umityanの日記
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2013年04月30日(火) 僕の白い一日。

僕の白い一日が終わった。昨日のことである。早朝より、庭を掃き清めた。縦横無尽にキンモクセイの葉っぱが飛び散っていた。「この木、何の木?、・・・・」とかいうコマーシャルがあったが、それを彷彿とさせる、我が家のシンボルの木である。掃き寄せた葉っぱは、木の根元に置いておく。これが結構、良い肥料になる。そこまではいいが、風が吹くと、僕の労働も元の木阿弥。桜の花びらなら風流だが、木の葉では様にならない。新たな葉っぱと、掃き寄せた葉っぱが交錯しながら舞い落ちる。まああ、これは仕方がないことだ。自然様と、いたちごっこをしても始まらない。掃除をしたという痕跡があれば僕としては満足だ。

掃除を終え、部屋の点検。客を迎えるのに、手落ちがないか見回る。あればあるものだ。即、気になった所を、補正、あつらえ直す。そうこうするうちに客が来始めた。挨拶を交わし、受付を済ませ、食事を用意し、行事の開始まで待機してもらう。例によって、「総会、そうかい」があり、その後、ほぼ1時間の行事が始まる。これは僕が主演を務める。内心は早く終えて、友人の講演にバトンタッチしたい気持ちで一杯だ。汗だくだくで、無事につとめを果たした。心は白色。

放心状態で、友人の紹介をした。紹介している間に、友人はプロジェクターの準備をして、いよいよ講演の始まりだ。じっちゃん、ばっちゃん達は、目を白黒させながら、「何が始まるのだろう?」と興味津々。僕の前宣伝が良かったのか、途中で帰る人はほとんどいなかった。やれやれだ。

友人の流暢な語りと、画像に観客は釘付け。大成功だ。既に、来ていたネズミ男君は、我が先祖が漂着した港の古い写真を見て痛く感動していた。ネズミ男君の先祖は船大工だったらしく、港にたどり着き、その地で貢献したようだ。船大工の技術が町を活性化させたと言う。

そうそう、アルバイトのシズカちゃんも、台所で、せっせと味噌汁を作ったり、配膳したりして働いてくれた由。残念ながら、ネズミ男君と顔を合わせる事はなかった。というのも、事前に、僕の日記を読んでいたらしく、僕の目論見を見透かしたようだ。本当は友人の講演を聴いて欲しかったのだが、ネズミ男君と顔を合わせると、決まりが悪いからなあーーー。講演が始まった頃、そそくさと帰って行った。彼女が帰り際、残した一言。「かっこよかったわよーー」。僕を褒めてくれた。嬉しいかったが、「かっこよかった」のは、美もしたたる僕の姿なのか、僕が演じた一挙一動だったのか、定かではない。勝手ながらその両方にしておこう。

他に、友人が連れてきたアルバイトさんがいた。友人に、事前に紹介されていたが、その時は、眼鏡をかけた「あられちゃん」風の若い女性という印象があったが。当日やってきた姿を見た時、全く別人のようだった。というのも、すらりとした長身で、眼鏡をつけていなかった。美人さんである。彼女も、シズカちゃんと一緒によく働いてくれた。感激、感激である。まだ、25歳という若さ。最後まで後片付けをして、袋一杯のお土産を持っ帰った。

てなわけで、僕はまだ、昨日の余韻が後を引いていて、放心状態。だが、しかしばっと、時は僕を待ってくれない。もうすぐ、外出しなければならない。これも、僕の宿命。時が来たら、時を迎え撃つしかない。疲れは残っているが、本来、ストレスを感じない性分。今日もいくでーーーー。




2013年04月27日(土) 暦に惑わされるな。

巷では連休話で花が咲いているが、こちとらは「れ」という字さえ、うとましく思える。今日から30日まで、フル稼働だ。一日、二日を置いて、三日から六日まで、連日の労働。やんなっちゃうぜ。その後も、例によって、「総会、そうかい」と、総会が目白押し。

「僕には一体、何時、休みがあるの?」と、頭を巡らしてみた。何のことはない。毎日が休みみたいなものだ。結構、自由をしているじゃないか。暦にこだわるから、世間の動向に惑わされるのだ。「日々、是れ好日」。ただひたすら、流れに沿って歩めば良い。そう思うことにした。

さあ、いよいよ、明後日は我が家でのイベント開催。準備は万端だ。200名近くの来訪者がある。弁当を出して、イベントを消化し、その後、講演がある。昨年は当地在住のソプラノ歌手に歌ってもらった。じっちゃん、ばっちゃん達も一緒に童謡を歌ったっけ。歳はとっても、皆、子供だぜ。

2年前は、女性琵琶奏者の演奏を聞いた。「祇園精舎の鐘の音。娑羅双樹の響きあり。ボヨ・ヨーン」。切ない低音の声と怪しげな琵琶の音が、今にも、平家の亡霊を呼び寄せんばかりの迫力だ。一瞬、場内は「シーーーーン」と静まりかえった。間を置いて割れんばかりの拍手が・・。じっちゃん、ばっちゃん達の顔は、わらいながら、ひきつっていた。

かくして、今年は友人の講演だ。じっちゃん、ばっちゃん達が喜んでくれればいいんだが。後は、彼の話し方次第である。今まで、紐解かれなかった歴史を知るのも大いに勉強になるだろう。「へえーー、そげんことがあったんばー」と、目を白黒させるだろう。

講演が終わった日の翌日、もしくは翌々日は、小料理屋、ひろこさんの店「梓」で反省会ということになるだろう。そういえば、先々週は、ひろこさんは、風邪で一週間ほど、店を閉めた。珍しいことだ。旅行以外で、店を閉めたことがなかったからだ。先週、店を訪れたら、まだ本調子じゃなかったが、勧められれば、おちょこで、酒をぐいぐい。「あの風邪は一体何だったの?。鬼の撹乱かあー?」と笑った事よ。

まあ、とにもかくも、僕にとっては、この行事を終えれば、後は正月を待つだけだ。早く来い、来い、お正月。


2013年04月23日(火) 今にも泣きそうな空。

4月23日火曜日。今にも泣き出しそうな空模様。最近は気象予報が良く当たる。すばらしいことだ。願わくば地震の予知ができたら良いのだが、まだまだ、そこまではいかないか?。

今日は朝から出勤。クライアントの仕事を一つ、かたづけた。その足で、のび太君の事務所まで赴く。なんとなれば、近くの農家からレタスをしこたま、もらったので、彼の所へ差し入れた。彼の奥方がたいそう喜んでくれた。職員達とわけるそうだ。

ところで、21日の日曜日は、彼の事務所の2階でパーティがあった。彼が発起人となり、催した演劇の一周年。役者さん達を呼んで、飲み会をやったわけだ。僕は役者ではないが、チケットを90枚捌いたということで、声がかかった。それならと言うことで、チラシを千枚以上折ったネズミ男君も呼ぶことにした。

総勢16名。それぞれが持ち込みで、2階のフロアーには大量の料理が並んだ。僕は、缶ビールとワインを持参。円陣を組んで、わいわい騒いだ。カラオケがないのが残念だ。ネズミ男君、十八番の「ジュリアーノ・ハートブレイク」が聞きたかったのだが・・・。宴ももたけなわの頃、たらふくまんまで、僕とネズミ男君は退散。閑散としたネオン街を店を求めてさまよった。日曜日も開いている店の暖簾をくぐった。ここで、気持ちよく酩酊。後は野となれ、山となれで、無事に代行で帰還した。

話が前後したが、のび太くんの事務所を後にし、我が家へ帰ると、どらえもん君がやってきた。彼とは同業者なので、色々と有益な情報をもたらしてくれる。僕、ジャイアンにとっては、有り難い存在である。

グッドタイミングで彼がやってきたので、29日に我が家で催す講演会に来ないか?と誘った。実は昨年も彼はやってきた。目当ては講演より、たいそう美しいアルバイトの女性(医大生)の顔を拝みたかったのが本音だろう。「彼女は今年は来ないの?」と彼が聞いたが、残念ながら卒業して故郷へ帰った由。

そこで、僕は言ってやった。「今年は、あんたも知っている、シズカちゃんをアルバイトで雇っている」というと、「あーー、そう」と言って、にんまりと笑った。実は、シズカちゃんは、昨年だったか、ネズミ男君の見合い相手として紹介したのだが、「極めて優しい女性でないとだめ」という彼のかたくなな幻想が、首を縦にふらせなかった。シズカちゃんから言わせれば「私のほうから 、お断りよ」という事になるか?。

そこで、僕、ジャイアンは一計もくろんだ。29日の行事には、学生時代の友人が講演者となる。僕はなけなしの金を工面して、プロジェクターを購入した。「小西行長と加藤清正の連合軍に敗れた、あんた先祖、○○一族の話しも出るかもよ。写真もあるでーー」と、かもをかけたところ、食指が動いたようだ。シズカちゃんと再会して、ビックルすることだろう。彼の照れた顔を見るのが楽しみだ。ちょっと、これは悪趣味だったかなあーーー。

てなわけで、さあーーーー、準備、準備。


2013年04月18日(木) 近況報告。

最近、日本列島が、あちこちで地震に見舞われている。怖い物の代名詞として、地震、雷、火事、親父と言ったものだが、最初の二つは自然現象がもらたらすもの。科学が発展しても、まだ自然現象を制御するまでには至っていない。

特に地震は地下の浅いところや、深いところでプレートがずれて起きる。いろんな条件が重なって圧力が強度になり、現状維持できず重なっているプレートをずらすのだろう。まさに、地球自体が呼吸をしている生命体なのだ。

人間はいろんな生命体と仲良くし、共存共栄を願っているのだが、地球という生命体は、聞く耳をもたない。激しく怒り狂うこともあれば、打って変わって、平穏、安寧をもたらす存在でもある。だから厄介な生き物である。

地球は生まれて45億歳。寿命は100億年くらいと言われているから、まだ相当に生きるわけだ。ただ、その間に、地球滅亡に至る異変がなければの話だ。頻繁に起きる群発地震は地球異変の兆候かも知れない。そう考えると、あな恐ろしやである。

今、人間は何をなすべきか?。まずは生き延びる事を考えなくてはいけないだろう。私利私欲のために争っている場合ではない。人間の英知を結集し、70億人の人間が生き延びる方策を模索すべきである。ただ、「言うは易く行うは難し」だ。一朝一夕で、そんな方策があるはずもない。時の流れの中で、その回答を導き出すしか手立てはないか?。それが今の現実か?。毎日を平凡に生きているが、時折、そんな思いが頭をもたげる。暗い話は止めよう。まずは今を生きることが大切だ。未来に希望を持って。

今月末は我が家で行事を一つ抱えている。毎年の恒例行事だ。今その準備で大わらわ。講演者として大学時代の友人を招請している。彼は引き出しの多い男で、物知りだ。最近、人があまり研究していなかった分野で、新しい発見をした。新聞にも一面を割いて掲載された。歴史の一ページが変わるかもしれない。

そこで、僕は今年、彼に白羽の矢を立てたわけだ。日頃は、とある小料理屋で、焼酎を飲みながら、とぐろを巻いている仲である。彼は一発返事で了承した。僕からのたった一つの条件は、「聞き手が、じっちゃん、ばっちゃんが多いので、おもしろ、おかしく頼みまっせ」ということだ。

当地に住みながら、当地の偉人達の歴史やエピソードを知らない人達も多い。そこで、「そうだったの」と、改めて当地のすばらしさを再発見して欲しい。それが僕の狙いだ。

とはいうものの、僕は当地の出身ではない。近県だが今は当地に住んでいる。恐らく骨もここで埋めるだろう。住めば都。いまではすっかり方言にもなじんで、時々、現地言葉も発する。

そうそう、面白い言葉と言えば、彼が時々、会話の中で「ばいいーーーっ」と言うことがある。どこの方言か知らない。何かの相槌みたいだ。どうやら肯定にも、否定にも使われる便利な言葉のようだ。僕には未だに理解できない。そんな彼の講演を今から期待しているこの頃である。





2013年04月12日(金) 鏡。

最近、変な事を思った。「この世に鏡がないとしたら、面白いだろうなあー」って。もちろん、カメラも映写機もない。ということは、人間は自分がどんな顔をしているのか分からない。なんとか顔を見たいと思ったら、水面に映った姿で判断するしかない。

ギリシア神話だったか?、忘れたが、ナルシシストという人物が水面に映った
自分の顔を眺めて、あまりの美しさにうっとりとした。自己陶酔である。そこからナルシシズムという言葉が生まれた。

そういえば、白雪姫という物語にも、面白い話があったっけ。王女兼魔女が、魔法の鏡に向かって、「鏡よ、鏡よ、この世で一番美しい人は誰?」と尋ねた。返ってきた返事は、「白雪姫」だった。これには魔女もカンカンに激怒。鏡を打ち砕こうかと思ったが、それは思いとどまったようだ。嫉妬心は、誰もが抱く。魔女は白雪姫をいじめだした。

何かにつけ、自分が一番でありたいと思う気持ち。分からないではない。「誰よりも美しくありたい」という気持ち。これも、その範疇だろう。そこで、鏡が登場するわけだ。自分の顔を眺める。だが、しかし、ばっと、鏡がなければ自分と相手を比較しようがない。そこが問題だ。たとえ鏡があったとしても、顔のみが美の判断基準の一番という訳ではない。そこに気づくべきだ。美の基準は千差万別である。その人が醸し出す雰囲気、心の中にこそ美、美しさが宿っているのだ。これは男性にも女性にも共通じる事だろう。

よく言うではないか。「顔は心を映す鏡である」と。魔女君は魔法の鏡に映った自分の顔のみが最高に美しい顔であると勘違いしたわけだ。心清ければ水清し。心ある人の顔はいつも美しい。魔女君はそのことに気がつかなかった。思い込みとは、あな恐ろしやである。

そう言えば、鏡は太古の時代からあったようだ。遺跡等でも発見されている。どの程度の映りかは分からないが、女性の装身具の一つだったか?。恐らく、邪馬台国の卑弥呼も鏡を見ていただろう。「口裂け女」みたいに、真っ赤な木の実で唇を描き、「うっしししーーー。わたし、きれい?」」と、ほくそえんでいたかもしれない。何か「むにゃむにゃ」と呪文を唱える。部下を統率するには、真っ赤な唇が最高の演出効果を発揮したわけだ。部下達は、今にも吸い込まれそうな、その唇に「ははーーーーっ」と、ひれ伏したに違いない。

いやあーー、ここまで想像を巡らすと、僕も思わず笑ってしまった。あり得ない。あり得ない・・・。何はともあれ、今や鏡は大事な生活必需品。女性達は唇のみならず、鏡を見ながら顔に化粧を施す。「今日はのりが悪いわ」と言いながら、鏡をじっと見つめている。傍らでは、男性達が「きれいだよ」と褒め称える。それはそれで結構である。ただ、美しくありたいと思う心はエスカレートし、顔に高価な化粧品を塗る。化粧品は巷にあふれ、花盛りだ。久しぶりに会った女性に「あなたは誰?」と思うこともしばしば。すっかり人相が変わってしまっている。

そこで、僕は思ったわけだ。この世に鏡や、カメラや映像機器とかがなかったら、世の中はどうなっていただろうかって。女性も男性も、自分の顔がどんな顔か判断できない。女性が化粧をしても、どんな風に変わったかは、他人にしか分からない。となると、化粧品も意味をなさないだろう。自分を演出する方法は心の清らかさでしかない。心の清らかさこそが、その人の美しさである。

昨今、素顔が分からない人達が増えている。化粧品や鏡がなくても、「田で食う虫も好き好き」。それで万事が治まる。「鏡よさらば」と言いたいところだが、「あんたは鏡を見ないの?」と言われそうで、これ以上の言及は止めよう。




2013年04月08日(月) 今という時代。

時が瞬く間に流れていく。もう、四月も一週間が過ぎた。つい、先日が正月と思っていたのに、ただただ驚くばかりである。

そんな中、日本列島は台風並みの強風や雨に見舞われて、各地で災害が起きているようだ。なんとも痛ましい現実。さらには二年前の東日本大震災、原発の問題も事後処理が終わらず、あらたな火種も生じている。一体、日本列島はどうなっていくのか?、先行き不安である。

今や、巷ではアベノミクスという造語が生まれ、デフレ脱却の政策が進行しているようだ。2年をめどに、物価上昇率を2パーセントに掲げ、大胆な金融緩和を行っているが、そんなに経済は甘くはないだろう。あちこちで増税が待っているではないか。企業が設備投資をし、利益を確保し、従業員の給料をアップし、雇用を安定させれば、消費が活発となり景気は回復するというシナリオ。はたまた老人がため込んでいるという貯蓄を、贈与税を緩和することによって、社会にはき出させようという目論見。果たして、流動的で予測不可能な経済社会が、「風が吹けば、桶屋がもうかる」というような連鎖を起こすんだろうか?。はなはだ疑問である。

僕は、時々、昔を懐かしく思いだす。当時、周りは皆、貧乏生活。つぎはぎの服を着て、ガキ大将達と遅くまで外で遊んだ。「あぜ道を、麦笛を吹き、歩くかな」。そんな光景が浮かぶ。親は子育てで精一杯の毎日。母と、桶をしょって、近くの井戸まで水を汲みに行ったことがあった。母も若かったし、生き生きしていた。僕は母の後ろから、ぶらぶらとついて行くだけ。世の中は今ほど、せわしくなく、のんびりしてたものだ。「おっかさあーん、昔に戻りたいよーーー」。

恐らく昭和の初期から中期に生まれた人達は皆、同じような経験をもっているだろう。貧しくても、生きていることが楽しかった。いろんな困難があっても、日本人は、それを乗り越えてきた。

現代もそういう時期なのかも知れない。一つ違うところは、皆、結構豊かになったことだ。貧しさがあるとすれば、心の貧しさかも知れない。豊かさと心は反比例するものなのか?。分からない。

図らずも、友人の「のりちゃん先生」が言った。「人間は皆、本能的に欲があるからなあーー。豊かになればなるほど、欲が助長されるんだ」と。確かに。心の貧しさは抽象的な表現で、しかと目に見えないが、物の豊かさは具体的で目に見える。この目に見える豊かさが欲を助長させるのだろう。

欲も、ほどほどにしなくちゃなるまいて。なにはともあれ、この今という困難な時期を、まずは乗り越えるしかない。




2013年04月06日(土) ネズミ男君とジャイアン。

四月最初の週末。小雨が降っている。なんでも、西日本地方はは春の嵐が吹き荒れるそうだ。低気圧が勢力を増しているらしい。今のところ、こちらはその兆候なし。やれやれだ。先日散布した除草剤顆粒の「ねこそぎ」が効き目を発揮することだろう。

昨日は、「今や遅し」と、手ぐすねを引いて待っていた、ネズミ男君と野良仕事に精を出した。時計が正午を刻んだ頃、彼はやってきた。頭に工事用ヘルメット。専門用長靴。サングラス、マスクに手袋。首にタオルを巻き付けていた。そこまでしなくともと、思わず笑った事よ。ま、僕の出で立ちも、似たようなものだが。帽子にサングラス、長靴に手袋。二人とも、まさに「強面」のイメージ。人は、「危険な輩」と思っているのか、皆、遠巻きに歩いて行く。こちらも、その方が仕事がしやすい。

幸い、草刈り機械が二基ある。それを振り回して雑草君達との全面戦争だ。道路のフェンスに沿って河川敷がある、草が伸びてフェンスを覆う。その様が、こちらの言葉で言えば「みたんなかあー」である。要するに、みっともない。そこで、我々、ツイン・ランボーが登場。二手に分かれて、河川敷内の雑草を挟み撃ち。「ワオーン、ワオーン」と、機械音が響く。小気味よくはもる。カラオケで、これくらいハモれば、高得点が期待できるんだが・・・・なかなか。

ネズミ男君は、極めて几帳面だ。几帳面も善し悪しだ。130回もお見合いをして、成就しないのは、その辺にも原因の一端があるかもしれない。今時、「極めて優しい人。気が強くない人」なんているわけがない。「ある程度、優しい人なら、いいじゃんか」と言うと、「おいらは、それじゃだめ」と言う。勝手にしたまえだ。

「ネズミ男」と言われるゆえんがよく分かる。ねぶったように、隅からから隅まで草を刈る。料理なら皿まで、なめ回すといった感じだ。反面、ジャイアンなる僕は、大ざっぱ。「おいらはジャイアン」と、いかにも強がりで、ネズミ男君が3分の1刈る間に、ジャイアンは3分の2を刈る。刈り終わった後、全体を眺めると、一目瞭然。きれいに、二分割されている。彼の刈った後はお見事である。

僕、ジャイアンは、「草が伸びたらまた刈ればいいじゃんか」という、至って、物事を意に介しない性格。これも善し悪しか?。要するに二人の性格を合わせてわ半分すれば丁度よいか?。

ほぼ、三時間の野良仕事の後、彼は帰っていった。本当は、夜、一献傾けたかったが、先日の酩酊という後遺症が、二人とも記憶から消えていない。日を改めることにした。

しっとりと雨が降っている。昨日、労働していたので良かった。おかげで、ちと、腰が痛い。今日は、のんびり出来るから幸いだ。


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