坐骨神経痛&腰痛(BeBe)
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2002年01月30日(水) 昔話

何年ぶりになるのだろう。私が18歳で入社をした会社、19年努めて退職をした。退職の気持ちがたかまる中で、その時の課長との折り合いがつかず屈辱の日々を過ごしていた。そんなとき、少しの間でも良いからこの職場から外して欲しいと依頼をしたのが、その当時の副部長。
暫くして、鹿児島で応援依頼が来ているとの事。その仕事をするかと耳打ちされて、即答でOKを出した。その後、半年くらいの間、鹿児島との間を往復する仕事が続いた。

それも、済んで元に戻って状況は変わらず「人生を掛けた行動」として転職を選択した。大げさかも知れないけれど、仕事に対する熱意が無い状態で生活を続ける事が苦痛だった。結果はどうなるかやって見なければ分からない。
転職をして約5年後、現在の会社に再度の転職を余儀なくされたのだけれど、その関連者としていたのが、この副部長。この時は部長になっていた。

転職先は、6名しかいない会社でそこから現在の会社へ派遣要員として仕事をしていた。その仕事の中である出来事が発生した結果、いわゆる圧力がかかり私を追い出す力がかかった。その中心となったのが、なんと皮肉なこの部長だった。
かれこれ12〜3年ぶり、もう少し経過していたかも知れない。現在の会社の役員から子供の就職の応援を頼まれて、昔の事を思い出して電話をしたところ昼食でも一緒にしないかという事であう事となった。
その人も、関連会社に出ていて今は理事になっていた。就職の事は、話として出したけれどコネで何とかなるほど楽な事情ではないとの事だった。

脚の痛みも忘れて昔話で、小一時間の時間を過ごした。






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2002年01月28日(月) 休暇

脚の痛みも限界、仕事も限界、いろんな意味で疲れてしまった。
月曜日だったので、用件も多かったけれど休暇願を電話で済ませた。

病院は担当医師の外来日では無かったので、終日家でゴロゴロしていた。
この日は定例役員会で連結対象になっている親会社からの役員も含めた場所で、常務が状況報告をする事になっていた。先週末に説明資料は作成して渡してあるので、多分概略を報告するだけの筈だった。

何もする気が沸かず、本当に休暇だった。






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2002年01月24日(木) 仕事の進め方

23日に役員会が開催されて、その席上で報告事項として議題にあげられていた。
これまでは、帯同者として同席をして説明者になっていた。この日は、部長の指示で説明は常務が責任者なのだから、常務がすればよいとの考えで同席は無かった。
ほっとしたような、拍子抜けしたような複雑な気持ちだった。
説明内容は投資額と計画とのズレが中心であり、内容には触れていないという事だった。あいつの関連部署のところが唯一除外された結果になってしまい、この事は、将来に尾を引く事は想像出来た。しかし、もうその事に対しての情熱は無かった。それどころか、如何にすればその事から逃げる事ができるかと考えていた。
知らず知らずのうちにそのように考えていたと思う。

今回の仕事の事だけでは無かったけれど、30分で良いのでと言う事で社長とのアポを取った。結果的には、3時間程度の会話になってしまった。
感情論を持ち出すつもりもないし、そんな事が通用するはずが無いので言葉を選び筋が通るように話すしかなかった。
今回の設備投資の準備に関しての責任者の事。メインバンクから来た常務の元で進めてきたが、社長をはじめ周囲からは信頼されていなかった。かといって、あいつ(と言っても取締役)のやり方でできる仕事とは思えなかったので、案が出たけれど反対をした。社長自らという考えも提示されたが、それでは常務のすることが無くなってしまうため、これも除外された。
いろいろな会話があったが、最終的には現行組織で進める事となった。

最後に一言「決裁書類は出したのか?」との問いかけに対して、本日の午後に提出していると返事をした。既に決裁者の中で”協力してくれた役員からは押印済み”と返事は貰っていたけれど、そこまでは言っていない。






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2002年01月22日(火) まな板の鯉

脚の疼痛はブロックの繰り返しでも、どうにもならずそれでも他にする道はなく、病院へ行っては同じ会話をして仙骨ブロックを受ける。脚は自分の身に付いているだけで、その役目を果たしていないような状態だった。
座れば痺れがきつく、横になっても楽にならない。歩くのも足首に力が入らず、前に進めるのが不思議に位だった。

儀式的な説明会を乗り越えてものの、まだ役員会の承認、決裁書類での承認、支払い条件の交渉など逃げる事が出来ないイベントが残されている。

この日も朝から病院通い。いくらブロックを続けても効果は無い事は承知していても、注射の痛みに耐えていてればいつかは変化が来ると思うしか無かった。
何もかもされるがままの状態と感じていた。


2002年01月16日(水) 第一の壁

導入設備の内容説明会。各委員、社長を初めとする役員は仕方がないとしても、何で実務担当者まで出席しているんだ。あいつが呼んだのだ。
ムシをして、決裁書類に沿って概略の説明をはじめた。こうなれば、出席者の聞く反応などお構いなく、内容の説明を順に沿って話して行った。

あいつ「事前に何の説明も聞いていないのに、こんな説明を聞いていて分かるとおもっているのか?」

私「今、その説明をしているのですからその後で質問を受けたいと思います」

応援してくれた役員「私は、事前説明を全て出席をしているから何も問題はないと思う、このまま説明を続けて欲しい」

この一言で、あいつは黙った。ところが、実務担当者(あいつの子分みたいなヤツ)が突然、訳のわからん質問をしゃべり出した。

もう一人の応援役員「この場はそのような準備段階の意見を説明する所ではない」
暫くの沈黙の時間があり、「説明を続けてよろしいですか」と発言をした上で一気に最後までしゃべり終わった。

応援してくれた役員「この内容で異論はなく、後は実施に向かって進める事が重要だ」と、根回しをしたので助け船を出してくれた。
社長「日程は問題ないのか?」
私「既に遅れが出始めているので、決して安心は出来ません。予定の日程を死守するのみです」

後、少しの質疑応答があったが、さほど面倒な事は無く回答を済ませて散会となった。疲れは隠せなかった。会議室を出る足取りもふらついていた。
後ろから肩を叩いて、「良かったな」と助け船を出してくれた役員が言った。





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2002年01月15日(火) 痛みを耐える事が出来ない

13、14日と続けて休んだ。もうこれ以上新規資料を作成する気力は残っていなかった。今までの結果でぶつかるしかなかった。

この日は、予約なしで病院へ行った。翌日は、調整をした結果の説明会の日だった。頼れる役員を捕まえて、これまでの事情を説明して協力を頼み込んだ。誰が助けてくれるのか分からないが、「裏工作」と思われてもかまわないから急場を凌ぐ事だけを考えていた。

治療も何の効果も無かったけれど、出来る治療はこれしかない。そんな感じで通院を続けていた。脚の疼痛は変化がない、その上に注射の跡がまるでたこができたように、自分でさわっても痛い。その痛い場所に針が刺さると痛みの限度を超えていた。何度もどうなってもかまわないと気持ちになっても、痛みが続く間はどうにもならない精神状態になってゆく。気持ちがすさんでいくのが手に取るように分かると言う気持ち。その原因は「あいつたちだ」と気持ちがドンドンと大きくなって行く。


2002年01月11日(金) 終わりが見えない

何が一番イヤな事かと言えば、理不尽な扱いを受ける事だとしみじみ感じた。

7日に出した決裁書類に対して、決裁書類を発信する部署の役員が導入準備の打ち合わせは済んだかも知れないが、その報告を受けていないのに決裁書類を出すのは押印出来ないと言い出した。決裁者でも無いのに、対象の物件に対して停止する権限は無いはずと思った。また、じゃまされるのは「こいつ」だと心の底から恨みが沸いてくる。統括責任者の常務には、書類決裁にして貰うために説明もして訂正もしてきた。ところが、この人も説得する側にはなって貰えなかった。
この時点では、概略説明書だけでも何百ページにもなっていたし、詳細説明ともなればチューブファイルで十冊以上でそれでも全てを網羅している訳ではない。
それを該当部署毎に分けて説明や意見を入れてまとめたものである。
「ちくしょう・・・・」汚い言葉だけれど、そう思うしかない。

仕方なく、説明会の日程を調整したがそのための資料は作成していない。用意したものは、決裁資料とこれまでの概略経緯と金額的な概略を付けただけである。

心底疲れて、ブロックを受けるために再びいつもの手順で注射を受けた。
疲れ切っていてブロックも効果が出ているのかどうか何も分からなかった。自覚できたことと言えば、注射自身の痛みと注射の跡が痛い事だけだった。


2002年01月07日(月) 区切りが済んだと思った

年末から年始にかけてどうにか約束をして時期に、決裁伺いの書類が整って、提出をした。とてつも疲れたけれど、これでどうにか安堵出来ると信じていた。
多少の質問や訂正なども出たが、対抗するほどの事もなく書類が問えるのなら表現や添付資料など些細な事で、言われるがままに体裁を整えた。


2002年01月04日(金) 初診察

とうとう越年してしまった。仕事も坐骨神経痛も両方のこと。

仕事は、
1日は終日、決裁資料の作成に没頭していた。作りながらも心の中にあった事は、10月に役員会での決裁事項になっていれば実務処理が出来たのにと、悔しいおもいがあった。とはいえ、ぼやいていても仕方がない。年末に常務と部長に依頼をしてた事。役員会の決裁ではなく、既に方向性は決議されているのだから内容と発注先に関する書類決裁にして欲しいと頼んでいた。そうしなければ、どんどんと期日が無くなり作業期間が無くなってしまう。その事に賭けていた。
そうでなければ、脚の痛みと闘いながらここまでやってこれなかったと思う。

2日は、体調が悪く仕事を持ち帰り休みとした。この程度の休みは目立たなくて済みそうだから。なにしろ、12月は相当休んだので結構目立ってしまい、時折、イヤミな事も言われる事が出ていた。

3日は、
出勤して、資料作りに頭を抱えていた。夕刻には、歯抜け部分はあったものの概ねの構成が終わり必要な資料も選択し終わっていた。歯抜け部分は、5日の午後に受け取る手はずになっていた。

4日の診察は、年始めのせいかやはり混雑していた。待合室は予約無し出来ている患者さんや、朝早くから待っているお年寄りの集団がいた。
診察、ブロックと流れ作業の部品のようにすることは進んだ。この日も、原因の追及のための診察も会話もなく、ブロックをして効果が出ているのかという事と様子を見てみると言う事の繰り返しだけだった。右腰は徐々に痛みを感じなくなっていた。左脚は殆ど効果は出ていなかった。兎に角、訳が分からない気持ちだけが蔓延していた。


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