坐骨神経痛&腰痛(BeBe)
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2001年12月31日(月) 最終段階

導入機器の決裁資料を作成するために社内調整を進めてきた。それもようやく終了して、これからは決裁資料の作成が仕事だった。そのため、必要な発注先からの資料内容の説明、費用面の説明などを受けた。内容は、当初の予定通りでは無かったものの必要な資料と数字は揃った。この後はどのように社内説明の資料にするかだけだった。

この日は泊まり勤務で除夜の鐘は社内で聞く事になっていた。数日前に交代の依頼が来て、私はどちらでも似たり寄ったりだったので了解をしていた。
泊まり勤務は1/5の土曜日だった。辛かったのは、次の診察の予約が1/4だったので治療の翌日の泊まりであることだった。
仙骨ブロックを繰り返し受けていたが症状に改善の兆しが無く、痛みの強い注射とのガマン比べ、惰性的に治療を受けているだけで原因の追及は何もなかった。
この仕事が区切りがつけば、はじめの頃に言われていた入院も考えに入れるしか無いように感じていた。


2001年12月28日(金) また、休んでしまった

27日に費用面の詰めが終わったとして発注先から書類を受け取り説明を受けた。
しかし、予定枠から大きく出てしまっているのでこのままでは結論とする事は出来ないと再検討を依頼する。もう、ここまで来た以上後戻りは、翌年の導入予定を白紙に戻す事になってしまう。何か方法が無いのか、未検討部分をどうするのかなどを依頼した。
同時に進めている別の発注先とも最終案を出しておく必要があった。
その約束がこの日の夕刻で約束をしていた。

症状は坂道を転げ落ちるような勢いで、悪化の一路を進んでいた。この頃は、10分も座っていると両脚の疼痛で資料作成もままならない状態だった。右腰の痛みは、どうにか持ちこたえていた。腰は、お尻の注射の跡が痛くてそれでごまかされていたのかも・・・・。

病院は予約で9時台だったので、待ち時間は、早くてもギリギリでも運次第みたいでさほど差がなかった。行く前からブロックの依頼をするつもりだったので、診察時間はあっという間に終わった。後は、治療の順番を待って痛みにこらえて暫く安静にして帰る。この過程を繰り返すだけだった。
結局、終わったのは午前中一杯かかって痛みに耐えきれず疲れてしまい、この日も休んでしまった。
電話で仕事の事は、31日に変更を依頼した。年内が限度なので、内容にかかわらずこの日の内容で結論を出す事を伝えておいた。

脚の痛み、仕事の最終ツメ、社内の人間関係など疲れる事が多かったけれど逃げ出す事は出来なかった。


2001年12月21日(金) 勤務が出来ない!!

この日は9時に予約をしていたので、治療が済んでから会社へ行くつもりだった。
一度、準備のための打ち合わせを欠席していたので、一度も二度も同じみたいな気持ちになっていた。だから、この日も欠席にしていた。
20年近く同一のメーカのものを使用してきていたので、過去の殻から抜け出ようとする今回の仕事は、反発もあったし大企業のように拠点が多くあるわけでもないので、人間関係も複雑だった。そのなかで準備を進めていたので、精神的に相当な負担があったと自覚している。

ブロックは、何度経験を繰り返しても慣れる痛みではなかった。せめて、一回で場所を決めて欲しかった。何を頼りにここか、違うのかを判断しているか分からないけれど、一回で決まった事がない。
最初に針を刺す場所を確認するために、医師が指で押さえるだけで既に痛い。

今日もブロックの結果は、効果が薄く、注射のあとも痛いので会社に行ける状態じゃなかった。


2001年12月18日(火) 仙骨ブロックは泣くほど痛い

救急センターで外来の主治医に伝えておくからと言う事で、予約なしで病院へ行く事にした。導入準備のための重要な打ち合わせがあったけれど、部下や発注先の営業に依頼をして欠席にする事にした。準備段階の打ち合わせも、それなりに回数をこなしてきているので、部下も進め方を分かってくれていると信じるしか無い。

痛くて仕事にならない状態だった。
担当医の医師は予約診療なので、予約外の患者はいつになるかはその時次第なのでいつになるか分からず、ただ待つだけだった。
長時間待った結果、診察になり救急へ行った時の事はカルテに書かれていた。血液検査と症状を聞いた結果、坐骨神経痛の事とは関係が無いとの診断だった。
念のためと言って血液検査をやり直す事になった。
腰と脚の痛みは相変わらずの状態だったので、治療としてブロックをすることになった。覚悟を決めていたので、タオルハンカチを持参していた。使い道は、注射があまりに痛いのでガマンしていると涙が出てくる。その時に口にくわえてガマンするのと、涙を拭くために使っていた。

この日は、注射の跡が痛くて座っているのが辛いので、そのまま仕事は休みとした。導入準備のための事前調整は今週いっぱいで終わり、来週からは費用調整が始まる。この費用を予定の枠内に入れるための大仕事が控えているので、なんとしてもガマンが出来るくらいの症状にしたかった。


2001年12月16日(日) 救急はやっぱり救急

前日に言われたとおり、9時に救急センターへ行く。
そして、昨日の事をもう一度説明をして順番を待つ。当直理医師の態度は昨日と似たり寄ったりだったけれど、兎に角、整形外科の当直医がいるから呼ぶので待つように言われた。
緊急の依頼で採血をして、結果を見る。結果の何をもているのかはよく分からない。糖尿の事と、整形外科のカルテを診ながら「切るにしたって、担当の医師じゃないから」と言って、処置は出来ないと言う。昨夜と似たり寄ったりである。
命に別状が無いからあわてる事はないと言う説明だった。
昨夜と同じく、消毒をしただけで翌週の担当医の曜日に来るように。担当医は整形外科部長だったから、なにか遠慮している様子にも見えた。

18日は、予定が詰まっていたが、それどころではなかった。急遽予定をキャンセルすることにした。痛みが変わったわけではなく、症状は変わらない。


2001年12月15日(土) 救急センターの処置

毎日のように、導入の準備ための会議が詰まっていた。最終見積額を出して、支払い条件や付帯条件の整理など発注可能な状態にするには、まだまだしなければならない事が山積み状態だった。

脚の痛みや痺れは本当は別の原因で、的はずれな事をしているのではないかと言う気がしていた。気がするだけで何の根拠もなかった。
疲れて痛みの感じる足の甲をさすりながら、痛みの場所を探っていた。
親指のつけ根あたりが痛いので、何気なく爪が食い込んでいてそこから痛みが出ているのではと思って爪をいじっていた。
その爪を切ったりしている内に、爪と皮膚の間から白い汁のようなものが滲み出てきて「何だろう」と不安が出てきた。拭いても拭いても押さえると、じわぁ〜〜と出てくる。夜中の何時だったろうか?
1時か2時頃だったような気がする。心配を通り越して怖くなってきた。
そこで、思い切って通い始めた病院の救急センターへ電話をした。そうすると兎に角来るようにと言う事なので、治療を期待して大急ぎで行く事にした。

順番が来て診察室にはいると、こんなものなのかと驚くような診察状態だった。
患者がそばに来ても、カルテからから目を離そうとしない。患者に様子を聞こうともしない。まるで、言いたい事があるのだったらしゃべりなさいと言う態度だった。話きっかけも掴めず、待っていると看護婦さんが説明をはじめた。それでも、私の顔すら見ない。
挙げ句の果てにようやく患部を見て、その結果が深夜に来たって今夜は整形外科医がいないし検査技師もいないから、明日の午前中に来なさいという始末。
仕方なく消毒だけ受けて明日出直す事になった。


2001年12月11日(火) 即決

MRIの結果は予想通り異常なしの所見だった。自覚症状はひどくなるばかりで、この病院に来る前にブロックの注射の事は何となく聞いていた。それまでの注射は、医師は痛くないと言ったがその医師が痛いというので躊躇していた。

しかし、もう迷わずにブロックの治療方法の話が出た時は、直ぐにお願いしますと言っていた。どんなに痛い注射でも、この辛さから解放されるのならその方がましだと言う所まで追い込まれていた。
診察が終わり、処置を待つ間ドキドキしながら待つ合い室で、呼ばれるのを待っていた。
処置室は、幅の狭いベットがいくつもあってカーテンで仕切られているだけだった。私が横になったのは壁際のベットだった。横になり、血圧を測り異常がない事を確認してから処置が始まった。この歳になって注射で痛いとは口に出すわけには行かない、叫んで良いのなら泣き叫びたいほどの痛みだった。
何度か位置を確認して、薬剤が入ってゆくのが分かった。足下に冷たい感じが染みこんでゆくような気持ちだった。
暫く横になって血圧を測り、安定するまで横になっている必要があった。

仕事は、相変わらず隙間無く予定が入っているので、この日も治療が終わってから会社へ戻り仕事をしていた。注射の後がひどく痛かった。


2001年12月07日(金) 相手も必死

常務のお供をして、相手の支店長にあったのが5日。その場では何事もないように、仕方がないですねと言っていた支店長。この人も前任者から引き継いで、まだ間がない。着任早々、取引がつぶれたのでは引っ込みがつかないのだろう。
翌日に、私の同期入社のものから電話が入った。

私は俗に言う転職組で、今の所は3回目の会社だった。高校卒で入社したのが、このことわりを入れている会社なのである。

少し話をしたいので時間が欲しいと電話が入った。つまり、今からひっくり返せないかという事なのだ。似たような事を一度経験をしているが、今回はそんな簡単な状態ではない。だから、あっても仕方がないけれど相手の顔を立ててあうだけはあう事にした。
今年のはじめの頃からの事を全て話すわけには行かないけれど、もう手遅れだと伝えた。それでも、支店長が直接、社長へ頼みに言っても良いかという事だった。
脚の痛みをこらえながら、何事も無い様な顔をしてビジネスのじゃまをする気は無いのであう事までは、止める気は無い事を話した。そんな簡単に、入れ替わるのなら、それこそ今までの苦しみはなんだのだろうと思ってしまう。

相手と話をしていても、ピクピクする足下に気がいって仕方がなかった。


2001年12月04日(火) MRIのやり直し

機械が新しいのか操作する技師の技量が影響するのか、詳しい事は何も分からない。ただ、暗くてよく分からないという理由でこの病院の施設でやり直しとなった。時間は短いのでガマンが出来るけれど、撮影中の姿勢と堅いベット(?)に横になっていると、下肢部が痛みと痺れで辛い。
治療も転院のために何もしていない日が続き、仕事はもう精神的にパンク状態の日々を過ごしていた。
業務提携が決まり、その準備で飛び込みの仕事が来る。出来る出来ないの話し合いなど通用しない。
私が進めていた仕事は、企業グループの枠を超えての設備投資の事、決裁権なんてかけらもないけれど、決裁資料をつくり関連会社への説明をして役員会の決裁も取り付けた。多少のズレは出たけれど大筋は思惑の範囲で進んでいる。
スケジュールを調整して、ごまかして病院へ来て、今、MRIのトンネルの中に身を置いている。
翌日は常務と共に今までつき合っていた所へ、筋を通すためにことわりの話をしに行く。当然、説明は私ではなくその場を設定しただけである。

病院での検査は予定通り済んで、結果は翌週になるという事だった。


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