umityanの日記
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2005年12月30日(金) 今年最後の備忘録だ。

久々にこのページを開いた。二週間ぶりになるだろうか?。さぼっていたには理由がある。一つ二つあげるとすれば、仕事がめっぽう忙しかったこと。やはり、二足のわらじを履くことは大変だ。これは仕方がない。運命みたいなものだ。も一つはパソコンがクラッシュし、ソフトに致命的なエラーが生じ、その復活に結構、時間を割いたからである。パソコンをまっさらにし、数回、再インストールした。数日前に回復。今はすこぶる順調。やれやれだ。さらに、もう一つあげれば、忘年会のシーズン。ぼくも例外に洩れず、夜の社交に走っていた。これも理由になるか?。

それはそうと、もう大晦日の50分前。今年を反省するには、グッドタイミングかもしれない。一言で、ぼくの今年を表せば、「吉」ということになるだろう。身の回りのいくつかの災いやら不幸はあったが、なんとか治まった。父親みたいに思っているボスも、二ヶ月の闘病生活を終えて、10日前に退院した。よかった。ボスは病を得ても、泰然自若、人生を達観している人かと思っていたが、奥方の話によると、そうでもなかったらしい。駄々をこねて、奥方も相当に辟易したようだ。この辺がまた、ボスの人間性の表れで、好感を持てる。

一方、数週間前にやってきた友人は、奥方と見事に離婚したが、どうやら、来年一月に、さるビルの一階に歯科医院を開業するよし。めでたいと言えばめでたいか。若干、歳は喰っているが、そのうちに価値感の合う伴侶が見つかるだろう。

おっと、人の話ばかりになってしまった。僕はといえば、一応、仕事は順調に終わった。雑草刈りやら外回りの清掃労働も、ひょんなことから、助っ人が現れ、見事一網打尽にした。部屋の掃除もそこそこ片ついた。今ようやく、手に入った我が時間をこの備忘録に費やしている。来年がどういう年になるやら、かいもく検討がつかない。ただ、僕にとっては正月であれ、何であれ、単なる時間の経過にすぎない。人様はおせち料理やら、ご馳走をたらふく食らうかもしれないが、こちとらは、正月の朝は、いつもと変わりなく、みそ汁に納豆に12穀米入りの飯を食らい、添え物として漬け物と海苔があれば十分だ。ちょっくら、なまこやら、数の子もくいたいなーーーー。
いけない。いけない。贅沢だ。

後はたらふく寝るのみ。誰にも邪魔されずに。これが出来るから正月は大好きである。おや、大晦日突入30分前だ。反省らしき反省は出来なかったが、この辺で、今年を締めくくろう。


2005年12月14日(水) 友来る。

今日は、まもなく友がやってくる。高校時代の同級生だ。11月に離婚したから、そんな話も色々とできるだろう。人生は本当にさまざま。今日は、また故郷にいる別の友から、(といっても、今日来る友とも友。なんかややこしいな。)年賀状欠礼の葉書が来た。母親が一週間前に亡くなったそうだ。時間を見つけて、お参りに行こうと思う。

男にとって、母親の死ほど悲しいことは無い。産みの母親となればなおさらだ。何歳にたっても、母親の前では、男は子供だからである。山の神の母親は2年前になくなったが、幸い僕の母はまだ健在。母が亡くなれば、僕はおいおいではなく、わんわんと泣くだろう。それほどに母の存在は、僕の人生に大きな影響を及ぼしている。故郷に帰れば、そう丈夫でもない体を動かしながら、せっせと接待してくれる。相変わらず、こまごまとした注意をしながら・・・。

僕のせりふは決まってこうだ。「大丈夫、大丈夫。至って健康。仕事はプロなんだから。心配ないよ」である。母の返すことばは、「あんたは人間がちょっと軽くて、おっちょこちょいだから、心配だ」という。母の目から見れば、そうなんだろう。僕はただ、ひたすら、母の用意したご馳走をつまむ。

母をなくした友人も、しばらくは同居していたが、彼は末っ子。母親は、兄弟の間を行き来していたようだ。兄弟が何人いても、母親は一人。それぞれに皆、かわいいと思うことは当然である。

今日は、遠くの空から友の母の冥福をいのることにしよう。そろそろ、「だち」がやってくる。この辺で今日の備忘録を閉じよう。


2005年12月10日(土) 忘年会第二弾・続・続編。

忘年会第二弾を終えて、雪混じりの高速道路を、一路我が家へ。ラッシュに巻き込まれたものの、午前8時半に到着。すでにクライアントが待っていた。

午前中に仕事を片付け、午後からは外回り。駅前の喫茶店でコーヒーを飲んでいたところ、携帯のベルが・・・・。なんと、歯医者をやっている友人からだった。彼もまた温泉宿で会った友人と同様、高校の同級生である。しかも同じクラス。故郷で、父親の13回忌をすませたとのこと。遊びに来ないかと誘いをかけたところ、今、週三回のパート歯科医なので、時間はたっぷりあるという。来週の水曜日にやってくる予定である。

「奥方との離婚騒動はどうなったの?」と電話口で聞くと、11月に正式に離婚したと言う。「そうだったの}と、僕は一瞬、昨日会った友人のことを思い出した。離婚なんて、今日では日常茶飯事なので、そう驚くこともないが、二人とも身近な友人。複雑な心境である。彼は長い別居生活を営んでいた。彼が我家を出て、アパートに住み、歯科医院を開いている我が家へ出勤するという、真に妙な生活パターンだった。奥方も歯医者なので、二人して同じフロアーで、どんな顔をしながら治療をやっていたのだろうか?。ただ、淡々と私情をはさまず、仕事に専念する。「真のビジネスとはそういうものかもしれないなーー」と僕は変に感心していた。ただし、僕には到底、まねはできない。良かったのか悪かったのか分からないが、「おめでとう」と言ってやった。

彼の場合は、双方に好きな相手ができたとか、片方が不倫をしたとかいう離婚ではない。そもそも出発点が不純だったのかもしれない。結婚に打算はつきもの。双方がメリットを共有し合い結婚した。奥方の父親の援助もあり、順風満帆に事業は発展した。借金もすべて返済した。子供も相応に大きくなった。やっと、目標を達成したかに見えたが、そこに至るまでの間に、夫婦の関係がすっかりさめてしまった。何故なのか?。彼の立場で言えば、奥方の両親に対する遠慮と息詰まり。奥方の立場で言えば、彼の母親との確執。双方、どうしても相容れないものがあり、その溝がだんだんと大きくなり、他人には理解できない、たった一言の言葉で、かろうじて繋がっていた糸が「プツン」と切れてしまった。

結婚生活は、あきらめ、妥協、忍耐などとよく言うが、少しでも、思いやりの気持ちがあれば続行可能だとおもうのだが。その僅かな思いやりまでも消失してしまえば、もう後には何ものこらない。違った方向を歩むしかない。人間の感情はなんと浅はかで、単純で残酷なんだろうかと思う。ともあれ、結婚して子孫を残したのであれば、残りの人生を二人で歩むも良し、それぞれが違った道を歩むのもまたいいだろう。所詮、夫婦と言えども他人である。

偶然、離婚した二人の友人と、時を同じくして再会するとは、これまた僕も奇妙な縁である。果たして我が身は如何に?。残念ながら僕の辞書には今のところ「離婚」という言葉はない。むしろ、僕は離婚を取り持つ神様なのかもしれない。


2005年12月08日(木) 忘年会第二弾の続編。

忘年会第二弾の続編がまだだった。一次会を無事に終え、5−6名の勇士たちが、ホテル内にあしらえてあるスナックというか、バーみたいなところへ赴いた。もちろん三名の芸者さんたちも同伴である。いつものごとく、飲んで、歌って踊るというパターンである。ただ一つ違ったこと。着物姿で、あでやかな鬘をかぶった芸者さんと踊ったことである。踊ったはいいが、着物の帯が、そう出っ張ってもいない僕のおなかにあたり、必ずしも良い感触ではなかったことと、油かなにかで整えられた鬘の毛が、ほっぺたに触れ、「べたーっつ」という、何とも表現しがたい感覚に襲われた事である。「一夏の経験」ではないが、まさに、有り難い一冬の経験であった。

二次会も、そういう案配で幕を閉じ、あとは各人フリータイム。「待ってました」と、僕はここ十数年来会っていない友人と会うことにした。彼とはまさに竹馬の友。小中高と、同じ学校で学び、互いの結婚式にも参列した仲である。
この温泉宿のある地は、彼の嫁さんの故郷である。彼は嫁さんの地を終の棲家に選んだ。よくあるパターンだ。末っ子だから許されることだろう。

僕の地から彼の地まで、一時間半程度の距離であるが、仕事で出向いても、とんぼ返りばかりで、真に10年以上も会っていなかった。僕は今日こそチャンスと彼を呼び出し、一献傾けたかった。彼は宿まできてくれて、二人して抱き合い喜び合った。かくして、彼の行きつけのところへ案内してもらった。

いろいろと話をしていると、なんと、我が耳を疑うような出来事が彼に起こっていた。六年前に嫁さんと離婚したというのだ。「えええええっつ、本当?」と聞き直したが、まさにしかりだった。熟年離婚がはやっているとはいえ、まさか、あんなに仲の良かったかれら夫婦が離婚するなんて夢にも信じられなかった。離婚の原因を尋ねると、互いに好きな相手ができたらしい。どちらが先だったのかという詮索はしなかったが、両性罰というところか?。そうは言っても、幾ばくかの金を嫁さんに渡したと言うから、彼の方の罰が重いのかもしれない。

さらに、さらに驚いたことに、その嫁さんが、今来ている店の二軒先で、スナックをやっているというのだ。「僕がそこへ行こう」と言うと、彼はちょっとためらったが、話はまとまった。数十年ぶりに見る彼の元嫁さんは、昔と変わらず、きれいだった。彼も別れて以来、二度目の来店とのこと。二人とも、もう未練なんてないのだろう?。元嫁さんは、僕を見て、ちょっとびっくりしたような表情をみせたが、後はさるものひっかくものだ。平常と変わらずママさん振りを発揮していた。他の客が、どやどやと入ってきた。僕たちの応対は従業員がつとめた。客がママさんにダンスを所望した。ママさんはその都度、応じていたが、さすがに顔はわれわれの方に向けなかった。従業員に、「今日のママさんはどう?」と聞くと、ちょっとぎこちないようだと言った。「さもありなん」と僕は思った。

一時間半ばかりいただろうか?。時計はすでに午前1時半を回っていた。僕は朝8時までに家に帰らねばならないと告げ、宿へタクシーで急いだ。僕たちは恋人どおしのように、携帯番号を登録しあい、再会を誓った。僕は朝の渋滞に巻き込まれながらも、無事に8時半に我が家へたどり着いた。紙面が長くなった。まだ続編パート2がある。ここれもまたまた驚きだ。だ。人生って本当にハプニングだらけだ。つくづくそう思う。








2005年12月05日(月) 忘年会第二弾。

昨日は忘年会の第二弾が温泉宿で催された。この温泉宿は、仲間の一人と深い関わりがあって、僕たちはVIP待遇で接待されるとのこと。心うきうきで高速を走り、1時間ちょっとで宿に到着。各々が車で出かけ、一泊して自由に解散という指向である。僕は早めに出向いた。この宿に新調されたVIP用温泉に即入りたいと所望。係の女性が僕を案内した。迷路のような長い廊下を歩き、エレベーターで地階に下る。鍵に装着してあるセキュリティーカードを差し込んで、オープンザドアだ。またもやちょっくら歩いたところに目的のサウナ付、野外露天風呂が、おごそかにたたずんでいた。

ここに至るまでの道のりの長かったこと。僕はふと思った。上海で飛行機のビジネスクラスに乗ったとき、正装した女性の警官みたいな人が、突然現れ、「客室にご案内します」と、一般の乗り口とは別の通路を通って機内に僕を案内した。たまたま、僕一人だったので、「こりゃあ逮捕されるんかいな?」と、ちと、不安だったが、さにあらず。「はい。シートはこちらです。ご自由にどうぞ」ときた。「いやああ、金の力ってすごいなーーーー」と、感動。感動。乗るならビジネスクラスかファーストクラスだぜと思えど、一生の内、何回ある事やら?。正直、そのとき以来、このご馳走を味わっていない。

夜空の星や紅葉を眺めながらの温泉はまた格別。「ここはどこ?どこ?」て感じだ。温泉をすっかり堪能し、つやつやの肌で、忘年会の会場へ乗り込んだ。日本髪のかつらをかぶった芸者さん3名が入り口のところで出迎えてくれだ。「かつらの毛は本物ですか?」と尋ねたら、「そうです」という。「いやああ、かつらのきれいなこと、きれいなこと」と言ったら、あんまり喜んでいる風ではなかった。「身に付けている人がいいからよ」と、中味をほめて欲しかったのだろう。それにしても、かつらは慣れないと、頭が痛いのだそうだ。重いからなーーーー。かつらには、長い鼈甲のかんざし二本と、櫛が乗っかっていた。これは三点セットで、一本でも欠けたら、使い物にならないという。「へーーー、そんなものか」と、田舎者の僕は驚くばかり。
「あんた、私をだましたわねーーーー」と、こんなかんざしで、斬りつけられたら、たまったものじゃないなーーーと、幾ばくかの恐怖さえ覚えた。

宴もたけなわで、芸者さんたちが、一人ずつ、踊りを披露。なかなかのものだ。次に歌謡ショーとなった。場には相応しくなかったかもしれないが、僕は山口百恵さんの、「コスモス」でという歌で、皆の涙を誘ったが、もろくも失敗。後は野となれ山となれだ。

六時半から九時頃まで、料理と歌と芸者さんたちとの語らいで疲れを吹き飛ばした。盛況の内に一次会は幕を閉じた。二次会の話とその後の経過については、紙面の都合により次回にしよう。






2005年12月02日(金) 師走の空は明るくもあり、暗くもあり。

今朝は、やや寒かった。体の調子はよい。朝から来客、来客で応対。午後から出かけようと思ったが、本業以外に保育園という畑違いの仕事をやっている友人が来訪。雇っている保育士さんたちの年調を手伝ってほしいとのこと。まだ、日にちはたっぷりとあるのに、気の早い男である。1時間もあれば済むかと思ったが、さにあらず。たっぷりと2時間以上はかかった。給料明細はあるものの、全く整理してない状態。二人で笑い転げながら、せっせと記帳作業。電卓はじいて、やっと半分が終了。やれやれだ。「残りは、明日にしようぜ」ということで話がついた。

開業して丸2年がすぎた。給料を払うのがやっとで、赤字がふくらんでいる。本業で稼いだ金をつぎ込んでいるようだ。まあ、どこかで、区切りをつけるだろう。「大丈夫か?」と尋ねれば、にこっと笑うだけ。笑っている分には心配ないだろう。いい歳をこいているが、まだ彼ら夫婦には子供がいない。そのこともあって子供の手伝いをしたいのだろう。

先日は、園で子供たちの写真入りカレンダーをこしらえるので、カラーコピーをとらせて欲しいとやってきた。400枚とりたいという。「一枚30円だぜ」と言うと、負けてくれといい、結局は半額とあいなった。まあ、僕もボランティアと思えば、悔いはのこらない。

それはそうと、最近、子供が犠牲になる事件が相次いでいる。痛ましいことである。尊い命を授かり、まだ未来の夢も見ないうちに、一生を奪われてしまうなんて。あってはならないことだ。やはり、社会のどこかにひずみがあるのだろう。そのひずみが何であるのか、一言で言い表すことはできない。あえて、何かを言うとすれば、「ゆとりのない心を生み出した社会機構」に原因の一端があるのかもしれない。「何はなくとも爪楊枝」というわけにも行かないが、もっと、のんびりと生きてもいいのじゃないかと思う。

つい先ごろ、今年の流行語大賞なるものが発表された。「小泉劇場」とか「想定の範囲内、範囲外」とかいう言葉が選ばれた。今年を印象ずける言葉としては面白いかもしれないが、そんな言葉の背景にある、「人間のギスギス感」には、ほとほと、嫌気がさしている。まあ、人がどう思おうと自由ではあるが。




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