた理由なんだ。誰かのためにとか、誰かを思いやって、なんて、どうしても嘘っぽく思えて自分自身を卑下したくなる。私はそんなに殊勝な人間じゃない。
そんなふうにしか考えられない自分を、自分自身で同情する。可哀想な人だと思う。

会わずにいようと思った理由はここにいくつも書いてきた。けれど、同じくらいの会いたいと思った理由もある。それでもやはり私の中で何かが勝ち何かが負け、そして会わないでおこうと私は思った。


会えないと告げるまでに、電話をしてから30分必要だった。
会えないと告げて私が泣き出すまで1分もたたなかった。
充分に、お互いが素直に話すまで1時間はかかって、結局、その彼はとても大人なので、私が安心できるような言葉ばかり言って、そして電話を切った。

その彼はピアニストで、拠点はヨーロッパにあるけれどこの一ヶ月間は日本でコンサートを開いた。私は、演奏会のある夜を、いつも祈って過ごした。「今日もうまくいきますように」 遠くで彼の成功を祈って過ごした。ずっと以前、彼のそばにいたときもいつもそうやって過ごしたことを思い出した。「うまくいきますように」そうやって私は彼のピアノを祈った。
彼は、東京にいたこの夏、あの頃を思い出したそうだ。懐かしくて、ただ懐かしくて、自分のマンションがあったあの坂を歩いて、あの街を歩いて、あの本屋に行きあの喫茶店に行き、あのコンビニを覗いて、あのとき捨ててしまったCDをもう一度買い、あの道をひとりで歩いたそうだ。
私もそうだった。仕事をしているとき部屋で過ごすとき、ふとぼんやりとしんみりと、いろんなことを思い出していた。

私はもう、誰かを見送ることは出来ない。
たとえば、彼に会ってまた心を通わせたとしても、きっとその先に彼を見送る悲しさは待っている。私は、それをも避けるために彼と会うことを選ばなかった。もう誰かを見送って取り残されるのはごめんだから。
彼を乞い、そしてその乞いのひとつひとつに彼は正面から応えたというのに、私は彼の望みのひとつも叶えられていない。

だから、私は酷い人間だと思う。
ただ酷いと思う。
私は酷すぎる。本当に酷いと思う。
2004年08月28日(土)  Why won’t you cry for me.
give to me, give to me
Why won’t you live for me.
2004年08月27日(金)  再会の理由、女性としての理由
以前好きだった人に再会する理由。


私はいま25歳だ。彼が知っている私は21歳で、あのときからたった4年しかたっていないというのに私はあの頃から比べて大きく変わった。変わっていないようでやはり何かが変わっている。目に見えるもの見えないもの、すべてひっくるめて。その変化は自分にとって望んだ変化もあれば、自身でさえ失望してしまう変化もある。得たものもあれば失ったものもあるというわけだ。

それを彼に見てもらいたいと思った。彼が25歳の私を見て何を言うか知りたかった。
どう変わったか、どう変わっていないか、どこへ向う人間になっているのか、彼の目を借りて私は知りたかった。自分を知りたかった。彼の目を私は信頼しているから。

そして、25歳という年齢をひとつの節目と考えれば、今後の私は若さで生きるのではなく、自分の身の裡が密になり年輪が刻まれるように、これまでとは違う生き方をしていかなければいけない。
たとえばそれは、“密なる生き方”とか。
歳を重ねることが女性として悲劇だとは思わない。ただ、“女の子”としては憂うことかもしれない。私は女の子ではない。ただ、若さとしては私の年齢はその頂点に立つ年齢だと思える。そしてたとえば“密なる生き方”の頂点を目指すために、今の場所から一旦、下降せざるを得ないかもしれない。若さからの下降。
他人と比べて、私が若くて美しいかそうでないか、という話しではなく、これまでの私、これからの私、その年齢、若さ、密なる年輪、それをひっくるめると私の“今”は、これから二度とたつことの出来ないある点に立っていると感じる。

21歳の私を知る彼に、これから先二度と立つことのないある点に立つ25歳の私を見せたかった。これからまた何年後に会えるかわからない。もう会えないかもしれない。次にあったときはおばさんになっているかもしれない。おばあちゃんになっているかもしれない。今は今でしかないのは当たり前なのだけれど、「女性として」ということを考えると、今はとても貴重で、今はたった一瞬しかない“今”であるような気がしてならない。“25歳であることの今”

私がもし、40歳、50歳まで生きて、25歳がひとつの節目だと言ったことを思い出したら、「25歳も29歳もたいして変わらず、どちらの年齢も同じくらい幼くてまだ若かったわ」なんて思うかもしれない。25歳の節目などそれほどたいした意味も無かったと、後になって振り返るとそう思うかもしれない。けれど、20代後半に差し掛かった私に、長いスパンで「女性としての自分」を客観視することは出来ない。女性として、大切な意味がありそうなこの時期を、そして何かを予感させる今の年齢を、ぼんやりと過ごすのは私は少し勿体ない気もしている。

だからこそ、今だからこそ、私は会いたいと思った。

今が24歳だったら26歳だったら、もしかしたらさほど会いたいとは思えなかったかもしれない。

私は多分、25歳を過ぎればこれまでとはシフトを換えて女性の生き方を探すことになるだろう。
失われる最後の瞬間を、今この輝きが途切れる前に、とても信頼している人に見せ付けたいと言うことではなく見てもらいたいと思うことは、女性としてエゴだろうか。傲慢だろうか。思い上がりだろうか。
2004年08月26日(木)  残念ですが
お客に、めっさ腹が立つことがあります。
ワガママや身勝手なことを言われると、そりゃこっちが営業でも腹が立つことはあります。

別に、営業だからって平身低頭しなきゃいけないとは毛頭思ってない。
だからと言って、上からモノを言うというわけでも勿論無い。
お互い、仕事なんだからギブアンドテイクなわけだし、サービスの対価はお金だと思うし、はっきり言ってそれがわかっていないところとは仕事したくない。偉そうなことを言うようですけど。

ちゃんと、クッションは置くようにしています。
まずははっきりとNOを言う。
このままの状態では取引できないと忠告を与える。
忠告で終えておく。
検討してもらう余地を充分に相手に与える。
けど、二度はないのです。
仕事に二度はない。

私は気が短いので、カチンと来たら言わずにはいられないのだけど、それでもやっぱり仕事なので、静かに冷静に二度目はないと理解していただくようにお話しをします。

二度もNOとは言わない。
NOと言わない代わりに、「残念です」という言葉を使う。
お取引できなくて残念に思います。このような結果になってしまって残念に思います。
それが私の精一杯抑えた相手への怒りなわけです。
仕事の怒り。
2004年08月25日(水)  歯痛ドキュメント2
火曜日(つづき)
歯が痛くない患者が診察台に乗っていていいのだろうか。怒られないだろうか。ビクビクしながら初めて来る歯医者の診察台に寝かされた私。
「どうしましたか?」と聞かれ、「左奥の上の歯が痛いんです(たぶん)」と答える。
口の中をのぞかれ、ここですか? こっちですか? といろんなところを器具で叩かれる。「あーえっと、2回目に叩いたところが痛いです(たぶん、そこらへんだった)」
なんだかここの歯医者は目隠しをしてくれません。私のいきつけ?の歯医者はぜったいに目の上にタオルを当ててくれるんですが、ここはしてくれない。目の行き場をどうしたらいいのかきょろきょろ彷徨っていまい、恥ずかしさメイッパイ。
というか、この歯医者はものすごく過保護なところです。「奥歯の詰め物をとって中をのぞいてみますね」ということになったのだが、「今から削りますけど、歯を削るわけではありませんからね。詰め物ですからね。歯は痛めませんが、もし痛みがありましたらすぐ左手を挙げてください。大きな音がするかもしれませんがビックリしないで下さいね。1分で終わりますからね」と、私は何か怯えた表情でもしているのだろうかというほどの、説明振りというか慎重ぶり?痛ければすぐ言いますから大丈夫ですし、子供じゃないのである程度の音は我慢できますけど。
結局、詰め物をとってはみたが虫歯らしきものはなく、それではレントゲンを撮ってみましょうということになり、「妊娠してませんよね?」と聞かれ、「ああ、私、とうとうそういうことを聞かれる年齢に達してしまったのねえ」と感慨深く思う。「してません」。
じゃ、2,3日後また来て下さい、と言われ、今日一日で治してくれるのかと思いきや、違うらしい。でも、今のところは無痛だし、痛み止めの薬をくれるというのに安心して「ハイハイ」と気安く返事をしたのがいけなかった。

金曜日の朝一に予約をとって、ルンルン気分で薬局行って薬をもらう。
薬はもらったけど全然痛くない。なんで痛くないんだろう、ま、いっか。

そのまま会社に戻ると、朝から何も食べていないので腹が減った。歯の痛みがどっかに行ってしまったのに気を抜いてパンを食べたのが地獄の始まり。
チョーいたい。チョーとか使ってしまいたくなるくらい痛い。
パン後の痛度マックス5 ( p_q) ( p_q) ( p_q) ( p_q) ( p_q)
急いで薬を飲んで椅子に浅く腰掛けて痛みに堪えながらパソコンを叩いて残業に励む。死にそうなくらい痛い。うめく。とにかく呻かないと発狂してしまう。冷や汗が出る。
うううぅぅぅーううぅぅーぅーぅぅうー。
夜の遅い時間のオフィスは電話もならないので、静か。
私の後ろの席の女の子たちが「さっきから、地響きみたいな音しません?」とか言ってる。それ、私のうめき声だから。でも、いちいち言うのも面倒なのでそのまま唸る。何の音だと女の子たちは騒いでいる。目の前の席の新人の子がクスクス笑っている。「あいさんの唸り声で向こうの人たち騒いでますよ」とかいちいち言うな。こっちは痛いのだ。そんなことはどうでもいい。騒いでる人たちちょっとうるさい。うるさくて歯に響く。もう何もかもどうでもいい。ああ、このまま死ぬかもしれない。ああ、キミ達、私の歯が治ったら一斉に仕返しをしてあげるからね。新人の子には私を笑った刑。女の子たちには私の唸り声を勘違いして騒いだ刑。

帰って何も食べずにすぐ寝る。
睡眠前の痛度もちろん5 ( p_q) ( p_q) ( p_q) ( p_q) ( p_q)

ああ、この痛みはなんだろう。なんでこんなに痛いんだろう。もう一個薬を飲んでおこうと薬の数を数えてみると、なんか数が少ない。これ、今度の診察日の金曜日までもたないよ。2日分しかないじゃないか。水曜日でキレてしまうじゃないか。藪医者!ヤブ!なんで金曜日まで出さないんだ!嫌がらせ!悪魔!よし、明日薬局に乗り込んで薬をもらう!なにがなんでも貰う!つーか、なんで今ごろ痛むんだ。あのとき、歯医者にいたとき痛めばよかったのに。痛くて我慢できないからすぐ処置してもらいたいって言えばよかったのに。あの医者、悠長にも金曜日にまた来て下さいとか言ってたし!

ああ、この痛さはどうなんだろう。なんなんだろう。
出産の痛さにたぶん匹敵すると思うわ。口にスイカを入れた痛さが出産時の痛さらしいけど、まさにソレだね。間違いないよ、出産の痛さに匹敵すると思うよ、きっと。たぶんこの痛さを金曜までひきずるんだよ。3日間かけて出産してんのと同じだよ。いくらなんでも3日間かけて子供産むんじゃ、妊婦も死ぬし、私も死ぬ。

ああ、この痛さを引き換えにするなら、私は何でもします。神様、どんな試練でも与えてください。まあ、なんでもって言っても限度はあるけど、たとえばそうだねー、懸垂100回やれって言ったらやるね。
腕立て100回でもやる。
狂喜乱舞して喜ぶアニマル浜口の横でカメラを構えていてくださいと言われたら喜んでやる。
うちの社長をハリセンでぶって下さいと言われたら率先してやる。
池袋の駅前でひとり阿波踊りと言われたら一日中でもやる。
ハチ公にまたがってロデオと言われても二日は続けて出来る。
東京タワーからバンジージャンプもチョロイ。
恋人を誰かにあげろと言われたら喜んで差し出す。いや嘘。
杉田かおるに伴走してマラソン100キロはやらない。走るの嫌いだから。

ああ、どうでもいいけど痛い。歯が痛い。救急車呼びたい。チョー痛い。チョーとか使ってやる。チョーチョーチョー痛い。
2004年08月24日(火)  歯痛ドキュメント
日曜日
山南の死に涙したあと、微かに左奥歯が痛む。
痛度2 ( p_q) ( p_q)
オリンピックはもうすぐ女子マラソンが始まるらしい。今年はQちゃん出てるの?と恋人に聞いたら、出てないっつーの!と言った。あそう。

月曜日
早朝、歯が激痛。左上奥。イタイ、痛くて目が覚めてしまった。
寝起きの痛度5 ( p_q) ( p_q) ( p_q) ( p_q) ( p_q)
午前6時。もうそろそろ起きよう。マラソンは日本人が金メダルをとったらしい。誰?Qちゃん?出てないっつーの! あそう、というか歯が痛い。虫歯?
痛くて仕事に集中できない。冷たいものを飲んでも痛みはないのに、モノを噛むと歯茎が痛む。なに?親知らず?全部(4本)抜いたはずだけど?
4本の親知らず抜いたって、最強の親不孝モノです。
仕事中の痛度3 ( p_q) ( p_q) ( p_q)

なんかもう仕事とかどうでもよくなってきた。医者に行きたい。どこでもいいので抜いて欲しい。
帰宅、ご飯を食べるのが怖い。だって痛くなるから。
アニマル浜口みたいなオヤジがいたら娘は苦労するのかな。良かったよ、とにかく銅メダルでも。あ、また今日も誰かが金メダルを取ったらしい。もう誰が誰だか。
痛くて唸る。体を丸めて唸る。顎の骨が痛む気がする。デンタルミラーを買ってきて、とにかく吐き気がするまで口の中に入れて覗いてみる。けれど虫歯らしき穴はなし。
恋人が痛さにもんどりうつ私を見かねて、「イタイのイタイの飛んで行け〜」とやってくれた。久しぶりに聞いたよ、「イタイのイタイの飛んで行け〜」。だけど、恋人が撫でた頬は右側で、私が痛いのは左なんだけど、彼の優しさにその間違いを指摘できなかったが、とにかく恋人に謝々、そして歯が痛い。
睡眠前の痛度3 ( p_q) ( p_q) ( p_q) 相変わらず。

火曜日
保険証を持って出勤。時間があいている隙を狙ってどこでもいいので歯医者に駆け込む予定。予定は未定。時間が空くかどうかも未だ未定。とにかく保険証だけは携帯。
今日の痛度4 ( p_q) ( p_q) ( p_q) ( p_q) 徐々に迫る痛み。
日に日に痛む。頭痛もする。肩もこってきたような。頬っぺたも腫れているような。
午後4時。
かなり仕事が忙しかったが、マイテマイテ、4時に終わらしたった。というか、正直なところ仕事に没頭していたので、午後4時の歯痛0。
奇跡。奇跡というか今までの痛みはなんだったろうかと疑問に思う。そう言えば歯の痛みが怖ろしくて何も食べていない。だから、痛みがないのか?とにかく、歯医者に行くためにマイテ仕事をしたのだから、とにかく、目についた歯医者に入ろう。抜いてもらおう。どこでもいいから抜いてください。
待合室で待つあいだ、本当に歯が痛かったのだろうかと自分で自分を訝しる。あれは、本当は幻だったのじゃないか?だって、今はこんなにも痛みがない。舌でつついてみようが外側から指でつついてみようが、まったく痛くもない。なぜ?不思議すぎる。病院に来られただけで安心してしまって、痛みがどこかに行っちゃったんだろうか。このまま診察台に乗っかっても、ただ医者に怒られるだけなんじゃないだろうか。
「どこも悪くありませんけど?!」
ヤバイ。
痛みよ蘇れ。
2004年08月23日(月)  明滅の中で
今日はなんだかとても疲れたので、靴を脱いでバッグを足元に置いたら、その玄関先で服をすべて脱いでバスルームに入った。鏡の前に立ってメイクを落としていると、バスルームの灯りがちかちかと光って、電球が切れかかっていることに気づく。
リズムは不規則だけれど、それでもモールス信号のような誰かにだけわかる規則性があるようで、光ったり消えたりそればかりを繰り返す。私は気にせずシャワーをひねり、膝を抱えて雫に打たれる。黒い腕に跳ねる水がたまに光る灯りに輝く。

数秒、灯りが消えたままの空間は水ばかりが流れる音がする。いつもは向こうの部屋からのテレビの音やかけっぱなしのCDの音が微かにするのに、その瞬間だけはどこもかしこも真っ暗で、私はこの小さく狭いワンルームの部屋で灯りもつけずシャワーを浴びていることになる。
誰も知らない誰もいないこの空間で、明かりもなく私はひとりシャワーに打たれる。

そんな時間は、目を背けていたいことばかり思い出され、まるで痛みの残る傷をさらに抉るように、私は自分自身に痛みを与えたくなる。自分が傷つかないようにと避けてきた痛みを、今ここで帳尻をあわせるように沸々と自分を責めたくなる。
私は誰かを傷つけた分、自分も傷つかなければならないのだと、信じて止まないことがある。ぎゅうっと何かが私の内側に矛先を向け、何度も何度もそこを突く。


翌日、部屋に帰ると恋人がいて、おかえりと声をかけられた。私はゆっくりとくつろいで、夜中になってバスルームに入った。最初は気づかなかったけれど、髪を濡らして目に入った雫を拭っているときに気づいた。きっとバスルームの電球は新しいものに取り替えられている。

この私の恋人は、私にとって一体なんなのだろう。
この人にとって、私は一体なんなのだろう。
ひとりで暗がりの中、放っておいて欲しいこともある。
じっとして何かを考えていたいこともある。
じっと、何かを。

不意に自分がちっぽけな存在に思えて、急に心細くなった。
けれど、こんな明るい灯りの下では何も考えられない。
私はいつも何かを考えているけれど、それはいつもとりとめもなく、答えもなく結論もない。
ぐるぐると、同じところをまわって、また元の場所に戻ることさえある。
手を伸ばしても掴めないことのほうが多い。
それなら、考えないことも必要なのだろうか。
私には、何も考えない、ということが必要なのかもしれない。

それならば、私は灯りをつけた恋人の存在を有難く思うだろう。


バスタオルをかぶって顔をかくしたまま、恋人の体に腕をまわして泣く。
2004年08月22日(日)  凍る血液
通院するのは、最近は月1回に減りました。
もう、病院なんか行く必要がないんじゃないかと思うけど、たとえば異母兄の気休めのためとか、主治医を安心させるとか、恋人の笑顔とか、なんかそういうのの為に私は今日も病院へ行くのです。

病院へ行くと、どうしても気持ちが苦しくなる。
嫌な気分になる。
うまくいっている恋人のことも、うまくいっている仕事のことも、ぜんぶぜんぶその瞬間だけ消えてなくなる。


今日、先月の検査結果を見た主治医が「経過の観察をしましょう」と言った。
結果の数値が、平均値より少し低くなっていることがわかった。
経過の観察ということは、月に何度も何度も病院に行く必要があるということ。
仕事も普通に出来て、体調だって悪くないのに。
入院はなくても、これからまた嫌になるほどの検査をしなくちゃいけないかもしれない。

すごく、気分が暗くなる。
病院なんかに行くから具合が悪くなるんだ。
病院で検査なんかするから暗い気分になるんだ。
2004年08月21日(土)  イマ、現実に戻る
競泳男子平泳ぎの200Mで北島康介が金メダル2つ目なるかという日、私はどうしてもその決勝を見たかった。恋人は今晩も仕事から帰ってきてからずっとテレビの前でオリンピック観戦だ。深夜1時まで、私はうとうとしながらもちゃんと起きていたはずなのに、はっと目を開くと時計は2時をさしていて、テレビでは北島が表彰台にあがろうとするところを映していた。
どうして起こしてくれなかったの、といがらっぽい声で恋人に言うと、一度起こしたけど寝かしてって言ってたよ、と言って笑った。そんなに見たかったんだね、ごめんごめんと言ってまた笑った。

週末、私はビーフシチューをはじめて作った。料理の本を見ながらかなり手間をかけて作ったし、料理なんて慣れないのでとても時間がかかってやっと出来上がった。美味しいねと言って恋人は食べてくれた。私は少し味が濃すぎてしまったかもしれないと思いながらも食べた。普段から、料理をしなかったほうが後片付けをすることにしている。私がシャワーを浴びている間に恋人が使ったお皿を洗った。シャワーを浴び終わって台所に立ってみると、鍋の中に少し残っていたと思っていたビーフシチューが捨てられていて、鍋はきれいに洗われていた。恋人はテレビを見ている。どうして捨てちゃったの、と私はちょっと怒っていた。だって少ししか残ってなかったし、捨てるのかなと思って、と恋人は答えた。三角コーナーに溜まったシチューを見てちょっと傷ついた。勿体無いとか、そういうことじゃなくて、私が作ったものを捨てられたのがイヤだった。怒ってるの?と恋人が聞いたけど私は答えもせず髪の毛を乾かした。ねぇごめんね、と恋人は私にじゃれついてきたので、どうせ美味しくなかったから捨てたんでしょ、と意地悪を言うと、そんなことないって困ったなぁ、と唇を歪めて私の目を見つめた。

短い髪の毛がよく似合っている。最近、その腕が陽にやけて更に逞しく見えてきた。ほっぺたにぽつんと、目を凝らさないと見えないほどのホクロがある。寝起きがいい。歯を磨くときはいつもベランダで腰に手を当てて磨く。髭はあんまり伸びない。鼻歌ドロボー。旅行が好き。平べったい爪の形。匂いに鈍感。外では冷静沈着、うちでは気の優しい心配性。タオルケットをかけないと落ち着いて眠れない。すぐちょっかいを出してくる。靴下の脱ぎ方がいつも芋虫。甘いものをよく食べる。顔を真っ赤にしながら歯の浮くような言葉を口にする。「“絶対”って予測できるものなんてないよ」というのが口癖。ビールが好き。


私の現実は、この彼によって成り立っている。恋愛がすべてだとか、じゃあ仕事がすべてなのかとか、そんなことではないはずだけれど、私の現実世界のほとんどを占める部分が、この彼によって成り立っている。そして、そんな彼のことを私はどうしようもないほど愛しく思っている。当たり前なのだけれど、それは純粋な異性への恋愛感情であり、私はそんな気持ちを今まで幾度も誰かに対して持っていた感情でもある。いまは、この目の前にいる彼であり、私はいまこの彼のことを失いたくない大切な人だと思っている。

私は最近、いろんなことに惑わされている。
たまに、彼のいない非現実的な世界に身を置くこともある。彼を置き去りにして、または彼を遠ざけて私はその非現実的な、たとえば空想や思い出の世界に身を沈めることが多くなってきた。
それでも、私はこの現実の世界に生き、この世界で暮らしている。
戻らなければ。
そろそろこの彼のいる現実の世界に戻らなければ、もう二度と引き返せなくなりそうで怖くなる。私は、何かと何かの間で身の置き場に迷っている。

現実の世界へ私は戻る。
何もかもを振り払って、彼の元へ私は帰る。
2004年08月20日(金)  ジャイ子の夢は絵描きになること
うちの会社の給料日は20日か21日ごろです。(うろ覚え)
で、給料日前日ごろになると、給与明細を上司が手渡しでくれます。
去年の上司は、デスクの上に置きっぱなしだったので、今年の上司が毎月手渡しで「お疲れ様です」と言ってくれるのに、最初は新鮮な驚き?もしたのですが、ここ最近は上司も私も忙しくてなかなか会う機会がないため、そのうち『給与明細をお腹の引き出しに入れておきました』というメールと一緒にお腹の引き出しに明細が入っていることが多くなった。

給与明細が個人情報?だからなのか知らないけど、とにかくこの上司はデスクの上ではなく引き出しに入れておくという心遣い?をしてくれます。それは有難くもあるのですが、やっぱり上司に引き出しを開けられるのは如何ともしがたい。横にある縦に連なった引き出しには仕事に関わる資料やら文具が入っているのですが、お腹の広い引き出しには私物が入っていたりするんですねぇ。私物っていうのはたとえば、あめ玉だったり雑誌だったり、人から貰ったお土産だったり(たとえばもう腐っているであろう饅頭とか。捨てればいいんだけど!)それを上司に見られるのはちょっと……。なるべく手渡しでもらおうと、オフィスにいようとはするんだけどどうしても会えないときもある。

ということで、私は開き直って「上司を驚かし作戦」に躍り出ることにしました。
そして作戦決行。
まず、私の天才的才能を発揮して描いた絵を置いておく。(私の絵は奇跡的に下手です)
次に、上司の似顔絵を描いて置いておく。(奇跡的に似てない)
次に、不意をつかれて撮られた私の写真を置いておく。(半目になって凄いブスに映ってるやつ)
という、イタズラ。
アシスタントの女の子に、引き出しを開けたときの上司の反応をぜひ見てもらうようにお願いして出かけ、オフィスに帰ってくると、すぐアシスタントの女の子が笑い転げながら私に報告してくれる。
案の定、上司は悪いと思いながらも引き出しを開けて明細書を置くのだから、大っぴらには笑えないし、大っぴらには人に教えられない。可笑しくて笑っているのだけれど、その笑いを他に伝えるのも気がひけて誰にも伝えることなくひとり笑いの地獄へ突入なわけです。
笑いを堪える上司の背中を見たかったなぁー。
ああ、今月はどこかに隠れておいて見てみたいなぁー。
オフィスに帰ってきても、一切その絵については上司と話すこともなく、私はすまして仕事の話をし、上司は私に「わざとあんな絵を描いて俺を笑わそうとしているのか?」と聞きたいだろうけれど、「もしかして、わざと置いてあるんじゃなくただ俺が勝手に見てしまっただけなのか?」とも迷っているようで、彼からは何も言ってこない。
しめしめ。

ああー、今月はどんな絵を描いておこうかと、いまアシスタントの女の子と考え中なわけです。それほど、私の絵は奇跡なのです。だって、ドラえもんを思い浮かべながら描いてみて?と言われてドラえもんとは程遠い気持ち悪い生き物が出来上がってしまうからです。
皆さんに見せられなくて残念。
2004年08月19日(木)  ヨン様は松尾
毎回毎回でうんざりするけど、あるお客さんのところに行くと必ず「冬のソナタ」の話をされる。
憂鬱です。だって、私は「冬のソナタ」なんて一度も見たことがないし、ヨン様なんてあまりカッコいいと思わないので。
そのお客さんは男性なのだけど、かなり流行に敏感と言うか新らしモノ好きの方で、「そういえばさぁ、ヨン様はいいよねぇ、ユジンはいいよねぇ、見てる?見てるでしょ?当たり前だよねぇ、いま話題沸騰中だし」と言うのだけど、「はぁ…、見てないんですよね、実は」と言うと、しょがねぇなぁという顔で、「冬のソナタ」のあらすじを私に話してくれるので、私は一度も冬ソナを見てないにも関わらず内容は知っています。(別に教えてくれなくてもいいんだけど)

客『だからさー、ユジンは可哀想なわけよ』
ア『へぇ、そうなんですねぇ』(別に興味ないけど)
客『でもさー、ヨン様はかっこいいよねぇ、コムサのメガネなんかしちゃってさぁ』
ア『最近、SONYのCMなんてやってますよねぇ』(ぜんぜん興味ないけど)
客『いまや、日本のアイドルより人気あるでしょ』
ア『みたいですねぇ』(べつにどうでもいけど)
客『ユジンもさぁ、普通の女の子っぽくて可愛いよねぇ』
ア『へぇー、そうなんですねぇ』(ユジンってユ人っていうどっかの宇宙人かと思った)
客『もうねぇ、切ないドラマなわけよ』
ア『メロドラマなんでしょ?よく昼間にやってるような』
客『違いますよ! もっと純粋で切ない恋のドラマなんです!』
ア『へ、へぇー』(そんなに熱くならなくても)
客『ああいう純粋な恋愛ドラマは、いま日本には足らないよねぇ』
ア『そうですかねぇ』(お前はドラマ評論家か)
客『みんな、ああいうストーリーに飢えてるんだよね』
ア『そうですねぇー』(ああ、あなたも飢えてるんですね、恋愛に)
客『君もねぇ、冬ソナ見て、もっと純粋な気持ちをもたなきゃダメだよ』
ア『はぁ…』(余計なお世話なんだよねぇ)
客『しかし、ヨン様はホントに人気あるねぇ』
ア『ずっと思ってたんですけど、ヨン様ってタレントの松尾って人に似てませんか?』(参照→松尾
客『(カチーン)に、にてないよ!』

ということで、ヨン様は松尾に似ているなぁとずっと思っていたけど、そのことは冬ソナファンの前で言ったらエライことになると勉強しました。
2004年08月18日(水)  別れの記憶
朔太郎の記憶が美しいように、誰の心にも残るいろんな記憶は美化されていく。美しい記憶の中で眠る出来事や人々は、ただその存在そのものが記憶の中で美しい。

記憶が蘇るとき、記憶の中の出来事がいままた始まるとき、記憶の中の人が私の目の前にいままた現れるとき、そのとき私は一体どう思うのだろうか。

私はあと何年生きるかわからないし、これからどんな風に生きるのかわからないけど、後ろを振り返った25年を考えたとき、私が一番最初にあげる辛かった出来事を、たぶんきっと彼は知っている。彼と一緒に過ごした時間と私が辛く感じた時間がちょうど重なり、私はそのたびに彼に幾度も助けを求めることになり、そして現実に幾度も助けられた。


大学4年間のうちの半年という時間は、私にとってとても長く惜しく感じられた。
東京からずいぶん離れた自分の生まれた家で、私は自分の殻に閉じこもり意味もなく焦ったりイラついたり、とても健康的な過ごし方とはいえない時間を過ごした。あなたの体は良いといえる状態ではありませんと正面から言われ、あなたは休養をとる必要がありますと宣告され、あなたを東京に戻すことは出来ないと遮られた。大学生という貴重な4年間の半年を私は捨てざるをえなかった。
汗のじっとりかいた手のひらを握り締めると、爪が食い込む。頭を抱えて泣いても時間は悠長に流れるだけだ。
だから、私はすべてを諦めることにした。そのときは、半年後に東京に戻れるなんてまだわからなくて、もしかしたら一生こんな生活を送るかもしれないと思っていた。それもあり得るかもしれないとさえ思っていた。音楽もやめることにしたし、大学をやめて友だちも捨てて、兄のことも忘れて大好きな人ともさよならをするんだと思っていた。私は未来に描いていたいろんな計画をそこで捨てる決心をしていたのかもしれない。

私とその彼は、私が東京にいたころよりも、そのときが一番距離を近しくしたように思える。なぜなら、こんな毎日の中で、私にとっての唯一の外界との橋渡しをしたひとが彼だったからだ。彼にとって、私が近しい存在だと思っていたのか、なぜ近しくなれたのか、それは私にはわからない。ただ、私がどんな風になっても、ずっと変わらずに彼が私と接してくれていたことは、ただそれだけのことでも、私には死んでも構わないほど嬉しいことだった。

「変わらない」ことがどれだけの有難さか、普段の生活ではときどきその有難さを忘れそうになるけれど、私は変わらなかったあの頃の彼をたまに思い出しては胸をしんみりと温かくすることが出来る。そして「変わらない」ことがどれだけ難しいことか、いつもいつも感じていて、ときどき難しすぎて放棄したくなるけれどそこで逃げずにいることがどれだけ大切なことか、あの頃の彼をたまに思い出してははっとさせられる。

だから、彼のことを考えるといつもいつも泣きたくなる。


その半年間が、私のこれまでの時間の中で一番辛くて苦しかったことだ。
そんな私のそばには、いつも彼がいた。
彼のことがとてもとても好きで仕方なかった。

私は、朝、とても早く起きて、両親に気づかれないように忍足で家を出て、始発の電車に揺られてバスを乗り継いで羽田行きの飛行機に乗った。誰かが追いかけてくるような気がして私は気が急いていたし、誰かに見つかって連れ戻されやしないかと私はビクビクしていた。飛行機に無事に乗り羽田におりたったら、一気に気が緩んで少し気分が悪くなった。ぼんやりと揺れる視界と力の入らない足で私はふらふらと公衆電話に向かい、何度も彼に電話をした。彼は到着ロビーに飛んできて私は彼の家に向った。夜になって両親に電話をした。黙って家を出たことを母は泣いて責めた。父はいつ戻ってくるのかその約束だけは守りなさいと言った。明日の夜には帰ると、私は告げて電話を切った。翌日までの時間を私たちはどこにも出かけず、じっと部屋に閉じこもって過ごした。その時間は甘くもあったし苦くもあった。
私たちが、どう頑張っても、私たちには未来がなかったし私たちには時間がなかった。素直に気持ちを通わせるにはとても遅すぎたし、だからこそ私たちには未来がなかった。
黒いピアノの前に座って彼はピアノを弾き、私はその英雄ポロネーズに耳を傾けていた。

いまになって、あのときのことを思い出しても、自分ですら何がなんだかわからなくなってくる。

翌日、羽田の出発ゲートの前で彼と別れた。飛行機に乗りバスに乗り、電車に乗って駅に着いたら、父が迎えに来てくれていた。結局、最後に彼を見たのはあの羽田空港で見た姿だった。それから、私が東京に戻れることになったと同時に、彼は遠いどこかへ行ってしまった。少しは会うこともできたはずなのに、私たちはそれを遠まわしに避けていた。そこで会ったとしても私たちにはどうすることも出来ないことを、よくわかっていた。


これからも私はいろんな恋愛をするだろう。いろんな男の人を好きになるだろう。あの人が一番好きだったとか、一番大切だったとか、そんなことは別にどうでもよくって、一番問題なのはぜんぜん彼のことを忘れられないということ。昨日のことのようには思い出せなくなってきているけれど、悲しさとか淋しさとか、失意なんて感情を今でも鮮明に思い出せるし、溢れてくる感情は何年たったとしてもまったく消えることはない気がする。

なんだかそんなことを思うと、とても疲れてしまった。とてもとても疲れてしまってなんだか頭がおかしくなりそうな気がする。

本当は、もっと現実は、生臭くて泥だらけで意地汚くて、うめき声をあげて吐き出したくなるほど苦しんだはずなのに、思い出すたび思い出すたび、自分に都合のよい物語のように、私は彼のことを幻想の中に見出しているだけなのかもしれない。
たぶん、きっとそうなんだ。
だからこそ、とても悲しい。とても悲しいのです。
2004年08月17日(火)  私の遺伝子
先日、妊娠した夢を見た。

朝目が覚めて、恋人に「ヘンな夢を見たよ」と話しかけたけど、どんな夢? と聞かれて不意に話をするのが怖くなった。夢は、口に出して話せばきっと正夢になるから。

私のお腹はもう随分膨らんでいて、私は自分の足元を見ることが出来なかったしとても体が重く感じた。張り出した腹に手を添えて、私は向こうに蜃気楼が見える道を歩いていた。今日みたいに暑い夏の日だ。
このお腹の子供の父親として、私はなんの疑問も持たずに恋人の顔を思い浮かべた。彼は、いい父親になるだろう。いい夫にもなるだろう。結婚する相手として疑問を持つ部分が彼にはない。私は、汗をかきながら家へとたどり着いた。涼しい部屋に入ると一気に汗が引いた。恋人が優しく私の頭を撫でる。二人きりで過ごせる時間はあと残り僅かなんだろうなと思い、そして幸せって一体なんなのだろうと思った。

私は途端に、自分の体を窮屈に思った。不快感にも似た嫌気がさして、イライラした。このお腹を切り裂きたい気持ちになった。恋人の胸を叩いて、どうして私だけこんな体にならなければいけないのかと訴えた。どうして私だけがこんなお腹になってしまったのかと叫んだ。どうして妊娠してしまったのかと聞いた。どうして妊娠させてしまったのかと責めた。私はまだこんな風にはなりたくないのに、どうして待ってくれなかったのかと泣いた。私の自由を返してと彼の胸を叩いた。
彼は、何も言わずにただ悲しそうな顔をして私の頭を撫でるだけだ。言葉もなくそれ以上の仕草もない。彼を責めてもなにも変わらないとはわかっているのに、私は望まない妊娠をとても恨んだし、絶望的な気持ちになった。

泣きながら彼の胸を叩き、彼は悲しそうにそれをただ受け止めるだけだった。


やはり、こんな夢を恋人に話さなくて良かったと思う。
言えない言葉を、その夢は反映させているような気がした。
彼がもしその夢の話しを聞いて、何も傷つかなかったり何も気にしなかったりしても、私は聞いて欲しい類の話ではないと思える。正夢になるのが怖いからじゃなくて、私の本音を彼に覗いて欲しくないからかもしれない。

私は、いつどんな形で子供を授かるというのだろう。
誰と子供を作って誰と一緒に育てるというのだろう。
私の子供の父親としても、私の夫としても、恋人はなんの不足もない人かもしれないけれど、私のほうがきっと彼の子供の母親としても、彼の妻としても、不足ばかりが目につく人間のような気がして仕方ない。

もちろん、私たちのあいだで具体的な結婚の話しがあるわけではないのだから、そんな心配などしなくてもいいのだけれど、私個人のことだけを考えると、子供が出来ることを不自由だと思う人間が、いい母親になるわけがないと思えた。
2004年08月16日(月)  言葉は繋げていくもの
たまに自分でも感じるのだけれど、私は「言葉が足りない」。

こんなに毎日、言いたいことを書いているのにも関わらず、実際の私は相手に対する「言葉」が足らなくて、たまに誤解されたままになってしまうことがある。

自己弁護、言い訳、取り繕い。
説明しようと、誤解を解こうとすると、私はそれが自分自身の自己弁護や言い訳のように聞こえてならない。その理由はわからない。プライドが高いのかもしれないし、諦めが早いのかもしれない。

私の仕事に、同僚が指摘をする。
でも、その指摘は誤解だ。
本当はこうなんだと、主張すればいい。
けれど、私はしない。
面倒だし、その相手に対する誤解を解いたとしてもそれは無意味とさえ思う。
これは私の仕事であって、同僚の仕事ではない。
誤解されたままだとしても、私に罰が下るわけでもなく失敗するわけでもない。
だから、私は曖昧な返事をするだけで放っておく。

けれど、社会ではそういう誤解がもとでいろんな風当たりが強くなることもある。
噂は噂を呼んで、無関係だった人にまでそれは派生していき、私は誤解されたまま周りの人間に認識されていく。
罰はなかったけど、こうやって私は損をしていく。


誰かとじっくりと話していくと、相手に驚かれることが多いのも、私の言葉が足らない証拠だろうか。
面白いことに、私がこのサイトで書くことを、ウェブの外側にいた人間が読んだとき、皆がみな口を揃えて「別人のようだ」と言う。異口同音とはこういうことを言うのかと笑えてくるほどだ。
私の恋人は、私が彼をどれだけ大切に思っているか、そしてどんな風に冷ややかになっていくか、知らないはずだ。もちろんそれは本音や真実はすべて残らず伝えればいいというわけではない。けれど、私の伝えたい気持ちはきっと10分の1も伝わっていないかもしれない。
私は彼といろんな話しをしているにも関わらず、私は本当の気持ちや本当の言葉をまだこの彼には発していないような気がする。怖いから? なにが怖いのか自分でもわからない。


まだ、私は固まりたくない。まだ自分の世界を確固としたものにはしたくない。まだ柔軟でいたいし、まだ融通が利く人間でありたい。
言葉が足らない自分に歯痒い思いをしているのなら、明日から少しずつ言葉を足していけばいいじゃないか。ただそれだけのこと、とても簡単なこと。難しいと思っているうちは、きっとまだ足らないままだろう。自己弁護でも、言い訳じみていても、怖くても、嫌な思いをしても、格好悪くても、歯痒さに耐えられないのであれば、やるべきだと思う。
2004年08月15日(日)  オリンピックバカ
まあ、まあね、オリンピックですから仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないけど、土日休みだしね、どんな過ごし方をしていても、まあ、いいんですけど。
とは言ってもね、異常なんです。私の恋人のオリンピック熱は冷めることを知らないと言うか、いや、何かを通り越して、病気? というくらいのオリンピック馬鹿になってしまったのです。

まず、金曜日だったか忘れたけど、私が真夜中にふと目を覚ますとテレビがちらちら光っている。ふと、頭をあげるとベッドにもたれて恋人がテレビを見ている。「なにしてんの?」と驚いて聞くと、「あい!開会式だよ!始まったよ、オリンピックがさー!」はーそうですか、というかださーい、選手団の服ー、ていうか何時よ、いま。というと、「いいからここに座ってキミも一緒にオリンピックを楽しもうよ」と、こんな真夜中にひとりで興奮して、しかも一緒に寝たと思ったらオリンピックが始まる時間にのっそり起き上がってテレビを見ているのかと思うと、ちょっと気味が悪い。というか、ちょっと可哀想な人に思えてきた。うん、ちゃんと見てるからもうちょっと小さい声でしゃべってね、とひとりハイテンションなその姿がなんかちょっと……。

と、こんな具合にここ2,3日、彼は寝もせず出かけもせず、一日中、一日中! テレビの前で歓声をあげているのです、飽きもせず。私もべつに興味がないわけじゃないけど、試合のハイライトなんていくらでもスポーツ番組でやってくれるだろうし、しかもリアルタイムで見ようと思ったら真夜中になるんじゃないの? そこまでして見たいとはあんまり思わない。
でも、私の恋人はちゃんと時間の把握をしている。夕方からソフトボールがあるとか、水泳は午前2時だとか、頭の中にタイムテーブルがあるようにリモコン片手に一日中テレビを見ている。あー、もうやだ、やだ。どこにも出かけてくれない。何にもしなくなる。オリンピックが終わったと思ったら、次は高校野球見てるしね。

一番怖いのは、真夜中にふと気配を感じて目を覚ますと、起きてるんだよ、彼が。それが何より怖い。ひとりで小さいテレビの音に一生懸命耳を傾けながら暗い部屋で見てるんだよ、怖いよ。
出かけようよと言っても、無反応なので、じゃ、私ひとりで出かけるねと言うと、「えー、淋しいから一緒に見ようよ」と強制する。もう、この土日はずっとベッドに寝転がって菓子食べながら煙草吸いながら、健康的なスポーツの祭典をだらだらと自堕落的に不健康な観戦の仕方をしてしまったよ。

ちょっと、めちゃイケ見ようよと言っても、ぜったいぜったい見せてくれない。勝手にチャンネルを変えようとリモコンを探すと彼の手にしっかりとリモコンは握られて、私の方を見てにんやり笑っている。それを奪い取って8ちゃんに変えると、「あいは、柔ちゃんの金メダルと、極楽加藤の鼻が曲がったのと、どっちが大切だと思ってるんだ!」と怒るわけ。はぁー、スミマセン。

夕方から朝方までオリンピックを見て、昼過ぎに目を覚ます。ハイライトを見ながら高校野球を見る。真夜中に私が大事に残しておいたクリームパンを勝手に食べる。ビールを飲みすぎる。煙草を私に買いに行かせる。テレビを見ているその顔が、口半開き。柔道を見ようか野球を見ようか水泳を見ようか、悩んではチャンネルをピコピコかえる。

しかし、柔ちゃんってデブそうに見えるけど48キロ級なんだね。
ていうか、北島コウスケは泳ぎ終わったあと、頭を振りすぎなんだよ。なんであんなに頭を振るわけ?脳みそが揺れているんじゃない?
女子ウエイトリフティングって日本代表のあの女の子、体にちゃんと筋肉ついてる?折れるかと思って心配したよ。
やっぱり、イアンソープは強いね。良かったよ、金メダルとれてさぁ。これでとれなかったらバッシングだよねぇー。
つーか、藤原紀香ってオリンピックのキャスターだったんだね、知らんかった。
しかし、卓球の愛ちゃんはすっかり大人になったねぇ。小さい頃のVTRと比べてみてみると、なんか涙ぐんでしまいそうだよ、その成長に。

という、彼のオリンピック評。

いつまで、この熱が続くんでしょう。
寝不足だから、オリンピックニキビが出来ちゃってるしねー。30の大人の癖してオリンピックニキビつくってるしねー。もう、恥ずかしいよねー、そばで見てるとねー。
彼はこれからの数日間、オリンピックと仕事を両立できるんだろうか。寝不足で死んでしまわないだろうか。廃人になってしまわないだろうか。馬鹿になりやしないだろうか。
その異常さにやや心配。
2004年08月14日(土)  光が時間を切り刻む
夏だから、オンナノコはみんな素っ裸同然の格好で、煙はモウモウだし光は時間を細かく切り刻んで、熱気というよりは気だるい感じで、ドラッグとかキスとかお酒とか、そういうものが飽和している。

23時に迎えに来た車に乗って、踊りに行く。ジーンズのポケットにお金と煙草さえ持っていれば、あとはとくに何もいらなくて、大学生のある時期は毎週のようにここに来ていたし、社会人になってからも月に何度かは来たし、そのうち知り合いがたくさん出来てここに来れば誰か知っている人には必ず会っていたけれど、クラブ以外の場所でその人とすれ違ってもぜったいにわからないだろうなあって、思う。今は、そのときに知り合った人とは誰一人として連絡をとっていないけれど。
音楽が格好いいとか、ファッションの一部で流行りというよりは、無我夢中で頭を振って踊ったり誰の目も気にせずはしゃぐことが何よりも楽しかったし、そこで知り合う異性との出会いに期待を膨らませていたのかもしれないし、よくわからないけど、狂ったように毎週ここで遊んでいた頃を思って苦い懐かしさを思い出しそうになった。


店のカウンターには少し老いた外人のバーテンがいて、強いお酒を頼むと、「オンナノコはそんなに強いお酒を飲むものじゃないよ」という顔で指を横に振ってはいつもアルコールの弱いお酒しかくれない。

光が時間を刻んでみんながフロアで狂っているころ、2階のシートではきっとドラッグが使われているだろう。酒に酔っているのか薬に酔っているのかわからないような人がたくさんいるけれど、だからといってどうってことはない。

トランスになって踊るオンナノコのひとりひとりの腕を引っ張って腰をくねらせながらキスをしている男がいる。踊りながらキスをして、抵抗もせず身を任せるオンナノコを置いて、また人の波をくぐってはまた別のオンナノコの腕を引っ張って唇を重ねている。

疲れて椅子に腰掛けていると、知らない男が近づいてきて「ひとり?」と聞く。ひとりだからってなんなの、ひとりじゃなかったらどうなの、といつも思う。

テキーラをもった男性がテーブルを回り、客にライムを噛ませて飲ませてはその客の頭を揺すって喜んでいる。

ビールを片手にスーツを着た男からはすごくキツイ香水のにおいがする。きっと青山だとか広告代理店だとかに勤めていることを鼻にかけているようなタイプで、すごく白ける。

酔っ払って煙草がないことに気づいた。男がテーブルを探し回っている間に、また別の男が「ここ、座っていい?」と声をかける。世の中、競争社会だなと思う。

耳をつんざくような音楽と照らされたフロアがぐるぐると回って見える。奥の暗がりの中にあるロッカーの隅で誰かと誰かが抱き合っているのが見える。

お酒はきれることなく、誰かが運んでくれる。誰がとってきてくれたのか誰が買ったのかしらない。ポケットのお金は使われることもなく、私はずっと酔った状態のままでいられる。

人気のあるDJなのか有名なDJなのか知らないけれど、その音楽が鳴った途端みんなブースに向って歓声をあげながらフロアに飛び出る。

耳元で、「どこか行かないか」と男が叫ぶ。蝿を追い払うように手を振って、じっとりと汗をかきながらまた踊る。黒人の男性が陽気に叫んで日本人のオンナノコが奇声をあげているのが見えて、少し平衡感覚を失くす。

疲れたし飽きたし、連れた友達を置いてひとりで外に出た。涼しい風にあたりながらここから池袋まで歩いたらどれぐらいかかるだろうと考える。時間はもう4時になっている。道路に飛び出ると雨が降ってきて、酔っ払いがはしゃいでいた。

タクシーを拾った途端に雨は本降りになってきて、家に戻ってきたら徹夜でオリンピックを見る恋人と目が合った。「おはよう」と言ったら「ふん」と言われた。

仕方がないのでふたりで「皇室日記」という番組を見て寝た。
2004年08月13日(金)  理想の自分
たまに嫌な気持ちになることがある。
でも考えてみると、その嫌な気持ちになるようにした元々の原因は自分自身の中にある。

「周りの人間から見た自分」
「本来の自分」
「理想の自分」
これが大きくかけ離れている。
ここで言いたいのは、自分が周りの人間に「こう見られたい」とか、「どう思われているのか気になる」という話ではない。はっと気づいたとき、たとえば周りの人間からの何気ない一言に、私の中の私という人間と、周りから見られている私という人間に大きな隔たりを感じることがある、という話しだ。

私の理想はとても高い。
とても高潔で、だからそれは非現実的なんだと思う。
非現実的なくせに、私をそれを必死に追いかけようとする。なんのために?
最近、なんのためにその理想を追いかけるのか段々はっきりとしてきた。
それは、自分が「こうありたい」為ではなく、周りから「こう見られたい」と思っているからではないだろうか。周りから見られたい「自分」というのが、それこそ「理想の自分」ということではないだろうか。
他人から見た自分の話しを聞かされることがある。それはあまりにも「理想の自分」とはかけ離れたもので、しかも自分の意図することともだいぶかけ離れていることもある。そういうときは本当にがっかりするし、少し嫌な気分になることもある。うまく相手に伝わらなかったことや、まだ自分が「理想」の部分からかけ離れている場所に立っていることに。

私は、周りの人間の目を意識しているのだろうか。
そういう生き方は絶対に嫌だ。
格好悪いとさえ思っているし、アホらしいと思う。
けれど、やはりそうやって「周りの目を気にするなんて格好悪い」と思う部分が、私の理想の高さやプライドの高さや、それこそが「周りの目を気にしている」姿なんだろうか。

そう思うと、私はとっても嫌な人間になってしまったと思う。
理想の自分に酔って、垣間見た現実にショックを受けている、嫌な人間だ。
2004年08月12日(木)  シンドローム
仕事はうまくいっている。うまく行き過ぎているほどだ。
毎週月曜日のミーティングでは、社長が上機嫌な顔をしてのぞきにくるほどだ。
私たちが関わるプロジェクトが、今期もっとも会社が力を注いでいる仕事だという証拠なのかもしれない。
けど、社長なんてどうでもいい。常務もどうでもいいし、事業部長すらどうでもいい。売上高とか純利益とかどうでもいい。

何かのシンドロームにかかったみたいに、私は途端に相手の話す言葉がわからなくなる。相手の言葉がフランス語を話しているように聞こえるし、ロシア語にも聞こえてドイツ語にも聞こえる。あたまの回転が油が切れたように鈍くなって、眉間に皺を寄せながら、本当に彼らが私のわかるように日本語をしゃべっているかどうか、口元をじっと見て確かめられずにはいられない。
ふとした瞬間、自分の話していることが本当に相手に伝わっているのか、心配になる。私はいまちゃんと説明できているだろうか、相手に誤解を招くような説明の仕方や提案をしてはいないだろうか。本当にこの目の前の相手は、私の言いたかったことを受け止めてくれているだろうか。一語一語言葉を切って何度も繰り返し話し、神経質に何度も相手の理解を確かめずにはいられない。

他のいろんな仕事が、どんなものなのか私は詳しくは知らない。
私のいまやっている営業の仕事ほど、「話す」仕事があるだろうか。
一日中、私の唇にカメラを向けて、そのテープを早送りで見たら、きっとそれは滑稽だろう。休むこともなく唇を閉じることもなく、私はしゃべり続けている。一日中、話しをし続け、相槌を打ち続ける。

夜になって、オフィスで黙々と事務処理をしているとき、私はシンドロームにかかる。
上司の私を呼ぶ声が、外国語に聞こえる。アシスタントに仕事をお願いするとき、ちゃんと意図が伝わったか何度も確認したくなる。恋人の言っていることにぼんやりする。動きが緩慢になる。


仕事はうまくいっている。これまでの仕事とは比べ物にならないくらい楽しい。
これまで関わることもなかった、他の課の営業や企画課の人間やいろんなクライアントと話すことは楽しいし、彼らと話すことによって私の世界は広がっていくような気がしている。満足はしないけれど着実に目指すべき場所にベクトルが定まっているのがわかる。
なんのトラブルもなく、なんの不都合もない。

疲れているのかもしれない。その疲れは休めばすぐ回復する程度のものだと信じたい。自分自身ではキャパはあるほうだと思っている。それだけがとりえだと言ったら買い被りすぎだろうか。疲れているだけなら、それでいい。休日にたっぷり休めばいいのだし気分転換だってしようと思えばすぐ出来る。行き詰ったら相談できる相手だっているし、別に体調が悪いわけではない。だから、大丈夫だと思う。そう思いたい。
2004年08月11日(水)  馬鹿の軌跡
簡潔に整理をしてみると、最近なやんでいることは

『大学生のころ好きだった人が、帰国したという噂を聞いた』→『彼のことを思い出した』→『そういえば、かなりヘビーな恋愛だったなぁ』→『初めてちゃんとした恋愛をした相手ではなかったかしら?』→『ひとまわりも歳が離れていた相手だったし、あのころはその人も離婚したばっかりだったなぁ』→『かなり辛い思い出だなぁ』→『まぁ、いまはヨーロッパあたりに住んでるんだけどね』→『けど、近頃何年ぶりかの帰国をした、と。』→『もしかして、私たちまた会ってしまうのかしら』→『会っちゃったらやばいわ、なにがヤバイかわかんないけど、なんかヤバイ気がする』→『あぁ、どうしようどうしよう』→『なぜか、動揺』

と、まだなにも起こったわけでもないのに、なぜか私はヒヤヒヤ、ドキドキしているのです。ひとりで勝手に動揺してしまったりしているのです。

が、電話がかかってきた。
電話がきたのです。
電話がー。電話がー。
あー、で、今度ご飯食べに行くの。
その彼と。恋人じゃなくて、その人と。

なに?
なんにもないでしょう。
いろいろ、考えすぎなんだよ私は。
いいじゃん、ご飯くらいだし。
4年ぶりくらいだしねー。
だいじょぶだいじょぶ。
なにが、大丈夫なのか知らんけど。
なんにもないって。
なんにも起こらないってば。

なにって、たとえば、
んー、たとえば
キスされるとか?
抱っこされてしまうとか?
なんかされてしまうとか?
っていうか、ありえないってー。
馬鹿じゃないの、エロなことを考えすぎです、自分。
むしろ、そんなことを望んでいたりして?
いやいやいや、あまりにも救いようがない。
そんなことを望んでちゃ、あまりにも救いようのない人間になってしまう。
こらこら、現実を見なさい。
だって、恋人だっているでしょうー。
恋人のこと好きでしょうー?
だったら、そんな妄想をするのはおかしいよねー。
おかしい、おかしい。

ていうか、もう前の恋人と会う時点で、やばいんじゃないだろうか。
恋人が、前の彼女と密会していたらどう?
いやだねー。なんにもないとしてもあんまりいい気持ちじゃないねー。
そうでしょうそうでしょう。
でもさー、べつに数年ぶりに帰国した人とちょっとご飯食べに行くくらいいいんじゃない?
ちょっとご飯食べに行って、「いやー、あのころはいろいろあったねー」なんて、
他人事のようにあの頃の話するだけだってばー。
それ以上、なんもないってー。
大丈夫だってー。

あー、なんだかいろいろ考えすぎてお尻がかゆいー。
かゆいかゆいー。

行っちゃえ行っちゃえ。
だって、もう約束しちゃったし、
もうお店も決めたし、時間も決めてあるし。
行く気マンマンじゃないですか。
マンマンですよ。
マンマンで何か悪いことありますか?
べつに後ろめたいことをするわけじゃなく、
ご飯食べに行くだけだし、
それだけだし、
だけだし、
だし、
なにが悪いのー、と逆切れ。

あー、馬鹿な女ってこういうふうに周りが見えなくなっていくんだなぁと思う。
2004年08月10日(火)  食欲性欲睡眠欲
おなか減った! おなか減った! もう今日はわんさか食べるぞー。夜だからってデブになるからって知るかい。お昼はパン一個だったんだ、あとはボルビックしか飲んでないんだ。だから夕飯はわんさか食べるぞー! と息巻いて帰りの電車に乗り、「今日の夕飯なに?」と恋人に電話をしコンビニ寄ってサラダとから揚げ君を追加買いし、家にたどり着き、テーブルに並べられた愛夫の夕食の匂いを嗅ぐと、途端に「もう食べたくなーい」と思ってしまう。
違う、恋人の作った夕飯が不味そうだったからじゃない。家に着くまでに何かを食べたわけでもない。でもでも、「ご飯食べれる!」という欲求を視力で満たすと途端にその気持ちが失せてしまう。
あ、恋人に夕飯作ってもらってんのサイテーなんて、みなまでいうなみなまで。
レストラン行って注文して料理がきた途端に、とかコンビニで買い物をすませた途端に、胃が「もう食べたくない」と言う。なぜ。

眠い眠い、あー眠い、眠すぎる、死んじゃう、眠すぎて死んじゃうと、グズグズぐずっていても、まだお風呂入ってないから眠れないなぁ、早くはいって早く寝ようと思うけど、えーシャワー面倒くさい、髪の毛濡らしたらまた乾かすの面倒くさい、風呂場まで行くのが面倒くさい、立ち上がるのが面倒くさい、なんてグズグズしながらシャワーを浴びてパンツはいた途端に、眠気が失せる。あの眠気はどこ行っちゃったんだ。あれだけ目が半分つぶれていたのに、なんで深夜にもなって目が冴えてしまうのか。なぞ。

あー、たぶん私は「釣った魚にエサはやらない」タイプなのだわ、きっと。

「○○したーい」という欲求がもうすぐ叶えられそう、さあ叶えられたぞ、準備は整ったぞ、レッツゴーって言った途端、もう興味がなくなるんだ。

食欲・睡眠欲ときたので、残るは性欲なんだけど、これに関してはその名の通り恋人に対して「釣った魚〜」にならないように、失礼にならないように種の保存をかけてまさしく精力的に励もうと思うのですが、やっぱりやっぱりベッドに入って3つ数えるうちにすぐ眠れてしまう。眠っちゃいけないときに眠れてしまう。歯を磨いてたときまでは、眠くないなぁ、眠れるのかなぁ、明日早いのになぁ、やばいなぁ、って思ってたくせにベッドに横になって目を閉じて目を開けたら、あっという間に朝だよ。3カウントノックダウンで私の勝ち、恋人の完敗。ちょっと朝の恋人は機嫌悪いんだよねー。やっぱり機嫌悪くなるよねー。ごめんねーと心の中で謝ってみる。

今日、部屋に転がっていた恋人が買った雑誌をめくっていたら、グラビアなギャルがたくさん載っていた。「なるほど」と思った。性って難しいねー。
2004年08月09日(月)  押して引いたら
今日、同僚の女の子を泣かしてしまいました。

まぁ、いろいろあったんだけどねー。
しくしく泣いてたわけではなく、彼女も負けず嫌いなので必死で涙をこらて目が真っ赤って程度なんだけどねぇー。
あー、もうガンガン言いまくってしまったんだよねぇー。
ちょっと、仕事で頭に来ることがあってねぇー、
我慢すればよかったんだけど、ちょっと堪えきれなくなってねー、
ガンガン言っているうちはまだ彼女も強気で反論しようとしてたんだけどねー。
ああ、でもこれ以上言ってもただ感情的になるだけだと思って
ま、ちょっと言い過ぎちゃったけど、私も○○するからさぁ、あなたも忙しいと思うけど今度から○○してくれると助かるよー、
って言ってとにかく早く仕事終わらようとしてたらさー、
「私も言い過ぎました。次から気をつけます」って言ったからさー、
ちょっと忙しいとカリカリもするけどさー、言い過ぎたヨごめんねー、私も出来ないこといっぱいあるけど一個ずつゆっくりやってこうよー。とにかく一緒にガンバローよ、ねー。

って言ったら、ちょっと泣いちゃったんだよねー。
結局、私が泣かせる相手って、ガンガンきついこと言ったあと、ちょっと言葉を緩めて優しい言葉をかけたらホロリってくることが多いんだよねー。
ていうか、私は相当キツイし、口論とか議論とかそういう頭の中でのケンカなら誰にも負けないんだけど、相手はそのぐいぐいと押すキツさに耐えて耐えて、そんでもってふと力を緩められると、あっという間に倒れてしまうんだよねー。

人ってそういうもんかなー。
ちょっと以前、私の担当する派遣社員を毎日日替わりで数日間連続、泣かせたことがあるけど、そんときもぐいぐい突いてふと手を緩めたら、我慢してたやつがドバーッと出ちゃったことが多いもんねー。

というか、やっぱり私は怖いんだわー。
泣かせ過ぎ、きつ過ぎ。
自分が泣くのは全然いいんだけどねー。人が泣く、とあーって一気にヤになるねー。
2004年08月08日(日)  痛みの中にある記憶
私が18歳で出会ったとき彼はちょうど30歳だった。21歳で別れてしまったとき彼は33歳だった。いま、私は25歳になって彼はきっと37歳になっている。時間はなんのために正確に進むんだろう。
私が好きな本の中にこんな言葉がある。
「心がこんなにも切なく『待って』と頼んでいるのに、体はどうして耳も貸さずに足早に行ってしまうんだろう」
本の内容とは全く違う解釈だけれど、私の体は私の心を無視して、ただ正確に時を過ごしてしまった。時間が流れるほど体はどんどん前へ進んでいくのに、心だけは後ろばかりを振り返る。過去に惹かれながら前へ進むことを躊躇っている。そんな心の動きに、しかし体や時間は耳を貸さず足早に行ってしまう。そして、最後に彼を見たときから4年も過ぎてしまった。


私がその彼を思い出すとき、私は十分に自分に酔っている。それはわかっている。よくわかっている。思い出は美化されつづけ、結局、最後に残るのは笑ってしまうほど自分に都合のよい事柄しかない。ひどく醜いことや都合の悪いことは上手く忘れてしまえる。

好きな人と好きな気持ちのまま別れなければいけないとしたら、それは美化された思い出の中で自分に酔いながら生きたとしても罪にはならない気がする。そんな別れと引き換えに、どんなに感傷的になって思い出を蘇らせても許される気がする。
私は、そんな都合のいい言い訳で自分を弁護しながら、ただ自分に酔っているだけなんだ。


『離婚する』というのを初めて間近で見た。
どうして離婚したのと、私は、彼が一体どんなシーンで女性と破綻するのか、ただの興味本位で聞いた。聞かなければ良かったとあとで後悔してももう遅い。結局、その話しが私と彼の本質を共鳴させて私は引き返せなくなったし、彼は彼で更に苦悩することになった。
美化された思い出の中では、私はそんな風に「彼が離婚したこと」を覚えている。
僕みたいな男は好きにならないほうがいいと言われたし、僕といてもつまらないよとか、当分女性とは関わりを持ちたくないなんて、散々なことを言われた。ただ私はそれにたいして、だって私はあなたのことが好きなんだものと、馬鹿の一つ覚えみたいに直線的に突き進むことしか出来なかった。

恋人だとか、両思いだとか、片思いとか、結婚とか離婚とか、不倫とか、セックスとか、いろいろ考えたけど、どれもいまいち現実的には感じられなかった。だからと言って、私は、私たちのことを世の中から一線を引いた特別な世界に存在しているものと考えてはいない。特別な私たち、特別な恋愛、他とは違う、皆とは違う、と考えるよりむしろもっと現実的に捉えたがっていた。私たちの関係に俗っぽい名前をつけたがったし、例に漏れず私は私たちに意味を求めたがった。
でも出来なかった。やはり少し違ったのだ。何が違ったなんて言葉ではいえない。悲しいことに、私たちはどんな意味を求めるより遥かに重すぎたし、私たちは私たちの関係に名前をつけることに苦労した。
私は、一体どんな次元で彼に恋をしたというのだろう。

今の私は、少なくとも彼に影響された部分がある。
物の考え方とか、何かへのスタンスとか、嗜好とか、それは価値観の影響と言うかもしれないし、ただの受け売りのような気もする。私という鎧を脱ぎ捨てたらそれは彼になるかもしれない。それほどの影響力で、私の美化された思い出の中で彼は、絶大な信頼を寄せる相手だったし大きすぎる存在だった。たとえ、僕と一緒にいないほうがいいと言われても、少しでも優しくされれば私はずっと呼吸をしなくても生きていける気がした。
行き過ぎた思いだった。美化された思い出の中で彼は、美しい。


出会わなければよかったと、いまはっきりと後悔する。
これほどの後悔を私はこれまでしたことがない、というほどに。
もし彼に出会わず、いまの私という人間がいまの価値観を持たなくなるとしても、私は彼に出会ったことを、痛切に後悔している。痛いほど後悔している。
胸がとても苦しいからだ。
2004年08月07日(土)  音もなくあがる花火
8月の毎週土曜日、午後8時過ぎくらい。私の部屋から花火が見える。
としまえんでやっている花火だろう。私の住む場所からどれくらい遠いかわからないけれど、大輪の花火は、高い建物に半分隠れたり、建設中のマンションのクレーン車に邪魔されながらも、ときどきはっきりとその姿をこちらに見せてくれる。
大砲が鳴り響くような音が聞こえたら、私はカーテンを開けベランダに出てその方角を探す。音に遅れて咲く花火を、私はじっと見つめる。街の喧騒でときどき打ち上げ音は聞こえなくなる。音もなくあがる打ち上げ花火がどれだけきれいか、誰か知っているだろうか。
トムハンクスが映画「アポロ13」の中で、庭に寝転がって月を眺めるシーンを思い出す。これから自分が行くであろう小さな月に向って片目を閉じ、親指を伸ばしてのぞいたり隠したりするシーンだ。私は真似して、花火の咲く位置に親指をかざしてみたりする。

毎年、その花火を見ていた。

恋人に振られてひとりぼっちで過ごす週末の夜や、バイトから疲れて帰ってきた夜や、一日中だらけて過ごした休日の夜、たくさんの買い物の品で散らかっている部屋で、ひとりっきり、或いは誰かと、私は毎年小さく遠くにあがる打ち上げ花火を見ていた。

いつかの夏、私は暗い部屋でその花火を見ながら泣いていたと思う。誰かと泣きながら電話で話していた。あの電話の相手は一体誰だったろう。私は、花火を見ながら「今だったら花火が見えるから、早く帰ってきて」と懇願していたような気がする。私は、その花火をその人とこの部屋で見たいために泣いていたわけではなく、もう戻らない、もしくはまだ戻らない誰かに淋しさを訴えていたような気がする。ここにはいない誰かに、悲しくて淋しくて、早く一緒に花火を見ようと呼んでいたのかもしれない。
あれは、いつのときだったろう。あれは、誰と話していたときだったろう。
私はもう忘れてしまって、そのときのことを鮮明に思い出すことは出来ない。


いつしか、雨が降ってきていた。今日は一日中雨が降りそうで降らない天気だったのに、今になってやっと降りだした。としまえんでは、何百人と言う観客がこの花火を見ていることだろう。とうとう降りだした雨を避けながらも空を見上げているのかもしれない。青い花火や赤い花火を。
私と恋人は、雨を避けることもなく、濡れる服を気にすることもなく、部屋の中で遠くの花火を見つめる。黄色い花火や緑色の花火を。

打ち上げ音がかき消され、音もなく咲く花火を誰が美しいと知っているだろうか。
誰も知らない。この部屋にいる私と恋人しかきっと知らない。
2004年08月06日(金)  涙
私は本当によく泣く。本当によく泣く人間なのです。
泣く姿がもっとも似合わないと周りの人間に思われれば思われるほど、気持ちは悲しみとか辛さとか悔しさに耐える。それでも堪えた涙はふと気を緩めた隙に溢れ出る。

好きな人がいると、ただその人に恋をする気持ちだけで涙が出る。
この人が好きなんだと、私はなんどもその気持ちをかみ締めて涙を流す。
仕事で起きた悔しかった出来事が、暗い部屋の中で思い出されて、そのとき我慢した気持ちをいま解き放す。そしてまた涙が出る。

人前では泣きたくない。負けず嫌いな気持ちが悔しさを堪えさせてくれるけれど、恋人の前では素直すぎるほどすんなりと涙が出る。私はこの人の前ではなにも我慢したくない。

すすり泣く。
さめざめと泣く。
声をあげて泣く。
声も出ず泣く。
知らぬ間に泣く。
夢を見ながら泣く。

恋人は困った顔をする。
笑いながら涙を拭く。
悲しそうな顔で抱きしめる。
放っておく。
背を向ける。
髪を撫でてじっと見つめる。
背中をさすってティッシュをとってくれる。
手を握ってくれる。

私たちは、いろんなシーンで慰めあい、いさめ合い、解放しあって、結局は涙が鳴り止んだあとの静けさに一緒に耳を澄ます。しんと鳴る部屋の中で私たちはじっと何かについて考え、そっと寄り添う。彼が酷い人だから私が泣くのではなく、ケンカをしたから泣くのではなく、もっと抽象的な悲しさに私たちは身を沈めることもある。

泣くことで私は私の中に何かの決着をつけることが出来るし、私は何かを見つけることもある。彼は私が泣くことで、一体何を得るんだろう。若しくは何を失うんだろう。少なくとも彼は、私が泣くことを嫌がらず、泣くことで私が何かを昇華させたり、何かの方をつける方法であると知っている。自分を責めたりはしないし、私を責めたりはしない。

泣かせてくれる胸があるのであれば、たとえそれが私の我侭であっても、永遠に甘えていたいと思う。ずっと甘えていたいと思う。
2004年08月05日(木)  ということで、ブラスト!
ということで、「blast!」に行ってきました。今日はわざわざ会社を休んだのですよ。月初の忙しくないうちにね。

かっこいい!んもうなんて言えばいいの?カッコイイのです。そうとしか言えない。
Blastはマーチングバンドとダンスが合体したパフォーマンスショーみたいなものです。狭いステージをフォーメーションを組みながら踊ったり走ったりして演奏するのです。カッコいいー。唯一の日本人男性がいるのですが、彼の「ボレロ」はカッコよかった。

マーチングバンドは金管楽器とパーカッションで組まれているのですが、私もトランペットをしていたので、やっぱり目で追いかけるのはトランペットの姿ばかり。金管楽器は自分の唇を振動させて音を出す楽器です。木管楽器はリードという薄い木を振動させて音を出すし弦楽器なら弦を振動させるものですけど、金管楽器は体の一部を振動させて演奏するのです。そう考えるとなんだか不思議。自分を震わせて音を搾り出すなんて、身を削りながらも好きな音楽を演奏して楽しんでいるような感じもするのです。
それでも、blastを見ていた中で一番美しいと思った音は、トランペットの輝く音でもなく威風堂々としたスネアの音でもなく、人の声でした。やっぱりはっとさせられるほど美しく空気を振動させるのは、楽器を通す音ではなく体から直接奏でる声なのかな、なんて思えました。

あいだのインターミッションでは、ロビーでもパーカッションたちが演奏してくれます。もうロビーは大混雑で人にぎゅうぎゅう押されながらも背伸びしながら石川さんを見ましたよ。かっこいいー。


バイオレット、ブルー、グリーン、オレンジ、イエロー、レッド。
テーマカラーごとに曲風やパフォーマンスが変わって、お尻まで震わすような重低音や、胸を突き刺すような高音や、優しい音色のフリューゲルホルンの音を聞いていると、いつか小さい頃、海に深く潜って海面を見上げたときに見えた、キラキラ輝く太陽を思い出した。海面越しに見た太陽をふと思い出した。
すごく感動したんだけど、それをうまく書き残すことが出来ない。それがすごくもどかしくて残念。いいものは色んな人に見て欲しい。たくさんの人に見て欲しい。私と一緒に行った恋人は、感動して指笛を吹きっぱなしでした。私たちは興奮して手を叩いて手を振って、来年もまた来日したら見に行きたいねと、言い合った。
2004年08月04日(水)  薄い眠りの中で
「どうも」と開口一番、異母兄は言った。
どうも、と私も返す。とても久しぶりに兄に会った。久しぶりと言っても2ヶ月ぶりくらいだろうけれど、私たちがそれほど会わない期間をおくことは、とても珍しい。

恋人と兄の家に遊びに行った。
私は、最近どうしようもなく眠いことが多くて、そのときもソファーに横になってこっくりこっくりとやっていた。兄の声と恋人の声が遠くで聞こえる。
不思議な感覚がした。兄と私の恋人が私を抜きにして話をしていることが。

兄は兄なんだけれど、私は兄と一緒に過ごす時間がまだ短いためか、ふとただの異性の人間にしか思えないことが多い。異性の知り合いの中で兄は、私にとって大切で特別な存在だ。その思いそのものが“兄”という感覚なのか、私にはよくわからない。

ふたりが何を話しているのかもう聞こえない。私は薄い睡眠の中を彷徨っているからだ。それでも、心地よいと思った。兄のようで兄でない男性と私にとって恋しいと思える男性が、私の眠っている最中に仲を深めている。
それが私には、嬉しくもあり不可思議でもあった。
2004年08月03日(火)  次はコレだ!
直木賞受賞作に釣られて
「奥田英朗 空中ブランコ」
んー、重松清に通じる感。空中ブランコの中の「空中ブランコ」だけちょっと泣きそうになったけど、いやー伊良部みたいなのが近くにいたらヤダなと思うわ。伊良部の無邪気さと言うか無心さに現代の大人ははっと我に返るのだろうか。んーどうだろう。

帯買いで
「市川拓司 いま、会いにゆきます」
とにかくよかった。涙の波が3回くらいきました。私がこれを読んだのはまだ「世界の中心で愛をさけぶ」がブレイクする前だったのだけれど、いまやこの本は「セカチュウの次はこれ!」といわれる本になったそうで。雰囲気的にはセカチューに似ているかもだけど、子供がねぇ、子供が出てるからねぇ、やっぱり子供に泣いちゃうのはねぇ、仕方ないよねぇ。最近はこの本のCMを見かけます。森を散歩する世界観が好き。

市川拓司つながりで
「恋愛しゃしん」「Separation」
恋愛写真は広末涼子と松田龍平の映画「恋愛写真」をモチーフにして別の物語を書いたものらしいけど、「いま、会いにゆきます」と比べてしまうと、どうもいまいち。「Separation」は「いま〜」のオリジナルなんだろうけれど、ちょっとあまりにも暗くて、どうもいまいち。

話題に釣られて
「伊坂幸太郎 重力ピエロ」
今年の私のイチオシ。すばらしいー。登場人物が魅力的。こんな男性(お兄さんのほう)がいたら私はぜったい惚れるでしょう。善とか悪とか制裁とか犯罪とかいろいろテーマはあるけれど、いちばん残った言葉は「大切なことは軽く伝えればいい」ということば。それにしても、レイプされた子供を産んだ母親はすごいと思えるけれど、あまりにも重過ぎる。私にはそのレイプで妊娠した子供を産むということ挿入話じたいがショックだ。

伊坂幸太郎つながりで
「ラッシュライフ」「アヒルと鴨のコインロッカー」
「オーデュボンの祈り」「陽気なギャングが地球をまわす」
ラッシュライフは文章が上手。登場人物が入れ替わるごとにイラストが挿入されているのだけどそれを覚えていると、あ、次は○○の話に変わるんだなってわかる。最後ですべてがうまく円になったときすごくすっきりした。エピソードのリレー。アヒル〜は、入れ替わる章ごとの最後の1行がぜんぶ統一されている。ラッシュライフもか?人は誰でも誰かの脇役なんだよね。自分を中心に世界はまわっていないことを垣間見る。オーデュボンの主人公は、いろんな本にちょい役で出過ぎなのですよ。伊坂幸太郎の本は登場人物を使いまわしている。陽気な〜は伊坂ワールドの入門編です。

帯買いで
「蓮見圭一 水曜の朝、午前三時」
大絶賛。少女チックな世界の恋愛です。大人の女性が好きそうな恋愛話。ドラマの中のドラマという美しすぎるお話し。奥ゆかしいわけです。

蓮見圭一つながりで
「蓮見圭一 ラジオ・エチオピア」
んもう、うんざりな女が出てきます。男もバカ。

佐藤正午が絶賛していたので
「盛田隆二 夜の果てまで」
とにかくセックスしすぎです。札幌が舞台なのですが、ちょうど札幌に遊びに行った時期で、「ああ、セイコーマートあそこにあるじゃん!」って喜んでたら札幌地域にはセイコーマートがいたるところにたくさんありました。男の人ってこうやってダメになっていくんだなぁとか、こんな部分で奮起するんだなぁなんて思いました。単純だし優柔不断で弱っちいのに、すべてを捨てたらきっと女性より男性のほうが強くなるんだろうなと思った。それにしてもこの女性は、たぶんまた別の男の人とふらふら逃げて行きそうな予感がするのは私だけ?

久しぶりの新刊なので
「天童荒太 家族狩りシリーズ」
この人の本はキャスティングがかんたんに思い浮かんでしまう。まずやっぱり中谷美紀。彼女の履き違えた正義感がぴったり。そんでもって椎名桔平。今回は渡部篤郎はおやすみ。子供を育てるのは親の力だけじゃなく、周りの人間(それが他人であっても)の影響や協力も必要になって来るんだろうなと思う。他人の子も自分の子。


私はとくに帯かジャケットで本を選んで買います。あとは人に勧められたりとか。はじめての作家の本はだいたいが「当たりの本」なので感動した余韻をひきながら別の本を読んでみると「ハズレの本」の場合が多いのです。最初は好印象。なのに次々と読み進めてみると「んー、ちょっと、ごめんなさい」となぜだか謝ってしまいたくなる。たとえば、セカチューの人とか。
そういえば、セカチューに並ぶ本が最近続々と平積みですね。アレ系の本は大学生のころ、読み漁りました。いまでもうちの本棚にあります。市川拓司の「いま、会いにゆきます」しかり、あとは西田俊也とか?
自慢じゃないけど自慢だけど、私がふと手に取った本は数年後にブレイクする傾向があります。セカチューなんて発売した当時にこっそり買って読んでたし、佐藤正午のジャンプとか、あとは思い浮かばないけどとにかく私の読んだ本は、いずれブレイクします。ブレイクブレイク。もうすぐ市川拓司はきます。次はもしかしたら西田俊也か意表をついて?盛田隆二の「夜の果てまで」。

と、勝手に偉そうに予言をしてみたり評してみたり。
2004年08月02日(月)  結局のところ
結局、私はイライラしているだけなんだと思う。

毎月、生理がくる。生理の一週間前はひどくイライラする。八つ当たりしたくなる。嫌な人のことが気になって仕方ない。自己嫌悪に陥る。何もかも投げ出したくなる。
男の人にわかるだろうか。毎月、同じようなサイクルでそんな精神状態が訪れることを。嫌な汗をかく。夏なのに寒気がする。腹痛がする。貧血になる。

でも、生理だけのせいなんだろうか。先月の生理はいつきただろうか。本当は生理のせいじゃないんじゃないだろうか。イライラして甘えたくなる。思い切り泣いて叫びたくなる。全部捨ててどこかに行ってしまいたくなる。

生理のせいにして、イライラの核に目を背ける。
私にはしなければいけないことがあるし、誰かに求められていることがわかるし、深刻に考えなければいけないことがたくさんある。

イライラの根源を、本当は知っている。でも、今はそれに対抗する気力がない。毎日使い果たす気力は、深夜になるとすっかり尽きてしまっている。

もう少し時間が欲しい。もう少し余裕が欲しい。
もう少し、もう少し。
2004年08月01日(日)  買っちゃった。

書くことないわけ。
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