「静かな大地」を遠く離れて
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2001年11月27日(火) 呪いのフィールドワーク

物語ること。その力。意味。最近の「静かな大地」の焦点は、そのあたりのようだ。

以前、ここにこんな散文詩めいたものを書いた。その日の題は「叙事詩の射程距離」。

 利権の体系としての世界
 利権としてのアイヌ
 利権としての静かな大地

 強制収容所にもバランスシートがあり
 小役人たちが日常業務を勤勉にこなし
 そうして“歴史”が積み上がっていく

 システムの奴隷

 人の弱さ 脆さ そして儚さ

 あるいは禍々しいまでの力

 叙事詩の射程距離

 ことばといのち ことばのいのち いのちのことば

 静かな大地に 響き残る 地霊たちの声

 「これは本当にここだけの話だぞ」


一寸、言葉の配列を変えたりしてみたけれど、ほぼ原文のまま。
前回の更新で話題にした中沢新一「圧倒的な非対称 テロと狂牛病について」でいうところの
“対称性社会の住人”の「論理」を実践へと転化させるとき、それは“呪い”という形態を
取るだろうか。彼らの世界観の因果律において、禁忌を侵犯した者は、呪われる。
圧倒的な非対称を肯んじない者たちの武器は、最後は呪いしかないのかもしれない。

「静かな大地」は、日本近代史におけるシャモとアイヌとの“逆縁”をとても上品に描出
しようとしているようにみえる。それと全く異なる肌合いのアプローチの仕方もありうる。

■佐藤愛子「私の遺言」(『新潮45』連載中)
作家の佐藤愛子氏の夏の別宅が浦河町に在るのは知っていた。海岸に近い牧場地帯丘の上、
結構目立つところに建っているのを、よく見かけた。この「私の遺言」は、その夏の家で
激しい霊障に見舞われた著者が、エクソシスト=憑き物落としを行った体験のライブ報告。
これはスゴイ。恨みを呑んで憤死したアイヌの霊が降りて来た描写も生々しい。
これだけの力業、ライブ感覚。なかなか御大には書けない/書かないであろう世界。
#ある意味『すばらしい新世界』と有吉佐和子『複合汚染』の違いになぞらえられるかも(^^;
 これも詳しく書くとややこしい話になるけれど、面白いので併読してみて下さいまし。

まさしく「地霊たちの声」そのもの。『帝都物語』の世界もしくは、つのだじろうの世界(^^;
以前ここにも書いたけれど北海道という土地は、あちらの感受性がお強い方には勧められない
場所で、そこかしこに呪いの“根拠”となる過去が存在する。タコ労働者系もそうだけど、
中井紀夫『虚無への供物』(講談社文庫)の冒頭でも言及されたアイヌによる呪詛は在って
然るべきであろうと思える。さして歴史の経緯を深く知らずとも。

井沢元彦氏の『逆説の日本史』(小学館)シリーズの世界になるが、日本文化の基層には、
呪い=怨念をどう御するか、というオペレーション・システムが在った。
どの文化にでも死者を弔う祭祀はあるわけだが、たしかに日本の“怨霊対策公共事業”の規模の
大きさは、ちょっと特徴的かもしれない。造営中の都ひとつ捨てたりしちゃってたわけだし(^^;
そのさらに根源には、縄文と弥生の相克があるのだろう、日本の神話はそればかり語っている。
そしてその最大の司祭が天皇であったりしたわけだ。以下、これも偶然見つけた文章を抜粋。

■大瀬慎一郎「孝明天皇の秘儀 “陰陽師”安倍晴明の血脈」(『新潮45』7、8月号掲載)
 文久二年の七月、俄に異変があった。未曾有の天変が京洛を襲ったのである。
 まず流星雨が突如として都に降り注いだ。しかも翌月には大きなほうき星があらわれ、
 気味悪い彗星の尾が禁裏御所を示す星宿であるし紫美垣を犯した。この天象は孝明天皇に
 とって、死の宣告といってよいものであった。「都は疫病におかされ、やがて兵乱が起き、
 三年を出でずして帝を弔うことに…。」

 …もう少しだ。崇徳院の命日まで無事に乗り切れるかもしれない。孝明天皇は、そう思った。
 思えば、文久年間は凄まじい年であった。流星雨が降り、大彗星があらわれて、理宮が死んだ。
 そして怪異がつづき、神罰によって、いや崇徳院の怨霊によって、洛中が焼亡し、己も命を
 奪われるのではないかとまで思い詰めた。しかし、いまのところ、無事である。
(以上、引用終わり)

「孝明天皇」も「文久二年」もピンと来ない向きは、上のお話、中世の出来事だと思われる
のではないだろうか。勿論さにあらず、孝明天皇とは明治天皇の先代、“陰謀公家”岩倉具視に
毒殺されたのではないか、という疑惑のいわくつき、さしづめ明治維新の“抵抗勢力”である。
佐々木譲氏の『武揚伝』(中央公論新社)なんかをお読みになった方は、日本史の闇の深さを
改めて感じるだろう。ほんとにまるで同時代の話だとは思えない。
大瀬氏の論点は、呪い話だけではなくて、孝明天皇晩年の「行幸」こそが、後の大日本帝国の
伝家の宝刀、そして統帥権という昭和の桎梏へと結びついていく近代日本の原型だった、という
ところにもあるのだが。話題の原武司『可視化された帝国』(みすず書房)へのラインですな。

ちなみに確か明治新政府は、まだ箱館戦争の決着がつく遥か以前に、讃岐の崇徳院を京都に戻す
という事業を行っている。このへんは小室直樹『天皇恐るべし』(ネスコ)に詳しい。
保元の乱(1156年)に破れて四国へ流された崇徳上皇の怨霊が、長らくこの国を乱れさせた
という思想。上田秋成「雨月物語」なんかで近世を通じて近代まで受け継がれた「物語」である。

ものごとの見え方というのは相対的であり、なおかつ時代によって可変的なものである。
決して個人の恣意で、どうにでもできるものでもない。時代の拘束力をナメてはイケナイ。
流星雨なんて怪異な現象が起きただけで、身の毛もよだつほどの恐怖に見舞われるという感性も
ありうる。そんな夜は“物忌み”して部屋に籠もるのが正しい日本文化の継承というものだ(笑)

こうした「崇徳上皇の呪い」みたいなものを“リアル”に感じ、それによって眼前の事象の
すべてを説明して納得し、行動することだって充分「可能」だろう。それが文化の力と仕組み。
孝明天皇に注目した異貌の明治維新史、大瀬氏も作家さんらしいけど、安部龍太郎氏あたりに
ずっしりした長編で取り組んでもらえないものだろうか。さもなくばノヴェルズ系でもいい(^^;
実際、ほんとうに孝明天皇が謀殺されたのだとしたら、その後の“霊的ケア”は如何になされた
のか、あるいはそれでも鎮めきれず、帝の怨念が昭和に祟った、なんてのもコワイ。

かくも過去は「異文化」である。そして過去はいつでも復讐してくる。呪いというメカニズムで。
眼を「南」に転じてみる。あまり深く考えたくないゾーン(^^;

御大の「日本の根は沖縄にある」帯文句でおなじみ比嘉康雄『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』
(集英社新書)って、結局まだ読めてないんだけど、それは取り組むのが厄介な問題だから(^^;
池上永一『レキオス』とか『風車祭』を読んでるぶんには平気なんだけどねぇ。
で、例の(T海氏も関心の深い)岡本太郎氏の写真撮影行為をめぐる、御大のナマの思考の跡が
思っても見ない形で公刊されている。「異文化に向かう姿勢」という小文。

■選書メチエ編集部編『異文化はおもしろい』(講談社選書メチエ)所収
 さまざまな曲折を端折ってこの長い論議の要点をまとめれば、「沖縄文化をヤマトに紹介する
 のはあくまでもヤマトのためであってオキナワのためではない」ということだ。
(以上、引用終わり)
ディベートのレジュメとしては、さすがに御大らしく良くできている。しかし表現者の表仕事は
それだけではイケナイ。物語の力、叙事詩の射程距離、それを追求してもらいたい。

さもなくば、「ちゅらさん」の方が有効かつ“深い”という結論になってしまいかねない(笑)
「ちゅらさん」は、表看板だけ表層的に見て「ああそういうのね」と見過ごした人と、中身との
間の違いにこそ、真価のあるドラマだった。じゃなきゃキレイな南の海の空撮と沖縄出身の女優
さんの笑顔だけで、今どきあんなにヒットするわきゃないのだ。そのへんはハマった人には自明。

■切通理作「人生ドラマよりも「ゆんたく」を―『ちゅらさん』の同時代的意義」
(映人社『月刊ドラマ』12月号掲載)
 恵里を囲むアパートの個性豊かな面々がだんだん仲良くなっていく一風館篇は、いわば東京で
 「ゆんたく」を成立させることが主眼だったのだ。一風館はその名前からしてかつての全国的
 な人気漫画『めぞん一刻』『タッチ』の舞台を思わせ、80年代を過ごしてきた者にとっては
 どこか懐かしくもある。『ちゅらさん』は少女時代を除けば90年代アタマから始まる。以後
 の十年間、社会は不況になり、忌まわしい事件が次々と起こるが、まったくそこには触れられ
 ない。あまつさえ阪神大震災を含む四年間は「早送り」されてしまう。80年代にはまだあった
 古いアパートも、90年代にはどんどん建て変わっていったはずだが、そこにも触れられない。
(以上、引用終わり)
一風館の設定地となっている都電雑司ヶ谷駅近辺を散歩するのは楽しい。さして池袋の繁華街から
離れていないのに、ちょっと古いトウキョウの匂いがする。散歩学の聖地、雑司ヶ谷霊園もある。
#阿刀田高『怪談』(幻冬舎文庫)を見よ(^^) ここから鬼子母神、目白界隈あたりはなかなか
 おもしろい。そういえば今日の初めの話の氷沼家も目白の近くに設定されていたはず。<余談。

「ちゅらさん」はボディ・ブローのように効いてくる。そう何度か予言した。
それもまた一種の“呪い”のようなものと言えようか? おばぁだけに(笑)

■「ちゅらさん」総集編の放送
 BS2 12月3日(月)4日(火)5日(水) 19:30〜20:44 三夜連続
 総合  12月25日(火)26日(水)27日(木) 19:30〜20:44 三夜連続
 総合再 12月29日(土)30日(日)31日(月) 8:00〜9:14 三日連続
だそうです。なんと朝ドラ総集編としては異例の、ゴールデンタイムでの放送になります。
新たに撮影された、おばぁのメッセージみたいなのも着くみたい。見ないとだめサァ♪

御大の「異文化に向かう姿勢」というリポートを読んで、元気が出ない感じがするのは仕方ない。
それに対する処方箋として一方で「ちゅらさん」の射程距離みたいな話を持ってくるとして、
もう一方で、異文化に向かう若いフィールドワーカーの眼が捉えた、新鮮な世界を感じたい。
そういう気分で読むのに打ってつけの、すばらしく面白い本を紹介しよう。再び、北だ。

■磯貝日月『ヌナブト イヌイットの国その日その日 テーマ探しの旅』(清水弘文堂書房)
 20歳の若者の北極圏彷徨日記。手で考え、足で書いた青春記録。AO入試花盛り!
 元祖・慶応大学湘南キャンパス(SFC)のAO入学生は、こんなことをやっている!

 1980年生まれ。東京都立晴海総合高校卒(1期生)。慶應義塾大学総合政策学部2年生。
 『カナダのヌナブト準州の研究』を謳って同学部のAO試験に合格。
 1999年に新たにできたヌナブト準州各地を3回彷徨。
(以上、帯と裏表紙より引用)
これ、まだ読んでる途中なんだけど、すごく良い、この人の将来の仕事も楽しみ(^^)
若い衆が異国へ行って撮った写真や書いた文章をイージーまとめた本には食傷しているのだが、
「ヌナブト準州」にも「慶応大学湘南キャンパス=SFC」にも興味があったので手に取った。
してみると彼、本物のフィールドワーカーの家系で、幼少期から北極圏に行ってる筋金入り、
それもワイルド一辺倒系ではなくて、お祖父さんがアチックの同人だったというからスゴイ。
ほとんど冒頭のあたり、日記を本として刊行する経緯を書いた部分では国立民族学博物館を
訪ねて、石毛直道館長、梅棹忠夫御大をはじめキラ星の如き人々と「交友」しているのだ。
しかもAO試験の面接官として登場するのは、あの小熊英二先生だったりもする!(^^)
そんなアカデミズムを置いておいても、ヌナブトをうろつく部分を読めば彼の魅力はわかる。

なにより、同じ慶応大学に籍を置きながら北極圏をうろついていた“あの先輩”の若い頃を想像
させるのが、不純な読者のハートを鷲掴み、といったところか(爆)
それはともかく、「国家」も「共同体」も国際機関も揺らいで、世界が「暴走」(<ギデンズ)
している現在、人の集団の在り方、そしてヒトと自然との関係の在り方を考える上でヌナブト
からの報告は、とても値打ちのある仕事になりうる、きっと。ちばりよ〜、磯貝君(^^)

…というわけで、呪いから出発して、冷たい北極圏の風に吹かれるまでの顛末でした♪

下記のようなラインナップのマクロな世界把握の方向性も併置するとわかりやすいというか、
話に厚みが出るのだろうが、これ以上書くもの何なので、今夜は書名だけ予告的に(^^;

■川北稔編『知の教科書 ウォーラーステイン』(講談社選書メチエ)

■田中宇/大門小百合『ハーバードで語られる世界戦略』(光文社新書)

■副島隆彦『テロ世界戦争と日本の行方 アメリカよ、驕るなかれ!』(弓立社)


題:153話 フチの昔話3
画:イチョウ
話:お話の主人公はだいたいいつもポイヤウンペという強い立派な男でした

題:154話 フチの昔話4
画:ウド
話:ポイヤウンペの物語 その1

題:155話 フチの昔話5
画:蕎麦
話:ポイヤウンペの物語 その2

題:156話 フチの昔話6
画:ヤマノイモ
話:ポイヤウンペの物語 その3

題:157話 フチの昔話7
画:山椒
話:ポイヤウンペの物語 その4

題:158話 フチの昔話8
画:ヤツデ
話:ポイヤウンペの物語 その5

題:159話 フチの昔話9
画:エンドウ
話:紙の上に字で書いたのを読んでも、そういう楽しさは伝わらないわ

題:160話 フチの昔話10
画:イチジク
話:お話、もっと、と春彦がせがんだ

題:161話 フチの昔話11
画:苺
話:火の女神さまのお話

題:162話 フチの昔話12
画:ヨモギ
話:アイヌのお話はみな登場人物のうちの一人が語る形なの

題:163話 フチの昔話13
画:藤
話:では、異類婚というよりも、異類恋愛と呼んだ方がいいな

題:164話 フチの昔話14
画:コスモス
話:私は弓と矢だけ持って、楢の木に登り、じっと熊が近づくのを待った


2001年11月15日(木) エレガントな絶望の彼方

題:152話 フチの昔話2
画:タラノキ
話:その冬、エカリアンさんは七歳でした

タラノミの天ぷら食べたいなぁ…、季節が真逆だけど。札幌も行きたい。

モロタンネさんの昔話がはじまる前にマイク・レズニック『キリンヤガ』(ハヤカワ文庫SF)
の復習でもしておかれると、面白いかもしれません。あるいは『弥勒』と『キリンヤガ』を
並べて呻ってみる…とか。ご存じない方もここを読んでらっしゃると思いますので解説しますと
かつてHP池澤御嶽で「BBSすばらしい新世界広場」というのを主催運営していたのですが、
そこでも今と同じように、やたらと副読本が「発生」して何人もの方が「参加」していました。
有吉佐和子『複合汚染』(新潮文庫)、『キリンヤガ』、池内了『わが家の新築奮闘記』(晶文社)
あたりが人気あったかな。
#あ、「BBS運営復活しないんですか?」的お問い合わせを頂戴することがありますけど、
やる気があったらここでコソコソ(?)こんな閉塞的な文章書いてません。すみません。
端的に言えば板を回すことの「費用対効果」の問題です。

『キリンヤガ』は“アフリカ系文明論的ユートピア/ディストピアSF”とでもいうべき物語。
とてもよくできている「議論誘発装置」なので、これから読まれる方はお気をつけを(^^;
先日ちらっと触れたけど、主人公がすぐに動物の寓話を引き合いに出して人々を教唆する、
そうしてある惑星に「人工的」に「ユートピア」を「回復」しようとするのだが…ってな話。
御大の『母なる自然のおっぱい』の「狩猟民の心」や『旅をした人』を読んでいればわかるが
“神話の体系で情報を処理する共同体”というものは、かつて汎く在ったし、現在も在りうる。
そしていわゆる「近代」の世界でも「神話的想像力」というものは「機能」しつづけている。
きっとポジティブな方向にもネガティブな方向にも。身体と精神を持つ人々の集団が在れば、
「神話的想像力」は「発動」しているのだ。ただし、ひどく御しがたいカタチで、野放図に。

これからはじまるフチの昔話、それと日々配信される「新世紀へようこそ」、
両者をつないで今の世界を考える格好の文章が、マエストロ中沢新一氏に書かれてしまった。
何が“しまった”かと言えば、僕がここで半分眠りながらも グダグダと考え続けていることの
核心を突いたエレガントな解が書かれた「解答編」みたいな文章だったからだ。まいった。
問題集の最初のほうを行きつ戻りつしながら解いていたら、いきなり解答編を見せられた感じ。
ここを読んで下さっている方は、図書館に走るなり買うなりして、是非お読みいただきたい(^^)
『弥勒』リハビリプレイにも極めて有効だと思われます。
以下、ポイントだけ書いていかないと、また途中で眠くなりそうなので、そうします(笑)
たまたまいろいろ目を通した文章があるので、その引用とコメントを連ねつつ。

■中沢新一「圧倒的な非対称 −テロと狂牛病について」(『すばる』誌掲載)
 二十一世紀のはじめに世界規模で現実のものとなった、この圧倒的な非対称が生み出す絶望
 とそれからの脱却について、時代にはるかに先駆けて思考していた作家がここにいる。
 宮澤賢治である。宮澤賢治は人間の世界につくられてきたこのような非対称関係には、
 さらに根源的な原型があると考えていた。それは近代における人間と野生動物の関係である。
…以上、引用。「富んだ世界」と「貧困な世界」の構図を、ヒトVS自然にまで拡大するとき
見えてくる、異貌なる“テロ”の様相。そこから展開する狂牛病の問題、そして宗教の意味。
キリスト教が誕生したローマ末期以上の世界の荒廃に対して「対称性社会の住人たち」の知恵
を対置してみること。そしてそれを現代に鍛え上げていくこと。…焦点はこんなにもクリアだ。
イエス・キリストにも、テロリストにも「突破」できない難問を人類一人一人が背負っている。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」のか、否か。さぁ、答は?

■日野啓三「ふたつの千年紀の狭間で」12『公園にて』(『すばる』誌掲載)
 意味や理解はあいまいでも、何か温かいものがふたりの間に流れ伝わったことにふたりとも
 満足したことを感じ合ったとき、私は穏やかに深く感動し、「天国はこのような者の国である」
 という福音書の中の言葉を、しっかりと過不足なく理解したと信じた。
…以上、引用。日野さんの川の流れのような、それも当然日本ではなく大陸の河のような人生の
旅路の終局が、ほとんど異種接近遭遇の如き、公園の幼児たちとの交感の光景として描かれると
いうことに、深い感慨を覚える。いつも東京タワーを見ると闘病中の日野さんを思い出したり、
かつて僕が住んでいた芝浦のビルの屋上へ行って周囲を見回しても「日野啓三の視点」を感じる。
なにかそうして彼が「個」として在ることが、世界に「転写」され、永続していくような感覚。
朝鮮、ヴェトナムの記憶ゆえ、アフガニスタンを過剰に「体感」してしまう日野さんの「救い」が
散歩空間に重ねられた「天国」であること。僕も諦念を突き抜けた歓びを得るまで歩いていこうか。

■山口昌男×福田和也「特別対談 世界戦争下の石原莞爾」(『文学界』誌掲載)
 満州国を作り、「世界最終戦争論」を唱えた石原莞爾とは何者だったのか?彼の足跡を通して、
 ファシズムと戦争と文学の関係、近代日本における田中智学の絶大な影響力が浮かび上がる。
 莞爾に魅せられたふたりが、未来派感覚に満ちた彼の底知れぬ想像力を語った。
…以上、引用。以下、小見出し「石原莞爾が持つ未来派感覚」「田中智学は日本のマリネッティだ」
「想像力の戦いの行方」「ファシズムと文学」「エズラ・パウンドの水脈」「日本を越える発想」
「ファシズムと社会学と戦争」「二十世紀を照らし出す石原莞爾の人脈」。
福田氏の『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』(文藝春秋)も「いつ読めるんだろう?」本の一冊(^^;
「近代」「テクノロジー」「社会と国家」…そうした“20世紀(それも前半)の宿題”を、
だましだまし封印して引き延ばしてきた結果が、現在の世界の荒廃だろう。
「申し送り」されてこなかった「過去」を執拗かつエレガントに取り戻さなければ「未来」もない。

■「単一民族発言 狭い国家観から脱却を」(『朝日新聞』9月18日掲載)
 今のようにソフトウェアと情報が産業の主体となる時代に、単一民族・単一文化の国は売るものが
 ない。人気テレビドラマ「ちゅらさん」がいい例だが、この国の元気は単一民族を超えた多様性の
 中から生まれるはずである。
…以上、引用。ちゃんと朝日新聞を読んでないのがバレるが、今日やっと読みました。
御大の文の主題は、アイヌの人々を怒らせた日本の政治家の知性と品性の欠如についてなのですが、
まだ「ちゅらさん」がオンエアー中だった9月にこんなことを書かれていたのですね、という引用(^^;
そう、一時の観光ブームではない、「ちゅらさん」はボディ・ブローのように効いてくるはずよぉ♪
年末の総集編も楽しみサァ(<久しぶり、おばぁナレーション風 笑)

■(琉)氏による『武揚伝』書評。(『毎日新聞』9月16日掲載)
 歴史小説は年表に逆らえない。榎本を勝者にはできない。だからこそ、読者はありえたかもしれない
 別の明治国家を夢想できるのだ。
…以上、引用。この部分の前はストーリーの要約で「体言止め」も「まずもって」も登場しないけど、
ここの畳みかけのリズムこそ、まごうことなき書き手のトレード・マークでありますな(^^)
うーん、それでもなお『週刊文春』で、もういちど取り上げてほしいなりぃ♪

■「インタビュー辻仁成 向う見ずでなければ小説は書けない」(『文学界』誌掲載)
 そこで何か意見を言わなきゃいけないとか、書かなきゃいけないというんじゃないんです。
 それは専門家の仕事であり、発言するなら、個人の気持ちを率直に媒体へ出ていって話す道を
 選ぶでしょう。むしろ、僕の場合、作品にすべきことは事件からもっとも遠い世界で起きている
 共時性であるようです。
…以上、引用。売れているようだ。多作である。現代風のいい男である。映画も音楽もやっている。
でもどうも世間で軽く見られているような印象があるのは何故だろう?(^^;
こういう欲深い人は冷笑家タイプの人に嫌われるのだろう。あと村上龍氏のような商売カブる人にも。
きっと近しい友人になれば魅力的な人なのだ、…と“南果歩さんが惚れた男”を分析してみる(笑)
『ニュートンの林檎』ファンとしては『太陽待ち』に期待大。村上春樹兄さんが『ねじまき鳥〜』で
挑戦して理解されなかった、あるいは掠ってしまった領域を突き抜けてくれたりしてないものか、と。


…とまぁ、なんだかんだ書いてきましたが、嶽本野ばら作品の反動だと思っていただければ…(笑)
ちなみに今日書店で一番迷ったのは、山口あゆみ嬢@中町祥子ちゃんのセクシー写真集(<(^^;)を
買ってもいいものかどうか…だったりする。所詮その程度のことしか悩んでない日常を以て賀すべし(^^)
#この文章量にあきれたアナタ、どこか反応するポイントがあった方、メールお待ちしています♪


2001年11月14日(水) ゆんたく@世界の終わり

題:151話 フチの昔話1
画:エゾヤマザクラ
話:どれも、アイヌがどういう人たちかがよくわかるような話なの

由良さんも時制の転換に悩んでますな(笑)
挿話としてアイヌ民話が入るというのは「静かな大地」に不可欠なイベントでしょう。
『真昼のプリニウス』でも『マシアス・ギリの失脚』でも、挿話は重要な要素だった。
凡庸な訓話めいたものではなく“野生の物語”としての民話の力。
昨夜の朗読の話ではないが、物語は古来ずっと“語りもの”として流通してきたのだ。
いまネット上で膨大な言の葉が「声」から切り離されて散乱しているけれど、
物語は肉声を伴って口伝されてこそ、生命を持つものなのかもしれない。
マイク・レズニック『キリンヤガ』(ハヤカワ文庫SF)なんかを例に挙げて僕が
時々言うとおり、昔の民話が活きていた共同体そのままには絶対住みたくないけど(^^;
「タブー」も「非合理」も、それに伴う煩わしさも、まっぴらご免ですわ(笑)

なので炉の火を囲む大家族みたいなのも想像着かない。
最近文庫落ちしたので久しぶりに読んでいる辻仁成『五女夏音』(中公文庫)は、
あのカッコイイ孤高のロッカー辻ジンセイ氏が、南果歩さんと結婚していた時代に
書いた珍しいユーモア小説。抵抗しながらも夏音とその家族のペースに巻き込まれる
主人公に同情しつつ、独身者の悪夢のような大家族の描写が可笑しい。
どっちかというと南果歩さんの長年のファンなので、そのへんが面白いのですが♪
ちなみに辻仁成さんでは『ニュートンの林檎』(集英社文庫)が大好き。
函館の老人・佐伯林蔵というキャラクターが書く長大な小説が作中に出てくるのだが
これが北方マジック・リアリズム系らしき作品なのだ(文面は描かれないけど。)
他の作品はともかく『ニュートンの林檎』だけは声を大にして面白かったーっ!と
言える読み物です。北海道リンクでもあります(^^)
あと『白仏』(集英社文庫)は、創作動機において「静かな大地」的でもありますし。
新刊の『太陽待ち』(文藝春秋)には大いに期待しているのですが、未読であります。

そうでなくて大家族の話。
「ちゅらさん」の脚本家の岡田恵和さんがインタビューで言ってらしたけど、
あのドラマを書いたからと言って、実際に大家族礼賛主義とかいうわけじゃない。
ドラマそのものも切通理作さん風に言えば「トウキョウで“ゆんたく”は可能か?」
というのがテーマだったと思う。もうカゾクは自明の枠組みとしては存在しない。
でも、それゆえにこそ、“プレイ”として(疑似)家族を演じること、それぞれ
自分勝手な「個」が“ゆんたく”を続けていくこと。ほとんど保坂和志さんの小説
のように、どうでもいいことにこだわりながら、際限ない日常を、子育てしながら
生きること。「ちゅらさん」の真髄は、美しい海と島とオキナワ情緒ではなく、
むしろ一風館の「ゆんたく空間」にこそ在った。それを観ていた人たちは、よく
わかっているだろう。だからテロの余波で「ちゅらさん効果」が水泡に帰しても
それそのものは残念なことだが、心配するには及ばない。
「ちゅらさん」はボディー・ブローのように効いて来る。そう信じたい。
大家族の話、ってよりポスト核家族時代の「個」と「ゆんたく空間」論になったな。
ふむ。

僕自身は静かな場所が大好きだ。いくらでも一人でいられる。
良い歳をして中学生男子みたいにツルんでいる背広白髪集団が緊張感のない会話を
しながらだらしなく通路を塞いでいるいたりするのを見ると冷静に殺意を抱くほどだ。
「個性」なんて「差異」にコダワリさえなくなるくらいに「個」であることの経験値、
それをしっかり持っている人を僕は信頼する。
新刊『ツインズ twins 続・世界の終わりという名の雑貨店』(小学館)が出たての
嶽本野ばら氏なんかも、そうした美意識の持ち主ではないかと推察する。
「世界の終わりという名の雑貨店」の雪の描写を読んでいて、古井由吉さんの「沓子」
なんて思い出したりして。城ノ内真理亜さんなら、この感じわかってくれるだろうか(^^)

『ミシン』が書店に平積みになりはじめたころは、どちらかといえば僕には関係ないか
あるいは反感を持っていたかもしれない。造本に匂い立つ自意識が強烈だったので、
実際の作者がブサイクな女性でも、やたら顔のキレイな女の人でも何かイヤだなぁ、と
思っていた。割と最近になって、野ばらさんが「キレイな男性」だと聞いて得心(^^;
あらためて出ていた『カフェー小品集』を手に取ると、なかなか素敵な感性と品性の
持ち主ではないか、年齢も自分と一緒だし、案外近いところを見ているかもしれない、
などと思うようになった。彼のことを教えてくれた貴女、どうもありがとう♪

…あれ?今日は、「痛恨のフロリダ」という題で、ゴアがブッシュに勝っていたはず
だった大統領選挙の話から、堀武昭『反面教師アメリカ』(新潮選書)の話に展開して
http://www.ywad.com/books/452.html
新刊の『異文化はおもしろい』(講談社メチエ)の御大の寄稿「異文化に向かう姿勢」
へと至るつもりだったのだけど。ま、オキナワには行き着けたのでいいか(^^;

でもね、なんかセカイが暴力や不正や難儀なことに満ちているのは昔からのことで、
そういう下部構造のすべてを横目で知りつつ(<?)嶽本野ばら氏のような美意識の
世界と真剣に対峙する、というのはなかなかに真摯な闘いであったりもする、という
のも突き抜けていて嫌いじゃないのです。深い諦念から逆撃する精神のエレガンスを
鍛えよう、みたいなところ。異文化は都市にも/にこそある。形骸化も速いけど、ね。
さ、『ツインズ twins』をいつ読めるかな(^^;


2001年11月13日(火) 朗読ディストピア

            (※眠くて誤字脱字だらけにつき翌日若干補筆)
「朗読ディストピア」うーん、良い題だ(笑)
もう内容書かなくてもいいくらい、タイトルで達成感を感じてしまったので寝ようかな(^^;
相変わらず/例によって事態の推移に思うところがあって沈黙しているわけではない。
単に無精なだけ。
「ディストピア」と「朗読」の二つが最近の日々のマイブーム的様相を示していて、
それを直結させるとひところ大人気だった椎名林檎のアルバムタイトルみたいな響きが
可笑しかったので採用。

まずディストピア話。
ユートピア/ ディストピアという対語としてよく使う。
僕の身辺でも“うっかり”読んでしまって被害者続出の篠田節子『弥勒』(講談社文庫)
をはじめ、最近どうも閉塞感あふれる(<変な表現だ 笑)創作物に当たることが多い。

11月3日にサンシャイン劇場で観た「カッコーの巣の上を」は、今井雅之さんが出演
されているので足を運んだのだが、精神療養施設のワンシチュエーションものだった。
閉塞感の塊のようなアメリカン・ナイトメアな話。終演後、重〜い気分で池袋の街へ(笑)
作中、ドリームキャッチャーが舞台上方に象徴的に登場するのが印象的。
11月9日には紀伊国屋劇場で「ある憂鬱」。南果歩さん主演。キャラメルの大内厚雄氏
が客演している。これも内容より役者さんの線で観に行ったのだが、閉塞感と痛みの塊(^^;
現代の北海道が、ある種のディストピアの背景として描かれているのは関心の範疇。
11月11日には悪いことに(?笑)俳優座劇場で「華氏451度」を観てしまった。
ある意味、ここで「ディストピア」と「朗読」というか暗誦がもろリンクするわけです、
「華氏451度」を知ってる方ならよくおわかりの通り。

そんな中の11月10日の日曜日は、いわば朗読の日。
昼間は、ご近所の近代文学館で開かれた「声のライブラリー」。
夜はテアトル銀座の「メーリング・ドラマ フレンズ Mail@Drama」を観劇。
これは脚本が飯島早苗さんで、斉藤由貴さんと七瀬なつみさん二人の「メール書簡体」で
描かれる話。北海道の栗山町の高校の同窓生が、トウキョウと札幌でメールのやりとりを
する、そのメールの文面だけでほとんどのセリフが構成されている。
知る人ぞ知る?崎谷健次郎さんの生演奏、生うた付きで、舞台上方のスクリーンに
それぞれのコンピュータのディスプレイや、イメージのスチール写真が出たりして
なかなか芝居、音楽、ヴィジュアルの構成が楽しく観られた。
#なにげに崎谷さん懐かしい。斉藤由貴さんがアイドル離脱しかけの頃のアルバムって
 崎谷さんが関わっていて、すごいいい曲、好きな曲があったのを覚えている。
「ラブレターズ」みたいなリーディング・ドラマの新しい形式としても面白い。
飯島さんの脚本もツボを押さえていて、30代女性なんかが観ると琴線かき鳴らしだろう
と思いつつ、結構80年代の世代の感覚が我が身にも懐かしかったり。ウェルメイド系。
北海道の雪が降る直前の空気の匂いも思い出させてくれた。
ライブのオーディオ・ドラマ、とでも言おうか。ちょっと作ってみたい系(笑)

さて話は朗読である。
読んでないけど斉藤孝『声に出して読みたい日本語』(草思社)が売れているらしい。
コトバと声と身体。その強い連関。舞台演劇に関わる人にとっては自明なことなのだが、
教育とかの局面で、あまりに軽視されてきた部分だと思う。以前ここでもそんなことを
書いた覚えがある。キャラメルボックスの成井豊さんの演劇メソッド本に触れながら、
言葉と声と身体の連関、それと他者とのコミュニケートを「実技」としてエクササイズ
する頭をもう少し持てば、「救われる」「効果があがる」若い人も少なくないのでは?
…ってなことを意外と真面目に書いた。
演劇をやる、となるとひどく特殊なことのように思えてしまうだろうけど、朗読なら
一人で、ウォーキングより簡単にできるだろう。

しかして、本を声に出して読む、なんてことを普段やりますか…?
僕は極々たまにやる。大抵は煮詰まった夜中(笑)
以前、野田秀樹の戯曲『キル』の一部分というのもやった。
御大の作品なら『〜ティオ』なんかやりやすそうだけど、僕がやったことあるのは
「骨は珊瑚、眼は真珠」で、あの特殊な視点の一人称はシブイ役者さんで是非CD化
して欲しい、と思っているくらい“朗読もの”として好きな作品。
自分がやるときもイメージキャスト・橋爪功さんのつもりで読んでた(笑)
あれは1時間くらいかかって、丁度いい長さ。
ある種、音声として朗読するのに向く気分の作品と、そうでない作品が如実にある。
“肉声”というのが似合わない作品もあるのだ。
たとえば「スティルライフ」はやめたほうがいいと思う(^^;
寮美千子さんの『星兎』なんかは1時間半かかる。
寮さんもそうだけど、自作の作品のリーディングをやられる作家さんもいらっしゃる。
古井由吉先生の素晴らしいお声での朗読は一度、生で聴いてみたいと思っている。

なんにせよ、自分で声に出して読んでみれば、それが心地良いかどうかわかる。
あと同居人のいない方は、好きなように何でも読んでみられるといい。
小説ではなく短いエッセイなども、NHKのベテラン・アナウンサーにでもなった
つもりで丁寧に読むと、結構落ち着いたりして心地良い。
『むくどり通信』の一節とか須賀敦子さんの『ヴェネツィアの宿』の一節などもよし。
お金も設備もかからない趣味として、周囲の人にも勧めていただきたい(笑)
阿刀田高『怪談』(幻冬舎文庫)の主人公もやっていたけれど、目の不自由な方の
ためのボランティアでテープ吹き込み、という目的を持ってやっている人もいる。

ブームになれば、オーディオ・ブックの類も売れるだろうし、音声データがネット
から落とせるような時代も来るかも知れない。
橋爪功さんや江守徹さん寺田農さん岸田今日子さんや白坂道子さんが「家元」級か(^^;
あるいは伊武雅刀さん、掘勝之祐さん、永井一郎さんなんかもシブイ位置。
昔、小泉今日子さんが吉本ばなな『とかげ』を読んだCDが出ていたけれど、
若い女性のリーディングも、声が良くて朗読の技術と演技力があれば魅力的だ。
FMでやっていた「恋する音楽小説」の常連だった、あの声優さんの朗読も大好きだ。
たとえば、嶽本野ばら氏の『ミシン』(小学館)の朗読なんか、是非聴いてみたい♪
『カフェー小品集』でもいいけど、『ミシン』所収の「世界の終わりという名の雑貨店」
 の一人称“僕”がきっと良いのだ。
#あぁ、思わずマニアックな細い道に入ってしまった。こういうのも読んでるの(^^;

というわけで、「未曾有の“朗読ブーム”到来!」というネタを世の中に流布させよう
と目論んでいる。…って、みうらじゅん氏の影響が色濃いですな。
キャラメルボックスの成井さんの本で「二人朗読」とかのメソッドが紹介されていたが、
そこから派生しての“朗読プレイ”に走るカップルなども急増中、とかね(笑)


…え〜、“本題”の「静かな大地」のほうですが、結構書くべきことはこれまで
いろいろ書いているし副読本もご紹介していますので、遡って復習していただければ
ありがたいです。以下の日録まとめ書きは個別にコメントつけません。
「100冊」の中の本をお読みになるのもよろしかろうと思います。
船戸与一『蝦夷地別件』(新潮文庫)と北方謙三『林蔵の貌』(新潮文庫)あたりは
押さえておくと、三郎君の「悲劇」を歴史的広がりの中で捕まえられるかも。

今後ここでは、さらに『武揚伝』の周辺補強にも努めたいと思っています。
鈴木明『追跡 一枚の幕末写真から』(集英社)の再読を始めましたが、この本は
もうホントにメチャクチャ面白いです。図書館でも古書店でも即読みを奨めます。
以前から、そう思ってはいましたが、『武揚伝』後に再読してさらにビックリ。
佐々木譲先生は中島三郎助が主人公の新聞連載を考えてらっしゃるようですが、
ことによっては、そっちの併走を…って、そりゃ大変すぎるか(^^;
あ、佐々木先生の旧作『昭南島に蘭ありや』今月文庫になりますぜ>南島属性の方(笑)

てなことで、今週はともかく来週はまた沈黙状態が予想されます。

励まし、リクエスト、ネタ提供のメールをお待ちしています♪

11月 5日(月)
題:143話 鹿の道 人の道23
画:ミシン糸
話:その無念さは如何ばかりであったでしょう

11月 6日(火)
題:144話 鹿の道 人の道24
画:ミシン針
話:開拓使には新天地の豊かな暮らしを約束して移民をつのった責任があります

11月 7日(水)
題:145話 鹿の道 人の道25
画:ボビンとボビンケース
話:アイヌはほんとうに困ってしまいました

11月 8日(木)
題:146話 鹿の道 人の道26
画:メジャー
話:多くのアイヌが町に降りてきました

11月 9日(金)
題:147話 鹿の道 人の道27
画:ナフタリン
話:静内に来たことを父上は悔やんではいらっしゃらなかった

11月10日(土)
題:148話 鹿の道 人の道28
画:剣山
話:私はこの馬鈴薯の分けかたを考えていたのだ

11月11日(日)
題:149話 鹿の道 人の道29
画:燭台
話:万一この薯の一件が知れたら、ここから追い出される

11月13日(火)
題:150話 鹿の道 人の道30
画:コルク抜き
話:種が残って播く人が死ぬよりは、播く種がなくとも人が残った方がよい


2001年11月04日(日) 弥勒リハビリ・プレイ

題:141話 鹿の道 人の道21
画:カフスボタン
話:この敷地をどう使うか、三郎さんは夜毎に考えられました

題:142話 鹿の道 人の道22
画:アームバンド
話:稲とは異なって藍は真夏の暑さを越えなくとも作れる


「新世界」建設への意志。賢くて勤勉で野心を得た三郎君は、開拓に余念がない。

ヘニョロモな僕は昨夜の冷たい雨のように憂鬱で心細い気分をやり過ごしている。
何歳になっても、住む場所や周囲の状況が変化しても、やっていることは一緒。
しんどいねぇ。
そんな気分で読む本じゃないけど、そんな気分だったから読んでしまったのが、
*篠田節子『弥勒』(講談社文庫)
ヒマラヤと思しき地域の小国家にユートピア建設を目指す独裁者が出現するが、
そのラディカルな理想主義は苛烈なディストピア、地上の地獄を現出せしめる。
この小国は思考実験の枠みたいなもので、いろんな国を“代入”できる。
カンボジア、ネパールやチベット、北朝鮮、アフガニスタン、日本、そして地球!

ヘヴィーです。これは「小説」なわけですが、圧倒的に“リアリティ”がある。
この場合の“リアリティ”は、データ的な現実らしさとか呈示される議論の妥当性
とかだけじゃなくて、読む身に迫る“のっぴきならなさ”や“逃れられない気分”
といった感じのもの。カンボジアでも文化大革命でもホロコーストでもヒロシマでも
「事実」は逆に“歴史の額縁”に封じ込めることによって相対化できるところがある。
そして単純に「事実」であるという点では、それらの大事件と“等価”な「現在」に
逃げ込むことが出来る、とりあえずは。んがしかし、力のある小説で脳内チャランケ
を強いられると、なかなか抜けないでループしかねない。危険だ。
美、信仰、経済、生産、労働、共同体、家族、性愛、権力、強制、殺戮、理想…。
ええい、たかが作家の頭の中で拵えられた物語ではないか!
…なんて気持ちにさえなるというのは、作者の篠田節子さんへの賛辞だろうか?
『すばらしい新世界』と『花を運ぶ妹』の作者は“心優しい”のか “手緩い”のか、
それとも何なのだろう、と思わされる一冊。読んでみれば、僕の言うことがわかる。

「現実」の世界で起こっていることを、異なる視点から総覧したくなった、で、

*アンソニー・ギデンズ『暴走する世界』(ダイヤモンド社)
著者は英国の社会学者。僕は大学で社会学のゼミに在籍していたので名前は知ってた
けど、日本の学者の論文に引用されてる文章以外は読んだことがなかった。
“RUNAWAY WORLD How Globalisation is Reshaping Our Lives”が原題。
「グローバリゼーション」の本質/多様化する「リスク」/「伝統」をめぐる戦い
/変容をせまられる「家族」/「民主主義」の限界…という章立て。
つるっと読める分量なだけに、突っ込みは浅いけど、韜晦してなくて著者の立ち位置
が明快なのがいい。ギデンズ氏はトニー・ブレア首相のブレーンになっているという。
米国と軍事行動をともにしつつ、世論に鑑みて素早くアフガニスタンへの食糧援助の
プランも発表したり、あくまで主体性と存在感を忘れさせない英国流の戦略には、
良きにつけ悪しきにつけ「感心」していたが、本書を読むとその背後には知識人の
「覚悟」の違いも作用しているのか、などと思う。

*辻信一『スロー・イズ・ビューティフル』(平凡社)
ヘヴィーな『弥勒』の後に読むと、バッド・ジョークのようにも読めてしまう感も
あるけれど、真摯に考えて書かれた「エコロジカル」「サステナブル」な生き方を
“スロー”という魅力あるキーワードで括った好著です。リハビリになりました(笑)
 http://www.sloth.gr.jp/J-index.htm
著者も関わるNGOのHP↑に、この本のことも紹介されています。
グローバリゼーションにも、過度な産業化の弊害にも、「じゃ、どうすればいいの?」
という“今ここ”からの疑問にオルタナティブな具体案を示そうとしてくれます。

…でもね、『弥勒』からのリハビリに最も即効性があったのは、

*みうらじゅん『新「親孝行」術』(宝島社新書)
まったくもう、地力のある人ですな。ギデンズ教授に読ませたいよ、これ(爆)
社会学的な考察力も叙述力もホレボレするばかりの見事な著作です(^^;
かつて「マイブーム」という概念を“創造”した著者が、家族関係を俎上にのせた
“お笑い”本なのだけど、端的にいえば親子関係という、もはやフィクションと
なって久しい概念を「親孝行プレイ」という“見立て遊び”の材料にすることで、
余すところなく掬い取った社会学的成果の書。その完成度たるや瞠目に値する。
何より、その「プレイ」概念により“実践”へ開かれた理論の完成度はギデンズ氏
の比ではないだろう。かつて宗教に関して『見仏記』という仕事をしている著者は
家族に関しても素晴らしい理論と実践の道を示してくれたのである!

村上龍氏も『最後の家族』なんて言ってる場合じゃない、こっちのが過激で深い、
そして圧倒的に面白い。ヤバイのは、この本が赤瀬川源平『老人力』みたいに
流行語になってしまったりすると、「親孝行プレイ」の対象たる親の世代たちが、
「プレイ」されていることに気づいて居心地が悪かろう、ということだ。
そこから日本の家族は、さらなる新しい未踏のフェイズに入っていくことになる。
だまされたと思って立ち読みしなさい。最近になく、めっちゃ笑えた。
いやぁ、恐るべし、みうらじゅん、そしてありがとう、みうらじゅん(敬称略 笑)

真に強靱な“スロー”スタイルは、こういう人にしか作り出せないんだろうなぁ。
僕が秘かに目論んでいる「お笑いスティル・ライフ」というコンセプトに近いかも。

…ってなことで、もし今週この日録の更新が止まっても、単に多忙なだけですので
お許し下さいまし。


2001年11月02日(金) チャランケ&ゆんたく

題:140話 鹿の道 人の道20
画:分銅
話:天から役目なしに降ろされたものは一つもない

明治20年の頃には三郎君は元気に開拓に勤しんでいたわけですね。
彼の命はいつまで永らえたのか、そしてどんな死にざまだったのか、
盟友オシアンクルは開拓事業にどのように関わっていたのか、
まだまだこれから語られるべきことはたくさんある。

それにしても、われながら昨夜書いた過去二日分を再読してあきれる。
文章の体をなしてないし論旨も理解不能、半ば眠りながら自動筆記状態(^^;
“脳内ひとりチャランケ”なんて書いたけど、やはり最初に表明したとおり
“ゆんたく”こそ、この日録でやろうとしていることなのでお許しいただきたい。
結構長く続けていると、同じネタがスパイラルしてきて味わい深かったりもする。
そもそもが新聞連載をフォローするという難儀な習慣を、自分が持続するための
過剰な副産物だと思って、もの好きな方はお付き合いいただけると楽しいかも。

まだ「静かな大地」のラストを予想したりするには時期尚早だけど、今回も
そんな話ができるまで、ユルユルと“ゆんたく”し続けられるといいなぁ、と。
ま、ラストは間違いなく火星テラ・フォーミングの話になると思いますけど(爆)
『すば新』の時のネタですな。懐かしい。それくらい荒唐無稽にやって欲しい。
せっかく「新世紀へようこそ」でジャーナルな足場を持たれたのだからこそ、
なおさらフィクションのほうは『マシアス・ギリ』より更に跳ねて欲しいです。
『すば新』の時にはあった「なにゆえ新聞連載か」という部分は今回ない以上、
単純に小説の可能性の中心に期待して読み続けるわけですから、読者としては。

さて、小林よしのり『新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論2』(幻冬舎)も
読みたいので、今夜はこれで失敬。辻仁成『太陽待ち』(文藝春秋)なんて
一体いつ読めるんだろう?来週も読書時間は睡眠時間との兼ね合いだろうし(^^;
まぁいいけどね。月末には平日に休んで甲府へ行って愛宕山を散歩するのだ、
そして12月にはキャラメルの「ブリザード・ミュージック」をGreen&Redの
両方のキャストで二回観るのだ、と嘯きつつ、こうして年は暮れてゆく…。
8年前の暮れは、よく静内の街を歩いていたなぁ、などと思いながら。

ってなことで、久しぶりに、ご意見ご感想ご希望、疑問、苦情、叱責のメール、
お待ちしています…なんて言ってみておこうかな♪


2001年11月01日(木) 弥勒、戦争、遺跡

題:139話 鹿の道 人の道19
画:収入印紙
話:狼は知恵者でしたし、その分だけ尊敬されておりました

 <あらすじ>昭和11年、子育てが一段落し
 た由良は、淡路島から入植した伯父三郎や父
 親志郎について、志郎から聞いた話の覚えや
 静内の人々の聞き書きなどを読み直した。夫
 の長吉から三郎伝をまとめるようにと促され、
 信頼するシトナの協力を得て三郎が牧場を
 開こうとする時期から由良は手をつけた。


他の種を短期間のうちにターミネイトする意志と能力を持つ生物集団、ヒト。
しかも、同一種であるヒト同士の間で他者を殺戮する意志と能力まである。
栗本慎一郎師『パンツをはいたサル』(カッパサイエンス)の主題である。

“邪悪で獰猛なハンター”のイメージがある狼とて、イヌ科の動物だから、
同族同士で諍いを起こしたとしても、ひとたび服従の姿勢をとれば勝者は敗者
の命を取ることはない。できない。そういう風にプログラムされている。
ヒトの場合は、さにあらず。
ただし私見だが、この状況を「本能が壊れている」とだけ形容することには
抵抗したほうがいい。まず第一に、本能に帰ることは不可能だから。
そしてヒトもまた別種の、もしかしたら可塑的で動態的で強力な「プログラム」
の支配下にいるのではないか、と考えられるからだ。
それに無自覚になるのは思考停止というものだろう。

超遅読な上になかなか読書時間が捻出できないのだが、さして読書が好きという
わけでもないので、一生本を読まなければ読まないでもいいのだけれど、時々
切実に読みたい本が出てくる。難儀なことである。
篠田節子『弥勒』(講談社文庫)は、そういう本の一冊。
このタイミングで文庫に落ちてしまったことも大きい。
どうしても細切れの時間に読むので、勢い文庫の形だと扱いやすいのだ。
これは絶対僕が読むべき本だ、と思いつつハードカバーの間は逃げていた。

弥勒。マイトレーヤ。上祐史裕のホーリー・ネームではない(^^;
僕が大好きな物語作家、山田正紀の旧作『弥勒戦争』なんかも思い出す。
大量殺戮。正義。そして神。
関係ないけど山田正紀さんの『顔のない神々』は今こそ復刻すべきだ。
なにせ表題は、タリバンに爆破されたバーミヤンの石仏を指している。
しかもオウムみたいな宗教教団が登場する1970年代の幻代史ものだ。
熱い傑作だと思うのだが、再版ブームからも漏れている。
話はズレつつ妙にリンクしているのだが、篠田節子の『弥勒』に戻す。
明るい気分で読む物語ではない。
重い。つらい。でも抜群に面白い。
ひとことで言えば、「架空のヒマラヤの小国が舞台のディストピアもの」。
いつか御大も書評で言っていたように、カンボジアのポルポト政権を視野に
入れているのだろう。20世紀の背理。ある意味ホロコーストより怖い。

文明、文化、アジア、近代、理想、幸福、罪、悪。
多くは語るまい。これは必読だ。ただし読むタイミングは慎重に(^^;
『すばらしい新世界』や 『花を運ぶ妹』 の作者が、ポルポトや現代史、
そして現在進行形の時事に、これほど(>「新世紀へようこそ」)強い関心を
持っていること。それを意識せずに、あるいは知らずに上の両作品を読んで、
しかも初期の作風に比して精彩を欠くなぁ、と思いながら読み終えた読者…、
そんなあなたには『弥勒』を読むという“ワーク”をススメます。

これだけダークな世界の深淵を垣間見た上でなら、両作品が渡っている“綱”
の危うさ、書いた御大の切実さが見えるはず。
現像をやりなおしたら印画紙にクッキリと像が浮かび上がるとでもいう感じで
御大が二つの作品でやろうとしたことが、陰影濃く見えてくるかもしれません。
我ながら微妙な言い方だけど、どっちが優れている、とかという話ではなく(^^;

本業が忙しくても、あるいは一息つけたカフェで読むには内容が重くても
『弥勒』が読みたくなった精神状態と、オウム関連のノンフィクションに
手を伸ばした切実さ、そしてテロ/戦争との間には強い切実な繋がりがある。

だから『「新世紀へようこそ」038 軍の限界』の中に次の記述を見つけた
時、苦笑を禁じ得なかった。

http://miiref00.asahi.com/national/ny/ikezawa/011031.html
>  誤爆の問題も無視できません。
>
>  加害者と被害者は例によって数字の応酬に明け暮れて
> いますが、数がどうであれ誤爆は起こっています。
>
>  今のやりかたは、オウム真理教の首魁を殺すために上
> 九一色村全体を爆撃しているようなものです。
>
>  ある程度の民間人の犠牲はしかたがない、と言ってし
> まったら、アメリカはテロリストと同じ地平に立つこと
> になる。アメリカ人の命とアフガニスタン人の命に差を
> つけることになり、正義は失われる。

真ん中の二行だけ引用するのは、あまりに意図的な文脈外しになるので遠慮
したけれど、僕も(別の意味で)その例えはここに書きかけてやめたのだ。
偽爆笑問題の不謹慎トーク風コラムのネタにも考えたかもしれない。
僕の場合は「オウムがテロを起こしたから山梨県を空爆するようなもの」という
フレーズだったと思うけれど。
脳内ひとりチャランケとして、さて現在アフガニスタンで起こっている事態と
「オウムを攻めるために山梨県を空爆する」のとでは、実際何がどう違うのか、
と考えていた。しかも時事に疎い子供に質問されたという想定で。
これは意外と結構難しい。もちろん全然違うんだけど。
教師や親をやってる方は悩んでみて下さい(笑)

以前コソヴォの問題でネイトーがベオグラードを空爆したときも似たようなことを
考えていた。実際誰かに説明したような記憶もある。北海道に住んでいた頃だ。
「あれはね、東京都民が埼玉県民を苛めているのはケシからん!と言って北海道が
空爆されるようなもんだ・・・というような面もあるかも」みたいな説明。
「えーー、そんなのヤダ」とかいう反応をされたんじゃなかったかな。

さらに話は跳ぶのだが、御大の往年の名作「帰ってきた男」はモロにアフガンの話
だったりする。あの「オニロスの遺跡」は“カラコルムの西、アフガニスタンと
ソ連とパキスタンの国境線が集まるあたりの山中”に存在することになっている。
なんとなく山田正紀さんの世界とも篠田節子さんの世界とも呼応しているみたい。

今夜は一際とりとめなくなりました。
きっと「静かな大地」を信じて着いていけば、こうした“脳内ひとりチャランケ”
が少しはクリアになって、幸福な地平に出られるのだと思いつつ眠ります(笑)


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