「静かな大地」を遠く離れて
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2003年10月05日(日) 「遠い幸福」の在り処

単行本版『静かな大地』をようやく読了。何せここで400回に渡って
フレーズを引用しながら連載を追ったくらいだから、もはや自分の人生
の一時期を想起するような切実さをもって読み耽った。大幅な書き直し
をするつもりだとアンゲロプロスとの対談で話していたこともあって、
大きな期待をもって読んだのだが、その時の御大の発言をまず引こう。

■池Z夏樹「国境は人の心を隔てない テオ・アンゲロプロスとの対話」
(引用 新潮社『考える人』創刊3号より)
 非常に曖昧模糊としていて、しかも、はるかかなたにあるのだけれど、
 それでも、あなたには幸せが見えている。
 僕は連載を終えた今度の小説をこれから大幅に書き直すつもりでいま
 すが、その作業では、あなたが映画の中で描いたような遠い幸福をもう
 少し強調することになると思います。これはたったいま思いついたこと
 なんですが!
(引用おわり)

新聞連載と単行本との違いでまず目に付くのは、「チセを焼く」の章と
「馬を放つ」の章の間に「神威岳」という間奏曲のような小さな新しい
章が加わっていること。遠別ユートピアの崩壊をめぐる叙事詩としての
厚みを加え、前後の流れを調整する効果をあげていると思われる。他に
大きく目立った変更には気付かなかったのだが、ひとつだけ気になった。

「チセを焼く」の後半、シャクシャインの話から松田某が訪ねてくる間
に新聞連載のときには在った、三郎とエカリアン夫婦の会話がそっくり
なくなっている。前後のどこかにあるかとも思ったが、見あたらない。
気付いたのはあそこが連載の中で最も好きなシーンの一つだったからだ。

■「静かな大地を遠く離れて」2002年05月08日(水) 妹の力、物語の力
(引用)
 題:321話 チセを焼く21
 画:鍋ぶたのツマミ
 話:いつか北海道全体がチコロトイのようになると信じることにしたのよ

 雪乃=エカリアンを書くと格段に精彩が加わるように感じるのは気のせいか?
 今日はどこを引用しようか迷うほどに力のある台詞が多かった。結局のところ、
 池Z御大は小説の仕事においては、凛とした女性像を描くことにしか関心が
 ないのかもしれない、と思ったりもする。エッセイや論説では出来ない仕事。
 それは「生きる」ということの局面において、「こう在れたらいいな」という
 モデルをありありと提示することかもしれない。彼らのユートピアの描き込み
 の彫りがまだ浅いのは否めないけれど、とても魅力的な主題であるのは確かだ。
(引用、終わり)

…エカリアンと三郎が来し方を振り返りつつ、チコロトイの現在と未来を
話し合う、という場面。この前の回には「北海道全体はともかく、静内を
アメリカに出来るかもしれない。そう信じた。」(三郎)なんてセリフも
ある。夫婦の会話はなかなか本質的な議論に達して、読み応えがあった。
何よりエカリアン=雪乃の「信じる力」に、政治的な議論を超える魅力、
小説でしか得られない幸福感がみなぎっている素敵なシーンだったのだ。
おかげで終盤のエカリアンの存在感も薄くなってしまっている気がする。

カットの理由は、理解できなくはない。あの章では「由良の手記」という
体裁を踏み越えて「地の文」のような形で事態の推移が追われてはいるが、
あくまでも由良の知り得ない情報が描かれるのはよろしくなかった、とか。
状況的にエカリアンと三郎の夫婦二人だけのシリアスな内容を含む会話が、
弥生さんあたりを経由して由良さんに伝わりえたとは思えないということ。

その御法度を犯すと、叙事詩としてのリアリティが損なわれてしまうし、
作品全体であの手この手を使って醸成してきた三郎の超越性みたいなもの
の底が割れてしまう感じもある。物語の本筋にとっては、松田の訪問から
「神威岳」にたたみ掛けて、サスペンス感を高めたほうが“効く”だろう。

でも、それってなんだかアンゲロプロスと話してたことと方向性が逆では
ないか。胸が詰まるような悲劇としての効果は高まったのかもしれない。
しかし「遠い幸福」の光と影のコントラストという意味では、むしろ弱く
なったような気がする。政治的パンフレットではなく、小説であることを
考えると、個人的にも大好きな場面であっただけにとても残念な気がする。
まぁ、まさか三郎がアメリカにあこがれたという設定を、世界情勢の推移
に鑑みて政治的配慮のもとに削除した、なんてことはないだろうけど(笑)

ともあれ「叙事詩の射程距離」を測る上で看過できない渾身の大作が誕生
したことは間違いない。これを機会に、このページも再読してみようか。





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