「静かな大地」を遠く離れて
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2001年12月28日(金) ET IN ARCADIA EGO

題:193話 戸長の婚礼13
画:ヘアクリップ
話:さあ、お行儀よくしないと、馬が見ていますよ

題:194話 戸長の婚礼14
画:塗り薬
話:ピリカメノコをどうやって誘い出したのだ

馬はいい。あのたたずまいがいい。何を考えているのかわからない目がいい。
何を聴いているのかわからない耳がいい。草地を蹴る偶蹄類な爪がいい(^^)

ピリカメノコも一緒か。
どうしてこんなイキモノが地上に存在するのだろう?と思えるような娘、
そう思ってしまったら、もうイケナイ。
彼女と他の娘との間に、世界ひとつぶんくらいの隔たりさえ感じられてくる。
思わず自分と彼女とを繋ぐ都合の良い“神話”を紡ぎ出してしまう。

静かな大地の二人は、どんな禁断の果実を手にしようとしているのだろう?

http://www.lares.dti.ne.jp/~fuente/index.html


2001年12月26日(水) 憂鬱な気分にかきたてられても

題:192話 戸長の婚礼12
画:風邪薬
話:私にはおまえ以外の者をもらう気はない

孤独ということ。世界と独り対峙すること。
故人となったジャック・マイヨールのことを想う時間を持てないでいる。
つい最近、彼の存在に触れたのは「地球交響曲第四番」の上映館で買った本。

■龍村仁監修『地球交響曲第四番イメージブック』(サンマーク出版)
なんだかんだ言いつつも、僕はコアな龍村仁ファンなのかもしれない。
若書きの番組「18才男子」がやっぱり好きですけどね。
なので第四番もカット・レベルで愉しい映画でした(イヤな客だ 笑)

今回もキャラクター・ショーてんこ盛りで、断然ジェームス・ラブロック博士の
“BE AN INDIVIDUAL”という決めゼリフにシビれた。かっこいい。
高校生のころに著書を知って以来、初めてお顔とキャラクターに触れたけど、
コーンウォールの佇まい、ガイア女神像、マッド・サイエンティストな工作室、
一人ナショナルトラストな自宅周囲の森、高齢になってからの奥さんとの散歩、
どれをとってもまぁ、浦沢直樹に漫画化してもらいたい度、ナンバーワン(笑)
これ、僕の中では高齢のコケイジアンに対する最大級の称賛と敬愛の表現ね(^^)
#あっ、しかし、この本サンマーク出版だったのかぁ、これは不覚(^^;

それはそうと“ピアノを弾くイルカ人間”ジャック・マイヨールの話。
世界中みんなの心の中に在るのは、ともするとリュック・ベッソンのジャック。
自死を選ぶなら陸じゃなくて…なんて思ってしまった“ファン”が億単位でいる
かもしれない、それが彼の「孤独」とどう関係があったのかなかったのか。
孤独は在る。鬱も在る。知らない人が考えるよりもずっとありふれた現象だ。
僕も流行性感冒や胃痛より鬱のほうが親しみが持てる。

「25日、クリスマスの朝刊を読んで、ジャック・マイヨールさんが亡くなった
 ことを知った。」

…という書き出しではじまるメールマガジンの配信を受けた。

■田口ランディ「つまらないということ」
(引用)
  そうなのか……と思った。人生をおもしろいと思うということは、常に私を
 取り巻く私の環境が変化して創る枠組みの中から、逃げ切ることなのだ。環境
 が私を作るが、私はその環境から常に逃げて、枠の外にいる必要があるのだ。
 それがおもしろいということなのだ。世界はイリュージョンだ、ひとつの枠組
 みはすぐに消えて、気がつくと新しい枠組みの中に閉じこめられている。それ
 を感知するためのセンサーこそ「つまらない」という感覚なのだ。
(引用終わり 全文はそのうちここ↓に掲載されるはず、過去の例から行くと。)
http://journal.msn.co.jp/index/column01.htm

#ちなみに電脳倍音党の活動としてはビッグ・ネーム田口ランディさんの喉歌体験
 のコラム↓を見逃すわけにはいかない。
「かそけき音の世界」
http://journal.msn.co.jp/articles/nartist2.asp?w=78055

ラブロック博士の“BE AN INDIVIDUAL”というカッコいいフレーズをどう生きるか、
“こういうのもアリか”と知ることがなかなか力になるのが『エグザイルス』。

■ロバート・ハリス『エグザイルス』(講談社)
強烈な一冊。これを読んで以来、目に見えて行動様式が変わったと思う、自分でも。
ロバート・ハリス氏の真似をしよう、というのではない。
それは「21世紀の石原裕次郎を探せ」で“探された”青年の行動様式が既に最も
「石原裕次郎的」から遠いのだ、と喝破したナンシー関先生の説を待つまでもない。
…ごめんなさい、例に溺れました(爆)

実際短い休暇でも強引に外国へ観光に出かけるようになったのも、つまらない仕事
も基本的には自分が選択して(洒落か酔狂か道楽で?)やっているのだ、と思ったり
「今日出来ないことは一生やれない」を基本姿勢にしたり、そのへんはこの本の効果
だと思う。97年に出た本。僕は当時長い緩やかな鬱状態の深い夜の中にいたけれど
星野道夫と須賀敦子とロバート・ハリス、そして池澤春菜に魂を救われた。

…え〜と“落ち”はないけど、こんなところで(^^;
「セントジョーンズワート」が“DHCの健康食品”に入っててコンビニでも売ってる、
“ブルーな気持ちもハッピーに。心を元気にするハーブ。”効能は実験中ですけど、
なんとなく作用してくると気分が“て〜げ〜”になる感じがする(^^;
求めている効果はそういうんじゃなくてもっとバリバリ労働できるヤツなんですけど。
やはりライフスタイルをデザインし直すこと、それしかないよね、ラブロック博士♪
ジャック・マイヨールだって生きている限り、そうしていたはず。うむ。
“鬱”というと芥川龍之介の顔を思い出すのは、先日キャラメルボックスの
「クローズ・ユア・アイズ」という芝居のDVDを見ていたせい。
“不安”に捉えられている時代は現在も同じだ。昭和初期の空気感もある。
さぁご一緒に、佐野元春のナンバーからの“よく効くフレーズ”、
♪憂鬱な気分にかきたてられても上手にシェイクダウン♪

あ〜あ、また“つもり”より長く書いてしまったぁ(;_;)
鬱になりそう…、三郎とエカリアンはラブラブですけど(笑)
また『動物のお医者さん』を読みつつ寝ようかな。
あ、ここのクイズ↓結構面白いです(^^)
http://www.jomon.ne.jp/~mbayashi/animal/


2001年12月25日(火) 世界が内包する音

題:191話 戸長の婚礼11
画:薬瓶
話:おまえ、私の嫁にはならないか

騎乗の求婚。シチュエーションとしては、なかなか良いですね。
日高が馬の国、緑の国であることの原神話のように美しい光景。
光と風、海があって、川があって森があって、緑の牧草地が広がる。
冬はひたすらに真っ白な“すばらしい銀世界”だけに、期間限定の
萌え立つ緑の季節は、生命の息吹にむせかえる。子馬もいるし(^^)

至福の恋人たちの時間。これから三郎がどんな境涯に陥るにしても、
こういう幸福な時間がたしかに在ったこと、それは消え去らない。
幸福と災厄は隣りあって存在している。

世界が内包する音を顕在化させた「幸せ系」のCDが手元にある。
北海道の田原ひろあきプロデューサーの手になる最新の仕事。
http://www.booxbox.com/

■長根あき「Mon-o-lah モノラー=母なる大地」
 アイヌ民族の口琴「ムックリ」が歌う、
 「モノラー=母なる大地」の響き。
 参加アーティスト:EPO・等々力政彦・嵯峨治彦・渡辺亮

竹のムックリは僕も弾いてみたことがある。倍音は出るのだけれど、
それにさまざまな綾や節をつけないと「演奏」にはならない。
びょんびょん♪から先、 そこが難しい。
が、この長根さんのムックリの彩なす音たるや、一体なんだろう?
これはコトバで説明するのが空しい、聴いてもらうしかない。

シュタイナー教育では、子供に最初に与えるシンプルな弦楽器を
大事にするらしい。ペンタトニックだけを奏でる楽器で、気分に
まかせて弾いても、不協和音ではなくちゃんと音になる。
子供はそれで自然の音を模倣したり、感情を音で表現することに
トライしたりして存分に遊んでから、いわゆる本物の楽器の稽古
に移行するのだという。いきなりヴァイオリンやピアノのお稽古
を、しかも無理矢理やらせたりするのは有害かつ危険なのかも。
そう考えるとムックリなんかは、究極の「原楽器」かもしれない。
あくまで口というか身体が楽器で、そのアタッチメントみたいな。
ヴァイオリンやピアノも、遣い手の演奏家たちにとっては同じ
ように身体の延長上にある外部装置みたいなものなのだろうな。

こんなマイナー極まるCDがちゃんと手元に届き、しかも沢山の
人の支持を得ている。ネットを介して、届くべき人のところに届く
べきものが届く。マス・プロダクトにも幸福と災厄が混ざっていた。
それがいま、部分的な現象かもしれないけれど、広くて速くて濃い
フィードバック・ループがあちこちに形成されている。
キャラメルの千秋楽は、スカパーで生中継、かつ池袋と神戸の会場
で同時中継もされた。巨大メディアよりも、小回りの利く、面白い
ことに目がない人がいるチームの手で革新は進められて行く。
思いっきり個人的=身体的なライブの部分と、ネットとの結合。
「Mon-o-lah モノラー」が僕の手に届いたのも、田原ひろあき
プロデューサーの活躍おかげなのだ(^^)

手ざわりのある未来。それを求めて、個であることを追求しよう。


2001年12月24日(月) 聖夜、恋、戦争

題:190話 戸長の婚礼10
画:かんざし
話:世のものごとは偶然に、はずみで、とんとんと決まってしまうことがある

「散歩です。これはわたしの馬」という涼やかなエカリアンの声が耳に浮かぶ。
#もちろんキャストは島本須美さん@ナウシカ・ヴォイス(^^)
恋と戦争は、ひとたび起こってしまうと不可逆的な過程だということでは同じ。
だったら恋のほうがいい。“世のものごとは偶然に、はずみで、とんとんと”
決まってしまうことは確かにままある。よしんば、それが戦争であっても。

今夜は聖夜。それも報復テロに脅えるクリスマス・イブをアメリカは迎えている。
帰り道で世代的ネタとして佐野元春「Cristmas time in blue」を口ずさみ、
坂本龍一「戦場のメリークリスマス」に、そもままやんけっ!と突っ込む夜(?笑)

日本国の最大の仮想敵国たる某国をめぐる情勢は、いつ硬化してもおかしくない。
http://soejima.to/
副島隆彦氏↑の12月24日づけ「今日のぼやき」を読むと、俄に肝が冷える。
こうなってくると世界のサカモト@『非戦』(幻冬舎)を支持したくなってくる。
http://www.sustainabilityforpeace.org/
…って、まだ読んでないけど(^^;
戦争をめぐって読んでおくべき必須科目としては、いまなら断然↓この本を薦める。

■ジョン・W・ダワー『容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別』(平凡社ライブラリー)
(帯惹句より)
 戦火はなぜ拡大するのか 『敗北を抱きしめて』の前著として読まれるべき戦慄の探究
 同時多発テロとそれ以後についての特別寄稿を付す
(平凡社ライブラリー版への序文より)
 この『容赦なき戦争』の新しい平凡社ライブラリー版の刊行は、アメリカと中東−そして
 奇妙なことに間接的には日本も含めた暴力の再発の周期と時を同じくしている。
 2001年9月11日、テロリストたちがアメリカの世界貿易センタービルと国防総省を
 攻撃したとき、人種、文化、プロパガンダ、そして戦争の諸問題が再び注目の的となった。
 またしてもテレビ、ラジオは、「文化の衝突」、「文明の衝突」についてのレトリックに
 満ち満ちている。

難儀な世界ではある。Love&Peaceを強靱に鍛え上げるのは、ひとしなみの業ではない。
天下国家の好きなオトナも「空想的平和主義者」を排撃していれば格好が着くような、
単純で平和な世の中ではなくなったということか。軍備や参戦の「費用対効果」が真剣に
問われる状況になってしまった。ずっとそれが世界の実相だった、と認めるしかない。

それでもあれこれとくだらないことを考えながら明け暮れをやり過ごしていくのは自分だ。
『Switch』誌の対談インタビューもザッと読んだけど、「新世紀へようこそ」よりも
『静かな大地』を読み続けていることによって“風”をもらえている状態を好ましく思う。

さて今夜はキャラメルボックスの去年のクリスマス公演『クローズ・ユア・アイズ』の
DVDを見て眠ろう。喪うイタミがあっても、生きることの意味は消えない。そんな物語。


2001年12月23日(日) 吹雪の音楽

題:186話 戸長の婚礼6
画:小銭入れ
話:あとはおまえが話してごらん、と三郎はエカリアンに言った

題:187話 戸長の婚礼7
画:櫛
話:わたしはずっとずっと長く生きてきた気がするわ

題:188話 戸長の婚礼8
画:扇子
話:でも、わたしのは本当にわがままだったんです

題:189話 戸長の婚礼9
画:腹薬
話:俺はエカリアンに惹かれていると認めるしかない

ユートピア建設の理想に燃える三郎君が、ひとりの娘に恋をしている。
このくだり、なぜかスタジオ・ジブリ風の絵柄と音声で脳内再生されたり。
三郎のキャストは松田洋治さん、エカリアンは島本須美さんでね(笑)

ある種、今の三郎の恋話とも重なる主題を描いているのが先日来触れてきた
現在公演中のキャラメルの作品だったりする。
今日はその話を書きます。知らない人にも通じる劇評…にはしにくいか(^^;

#それはいいけど、やってもぉたぁ!…5:00じゃん、もう(;_:)

■演劇集団キャラメルボックス『ブリザードミュージック』観劇メモ

●キャラメルボックスについて
 まず簡単に僕のキャラメルボックス観劇歴からご紹介しておきましょう。
 92年の紀伊国屋ホール『カレッジ・オブ・ザ・ウィンド』が最初。
 あえてマイ・ベスト作品を挙げれば僕のツボがわかるかもしれません。
 第1位 『サンタクロースが歌ってくれた』
 第2位 『ディアフレンズ・ジェントルハーツ』
 第3位 『TRUTH』

 解説します。ツボは「男の友情」話。キャラメルの客席って若い女の子が
 多いという印象があって、終演後も「キャ〜!ねぇねぇ、よかったね!」
 と手を取り合う女子高生風グループなんかがよく見受けられるのですが、
 書いているのは成井さん(や真柴さん)なわけですし、大人の男の琴線に
 しみじみと触れる作品が多いのです。なので『サンタクロース〜』なんて、
 クライマックスの西川さんと上川さん叫び合いシーンなんか観ちゃったら
 客電着いてもまだ涙を拭ってたりしてて、ちょっと慌てた記憶があります。
 あのシーンは今でも僕の感情の“瞬間最大風速”記録です。

 『ディアフレンズ・ジェントルハーツ』再演は、ある意味いまへとつづく
 “キャラメルミラクル”の原型となった作品じゃないかと勝手に思います。
 その心は…確かあのとき、後には常態となった「上川さん不在の公演」の 
 皮切りじゃなかったかと。今井さんが主演、西川さん近江谷さんをはじめ
 メンバー一丸となって「危機」を見事に乗り切ったという印象があります。
 後には「危機」でもなんでもない、普通の状態になっていくわけですが。
 公演ごとにヒーロー、ヒロインが生まれる底力、その原点ではないかと。

 『TRUTH』は本の圧倒的完成度、芝居の熱、そして岡田達也さんに尽きる。
 これには前段が必要かもしれない。僕の観た限りの公演についてだけれど
 しばらくの間僕の中で岡田さんは正直言って「心配のタネ」だったのです。
 後でも触れますが、『ブリザード〜』再演とか『竜馬〜』再演とかの時期。
 この作品のラストで岡田さんに泣かされた時、感慨深いものさえあったり。
 最近の作品での活躍ぶり、幅の広がったお芝居は誰しも認める魅力がある。
 ちなみに、これと連続で『怪傑三太丸』をやれた劇団なのもスゴイ魅力。

 このマイ・ベスト、“あえて”なので、このラインナップになりました。
 じゃ『不思議なクリスマスのつくり方』は?とか『銀河旋律』は永遠だ!
 とか『グッドナイト将軍』の津田さんがもう一度観たい、とか言い出すと
 収拾がつかないので。何より『ブリザードミュージック』の扱いが問題。
 この作品、僕のキャラメル歴の中で特異な位置づけにある作品なのです。

●ブリザードミュージックについて
 95年の再演、当時札幌に住んでいたにも拘わらず、仙台公演を観ました。
 たまたま仕事の出張で東京に居たので、そのついでに仙台遠征、しかも
 翌日に花巻を初訪問という豪華版。それもこれも宮澤賢治ゆえ…でした。
 1995年は日本にとっても僕個人にとっても特別な意味を持つ年でした。
 この観劇の直前に阪神大震災、そして3月には地下鉄サリン事件。
 僕自身はその直後に仕事でサハリンを訪問、賢治の訪れた旧樺太です。
 そりゃあもうスコトン岬より思いっきり北、『風の砦』な世界でした(笑)

 それだけ思い入れのあるテーマの『ブリザード・ミュージック』だったの
 ですが…、95年の公演の印象は、上で挙げたマイ・ベストの作品群に
 迫るものではありませんでした。信頼できる友人の評では、キャラメルの
 作品の中でも屈指の完成度を誇る作品だと聞いていただけに「不可解」で
 仙台公演で特別に販売されていた初演のビデオを買って帰って見ました。
 たまたま僕が舞台を入れ込みすぎて観ていたせいだと思いたいのですが、
 ビデオをみて初めて「こういうお芝居だったのか!」とプロットを理解
 出来て「感動」することができた、という何とももったいない顛末。

 この個人的な経験は(若干改稿されているとはいえ)同じ脚本でもキャスト
 や観る側の思い込み、その日のコンディションなどで、お芝居の印象は大幅
 に変わりうるのだ、という当然と言えば当然の前提を強く確認するものと
 なりました。初演のビデオを何度も観て、いかによくできたお芝居であるか
 よくわかった上で、そして私たちが彼の作品を受容する核心となる部分まで
 一気に導いてくれる 「宮澤賢治・入門」としても出色の創作物だとわかった
 上で、もう一度この作品を舞台で観てみたい、という想いを強めていました。

●今回の公演について
 最近のキャラメルの公演を欠かさず観ていて、つとに関心を持って見ている
 のがキャスティング。特に再演もの、増して上の経緯がある『ブリザード〜』
 ならば、なおさらのこと。“育てながら戦う”キャスティングの妙を味わう
 のが面白いのですが、その意味で興味を持って見ることが出来た公演です。
 『キャンドルは燃えているか』『また逢おうと竜馬は言った』『風を継ぐ者』
 『カレッジ・オブ・ザ・ウィンド』といった作品以上にキャスト替えが多く、
 不動の“清吉”を別にすれば、前と同じ役をやるのは坂口さんと篠田さん
 だけ、というのがまずとても面白い。初演から同じとなると坂口さんだけ。
 決定したキャスティングを俯瞰すると納得の布陣で、それぞれにハードルが
 高くなっている感じなのもまた興味深く、観劇がとても楽しみでした。

 さて「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」は、
 「家族がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」、そして
 「舞台がぜんたい幸福にならないうちは役者の幸福はありえない」へという
 重層構造に落とし込まれていて、輻輳的に響き合っていく、その展開の妙が
 このお芝居の面白いところですが、それを成立させるためには全パートが
 それぞれ同じ強度をもってきれいなアンサンブルを奏でなければなりません。
 前半「家族話パート」で充分に笑いの“マッサージ”を与えておかなければ、
 終盤の「劇中劇パート」に入ってからも芝居全体の“飛距離”は伸びない、
 というセオリーが特にストレートに当てはまる作品だと言えると思います。

 そのへんを踏まえた上での僕の印象。「いい作品だな」というのを再認識。
 裏を返せば、食い足りない感じも残る。『また逢おうと竜馬は言った』の
 ように再演ものなのに奇跡のアンサンブルを実現していたとまでは行かず、
 “代表作のひとつの秀作の再演”という域に、手堅く落ち着いている感じ。
 それぞれが言ってみれば“職人仕事”をしているような印象で、『竜馬〜』
 で言えば南塚さん、『カレッジ〜』の小川江利子さんのような熱源となる
 役者さんがいなかった、というのが要因なのではないかと思ったりします。

 「若手の初主演」ではないから熱が足りない、ということではありません。
 ベテランだって例えば『MIRAGE』の坂口さんなどはキーパーソンでした。
 『風を継ぐ者』再演の細見さん、『ミスター・ムーンライト』の上川さん
 にしたって目が離せませんでした。言ってみればメイキング・ビデオを作る
 として誰を軸にするかという視点。今回はそこが不在だったように思えます。
 それぞれの役者さんたちが熱を持って、それぞれの高いハードルに挑んで
 脚本に生命を吹き込むべく、真摯な仕事をしていらしたのは承知の上で…。
 特に若手の役者さんたちには、優等生にならずに弾けてほしいと思います。
 “公演ごとにヒーロー、ヒロインが生まれる底力”が身上なのですから。

 いろいろ書きましたが「誰それが良かった」とか「どこのパートが良かった」
 ということではなく、芝居全体を感じることができたのは、何よりも作品の
 完成度が高いレベルに達していることの証明だろうと思います。
 今年この時期に、この作品を改めてじっくりと観る機会を得られたことを
 とても幸福に思います。考えてみれば、初演は湾岸戦争のあった91年で
 再演が95年の“日本クライシス”の年、そしてこの秋から冬の再々演…、
 成井さんにも意図しようのないシンクロがついて回るのも作品の力でしょう。

 
●補足 音楽について
 今回作られたオリジナル・サウンドトラック、どれも素敵な曲ばかりです。
 いきなり「オーディション」からカッコいいし、クライマックスの「鏡の森」
 は舞台美術とも相俟って胸の深いところを刺激されるようなギターフレーズ
 が観劇後もずっと身体の中で鳴り響いていました。CDも聴いています。
 音響チームに難を言えば、清一郎のキメのところの「僕のMerry Chrismas」
 のフェーダーの上げ下げは、ちょっとシンドかったかも。っていうか、楽曲
 の問題かもしれません。クライマックス大音量の中で登場人物がセリフを叫ぶ
 ときにフェーダーを上げ下げするのを“見せる”こと自体はむしろ“お家芸”
 というかキャラメル・ミラクルとして愛していると言ってもいいのですが(^^;
 ワムの「ラスト・クリスマス」とかだと、セリフで音楽レベルが下がっても
 聴く側の脳内ではワムがつながって流れてる、という“選曲アドバンテージ”
 効果があったのかもしれないな、なんてことまで考え込んでしまいました。


2001年12月19日(水) 歳末

題:184話 戸長の婚礼4
画:指輪
話:なぜ俺はあの娘のことをこれほど気にしているのだろう

題:185話 戸長の婚礼5
画:笄
話:なまじ文字があるから、物覚えが悪くなるのか

年の瀬です。今日も遅くなってしまったのでインチキ更新(^^;
先日話題にしたエカリアンの秘密も、まだ明示されてませんし。

振り返る趣味も余裕もないのだけれど巷の雑誌類の真似をして
今年「静かな大地」が始まってからよく話題にした書名を列挙。
うん、どれも読み応えと値打ちのある本ではありますね。
でも年末年始休暇に向く本かどうかは責任を持ちかねます(笑)

■佐々木譲『武揚伝』(中央公論新社)
■阿刀田高『怪談』(幻冬舎文庫)
■切通理作『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)
■篠田節子『弥勒』(講談社文庫)
■磯貝日月『ヌナブト』(清水弘文堂書房)

これらに限らず全文検索エンジンで、書名で引っかかってしまう
ことが多いようで…>この日録。広く読んでいただきたい、とは
あんまり思わずに細々とやっている場所なのですが(^^;
何かの書名でヒットされた方は、なんじゃここ?って感じでせう。

以下は、わが未読山脈の中でも、ひと際“読みたい度”の高峰たち。
ま、本なんか読むよりも愉快で心地よいことが世の中に沢山ある、
それが大前提ではありますが…。そのうち読める時には読めるか。

■ジョン・ダワー『容赦なき戦争』(平凡社ライブラリー)
■福田和也『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』(文藝春秋)
■山田正紀『ミステリーオペラ』(ハヤカワ書房)
■辻仁成『太陽待ち』(文藝春秋)
■佐野眞一『宮本常一が見た日本』(NHK出版)

「静かな大地」もあと半年くらいはつづくのでしょうか?
終了したとき、今とは違う認識の地平が広がっているといいな。
…って、いくら更新ペース鈍いからといって、今年最後みたいな
書き方をするのもなんですけども。

遠からずキャラメルボックス「ブリザードミュージック」の観劇
レポートも書かなきゃいけません。(<イケナイのかっ??)
#まだやってますので、どうぞ池袋サンシャイン劇場まで!(^^)


2001年12月17日(月) 今宵のリアリティ

ハイサイ! なんとなくオキナワ行きたいなぁ、そろそろ、久しぶりに♪
しかしボーダーインクの新城さんが「沖縄だいじょうぶさぁ」キャンペーン
も一寸間違えると「基地大丈夫さぁ」という認識にすり替わるまいか、的な
懸念を書かれていた(<要約文責G−Who)のにも納得。
わが人生の“鬼門”オキナワとも、気長につきあって行かねば…と再認識。

北海道も沖縄もアフガニスタンも、観念がつくり出す虚像(だけ)ではない。
緯度や経度を大きく動けば気候も変わる、人の暮らしも食べ物も変わる。
いまトウキョウに居るのは自分で選択してのことだと思って暮らしてはいる。
だからこそここで出来ること、楽しめることは最大限享受する努力はする。
…って散歩したり芝居観たり料理食べたり、そういう「努力」だけどね(^^;

大好きなハンガリー料理もモンゴル料理もギリシア料理も食べられる街で、
エレメンタルな味がもはや危険に美味い↓ここのパンが幸福だったりする(^^)
http://member.nifty.ne.jp/koko~soven/ek-kouda.htm
完全休日のブランチは、ここのパンと野菜スープと野草茶が決まりもの。
で、公園や神社や街をさんざん歩いて書店をひやかしてケーキを食べに行く。
きっとどこに住んでいても似たような過ごし方をするはず。それが強み。

なんかちょっと懐かしの小沢健二「LIFE」入ってる?(笑)
♪寒い冬にダッフルコート着た君と 原宿あたり風を切って歩いてる〜♪
彼、NYで新作レコーディング中とか。
同世代だし、よく聴いてたし、彼がいま何考えてるかチョイ興味あり。
犬は吠えるがキャラバンは進む。わんっ。

日録を書くのが久しぶりなので今夜は大作?を書こうと思ったのだけれど
思いがけず明日もいろいろ立て込みそうなので早く寝ることにします。
明晩はキャラメルボックスの「ブリザード・ミュージック」の2度目も
観に行かなきゃいけないし、できるだけコンディションを良くしたいので。

近日中に“パーシヴァル・ローエル”↓をきっかけに、長いのが書きたい。
http://members.tripod.co.jp/holewater/ster.htm
「ボストン、火星人、能登半島」を繋ぐ、センス・オブ・ワンダーあふれる
おもしろい人物、しかもいろいろリンクする、ちょいマイ・ブームです。
巽孝之氏目線、および荒俣宏御大目線でローエルを見るとメチャわかる。
あと備忘メモ、山田正紀さんが今の時代を読むには『モービィ・ディック』
だと思って再読中、とインタビューで語ってらして握手したくなったり。
以上は引っ張りすぎの予告編(^^;

さて、遠く離れすぎの「静かな大地」、日々読むのは読めてるんだけど。
章がわりもあったし、コメントしたくなることは沢山あるのですが…。
たまには“併走日録”らしい楽しみ方もしないと寂しいですなぁ。
で、「そう、しかしエカリアンは……だったのよね」の穴埋めクイズ。
この場合アイヌ語の知識はないなので、文脈だけから深読みしてみよう。
なにせ新聞連載だし今日の終わり方からすると近いうちに回答が出るはず。
うむ。
僕の読み。
エカリアンちゃんは、もともと“和人の貰い子”説。
うむ。重い。けど、ありそう。
さてさて???

題:176話 フチの昔話26
画:モミジ
話:あなた自身ではなく、何かの神様がそうさせたのでしょう

題:177話 フチの昔話27
画:木瓜
話:あなたはもう一つ位の高い神となるでしょう

題:178話 フチの昔話28
画:コガネウツギ
話:すべてに救いのしかけがあるわけだな

題:179話 フチの昔話29
画:ポプラ
話:わたしは桃太郎が嫌い

題:180話 フチの昔話30
画:クスノキ
話:今は世間全体が桃太郎気分だからさ

題:181話 戸長の婚礼1
画:鍵
話:万事を若い者に任せようという雰囲気が村内にみなぎっていた

題:182話 戸長の婚礼2
画:繭玉
話:戸長はなかなか忙しかった

題:183話 戸長の婚礼3
画:櫛
話:そう、しかしエカリアンは……だったのよね


2001年12月08日(土) 北と南の「交渉」学

題:174話 フチの昔話24
画:ゼラニウム
話:小屋が燃えている。娘よ、おまえは逃げたか?

題:175話 フチの昔話25
画:アサガオ
話:わたしたちはどちらかが泣かなければならない定めだったのか

先日、“孝明天皇の秘儀”の話題の時、佐々木譲さんの『武揚伝』を
引き合いに出しましたが、そのへんは当然佐々木さんも自覚的で
いらして、“孝明天皇毒殺説”を採られている。物騒な話ではある。

『武揚伝』と孝明天皇の事が、どういう位相で関係してくるのか、
最近新たに、ご自身のHPで明快な文章をお書きになっています。
http://www.d1.dion.ne.jp/~daddy_jo/newpage16.htm
「武揚伝ノート1」の加筆部分「榎本武揚の魅力はどこにあるのか」
さらにリンク先に「武揚伝ノート5」として、
「孝明天皇の毒殺は、すでに医学的に決着済みの事実である」も。
『武揚伝』読者のみなさま、是非ともご参照あれ(^^)

書店で平積み中のドナルド・キーン『明治天皇』は、目次を見ると
孝明天皇の代から詳述しているみたいで、“毒殺説”に関しての
「注」を見るとアーネスト・サトウが“噂”として書いているもの
が残っているのが、記録として残っているとの由。
このへんの歴史、日本近代の立ち上がり期に関しての共通認識の無さ
たるや、これでええんかいな、というくらい寂しいものがある。
キーン氏の大著に関しては、世間の評判を待っているところだけど(^^;

さて、つづいても先日の話題に関して。

西東始さんから義経伝説話と宮本常一話に反応をいただきました(^^)
http://www.obihiro.ac.jp/~engliths/index.html
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件名:宮本常一

宮本常一『忘れられた日本人』については、江別(100年記
念塔ですね)に修学旅行生を引率した高校教師、村井紀さ
ん(今は『南島イデオロギーの発生』ですっかり有名人)
が、この「忘れられた日本人」は「和人」ばかりだ云々と
いう批判をどこかでしていましたが、出所を失念しまし
た。

義経神社と義経悪人伝説との「交渉」の話を授業でやりま
したが、学生さんは「ハァ?」だったようです。今どきの
フツーの学生さんが歴史や文化の複数性や葛藤を身近に感
じるとしたら、それは何なのか。もう一度プレゼンの方法
をじっくり考えなければダメだなあと思っています。

ただ、私の勤務校は、「内地」から北海道にあこがれてや
ってくる学生が多いので、これはほとんど「異文化体験」
ではあるようです。ここからなんとか「交渉」までもって
いきたいのですが、憧れの地北海道のイメージを私がガン
ガンやるものだから、反発する学生も多いです(し、興味
を示す学生も多いですね)。

ところで、中村和恵さんの『キミハドコニイルノ』(彩流
社、1998年)はご存知ですか?(北海道マニアには必読書
だと思うので、なんだか最近誰にでも宣伝してます。「ヤ
ラレタ」という感じですね。)

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後日、西東さんより注釈メール、上記の村井紀氏の発言部分に
関して、「和人ばかりだ」云々は“早とちり、完全な勘違い”で、
村井氏の原発言とは異なるとのこと。
『北海道新聞』(11/19, 2000)「村井紀が読む」と題するエッセイ
を探して再読された上で、その要約を書き送って下さいました(^^)
それをさらにG−Whoが一言で乱暴にまとめるなら、村井氏は
宮本常一の本に登場する人々の“並び”のあまりの「無垢さ」加減、
すなわち戦場や「満蒙開拓」など「外地」へ出かけた人々の体験が
“捨象”されている(と読める)ことに強い違和感を持っている。
ふむ、なるほど。“らしい”視点であるし、重要な指摘です。

この村井先生の本は未読の方は必読!…と言いたいところですが、
面白い本だけど取っつきにくいところもあるので、以下を参照して
興味が持てそうな方は読んでみて下さい。考えたい人向き。

■村井紀『南島イデオロギーの発生 柳田国男と植民地主義』(大田出版)
(まず帯惹句より引用)
 「南島」とはなにか?それは「山人」を消去し、同質的な「日本−日本人」
 を見出すために政治的に作為された場所である。そこにおいて新国学として
 の日本民俗学は成立した。しかし、なぜ「山人」は消去されねばならなかっ
 たのか。ここには農政学・植民地政策学者として「韓国併合」に深く関わっ
 た柳田国男のスキャンダルが隠されている。

(つぎに、章立て)
 1南島イデオロギーの発生
 2コメ難民の死
 3「遠野物語」の発生
 4「孤児」・「アイヌ」・「滅亡」・「常民」
 5折口信夫と柳田国男−沖縄への眼差し
 6折口信夫の戦争−「死者の書」の条件
 7柳田国男の台湾/台湾の柳田国男
 8「満蒙開拓」の“ふるさと”−「日本民俗学」とファシズム 

(あとがきより引用)
 日本の近代化は蝦夷地(北海道)の植民地化から始まり、琉球(沖縄)、
 台湾、韓国、満州を植民地化し、支配してきた過程である。これらの地域を
 日本が欧米に範をとり、また対抗し、植民地支配に乗り出し、そして、失敗
 した過程である(もっとも「失敗」は、このうち二つを除いて、というべき
 かもしれない)。この経緯のなかで一人の農政官僚が植民地政策−直接には
 「日韓併合」に関して−との関与を通し、柳田国男自身言っているように
 その「政策研究」のために興したものが、「日本民俗学」であり、なおその
 破綻を隠蔽するために見出された地域がその“約束の土地”「南島」沖縄で
 ある、というのがここで述べた私の考えである。
(引用、おわり)

近代史を語る際に、いきなりこの本ではなく、ある前段階の素地を作るため
の良書として、他人にオススメできるのは何だろう?? なかなか無い。
つまるところ、日本人が日本近代史を相対化して「物語」化できないでいる、
その困難が原因ではあるまいか。それは取りも直さず、自分たちの座標軸も
現在位置もマトモにつかめていない、ということなわけである。
やり直した方がいい、どうやら。
時代が変われば歴史も敏感に変わるべきだろうから。
せめてそれが出来れば、なぜ“こんなこと”になっているのか、
もし滅びるなら、何故どのような経緯で滅びるのか納得できるだろうから。

そういえば荒俣宏御大が『帝都物語』の続編に手を付けらているようだ。
あれはあれで日本近代をめぐる一つの大きな物語たりえている希有な仕事だ。
新世紀の御代、地霊が怪人アラマタにどんな物語を降ろすのか?
刮目して待つべし。

#「ボストン、火星人、能登半島」は、もう少しお待ち下さい(^^;
 あ、西東さんオススメの中村和恵さんの本、未読です。これも宿題。


2001年12月06日(木) 物語淘汰の時代

題:173話 フチの昔話23
画:ヤマブキ
話:アイヌと和人の接触があった後の話であると私は思う

「火星人、ボストン、能登半島」という題のネタを書こうと思っていて
無精なものでなかなか書けないでいるけれど、まぁ、そのうち(^^;
昨夜のは支離滅裂ながらネタ同士が呼応してなかなか僕らしい出来だった
と思うのだが、あの程度書くのにも結構精力は使うもので負担ではある。
そのうえ普段まったく見なくなっているけど夜中には音を消してオンに
してあるテレビから欧州のチャンピオンズ・リーグなど流れるものだから、
しかも昨夜はユベントスとアーセナルの試合でスゴイ選手ゴロゴロ出てて
睡眠時間をさらに奪われてしまった(;_:)

さて内容。インテリ長吉さん、いいところに気がつきましたね(笑)
西東始先生のところでも話題になっていた「義経伝説」とかもそうだけど、
とかく“フチの昔話”みたいなものに触れると、途方もない過去に成立した
物語だと誤解してしまうことがある。でも口承伝承という情報処理形式が
「生きている」共同体においては、体裁や登場するアイテムが「昔話」風
であったとしてもメチャメチャ最近「創造」「捏造」「改変」されている
場合がありうる。またそういうダイナミズムがあればこそ“お話”が力を
持ちうる。大事な知恵を、理屈を超えた純度の高い状態で共同体の成員に
配布することができる。“お話”に作者の個人名が付与されることはなく、
話者は匿名の中に隠れている。…この形態、悪くすると共同体を滅ぼす。
物語の生理としてオーディエンスの期待に応えたがる傾向があるから、
情報処理がいい加減になる。これを「ケツァルコアトルの誤謬」と呼ぶ。
…って今ここで初めて呼んだんだけど、ええい、この手の話は難しい(^^;

凡庸な「ゆるい」物語を許さない、「物語淘汰」の時代が来るべきかも。

先日『ヌナブト』の流れで『宮本常一が見た日本』(NHK出版)に触れた
けど、「取材者」と「被取材者」の関係こそ、過去に「お話的共同体」を喪い、
いままたマスメディアという「情報神官テクノクラート」の崩壊を目の当たり
にしつつある人々の、世界と対峙する基本姿勢ではないかとの感を強くする。
で、上記の本も『旅する巨人』も、増して宮本常一『忘れられた日本人』も
手を出す暇はないけど、この話題が琴線に触れた方のためのハンディな本。

■佐野眞一『私の体験的ノンフィクション術』(集英社新書)
 新世紀になろうと、IT時代に突入しようと、人間が生きるうえで調査し、
 情報を集め、それらを評価して自分のものとする道筋に大きな変化はない。
 ノンフィクションの方法とは、ある意味で、社会に生きるうえで必要な
 それと驚くほど似ている。私淑する民俗学者・宮本常一の「野の取材学」
 を導きの糸に、節目節目の自作を振り返って率直に検証し、そこに込めた
 思いを語る。著者がすべての「歩き」「見」「聞き」「書く」人に向けて
 初めてまとめた、「自伝の面白さ」の文章・取材・調査論。
(以上、引用終わり)

っていうとハウ・トゥ本のようでもあるが、とても真摯に宮本常一をめぐって
プライベート・エッセイ風に綴られる著者の道程は、下手なマス・メディア
よりもずっと頼りになる。こういう「情報導師」みたいな人を何人か持ちつつ
自前のフィールドワークの研鑽を重ねれば、多少は「物語リテラシー」向上に
つながるものだろうか。時事系ノンフィクションにしてもトラヴェローグ系に
してもフィクション専門にしても、著者の層が薄いというか良い本が少ない。
マトモな読者が少ないというのもあるのかもしれないが、マトモな編集者も
きっと少ないんだろうな。「知の企み」みたいなの、儲からないだろうし(^^;

骨太にして繊細な「物語」生成(=発掘)能力。求められているのは、それだ。


2001年12月05日(水) 声という過剰

題:171話 フチの昔話21
画:キツネノボタン
話:なぜそんなに自分を抑える力が強かったの?

題:172話 フチの昔話22
画:メタセコイア
話:「お互い食い」と呼ばれる人食いの一族に属する者なのだ

なんか「お互い食い」ってネーミング・センス、宮崎駿アニメっぽい、
「カオナシ」とか、そういうやつみたいな…。
そんなことはどうでもいいんだけど、暖かいチセの中、外は雪景色
というシチュエーションで“お話”を語る/聞く幸福。
それを再現するように由良に“読み聞かせ”をオネダリする長吉。
この仲良し夫婦がお金のかからない道楽に興じているのは昭和の御代。

“お話”には共同幻想とか集合無意識とか、なんでもいいけどそういう
物語の範型に乗っかるものと、いかにも人為的にコトバチックに造った
ものと在って、ダメな現代作家のお話は頭でっかちなドグマを子供騙し
な話法で押しつけるという最悪なもの。子供はそういうのは目敏く察知
するらしい。…というような「人体実験」を子供相手に繰り返している
と「あのオジサンの言うことは信用できない」という至極真っ当な学習
をする結果になる、と書いている研究者がいたなぁ(^^;
世界を相手にその人体実験をやっているのが宮崎氏だったりして(笑)

時に“読み聞かせ”というのもスゴイことになっているみたいだ。
ナンシー関めいた分析をすれば、そろそろ読み聞かせブームに乗って
タレントとしての株価を復活させる芸能人が出てきてもおかしくない。
ま、別に世の女優さんが子の親になって、自分の子供にお話を読んで
聞かせるのは普通の行為なんだけど、つい職業柄それ関係のエッセイを
書いたりインタビューを受けたり、というケースが多い。

南果歩さんも『眠る前におはなし二つ』(講談社)という著書がある。
彼女の場合、もともと“タレントとしての株価”みたいなところと無縁
に生きてきた方なので、上の記述はまるで当たらない。
実力のある舞台役者さんで、映像方面でも活躍してらっしゃるけれど、
辻仁成氏と一児を成して離婚なさった後“明るい母子家庭”を営みつつ、
相変わらずのご活躍である(^^)
つい先日も紀伊国屋ホールでヘヴィーなお芝居を堪能させてもらった。

#最近文庫に落ちた辻さんの『五女夏音』(中公文庫)は「重ねるな」
と言われても果歩さんのことを重ねて読んでしまうし、同時期のことを
書かれた辻さんのエッセイを読んでも、ある部分、ノンフィクションが
含まれているようだ。リアルタイムの実生活を反映したユーモア小説の
ジャンルを模索した作品だが、あまり彼の“柄じゃない”感じがした。
実際ご本人も同系列の作品を書き継がれることはなかったようだ。

そのへんは宮本輝さんあたりのほうがお得意かもしれない。
老舗の美味い“おでんや”さんみたいな俗っぽさと円熟味があって、
他の誰にも真似できない領域に入っている。僕自身は宮本輝作品の持つ
倫理性というか箴言癖みたいなのを一時期までよく“服用”していたの
だけれど、最近はかつてほど真面目じゃなくなってしまったのだろうか、
池澤夏樹作品を梃子にして物事を考えることが多い。困ったものである。

それはともかく朗読、ないしは読み聞かせの話。
先日、古井由吉先生の朗読を拝聴する機会があった。贅沢な時間だった。
その精緻で深みのある独特の文体の作品群に触れたことのある人なら、
誰しも古井さんの聴覚の世界へのこだわり、いわば“耳の深さ”に
ついてよくご存知だろう。恐ろしく幽かな気配みたいなものへの鋭敏さ。
そして知る人ぞ知る、その声の深さたるや!

有能で魅力的な女優さんの声、老練で奥深い作家さんの声。
自分が魅力を感じる“声”について列挙してみたところで謎は解けない。
物語と身体の“あわい”に生じる波動としての声。
もしかしたら、いや言うまでもなく“意味”以上に我々を震わせるもの。
ヒトが声という過剰を持ったことの謎を、あまり機能主義的な人類学で
簡単に解けると思ってはイケナイ気がする。
言語を持ったことや、神という観念を孕んだこと、発情期を無くしたこと、
直立二足歩行などと同じくらいに、動物としては特異で不可解な事態だ。

いわんや、のど歌においておや!(笑)
ちなみに“のど歌の貴公子”嵯峨治彦君の数あるユニットの中でもっとも
ハートウォーミングな“野花南”のファンとしては、のど歌を核にした
物語を“読み聞かせ”ライブで是非やってほしい♪

南果歩さんが宮本輝の短編『幻の光』を一人舞台でやられたことがある。
僕が北海道に住んでいたころだったが、確か銀座博品館劇場まで観にきた。
モノローグで綴られる小説をまるごと“暗記”して演じられる、究極の
朗読、“読み聞かせ”。『華氏451度』の世界でさえあるかも(笑)
この舞台、来年の2月に三軒茶屋のシアタートラムで再演されるらしい。
うまくタイミングが合えば、数年ぶりに聞いて、感じてみたいものだ。

あと、誰か寮美千子作品『星兎』を一人舞台でやらないものだろうか。
上演時間およそ1時間30分くらい、もちろんヴァイオリンの生演奏付き。
大人の達者な女優さんの一人舞台で聞いてみたい物語だ。…う〜む。
ついキャスティングを考え出すと眠れなくなるので、本日閉店(笑)


2001年12月03日(月) ソレイユから世界システム/戦略/戦争、そしてチョビ

題:170話 フチの昔話20
画:菊
話:だから非情な理屈だと言っただろう

コンビニで 『Domani』誌を手にしばし凍り付いた。
表紙はクリスマス仕様の川原亜矢子さん、いつもながらキレイ。
で、問題の付録、小さなカレンダー、…あのソレイユの!!
魔が差して買いそうになる。ただでさえ本が増えて困っているので雑誌の
購入は禁じ手にしている。まして分厚い女性ファッション誌など買えない。
付録だけ…関係ない雑誌にコッソリ移して挟み込んで買えばバレないよ♪
と悪魔のささやく声がする。真面目に30秒は悩んだ(笑)
とりあえず、まだ売り切れにはなるまい。明日以降も悩みそうだ(^^;

都市の真ん中なのに「森の生活」を気取れるほど、周囲は緑が多い。

「緑被率」と「緑視率」という言葉があって、前者はランドサットとか
からみたグリーン・ベルトの占める割合、後者は人の目線から見える緑
の豊富さ加減を指すらしい。必ずしも両者が比例するとは限らない。
面としては貧困でも、街路樹が並んでいれば「緑視率」は上がりうる。
それとは別に、いま僕の周囲は「緑被率」は高いのに「緑視率」は低い。

なぜなら街路樹が、すべて“黄葉”したイチョウの樹だからだ。

紅葉ではなく黄葉、というと札幌、そしてニューイングランドを思い出す。
去年ボストンで買った濃紺のハーフコートを数日前から着ているし。
ボストンに留学したら、さぞ楽しかろう、とニセ学生ごっこをしていた
身には、とても面白かったのが↓この本。

■田中宇/大門小百合『ハーバードで語られる世界戦略』(光文社新書)

夫婦交互に章を受け持つという編集スタイルが成功していて興味深い読み物
に仕上がっている。“アメリカへのアンビバレンツ”という思いっきり現在的
な問題を夫婦が体現してくれるのだから面白い。タイトルは大仰だけれど、
わりと若いインテリ夫婦のアカデミック・ミーハー的ボストン滞在記という
感じで読みやすい。だいたい僕がネットで田中宇氏の文章を読むようになった
のもボストンの「知のディズニーランド」的生活を書いた回がきっかけだった。
野良猫のような頻度でエゾリス風のリスが、ちょこまかしている芝生の街。

年に一度くらいしかない観光旅行のチャンスを、アメリカ東海岸、ついで
今年の夏はオランダに注ぎ込んだ背景となる流れを、↓この本なら誰にも
わかってもらえるかもしれない。

■川北稔編『知の教科書 ウォーラーステイン』(講談社選書メチエ)
 世界はひとつのシステムである。
 「ヘゲモニー」「周辺」「反システム運動」
 といったキーワードを用いて、
 近代の仕組みと成り立ちを明かすウォーラーステイン。
 資本主義とは何か、人種とは何か、学問とは何か−。
 彼の思想を基礎から平易に解説し、
 その可能性を読み尽くす格好の入門書。

いまや「メチエ」こそ、“新書マニア”を自称していた僕の注目株(^^)
乱立する新書界は、著者を使い尽くすだけで、ろくに発掘したり育てたりする
暇も意欲もないように見える。『知の教科書』という一寸気恥ずかしい名前の
シリーズは、文化系の学部生を対象にしたものなのかな。悪くない企画だと思う。

飼い慣らされたガクモンの“安全”で“スタティック”な匂いを感じ取ったなら
『知の教科書』など放り投げて、↓これを手に取るべし。

■副島隆彦『テロ世界戦争と日本の行方 アメリカよ、驕るなかれ!』(弓立社)
 http://soejima.to/index.html

もともと小室(直樹)系、英語系からだから、この著者の本とのつきあいは古い。
できればウェブの文章をまんま集めたこの本の前に、過去作を一冊読まれると
ベターだろう。世界の富、利権、支配構造。江戸時代の蝦夷地で起こったことは
現在の世界でも他人事ではない。『ヌナブト』を読んで「周辺」の“現場”へ
目を向けてみる、そして逆に副島本で、思いっきり大上段から思考してみる…。
一方をやる人は多い。両方に届く想像力が欲しい、と思うと疲れるハメになる。

さぁ、今夜も『動物のお医者さん』再読運動に身を投じてから眠ろう♪



2001年12月02日(日) ブリザード、ヌナブト、のど歌

また数日が過ぎました。満月を挟む数日。
“甲府詣で”もしたし、キャラメルボックス「ブリザードミュージック」も見たし、
古井由吉先生にもお会いできた。いくつかの時間の層が交錯する日々をやり過ごす。
決してテンションは高くない、なにか静かに潜行する事態を怖れるように進む時間。

まずは、一年前の11月28日に寮美千子さんのBBSにカキコミした僕の文章を、
以前ここに再録したけれど、もう一度再々録してから話をはじめよう。
寮さんが花巻で1922年のアインシュタイン博士来日に触れられていたのに反応
しての「呼応する時間」という一節。

************************************
呼応する時間 投稿者:G−Who  投稿日:11月28日(火)01時11分21秒
 そう、モダーンの果ての20世紀。物理学とアートは四次元の啓示を謳う。
 ロシアでは革命が起こり、各国はシベリア出兵の泥沼に足を突っ込んでいた。
 翌年、1923年には関東大震災が起こっている。
 昨日観たキャラメルボックスの芝居は、その時代を背景としていた。
 キャラメルボックスの主宰・成井豊さんだったら、
 宮澤賢治とアインシュタインの交錯する大正を、どう描くだろうか?

 僕がサハリンへ行ったのは1995年春、東京が悪夢を見ていたころです。
 阪神大震災の余波は消え去らないうちに起きたテロ事件のせいで。
 初めて花巻へ行ったのも、仙台でキャラメルが賢治を題材にした芝居を
 上演したのを観た、その直後のことです。
 だから僕の中では、どうにもそれらの事象が連なって見えるのです。

 日本時代の名残りを留める現実のロシア極東サハリン州は、
 重層的な時間の地層が褶曲した断面を見せつける異空間でした。
 サハリンに身を置いて「樺太」を幻視すること。
 そこから逆照射して北海道を、ひいては日本列島を観ること。
 戦争や経済や歴史の時間、ヒトやクマの時間、森や岩石の時間。
 それらが呼応しあう空間を縦横無尽に読み解くことができれば・・・。
 北の空には、そんな幻像が渦巻いて視えました。

 そうした希求を、同時代に力強く表現の形にしている人がいました。
 当時北海道に住んでいた僕は、その人の仕事に強く惹かれました。
 はるかな過去、北海道とも地続きだったという土地に居を構えて、
 北の空に時折り視える、時間が褶曲した地層の断面を写しとって
 そこから採集した標本を丹念に言葉に移し替えようとしていました。

 翌年、1996年にロシア極東カムチャツカで亡くなった、あの人です。

 どういうわけか花巻から届けられた強い蒸留酒のような「北」の空気に
 あてられて、サハリンから遙かアラスカにまで思考が飛んでしまいました。
*************************************

思えば90年代の僕の軌跡は、トウキョウから花巻はおろか北海道、サハリンから
アラスカにまで思考が飛ぶ、精神的北方指向の時代だったのかもしれない。
精神的な理(ことわり)の順番としての、ホシノミチオ信仰告白を精確にやるならば
上のようなことになるだろう。その後、北海道でヒグマの穴に潜るハメになるような
“必然”の渦に、既に深く絡め取られている時期だった。

「ホシノミチオとは、どうやって出会いましたか?」と誰かに問われて、
「池澤氏の本を読んでいるうちに何となく…」という回答は事態の正確さを欠くもの。
その説明ならざる説明を、上の駄文は拙くとも試みてはいるかもしれない。
僕のミチオ・ライフ(?)と想うところに関しては、この日録でも何度か触れた。
http://www.enpitu.ne.jp/usr2/bin/day?id=25026&pg=20010717
http://www.enpitu.ne.jp/usr2/bin/day?id=25026&pg=20010718
http://www.enpitu.ne.jp/usr2/bin/day?id=25026&pg=20010608


■演劇集団キャラメルボックス「ブリザード・ミュージック」
 池袋サンシャイン劇場でクリスマスまでやっています。是非みんな見てください(^^)
 そのうちネタバレありの長いマニアックなレビューでも書こうかな。
 そのときには上の文章をもう少しほどいて敷衍することにしよう。

さらに北方へ、一気に北極圏カナダまで飛ぶ。

■磯貝日月『ヌナブト イヌイットの国その日その日 テーマ探しの旅』(清水弘文堂書房)

先日ここで紹介した本。分厚いのだが結構軽い感覚で読み進められる。
著者の若さと、旅の途中で書いたというライブ感覚ゆえか。
これは面白い。そして大事な仕事。魅力的なテーマ。
ウェブで発表されたものの出版化本を読むような感じもある(実際はさにあらず)。
彼は家系といい、環境といい、言ってみれば“北極圏フィールドワークのサラブレッド”、
“生まれついての筋金入りフィールドワーカー”なのだけれど(<ご本人は厭がるかな)
「電波少年」の企画ものの旅日記でも読むつもりで、ぜひ手にとってみて欲しい。
「寒いのは勘弁!」という方でも、「静かな大地」を読み星野道夫本を読んでいる方なら
彼が若くして自分のフィールドに見定めた“カナダ・ヌナブト準州”には関心を惹かれず
にいられないはずだ。なによりこの活きのいい、生まれたてのフィールドワーカーの仕事
を“先物買い”する楽しみも味わえる。瑞々しい極上の青春記としても読める。
清新な“テーマ探しの旅”の行き着くところ、何と爽快なことか!
“未来の巨匠のアーリー・デイズ”をお楽しみあれ♪

この本のラストでヌナブトのイヌイットの若者たちが来日した際、盛岡、白老、札幌、函館
などを回ったのにボランティアで同行した顛末が触れられている。とても興味深いのだが、
詳細は次の本で語られるらしい。そこで仲良くなった若者たちを、次の夏、すなわち今年の
夏、ヌナブトに訪ね歩いて、きっと格段に深いフィールドワークの成果を得たことだろう。

ご関心の向きは、とにかく直接お読みいただくとして、ちょっと聞き捨てならない記述に
引っかかった。最後のイヌイットの若者の日本滞在の部分、写真のキャプションに
「訪問先の各地でイヌイットの遊び、のど歌、ドラムダンスを披露した」って…、
“のど歌”という「業界用語」(?笑)が使用されていることからしても関係者の関与が
予測できる感もありますが、新大陸のモンゴロイドに“のど歌”文化が在ることって常識?
鳥や動物の鳴き声を真似ると喉頭音めいたものが倍音を伴いそうな感じはしますけれど、
それと“のど歌”という用語は、さて直結するものなりや否や。
#嵯峨治彦さん、赤坂友昭さんあたりへの照会を要するネタかもしれません。 

…さて、未読ですがフィールドワーク話が出たので触れておきます。
以前NHK「人間大学」のテキスト用に書かれたものに加筆、というよりは分量的には
書き下ろしと言っていいんじゃないかという新刊。
佐野氏の前著『旅する巨人』は発刊当時、御大も耽読絶賛されていた本です。
あの本に出てきたアチックと、『ヌナブト』の磯貝日月氏との縁もとても面白い。

■佐野眞一『宮本常一が見た日本』(NHK出版)
(帯惹句)日本を丸ごと抱きしめた男
 人生の7分の1を旅に費やし、16万キロを歩いた「経世済民」家・宮本常一。
 司馬遼太郎ら「知の巨人たち」が敬愛したその思いとまなざしが、いま蘇える。

 戦前から高度成長期にかけて、日本じゅうの村という村、島という島を歩き、
 そこに生きる人びとの生活を記録した宮本常一は、人をとろかすような笑顔と
 該博な知識をもって地域振興策を説き、人びとに誇りと勇気を与えつづけた。
 宮本が残した厖大な資料をもとに、第一級のノンフィクション作家である著者
 が日本各地を取材、そのまなざしの行方を追い、いまこそ求められている
 宮本的「経世済民」思想と行動の全容を綴る。
 読者に深い感銘を与えた大宅賞受賞作『旅する巨人』の続編作品。
 
これ、未読だけどすごく楽しみ(^^)
われらが「静かな大地」の方は、由良さんと長吉さん夫婦による“物語分析学講義”
の様相を呈しています。っていうか、もっと派手にやって(笑)
「物語」の作法、「物語」の強度、といったところは、大いに関心のあるところ。

「物語」、それとその背後にあるリアルな世界。
フィールドワークと“物語リテラシー”みたいなところも面白い。
実は物語であふれかえっている世の中のように見えて、
いろんな時間スパンで「物語」化能力が不足しているのが今の人類の不幸かもしれない。

  ≪あらすじ≫由良は伯父の三郎伝を書き進
 めている。明治13年秋に静内はバッタの群れ
 におそわれたが、三郎は地中の馬鈴薯をこっ
 そりアイヌにも分けながら冬をしのいだ。三
 郎が小さいときに聞いたアイヌの昔話を再現
 しようとするうち、由良は話の背後に横暴な
 和人の影を感じてくる。

題:165話 フチの昔話15
画:羊歯
話:熊の吐息が人の話す声のように若者の耳に響きはじめた

題:166話 フチの昔話16
画:夏蜜柑
話:イナウを削って、死んだ熊を丁寧に神の国へと送り出した

題:167話 フチの昔話17
画:スグリ
話:私はまた盛大な送りの儀式と共に熊を神の国に送り返した

題:168話 フチの昔話18
画:ヒサカキ?
話:恋なんてそんな雅なものではなくて、女漁りね。

題:169話 フチの昔話19
画:キヅタ?
話:チャランケには判事はいないの


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