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2026年02月28日(土) 私を超える生徒

もうそろそろ私を超える生徒が育ちそうです。道場を出して23年になりますが、もう少しで私を超えそうな所まで来た所で、みんな空手を辞めてしまいました。才能のある人はたくさんいましたが、続ける努力を出来る人がいませんでした。1つの事を続けるのは、なかなか難しいのだと痛感します。その私を超えそうな生徒達だって、3年後はどうなっているか?は私にも分かりません。でもあと少しと言う生徒が一気に何名か育ちました。私の年齢から考えて、もしかしたら、私を超える生徒を育てるのは、これが最後のチャンスかもな?と思っています。それは今の私という事ではなく、全盛期の私を超える生徒と言う意味です。全盛期の私を超えれば全日本大会で入賞出来ます。頑張って欲しいと思います。


2026年02月27日(金) やるなら今しかねぇ!

高校受験のため休んでいた蕗生が稽古に来たり、極真空手を好きな方が入門したりと、ここのところ嬉しい事が続いています。休会から復帰する人も、道場から足が遠のいている人も、入門を考えている人も、迷っていないで一歩足を踏み出して欲しいと思います。思った時が吉日です。迷わず一歩踏み出して欲しいと思います。その一歩が自分を前に進めてくれる力となって行きます。長渕剛の西新宿の親父の唄の「やるなら今しかねーえー!」です。やりたいと思ったと言うことは、自分の中で何かが生まれた瞬間です。その素晴らしい力を無駄にしないで欲しいと思います。一歩踏み出して道場に来る事で、その力にさらにガソリンが注がれるはずです。


2026年02月26日(木) 始める勇気と続ける努力

2月21日の先週の土曜日に59歳の方が入門しました。空手を始めた、きっかけはお孫さんが空手の黒帯を取得したからという事でした。ご自身も極真空手が大好きで何度も武道館や東京体育館に足を運んで観戦した事があるとの事でした。私が始めて会場で観戦した1991年開催の第5回全世界空手道選手権大会も会場で観戦したそうで、その話で盛り上がりました。同じ会場で観戦していた極真ファンの仲間とここで出会えた事は本当に嬉しい事です。あの時の感動を共有しているわけですから、話も盛り上がるはずです。59歳から何かを始めるという事は簡単な事ではありません。習う先生も自分より歳下だったり、自分より若い人達の中に交じって身体を動かす事だってなかなか大変な事です。ご自分の仕事だってあるのですから、本当なら休んでいたい時間に稽古に来るので大変だと思います。素晴らしいと思います。私はまだ53歳ですが、これからも新しい事に挑戦しようと思っています。私は何かを始める事に遅いという事はないと思っています。それをやりたいと思った、その瞬間が自分がそれを始める適齢期だったのだと思います。何かを始めて損する事はありませんし、失う物もありません。始める勇気と続ける努力で自分が思い描く理想の自分に着実に近づく事が出来ます。


2026年02月25日(水) 一念発起してから、はや8年

私は45歳の誕生日にエニタイムフィットネスに入会してウエイトトレーニングを本格再開したので、トレーニング再開から8年が経ちました。過ぎてしまえば早いものですが、その8年のなかには、肩を痛めたり、肘を痛めたり、コロナがあったり、膝の手術があったり、アキレス腱断裂の手術があったり、股関節の手術があったり、いろんな事がたくさんありました。ジムに行きたくなければ、行かない理由も行けない理由もたくさんありましたが、そんな自分に負けないでジムにかよいました。出来ない事がたくさんある時期もありましたが、ストレッチをしたり、自転車を漕いだり、その時々で出来る事を一生懸命に頑張って来ました。45歳の時に鏡に映る自分を見て「こんな自分は自分が10代の時に思い描いた理想の自分じゃない!こんな自分は嫌だ!」と思い一念発起してはや8年、少しは理想の自分に近づいて行っていると思います。これからあと7年、カッコイイ還暦のオジサン目指して、さらに頑張ろうと思います。


2026年02月24日(火) 求道無限

私の好きな言葉に「求道無限」と言う言葉があります。私の師匠が私にくれた本に書いてくれた言葉でした。その言葉の意味は「真理や悟り、あるいは自身の極めるべき道を求め続ける姿勢に終わりはなく、永遠に向上し続ける」と言う事なのですが、私はもっと簡単に、何かを求めて進んで行く人には無限に道が開かれて行く、と言うふうに思い、そしてそう感じて生きて来ました。自分がそこをゴールと思ってしまったら、その瞬間に道は閉ざされてしまいます。自分の成長もそこで終わってしまいます。だからゴールと思ってはいけないし、それが答えだとは思っていけないのだと思います。たとえそれが1つのゴールだったとしても、その先の道を歩んで行かなくてはいけないと思いますし、たとえそれが答えだとしても、また別の答もあると問い続けて行かなければいけないのだと思います。私はその言葉を今でも信じて稽古に励んでいます。誰よりも遠くまで行きたいと思っています。


2026年02月23日(月) 昨日の自分を超えろ

私の運営する道場の強化稽古でした。私が現役時代に走っていたコースをはしります。池上本門寺の1番長いダッシュのコースを中学生には3本走ってもらいました。斗夢が1本目2分20秒、2本目3分7秒、3本目3分4秒、陽生が1本目2分30秒、2本目3分11秒、3本目3分18秒、光が1本目3分9秒、2本目3分15秒、3本目3分30秒でした。私は29歳から34歳までこのコースを1人で走っていました。それ以前は仲間と走っていたのでタイムは取っていませんでした。仲間が私を引っ張ってくれたのでタイムを取る必要はありませんでした。でも1人で走るようになり、自分で自分を引っ張っらなくてはいけないので、タイムを計って走るようになりました。34歳の時に出した1番よいタイムは2分30秒でした。でも斗夢や陽生に負けないのは2本目と3本目です。2本目は2分40秒で3本目は2分50秒でした。5本走っても全て3分以内に走る事が出来ました。おそらく20代の時はもっともっと速かったと思います。そしてもう1つ彼らと違うところは私はその時の体重が85キロだった事です。85キロの体重でそれを走る事ができました。それでも私はチャンピオンになれなかったのだから、当時の極真のレベルが高かったのだと思います。確かに他の格闘技で活躍した選手や地方大会でチャンピオンになった選手が城南支部に出稽古に来ても稽古のメニューに誰も付いてくる事は出来ませんでした。この日も20代位の格闘技をやっているだろう人が3人で来ていましたが、1番短い坂のダッシュを5本走ってシャドーをして帰って行ってしまいました。稽古というものは量を経て質と言うコツを分かって行きます。若いうちは量をやらなくてはいけません。中学生は長ダッシュを3本、短ダッシュ3本、階段ダッシュ3本、やったので、なかなか体力はあると思います。小学生にも長ダッシュを1本走ってもらいました。芽生3分38秒、紡生4分6秒、紗綾佳4分18秒でした。昨日の自分をどんどん超えて行って欲しいと思います。


2026年02月22日(日) びっくりドンキーは青春の味

長男と次男と3人でびっくりドンキーに行きました。びっくりドンキーは私の青春の味です。中学生、高校生の頃によくびっくりドンキーに行きました。なのでびっくりドンキーには思い出がたくさんあります。私が注文するのは必ずチーズバーグディッシュです。ハンバーグで他の物を頼んだ事はたぶんないと思います。チーズバーグディッシュはあの頃と変わらない味でした。チーズバーグディッシュを食べながら青い春の思い出も噛み締めました。


2026年02月21日(土) 妻がいないので、焼肉のタレ

今日は妻がお泊まりで神社巡りに行ったので、私がお風呂を沸かしたり、ご飯を作ったりしました。ご飯を作ると言っても肉を焼くだけなので鉄板を出して、玉ねぎを切って、焼肉のタレを作るために大根をおろして、ニンニクを剃っただけです。菅野家秘伝の焼肉のタレを紹介します。大根おろしにニンニクを剃って入れて、そこにポン酢をかけます。この焼肉のタレは私の母が作ってくれて、私が子供の頃はよくこのタレで焼肉を食べていました。私は20歳で家を出たので、それを食べる機会はなく、すっかり忘れていました。10年前ぐらいに両親が私の家に泊まっていた時に、母がこの焼肉のタレの話をしても思い出す事が出来ませんでしたが、そのタレを作ってもらい食べてみたら、その味を思い出しました。やっぱり味は忘れないのだと思います。長男はこのタレは食べる事が出来ません。お腹が痛くなるそうです。私と次男はこの焼肉のタレが大好きです。でも私も少しお腹が痛くなります。私は水泳の試合の前の日はスタミナを付けるために、このタレで焼肉を食べていました。そして試合当日はいつもお腹が痛かったです。私は試合の日にいつもお腹が痛くなるのは緊張しているからだと思っていました。母にも「お前は気が小さいんだ!」と言われていました。今、考えるともしかしたら?と思ったりしています。妻は今日は鹿島神宮と香取神宮に行きました。私が道場を出した23年前に鹿島神宮と香取神宮で買って来たお札を妻に返納してもらい、新しいお札を買ってもらいました。食後は男3人で「クワイエット・プレイス」を見ました。


2026年02月20日(金) 次男のこと

次男の真白は本当に可愛いです。妻と次男がじゃれあってるところなんて見ていると本当に可愛いなー!と思い、私の心もほのぼのとして来ます。次男は女の子にモテます。たぶん優しいからなんだと思います。あとは面白い事をして人を笑わせてくれます。今日も女の子に告白されたと言っていました。私が「で?どうなったの?」と聞いたら、「付き合うことになったよ!」と言っていました。いつまでも可愛い真白でいて欲しいです。


2026年02月19日(木) 遠回りしてもよいから、遠くまで行きたい。

「この道より我を生かす道なし この道を歩く」武者小路実篤が残した言葉です。私はこの言葉が大好きです。「何故、極真空手の先生をしているのか?」そう聞かれたら、私はこの言葉を言いたいと思います。実際に他に自分を生かす道がもしあったのなら、私はそちらに行っていたかもしれません。この道しか無いと思うから、この道を歩いて来れたのだと思います。でも、この道を歩いて自分を生かせている自負はあります。この道しか自分を生かす道はないけれど、ちゃんとこの道で自分を生かす事が出来ている事を誇りに思っています。自分はこの世に生まれて来た価値はあったと思っています。そしてこの道が存在した事に感謝しています。極真空手を創った大山倍達総裁をはじめ、極真空手を繋げて来てくれた諸先輩方には、本当に感謝しています。この道にあとから来る後輩達にもそう言われるよう、私も極真空手のために尽力して行きたいと思っています。そして、この道を誰よりも遠くまで歩いて行きたいと思います。人より遠回りしてもよいから、誰よりも遠くまで歩いて行きたいと思います。


2026年02月18日(水) ようこそ!極真空手の世界へ!

私は極真空手の世界で一般の人が受けないような体験をして来ました。ここで言っておきたい事は、私はその出来事に感謝していると言う事です。師範や先生や先輩が私の事を思って、やった事か?と言えば、それはそうではないのかも?しれません。もしかしたら私を苛ついてムカついてやった事だったかも?しれません。そんな事はどうでも良いのです。これは受け取った人間がどう思ったか?そしてそれを後の人生で味噌󠄀にしたのか?糞にしたのか?感謝しているのか?恨みに思っているのか?と言う事です。もし師範や先生や先輩方にして頂いた事やされた事を糞にしてしまっているのなら、恨みに思ってしまっているのなら、その人は正しい成長をしなかったのかも?しれません。そして今の自分の人生が輝いていないのかも?しれません。私は極真空手の世界に入って本当に良かったと思っています。もしかしたら極真空手と言う幻想に騙されたのかもしれませんが、たとえ騙されたとしても、騙されて良かったと思っています。だから私もこれからこの極真空手の世界に入ってくる子供達を「ようこそ!極真空手の世界へ!」と言って極真空手幻想で騙してあげたいと思います。


2026年02月17日(火) お金を払っても出来ない経験

黒澤浩樹先生とはウエイトトレーニングも一緒にやらせて頂いていました。原宿のトリムと言うトレーニングジムでした。ホテルとフィットネスジムとサウナが利用できる施設でした。表参道から直ぐの所にあるとてもおしゃれな感じのジムで芸能人の方やなど今でいうセレブな方々が利用しているジムでした。当時としてはとても広くて器具やマシンも多いジムだったと思います。黒澤浩樹先生とは火曜日と金曜日の夜と日曜日の午後にトレーニングしていました。私の記憶では2時間のトレーニングだったと思います。種目はベンチプレス、ダンベルベンチプレス、プルダウン、プーリーロウ、ショルダープレス、アップライトロウ、プルオーバー、スクワット、だったと思います。全て5セット行っていました。アップを2セット、メインを3セットと言う感じでした。先生とのトレーニングは高重量で5回上げるトレーニングでした。途中でつぶれたら(つぶれるというのは途中で上がらなくなること)、先生にぶっ飛ばされるので本当に緊張しました。トレーニング中だけではなく、トレーニングの日はとても緊張していました。トレーニングの1時間前にはジムに到着し、トレーニングメニューを確認しておきます。全ての種目の先生が行なう重さを覚えておいて、素早くバーベルにプレートを付けたり、マシンの重さを変えなくてはいけません。モタモタしていたり、重さを間違ったら、ぶっ飛ばされます。そして次に使う器具やマシンも素早く取って置かないと、やはりぶっ飛ばされます。なので自分のトレーニングだけではなく、遅刻をしない事や次に使うマシンを素早く取る事やトレーニングのメニューや重さを覚える事など全てに緊張して気を配らなくてはいけませんでした。トレーニングのあとは先生とサウナに入って帰りました。先生がサウナに入るタイミングで入り、先生が身体を洗うタイミングで自分も身体を洗わなくてはいけません。基本は自分が先生が動く前に先回りしてドアを開けたりするので、先生にしっかりと気を使っておかなければいけません。たまにホテルのしたにあるとんかつ屋で先生と一緒に食事をしました。その時も先生が水を飲んだらすぐ水を注いだりしなければいけないので気は抜けませんでした。先生と別れたあとは、もう疲れでグッタリと言う感じでした。なのでかなりメンタルも強くなりましたし、人に気を使えるようにもなったと思います。そして1番は先生とトレーニングしていた頃は1回1回が命がけなので、トレーニングで扱える重量がどんどん伸びて行きました。例えばベンチプレスは先生と始める頃は100キロを1〜2回上げれるぐらいだったのが、約半年で130キロを5回上げる事が出来るようになっていました。本当に良い経験をさせて頂きました。先生のおかげで人間的にも大きく成長出来たと思っています。そのおかげで城南支部に移籍してからは、先輩方に菅野は気が利くなと言われ先輩方にとても可愛がられ重宝して頂きました。あの先生との経験は、今ではお金を払っても出来る経験ではありません。本当に黒澤浩樹先生には感謝しています。


2026年02月16日(月) 城南支部時代に楽しかったこと

東京城南川崎支部時代に楽しかった事は蒲田道場で3ヶ月に1回、金曜日の稽古後に行われる飲み会です。皆で輪になって料理を食べたりビールを飲んだりしました。二次会は必ずヒットと言うカラオケボックスに行きました。みんな凄くお酒を飲んでいたので、終電がなくなり帰れなくなった人や飲み過ぎて潰れてしまった人は蒲田道場に泊まっていました。今の常識では出来ない事ですが、ビールの一気飲み大会がありました。これに優勝すると先輩に褒められるので、私も頑張って何回か優勝しました。こういう所で頑張って目立つと先輩方に気に入られて可愛がってもらえるので、飲み会もとても重要だったと思います。私は一気飲みをしたりモノマネをしたりして、けっこう頑張って目立っていたので、先輩方にはすぐ気に入られて可愛がって頂きました。男の世界は飲む事も大事ですし馬鹿になる事も大事だなと思います。


2026年02月15日(日) 私の運営する

私の運営する極真会館東京城南京浜支部の第28回型競技支部内交流試合と第19回I.K.Oセミコンタクトルール組手競技支部内交流試合が行われました。極真ルールの組手が苦手な人や年齢的に難しいや身体的に難しい状況にある方達が目標を持ち挑戦出来るように、この試合を開催しています。参加人数は少ないですが、生徒達の頑張る場所を提供するためにも継続して行く事が大切だと思っています。


2026年02月14日(土) 私が9年所属した道場

私は東京城南川崎支部に9年所属していました。極真会館と支部長協議会派(現新極真会)の分裂までの2年間と極真会館と極真館の分裂までの7年間の9年間でした。やはり最初の2年間が1番楽しかったです。私も1生徒として道場に通っていたので、自分の稽古に没頭出来ましたし、凄い先輩方に囲まれて稽古をしていました。私は蒲田道場所属でしたので蒲田道場所属の先輩方や蒲田道場を指導する先輩方や蒲田道場が東京城南川崎支部の本部道場だったので帯研や朝練が行われているので、廣重師範を始め、師範代や分支部長の先輩方や指導員の先輩方など、ほぼほぼ黒帯の先輩方とは接する機会がありました。私が良く稽古させて頂いた先輩は川原先輩、佐伯先輩、木浪先輩、阪田先輩、小井先輩、数見先輩、高久先輩、塚本先輩、鈴木先輩、錦城先輩、志田さん、矢島さん、佐々木さん、井上さん、後輩では進藤さん、馬埼、久保と良く稽古させて頂きました。川原先輩には肋骨を三本折られました。佐伯先輩の上段回し蹴り、上段前蹴り、後ろ蹴りは全然見えなくて道場を逃げ回る事しか出来ませんでした。小井先輩には右の上段回し蹴りのカウンターで意識を飛ばされました。木浪先輩には怖くて思い切り向かって行く事が出来ませんでした。とんでもない道場に来てしまったと思いました。本当に天才の集まりでした。地方大会のチャンピオンクラスが移籍して来ても、みんな自信を失って居なくなってしまうほどでした。ですが私が何故この道場で長く空手を続ける事が出来たかと言えば、それは稽古中は先輩方は怖くても、稽古が終われば友達や優しい兄貴のように後輩に接してくれたからです。くだらないイジメやシゴキはいっさいない道場でした。それでも先輩方が偉大でカッコ良かったので、先輩をなめる後輩なんて1人もいませんでした。皆が伸び伸びと稽古していて、いい具合にピリッと緊張がある本当に素晴らしい道場でした。やはりそれは廣重師範が素晴らしい指導者だったからだと思います。廣重毅師範に出会えた事は私の人生で本当に本当に本当に幸運な事でした。今の自分がいるのは廣重師範のおかげだと思っています。


2026年02月13日(金) あのドキドキ感を

13日の金曜日ですが、誰もその事に気が付くことなく過ごしていたのでは?と思うほど誰からも「13日の金曜日」と言う言葉を聞く事はありませんでした。私が子供の頃は13日の金曜日といったら不吉な事が起こるとみんな言っていました。「ジェイソンが来るかもしれないから気を付けて帰れよ!」とみんなで言っていました。たぶん今の子はジェイソンを知らないと思います。口裂け女やジェイソンやノストラダムスの大予言のハルマゲドンを本気で信じてドキドキしていました。あのドキドキ感を今の子にも教えてあげたいなと思い、たまに道場の子供達に怖い話をしたりします。


2026年02月12日(木) 城南支部での3番目の大きな出会い

城南支部での大きな出会い3人目は数見先輩です。私が城南支部の蒲田道場を見学に行った時は自主トレスペースでサンドバックに蹴り込みをしていました。凄い迫力だったのを覚えています。数見先輩を初めて見たのは1991年の東北大会で数見先輩が優勝した時でした。自分と1つしか年が変わらないのに、私がいつも指導して頂いている全日本空手道選手権大会に常連で出場している先輩方に勝って優勝していました。次は第5回世界大会で八巻建志先輩のセコンドに付いている姿を見かけました。次は1992年の第24回全日本空手道選手権大会で数見先輩が準優勝した時で、次は1993年の第1回全関東大会で数見先輩が優勝した時でした。その後は大会会場や大会会場近くのコンビニなどで数見先輩を見かけたりしていました。1993年の第24回全日本空手道選手権大会で優勝した時は本当に凄い人だったんだと思いました。そして次の年の4月に城南支部の蒲田道場で数見先輩がサンドバックを蹴っているのを見たわけです。私は最初は数見先輩が指導する5時のクラスに参加して、7時から数見先輩と自主トレすると言う感じでした。入門して1ヶ月ぐらい経った時に数見先輩に食事に連れて行って頂きました。蒲田にある祭寿司と言うお店で、笹岡先輩、木浪先輩、数見先輩、阪田先輩と自分でした。黒帯の先輩方に交じって私もその場に呼んで頂き、とても嬉しかったです。その後は飲み会などでよく席をご一緒させて頂くようになりました。数見先輩とはよく打ち込みと蹴り込みと砂袋を一緒にやらせて頂きました。スパーリングはパンチのみ、パンチ下段のみ、全部ありのスパーリングと言う感じでやっていました。そのあたりまでは先生と生徒と言う感じでした。数見先輩とな関係がぐっと近くなったのは極真会館が分裂して、私と一緒に稽古していた先輩方が現新極真会の方に行ってしまったので、私は内弟子が稽古する朝練に参加して、内弟子になってからです。そこから毎日一緒に稽古させて頂くようになり、夜も一緒に銭湯に行ったり、一緒に食事に行ったりするようになりました。一緒に稽古したりプライベートでも一緒にいるうちに数見先輩の凄さや素晴らしさを感じ、私も数見先輩のようになりたいと思うようになりました。私の中では史上最高の空手家は松井章圭館長か数見先輩だと思っています。今でも数見先輩の背中を追いかけています。私が股関節を人工関節にする手術をしたあと、ある先輩に「そんな所まで数見さんの真似しなくてもいいのに。」と言われました。数見先輩の素晴らしさは近づけば近づくほど凄さや素晴らしさが分かると言うことです。人間は近づくと悪い所もたくさん見えるものですが、数見先輩は悪い所がほとんどありませんでした。優しくて強くて自分に厳しく人に優しく後輩にまで気を使う方でした。


2026年02月11日(水) 城南支部での大きな出会い2人目

城南支部での大きな出会い2人目は川原奈穂樹先輩との出会いです。私の組手にとても大きな影響を与えてくれました。私が初めて城南支部の蒲田道場を見学した時に指導していたのが川原先輩でした。稽古のあとに川原先輩に城西支部を辞めて来た事などを相談したら「是非、入門してよ。」と言われました。その後、川原先輩に5時からの寮生稽古に誘われて川原軍団に入れてもらい一緒に稽古させて頂けるようになりました。川原軍団には、塚本徳臣先輩、鈴木由一先輩、重盛先輩、志田清之さんがいました。スーパーセーフと言う防具を付けて顔面ありのスパーリングをしていました。川原先輩は極真空手の選手を引退したあとボクシングのミドル級で全日本新人王になり日本タイトルマッチに挑戦しました。この時からとても顔面パンチが上手でした。私ももともとは顔面ありの空手をやっていたので、とても楽しくスパーリングしていましたが、川原先輩のパンチ力が強いので稽古のあとに目眩がする事が良くありました。川原先輩は第26回全日本空手道選手権大会で8位になりました。その後に極真会館は分裂してしまいました。川原先輩は分裂した極真会館支部長協議会派(現新極真会)へ行き第6回世界大会に出場しました。そこで私と川原先輩は別の道を歩むようになってしまいました。でも人生の節目節目で個人的にですが、川原先輩とはお会いする機会を持たせて頂いています。第26回全日本空手道選手権大会で8位になった時と極真空手の選手を引退して身一つでボクシングの世界に飛び込んで戦っている姿はとてもカッコ良かったです。今でも川原先輩の組手は私の理想ですし、今でも川原先輩の事はとても尊敬しています。因みに最近、ボクシングの世界タイトルマッチなどでアディダスのグローブが使われていますが、川原先輩がそのグローブを作っています。そんな凄い才能を持っている先輩です。


2026年02月10日(火) 真白12回目の誕生日

次男の真白の12回目の誕生日でした。真白が生まれてから家族はさらに明るくなり、幸せが2倍になりました。真白は私と好きな物が似ています。真白はウルトラマンやゴジラが大好きなので、ウルトラマンやゴジラのいろんな話が出来てとても楽しいです。今日は真白の誕生日パーティーをしました。みんなでステーキと味付けご飯を食べて、誕生日ケーキは妻の手作りのウルトラマンオメガのケーキでした。ケーキの出来がプロ級でした。妻からの誕生日プレゼントは包丁2本で、私からの誕生日プレゼントはウルトラマンのTシャツでした。真白には「生まれてくれて本当にありがとう!真白が生まれてからパパの幸せは2倍になったよ!いつも家族を笑わせて、皆を明るくしてくれてありがとう!」と言いたいです。


2026年02月09日(月) 遂に城南支部

私は1994年4月に東京城南川崎支部に移籍しました。移籍してみて、この道場に辿り着くために今までの道場でいろいろな経験をさせて頂いたように感じました。見学に行った時の事は今でもハッキリと覚えています。この日にその後、もっとも私に影響を与えた3人の先輩との出会いがあります。私は19時からの稽古を見学しようと思っていたので6時ぐらいに道場へ見学して良いか確認を取り、だいたいの道順を聞くために電話で連絡すると関西弁でぶっきらぼうな感じで対応されました。少し息もあがっていた感じだったので稽古中に電話に出たのだと思います。私が「見学をしたいのですが」と言うと「見学は大丈夫です。」と言い、私が道を尋ねると「改札を出て東口に降りると交番があるから、そこで聞いて下さい。」とぶっきらぼうに言われました。今、考えるとあの時間に稽古をしていて関西弁なので鈴木由一先輩(現極真会館東京大崎支部支部長)だと思います。私が移籍をして城西支部から来た奴に滑られるなと第一の刺客として組手で私を潰しに来たのも鈴木先輩でした。なのでそこから半年以上は一緒に稽古していても口を聞く事はありませんでしたが、城南支部で1番公私共にお世話になっているのは鈴木先輩です。鈴木先輩と初めて組手をした時の事はハッキリと覚えています。サウスポーに構えていて、背は高いのですが痩せていて、構えは腰高でキックボクサーのような構えでした。動きもフニャフニャしているように見えたので、あまりプレッシャーは感じませんでした。でも間合いに入って行くと、とてもスピードのある重い左の中段回し蹴りを蹴って来ました。蹴り始めから蹴りが当たるまでのスピードがとても速く感じました。たぶんフニャフニャして見えたのは脱力していて、蹴る時に一気に力を入れて蹴ってくるのでスピードと伸びがあったのだと思います。そして蹴りの軌道に無駄がなく蹴る場所まで最短の直線で蹴ってくる感じでした。それと膝蹴りの高さとタイミングかとても良く突き刺さってくる感じでした。突きはそれほどパワーはないものの的確に急所を突いて来る感じがしました。私がその日のスパーリングで効かされたのは三日月蹴りでした。中段回し蹴りだと思って受けようとしたら中足で蹴られました。その時の私は85キロはありましたし、お腹も打たれ強い方だと思いますが、お腹にドンッ言う衝撃と共に中足を蹴り込まれたので、痛みと共に息が詰まって苦しくなってしまいました。初めて三日月蹴りと言う蹴りを知った瞬間でした。鈴木先輩はその後は首都圏交流試合中量級で優勝したり関東大会8位入賞したりパリで行われたワールドカップ(団体戦世界大会)の代表になったりもしました。私が鈴木先輩を1番凄いと思った事は試合の前の日に忘年会があったのですが、そこでビールを一気飲みしたりしてベロンベロンに酔っ払っていた事でした。しかも次の日の試合では優勝していました。私はそこでは次の日の試合の事を考えてお酒は控えていたのですが、結果は3位でした。私に勝った先輩をボコボコにして優勝していたので、この人は大物だなと思いました。前の日の事をみんな知っているので優勝した鈴木先輩を見て他の先輩達は大爆笑していました。本当に豪快な先輩です。鈴木先輩とは21歳で出会って、今も同じ団体で活動させて頂き、大会の時には一緒に飲みに連れて行って頂き、ご馳走して頂いているので32年のお付き合いをさせて頂いています。1番付き合いが長い先輩です。いつも本当に感謝しています。


2026年02月08日(日) 雪が降っていましたが

雪が降っていましたが、個人レッスンを2回行いました。妻は頑張って毎週日曜日にウエイトトレーニングの個人レッスンを受けています。今回で3回目でした。トレーニングメニューはバーベルスクワットを3セット、ダンベルレッグランジを3セット、ベンチプレスを4セット、カール&アーノルドプレスを3セット、サイドレイズを2セット、ダンベルロウを左右3セット、腹筋2セット、背筋2セット、妻は身体を動かすのが嫌いですが、頑張って続けています。そのせいで毎週月曜日は大筋肉痛らしいです。自分の健康と美容のために頑張って欲しいと思います。


2026年02月07日(土) 言葉との出会い

今日は雪が降っていました。雪の中ですが、私の旧城南時代の先輩が運営する格闘技サイト「イーファイト」の会社のヨシクラデザインの30周年パーティーが東京ドームホテルで行われたので出席してきました。著名人や空手、MMA、ボクシング、キックボクシング、など様々な方々が出席されていました。昔一緒に練習した事や食事の席でご一緒させて頂いた方など懐かしい方々にお会いする事が出来ました。私はキン肉マンが好きだったのでゆでたまごの嶋田隆司先生がいらしてたので、このチャンスに一緒に写真を撮りたいと思ったのですが止めました。今は柔術をされていると話されていました。いろんな方が吉倉先輩との思い出を挨拶の中で話されていましたが、先輩のパワフルな生き方や行動力や勇気や諦めない心を感じました。全ては極真空手から学んだ事だと言われていました。吉倉先輩はリクルートと言う会社で営業成績全国1位を取ったり、まだ分裂前の1番レベルが高い時代の全日本ウエイト制空手道選手権大会の中量級でベスト8に入っていたり、実績もしっかり残しています。その先輩が空手の師匠から言われた言葉が自分の人生を変えたと言っていました。その言葉を紹介させて頂こうと思います。「努力する人は必ずしも成功するとは限らない。だから努力する人は少なくなる。よって努力する人は勝ちやすくなる。」素晴らしい言葉だと思いました。


2026年02月06日(金) 未だにファンです。

私は1993年の4月に上京して東京城西支部阿佐ヶ谷道場に移籍をしました。東京城西支部阿佐ヶ谷道場は何故か中野駅にありました。上京した理由は世界チャンピオンを本格的に目指すためです。東京城西支部阿佐ヶ谷道場を選んだ理由は黒澤浩樹先生の道場だからです。第5回世界大会を見てから私は黒澤浩樹先生のファンになっていました。それと同時に黒澤浩樹先生みたいになりたいと思いました。そのためには黒澤浩樹先生の道場に入門し黒澤浩樹先生と一緒に稽古させて頂けば、どんな稽古をすれば黒澤浩樹先生みたいになれるのかが分かると思ったからでした。幸運にも移籍して1ヶ月で黒帯と茶帯がスパーリングをするクラスに参加出来るようになり、3ヶ月で黒澤浩樹先生とウエイトトレーニングを一緒に出来るようになり、4ヶ月後には黒澤浩樹先生の個人的な稽古の合宿に呼んで頂けるようになりました。その年の25回全日本空手道選手権大会では黒澤浩樹先生のセコンドをさせて頂きました。先生の生活や稽古やトレーニングを全てご一緒させて頂きました。黒澤浩樹先生から学んだ事は稽古に挑む厳しい姿勢や普段の生活の厳しさや試合に臨む姿勢や稽古方法やトレーニング方法や先生の考え方や理念なども学ばせて頂きました。本当に勉強になりました。そして本当に大変でした。人に気を使う事をここで学ばせて頂きました。先生の足音で先生の機嫌が分かるぐらいになりました。先生は稽古の前やトレーニングの前は誰とも話はしませんでした。それでも先生が何をするかをいつも考えて先回りしました。それでも先生によく怒られました。先生は人に厳しい反面、自分にもとても厳しい方でした。先生は絶対に稽古を休まないし、絶対に遅刻をしない方でした。絶対に稽古やトレーニングで手を抜かない方でした。自分が決めた事しかせず自分が決めた物しか食べない方でした。本当に凄い人間でした。黒澤浩樹先生を身近で学ばせて頂いた事は私の大きな財産となりました。黒澤浩樹先生は9年前に亡くなってしまいましたが、私の中では大きな存在として生きています。今でも黒澤浩樹先生の試合の動画をよく見ます。カッコイイなと思います。未だに黒澤浩樹先生のファンです。


2026年02月05日(木) 起きた事や言われた事を

自分の人生の中で起きた事や人から言われた事を味噌󠄀にするのも糞にするのも結局はその人次第です。逆に言えば自分に起きた事や人から言われた事はその人次第で味噌󠄀にだってなるし、糞にだってなると言う事です。その出来事や言われた事がその時は悪い事だと思っても、あとになって良い事だったと言える場合もありますが、逆にその時は良い事だと思った事が、あとになって悪い事だったとなる場合とあります。どんな事もどんな言葉もカンフル剤にして生きて行く人もいれば、自分に起きた出来事や言われた事のせいで自分はダメになったと言う人もいます。どちらが得かは誰にでも分かる事なのですが、分かっているけど、そうは生きて行けないのも人間なのだと思います。なので時には起きた事や言われた事をカンフル剤にして頑張り、時には起きた事や言われた事を言い訳にして辞めたり諦めたりすれば良いのではないかな?と思います。


2026年02月04日(水) 無駄な事は何一つない

私は、自分のこれまでの人生での出来事に無駄な事は1つも無かったと思っています。それは良かった事も悪かった事も含めてです。虐められた事も好きな子にふられた事も夢が叶わなかった事も死にたいと思った出来事も全て無駄じゃなかったと思っています。そしてそんな出来事も無駄にはしなかったから、今その言葉を言えているのだと思います。50歳を過ぎて、この言葉を言えたと言う事は、自分は間違った生き方はしていなかったと言う事なのだと思っています。そして10年後、20年後、自分が死ぬ間際にも、この言葉を言えているよう頑張って生きて行きたいと思っています。


2026年02月03日(火) 極真空手の原点

私は17歳の時に国際空手道連盟極真会館福島県北支部に入門しました。この時は本当に世界チャンピオンになりたい!と言う夢を持って、それまでにしていた馬鹿な事を全て止めて入門しました。その時によく指導しして頂いた先輩は、梶川裕史先輩、堀江崇先輩、滝嶋邦彦先輩、吉田広明先輩でした。その頃に私がライバルにしていたのは、八木沼史郎さんと増田亮一さんでした。特に堀江崇先輩に可愛がって頂きました。一緒に稽古させて頂いたり、食事に連れて行って頂いたりしました。基本稽古、移動稽古、組手などを良くやっていた記憶があります。自主トレでサンドバックやウエイトトレーニングをやっていました。休みの日もウエイトトレーニングをしに道場に行っていました。20歳で東京に出るまでお世話になったのですが、この道場で空手の基礎となる事を学ばせて頂きました。三瓶啓二師範は雲の上の存在で審査や試合でアドバイスを頂いただけでも嬉しい気持ちになりました。1度だけ約束組手の相手をして頂いた事がありました。凄い迫力で師範の前に立っているだけで圧倒されてしまいました。何かしたら本気で攻撃されてしまうのではないか?とおっかなビックリ組手をしていましたが、とても優しく組手をして頂き、本当に強い人は優しいんだと思いました。先ほど書いた指導して頂いた先輩方もみんなそんな感じでした。後輩や弱い人を大切にするとても素晴らしい雰囲気の道場でした。悪い噂しかない私にも指導して頂いた先輩方は「真面目になろうと思ったから空手を始めたんだろ!頑張れよ!」と良く声をかけて頂きました。極真空手の素晴らしさをこの道場で学びました。私の極真空手の原点はこの道場だったと思います。今は新極真会と言う団体になり別の組織になってしまいましたが、三瓶啓二師範を初め指導して頂いた先輩やライバルにしていた同輩には本当に感謝しています。


2026年02月02日(月) 空手との出会い

今までの空手人生を振り返って思い出を書いてみようと思うのですが、空手歴37年にもなると、何から思い出せば良いのか?何から書き出せば良いのか?とても迷います。そんな時は思ったままに書き出せば良いと言う言葉通りに、思ったままに書き出そうと思います。私の最初の空手の先生は魏桜流拳法菊地塾塾長菊地信弘先生です。菊地先生は硬式空手の世界チャンピオンでシュートボクシングのシーザー武志会長と異種格闘技戦をしたり、様々な流派の試合に出場して素晴らしい成績を収めていました。菊地先生との出会いは私が15歳で高校を退学になり、馬鹿な事ばかりしている頃に、それを見かねた私の知り合いに「お前は何かやりたい事はないのか?」そう聞かれ、私は「TVで極真空手の世界大会を見たんだけど、それをやって見たい!」と答えました。その方に「極真空手ではないけど、空手のチャンピオンを知っているから、見学に行ってみるか?」と言われたので、私は「見学に行けば、その人と戦えるの?」と言いました。その方が菊地先生に電話で連絡すると、是非道場に来て下さいと言われました。そしてその方と菊地塾に行きました。当時は福島市の青果市場の近くにあり、プレパプの道場でした。私達が道場に入ると門下生の方がもう練習していて、菊地先生はまだ道場にいませんでした。菊地先生が来るまで見学していて下さいと師範代の方に言われ、私達は練習を見ていました。私の記憶では、キックボクシングのようなシャドーをしていました。少しすると菊地先生が道場に入って来て「君か?じゃあさっそくやるか?」と言われ、私はヘッドギアとグローブをしてもらい、スパーリングなのか喧嘩なのか分からない感じですが、スパーリングが始まりました。まるで今流行りのYouTubeの道場破りのような感じです。私が殴りかかると、菊地先生のハイキック一発で私は失神させられました。納得がいかない私はその後、何度も立ち上がって菊地先生にかかって行きましたが、パンチでまた失神させられ、最後はローキックを何度も蹴られて、私は立ち上がれなくなりました。「まだやるか?」と聞かれたので、私が「もう立てない」と少し生意気な感じで言うと「負けたんだから、参りましたと言え」と言われ、私も観念して「参りました」と言いました。続けざまに「悔しいか?強くなりたいか?俺に勝ちたいか?」と言われました。私が「強くなりたい」と言うと「じゃあ空手を教えてやるから、俺に勝てるようになるまで頑張れ」と言われました。そして鏡の前に連れて行かれ正拳突きを俺が止めて言いと言うまでやっておけと言われ、正拳突きを教えてもらいました。鏡を見ると自分の顔が見た事もないほどボコボコになっていました。顔は目と鼻と口が腫れていました。頭痛が1週間は治りませんでした。おそらくこの時に眼底骨折していたと思います。何十年後に検査したら、以前眼底骨折していると言われたのですが、症状からすると思い当たるのはこの時だと思います。話は戻りますが鏡を見ながら正拳突きをしている時に自分のボコボコの顔を見て悔しくて涙が出ました。でもこれをやればもっともっと強くなれるんだ、菊地先生が自分を蹴りやパンチで一発で失神させたように自分もなれるんだと嬉しい気持ちになりました。あれが私の空手道の第一歩でした。家に帰宅すると、私の家に遊びに来ていた祖父母が驚いていました。父には「どうだった?」と聞かれたので、「スパーリングして負けた。強かった。」と答えました。母には「そんなのやらないほうが良いんじゃないの」と言われましたが、私は空手をやらせてくださいと言いました。母も私が退学になったあと馬鹿な事ばかりしていたので、空手をやれば少しは良くなるかもと言う事で、私が空手をやる事を承諾してくれました。あの時の菊地先生は私にとっては鬼のように強かったですし、その後は鬼のように怖い存在になりました。私が問題を起こすたびに菊地先生に道場に呼び出され、スパーリングでボコボコにされました。あの時、菊地先生と出会っていなければ私はもっと馬鹿な事をしていたと思いますし、あの時、菊地先生に出会っていなければ、今の自分はないと思っています。菊地先生には心から感謝しています。今でも菊地先生の事は尊敬しています。菊地先生のもとを離れた今も、心のなかでは先生と思っています。


2026年02月01日(日) 53回目の誕生日

53回目の誕生日でした。12時になった瞬間に次男の真白が「パパ、誕生日おめでとう!」と言ってくれました。とても嬉しかったです。この瞬間の事を一生忘れないと思いました。そのあと家族のみんなが「おめでとう!」と言ってくれました。その後に寝ました。朝は9時に起きて、朝ごはんを食べ、少しゆっくりしてから、妻の個人レッスンを大森道場でしました。妻は運動は大嫌いなですが、流石に健康の事を考えたのか、ウエイトトレーニングをするようになりました。メニューはバーベルスクワット、ダンベルレッグランジ、ベンチプレス、ダンベルフライ、ダンベルショルダープレス、サイドレイズ、ダンベルベントオーバーロウ、腹筋、背筋で、前半を3セット、後半を2セット、約60分行いました。その後、妻と次男は新大久保へ行き、私は鷲神社に参拝し、榊を買いに行き、道場の神棚の榊、米、塩、酒、水を替え、今までに感謝し、これからの発展を誓いました。家でゆっくり入浴して、家族みんなで夕食を摂りました。誕生日のお祝いにガレット・デ・ロワを食べました。妻が4等分に切って分けてくれました。当たりのアーモンドが入っているケーキを引いた人は1年を幸福に過ごせるそうですが、それは私が当てました。まあ誕生日ですし、私が幸福になれば、菅野家も幸福になるはずなので、良かったかなと思います。私は家族のおかげで本当に本当に幸せな日々を過ごせています。歳を取ったって誕生日は悪くないですね。その感謝の気持を両親にLINEで伝えました。53年生きてみて、本当に人生は面白い、歳を取るのも悪くないって思っています。


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