フォーリアの日記
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2002年12月30日(月) 再び帰省

朝から訪問してくださった方にはバレバレですが次の日に書いています。

こちらの風習で、暮れの31日には「お寂しゅうございます」といって
お参りの方がいらっしゃるというので
夜実家にまたやってきました。
最寄駅に11時半頃到着しましたが、車で迎えに来てくれた弟が開口一番
「VAIO持ってきた?」
「持ってきたけど」

話を聞くと、今回弟の持参PCはLibrettoとマックのiBook。
Librettoに挿していたcoregaのPCMCIAのLANカードが
接触不良でだめになったのでBUFFALOのカードを買ったと言う。
ところがこれのドライバがCD-ROMに入っていて
Librettoの外付けCD-ROMドライブは持ってきていない。
とりあえずメルコのサイトからマックでドライバをダウンロードしたものの
これをLibrettoに読ませる方法がないそうな。
カメラ用に持っていたコンパクトフラッシュとそれを読み込むPCMCIAのATAカードも
マックにPCMCIAがないので使えない。

そこで家に着くと早速VAIOにそのLANカードのドライバを落として
ATAカードを挿してコンパクトフラッシュに書き込み。
それをLibrettoに挿してハードディスクに取り込んで
無事ドライバ読み込みできました。

夜中に家に着いてこんなことをやっているバカ兄弟・・・でしょうかね。


2002年12月29日(日) 何もする気がしない

今朝8時、夫がスリランカへ発ちました。
年末年始の休みを繰り上げての帰国だったので
お正月は向こうで過ごすことになります。
スリランカには正月休みはないので仕事だそうです。

この半月、まわりに人がいてドサクサしているのが普通になっていたから
ひとりになると何をしていいのやら。
今更大掃除もする気にならないし。
すぐにまた帰省するし。
お歳暮も出してないし、喪中はがきも書いてないし。

一気に気が抜けて何もする気がしない。


2002年12月27日(金) ADSLへの切り替え(職場)

13日にバイト先の接続環境をISDNからADSLに変えるための申し込みをしたのですが
そのまま出勤していなかったので、すっかりそのままになっていました。
確認の電話が入っていたりしたらしいのですが誰も応答する者がなく
昨日久しぶりに出勤したら確認の電話を入れるようにとのはがきがパソコンの前に置いてありました。
早速確認の電話を入れ、連絡先に勤務先の番号を伝え
誰もいなかったときの連絡先を聞かれたので私の携帯の番号を教えておいたら
今日、のんびり台所用品(洗い桶とか石鹸受けとか)を買いに出ているときに
早速かかってきました。
出先なので、と言ったら、必要事項をFAXで勤務先の方へ送ってくれるというので
送ってもらいました。
そしたら今度は勤務先の方からこんなFAXが来たけどどうしたらいい?と電話がかかってきました。
とりあえず、工事日は1月17日だそうだし、年明けに私が行ったときに対処すると言っておきました。

でも、昨日念のため、万一私がいけなかったときのために
最悪ISDNから普通回線に切り替わったら、モデムはいいから電話だけでも通じるようにTAははずして
わからなかったら最悪、壁の配線から直接電話につなぐように言ってきたのだけど
それもよくわからなかった様子。
うーん。
ここからここへつなぐ、とコードや接続部分に紙を貼ってきたけどそれでわかるかな?


2002年12月26日(木) 眠い

今日はバイトの今年最終日です。
ここへきて疲れが出てきたのか、午後ずっと眠かった。
仕事が終わったら眠気も覚めるかと思ったのだけど・・・。

今日は早寝します。おやすみなさい。


2002年12月25日(水) 帰ってきました。

やっとさいたまの家に帰ってきました。
皆様、本当にどうもありがとうございました。

父が亡くなったとき病院から家に向かう霊柩車に同乗しながら胸に浮かんだことは
私は幸せ者だなあということです。
愛されて育ち、最後まで愛されて看取り
そして大勢の人によくやったね、よく頑張ったね、と言ってもらい、
こんな幸せなことはありません。

今までの経過を日記を書くようなまとまったことはなかなかできませんが
ちょっとずつ、何か書くかもしれません。


2002年12月17日(火) 父死亡

昨日から病院に詰めていました。
12月17日18時48分、父死亡。

詳細は日を改めて。


2002年12月15日(日) 叔母の葬式

お葬式に行ってきました。
父は7人兄弟の一番上ですが、
今回亡くなった叔母は下から2番目、兄弟の中では若い方です。
次男の叔父は一昨年死亡し、残る6人のうち、参列できたのは2人だけです。
親の世代の衰えをつくづく感じました。

型どおりのお葬式が終わり次第
今日は早めに帰ってきました。


2002年12月14日(土) 理事会

今日マンションの理事会があったことを、昨日はすっかり忘れていたのです。
今朝パソコンを立ち上げたら、Outlookのスケジュールに表示されたので思い出しました。
よってお通夜は無理です。
明日の朝出発して、お葬式だけ参列です。


2002年12月13日(金) 叔母が・・

今朝、出勤してから弟から叔母がなくなったという知らせ。
弟も詳しく聞いていないようなので、
昼休みに長野の親戚に確認の電話を入れた。

本当に突然倒れたらしい。
先日まで父の見舞いに来てくれたりしていたのに。

明日お通夜で、あさってお葬式という。
なんでこう続くのだろう。

明日は長野へいくことになりそう。


2002年12月12日(木) 風邪気味

やはり風邪気味のようです。
朝起きた時からからのどが痛いのと、体がだるいので
子供を送り出してから、今日はゆっくり休むことにしました。
たいしたことないんですが、明日元気に出かけなければならないんで。


2002年12月11日(水) レントゲン

今日父の胸のレントゲンをとったそうです。
5時頃その結果を携えて先生が来て、
血液検査だけの結果より状態は悪いといいます。
肺に水がたまっていて前より進んでいるとのこと。
これが癌の出す悪性の物質のせいならば、あと一ヵ月以内かもしれない。
もしかしたらカルシウムのせいの可能性もあるので、
カルシウムを調節する薬も使って様子を見るとのことです。

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私は今日は朝から鼻水が出るし、背中と腕と足が筋肉痛。
さっき家に帰ってお風呂に入ったら少しましになりました。
これがアレルギーと雪かきのせいならいいんですが
風邪だったらいやだなあ。
まあ明日になればわかるでしょう。


2002年12月10日(火) 先生の話

長野へついて雪がどさどさ降っていたらどうしようと思っていましたが
空に雪雲は多かったものの昼間は日が差していました。

水道管が夜に凍ると困るので、病院から車を出して、
暖かい昼間のうちに一旦家に行き、水道管のヒーターを入れました。
雪がけっこう積もっているので通路だけ雪かきもしました。
雪降る中の作業にならずに助かりました。
それからまた病院に戻りました。

幹線道路は除雪されていて雪はありません。
車のタイヤは先日車検のときにスタッドレスに替えてもらっていました。
それでなければ今ごろ怖くて走れず、あわてまくっていたでしょう。

病院では今日は先生の話がきけるはずだったのですが
急患が入ったということで、来られないようです。
明日でもいいかと看護婦さんが確認するので、いいと言いました。

実は先月ぐらいから前の担当の先生が留守にしていて
その留守をあずかっていた先生が今度正式に担当になったのです。
この先生から話を聞くのは初めてです。

父はお風呂に入ってから夕食まで寝ていましたが
夕食時には起きて少し食べました。
その後もしばらく起きていたのでその場にいたら看護婦さんがきて
先生がいらっしゃったので今話を聞くこともできるということ。
今日はなしを聞くことができました。

12月7日の血液検査のデータを9月、10月のものと比較して説明してくれまし
た。
貧血が進んでいる、
アルブミン(栄養をあらわすそうです)がへっている、
カルシウム値が高い(量はかわっていないのですがアルブミン量と関係があって換算
するらしい)、
肝臓のデータが悪くなっている、というのが主なところだそうです。
また、骨転移の指標となる酵素の量は減っているのですが(骨転移があると増える)
骨転移が減ったのではなく、酵素を作る力がなくなってきているのだろうとのこと。
数値的にはかなり危ないところ(あと数週間から1ヶ月)よりはちょっと手前、
後2,3ヶ月というところではないかという話でした。
もちろん、突発的なことがあればどうなるかわかりません。

癌の進行は肺癌などとちがい、腎臓癌の特徴で、ゆっくりなんだそうです。

痛み止めの麻薬の量も前の先生のときより減らしているそうですが
バランスがとれて痛くないようで、意識も安定しています。

こういう話を聞いたのははじめてて非常に納得しました。
緩和ケアは治療をしないということから、血液検査そのものも
やらない主義の先生、やらせない主義の家族がいるのだそうです。
でもなにもかもわからないまま、弱っていくのを見ているのはつらいです。

夕方からまたはらはらと降り出した雪は
帰るときには車の窓に凍り付いていたので
がりがりとこそげ落として家に向かいました。


2002年12月09日(月) 雪のお葬式

雪のため交通機関が乱れに乱れ、今日の外出は大変でした。
念のため早めに家を出たものの、電車はいつ来るかわからない。
来た電車には積み残される、次の電車も満員。
体が斜めになり、支える手が痛くなり、胸が圧迫されて苦しい。
行き先が変更になって、途中で乗り換え。
(これはかえって超満員の車両から開放されてラッキーかも。)
乗り換えた山手線も、線路に人が降りたとかでしばらく止まる。

いったい間に合うのでしょうか。

雪道を歩くにの黒のパンプスでは無理なので余分な荷物も増えます。

ようやくたどり着いた西小山駅から円融寺というお寺まで歩きます。

前にここを通った時もコーラスのメンバーのお葬式でした。
行きには路地から広い道へ出るのでわかりやすいのですが
帰りには路地へ入らなければならないので迷いました。
そのときに、道を案内してくれたのも今日の故人だったなぁと思い出し
それだけで涙がでてきてしまいます。

多少遅れたもののお焼香には間に合いました。
商店街の人気者なので参列者がたくさんいます。
正面の写真を見るとまた涙が出てしまいます。
コーラスのメンバーたちは「泣かないで歌おうね。」と励ましあいました。

でも、最後のお別れで顔を見たらみんな泣いてしまいました。
そのまま出棺の前に歌って送ったのですが
歌っているうちに何とか皆気を取り直しました。

雪はやみそうにありません。
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雪のお葬式といえば、母の時を思い出します。

母が倒れた日は長野でも近年まれな大雪で5、60センチ積もりました。
脳外科のある病院まで通常30分のところ、1時間半くらいかかったそうです。
危篤状態のまま10日間ほど入院していました。
その間、ほとんど毎日雪が降り続きました。

病院に泊り込んでいたのですが、家のメンテナンスもしなくてはならないので
交代で帰りました。
夜の間に積もった雪が朝方凍り、朝には玄関のドアをふさいで開かなくなります。
サッシの引き戸から庭へ出て玄関へ回り、それを取り除きます。
雪下ろしをさぼったら車庫の屋根がつぶれてしまいました。

お葬式の当日ははらはらと舞う程度の雪でした。
当時は田舎に葬祭場もなく、お葬式は自宅でした。
人が来ても大丈夫なように玄関の氷をつるはしでかち割って取り除き
庭の通路には人が歩けるようにダンボールを敷きました。

この日を境に天気がよくなってきました。
本当に母の危機を象徴しているように感じた雪でした。

モーツアルトが母親の死を聞いて作曲したといわれるピアノソナタK.310は
その冒頭を聞くと、いつもこの時の雪が降りしきる光景が浮かびます。

普段はチャイコフスキーの情感たっぷりの音楽が好きなのだけど
このときばかりはモーツアルトしか耳が受け付けませんでした。


2002年12月08日(日) サントワマミー

6日の日記に書いた方のお葬式が明日です。
今日はお通夜で、いずみコーラスのメンバーで今日行っている方もいるはずです。

今朝、いずみコーラスの人から連絡があって
明日のお葬式では式次第にいずみコーラスが歌うという枠が設定されていて
いずみコーラスとして歌うことになっているのだそうです。
なので、「愛の賛歌」「サントワマミー」のほかに
前に歌った合唱曲も歌おうという話。
ご近所の方は一度集まって練習したのだとか。
あらら、どうしよう。
「サントワマミー」なんてサビを聞いたことがある程度にしか知らないのに。

とりあえず、メロディだけでも知りたい。
検索したらありました。
midi歌声喫茶
MDに録音して(アナログで)何回も聞いて覚えることにしました。

お葬式に軽快なメロディだけど、それがいいんだよね、きっと。


2002年12月07日(土) 道に迷った

またやってしまいました。バッテリが上がってた。
長野で毎週車に乗っているので乗ったような気になっていたけど
家の車はちっとも乗っていなかったのです。
そこへなまじ駐車場の塗装工事があったので
ちょこちょこ移動させたのがまずかったのかもしれない。
今回はJAFを呼びました。

それから出かけて、用事がすんでから、そのまま少し走ろうと
帰る道と反対方向に走り出したのですが
ぐるっとまわって元に戻るつもりが、駐車車両のせいで予定の道へ曲がれず
知らない道に迷い込んでしまいました。
鉄道が2路線交差しているこのあたりは、道も複雑で
線路を越えられる場所は限られています。
うっかり迷い込むと線路を越えずに道がカーブして
とんでもないほうへ行ってしまいます。

明るいうちに出かける予定が暗くなってからになってしまった上に雨という
目の悪い私には悪条件。
普段かけているのより度の強いめがねを持って出てきたのでよかったのですが
そうでなければまったく見えなかったでしょう。
そのめがねでも、暗い路地では道案内の道路標識は見えず、
なんとかして広い道に出ようと思いました。

一方通行やT字路で行き止まると、車がたくさん曲がる方へついて行きました。
その方が広い道へ出るかもしれないと思ったので。

しばらくして、それまでよりやや広い道へ出たとき、
傍らの看板に○○医院というのがありました。
○○という地名は家からだいぶ離れていますが、確か東の方。
でも、今どちらを向いて走っているのだろう?
その疑問に答える標識がまもなく見えました。(広い道は街灯で明るかったのです。)
「↑越谷、←上尾、→川口」
ああ、大ざっぱな話。市内の案内じゃないのね。
でも、さすがに自分の向きがわかりました。そして行くべき方向も。
右折すると、「産業道路」の文字が。やっとどこだかわかってきた。
といっても、家へ帰る道筋までは知らないのです。
方向が見当ついたとはいえ、鉄道の線路を渡るという条件があるので
まだ、道路標識がたよりなのですが。

しばらく行くと、→浦和競馬場の文字が。
この道はどこかへ抜けられたはず。地図上の知識なので心もとない。
競馬場方向へ右折。この道もだんだん細くなる。
その後、↑中山道の標識があって、次の交差点はまっすぐね、と思ったのだけど
その交差点から、道はますます細くなる。他の車は右折する。
ああ、間違ったかな?もう少し標識をよく見ておけばよかった。
でも、中山道へ出れば見知ったところへ出るはず。
とにかく、その交差点はまっすぐ進行。
そのまままっすぐ行くつもりが、その路地に入り込んだらまもなく
進入禁止の道につきあたって左折。
これじゃ方向がちがうから、どこかで右折しなくちゃ。
するとまもなく、割と大きな道が交差していてそこで右折できました。
右折するとそれが見知った道であることに気づきました。
ああ、やっと帰れる。

もう、帰ることしか考えられず、
ガソリンスタンドに寄ってバッテリーチャージしてもらおうかと思ったのも
やめてしまいました。


2002年12月06日(金) 歌で送る

家に帰ったらFAXが届いていた。
いずみコーラスの人からだ。
朝、出かけた直後に来たらしい。

団員の一人が亡くなったという知らせだった。

6月頃からずっとコーラスには来ていなかった。
妹さんが病気なので手伝いにいっているという話だった。
でも、病気だったのは本人だったのだ。

皆、事情を知らなかったので「なんて急なこと」と思ったのだが
本人にとっては急ではなかったらしい。

春には海外旅行にもでかけて、不思議なお菓子をお土産に持ってきてくれていた。
でも、そのころにはもう本人は癌だと知っていたらしい。

何年か前、自分のお葬式には皆に歌ってもらって送ってもらうのだと
にこやかに話していた。
それが本当になってしまった。

お葬式で「愛の賛歌」と「サントワマミー」を歌って欲しいと家族に話していたらしい。
先週事情をきいてお見舞いに行ったコーラスのメンバーにもそう言っていたという。

月曜日のお葬式には私も行って歌ってこよう。
歌えば歌うほど悲しくなるとは思うけど。


2002年12月05日(木) 1日では足りない

疲れを癒すのと、たまっていた家事を済ますのとを
いっぺんにやろうとすると、1日では足りないらしい。


2002年12月04日(水) 一見変わりはないけれど。

病院へ行くと看護婦さんに呼ばれた。
今日は食事もあまり食べていないし、いつもより気力もなさそうに感じられる、という。
たとえば、目を覚ましても起き上がろうとしないとか・・。

そして、今のように安定した状態にあるように見えても
全体に弱ってきていて、内臓の機能も落ちていて、代謝機能も落ちているので
突然心臓が止まってしまう場合もあるのだという話をしてくれた。
人によって違うので、本当になんとも言えないのだけど、と付け加えて。

確かに徐々に弱ってきているのは実感している。
でも、いつまでもこのまま続くような気がしていたのも本当。

あとで起きてきた父は、私を見ると起き上がろうとしたので手を貸した。
食事も普通に食べた。
変わったことはないように見えた。

食べ終わると寝てしまったので帰ってきた。
なんだか涙がでた。


2002年12月03日(火) 暖かい日はありがたい

電車を降りてもいつものように空気が刺すような冷たさではありませんでした。
今日の長野は暖かいようです。

父は今日はお風呂に入った疲れで寝入っていました。
夕飯時に起きてきました。
夕飯を食べてしばらくしたらまた寝てしまいました。

実家の居間のストーブは灯油がほとんど終わっていたので
灯油缶を持ってきて入れました。
(ストーブがいらないくらい暖かいはずはないのです。)
大型ストーブのセパレートタンクにはほとんど1缶全部入ってしまいました。
もう一缶もすでに空なので外から汲んでこなければなりません。
幸い、今日くらいの気候なら夜外に出てタンクから灯油を汲んでくる気にもなります。
チャンスなので外のタンクから灯油缶に灯油を汲んできました。

一応説明すると、寒冷地では小さな灯油缶ではすぐに終わってしまうので
灯油を買うときは外にある大きな灯油タンクに入れてもらうのです。
家族が大勢で住んでいるころはそほのかにドラム缶にも買っていました。

寒さが厳しくない日は気分も楽で、ではネットなど、と思ったら
再インストールしたリブレット、やっぱり止まります。
電源切ってまた入れたら、始まるスキャンディスク、
簡単にはすまずにクラスタスキャン。
あーあ、40分かかる。

前に入っていたATOK、消えてるはずなのに変換のキー割り当てがなぜかATOK。
再インストールしてるのでATOK入れてないはずなのに。
ATOKは忘れているから、うっかり文字入力で書き込みに手間取る手間取る。
IMEの機能設定を見るとやはりATOKになっている。なぜ?
キー設定をMS-IMEに直してやっと安心。


2002年12月02日(月) JRダイヤ改正

昨日からJRのダイヤが大幅に改正されたらしい。
埼京線の臨海線への乗り入れで、見慣れない電車が昨日も走っていた。

今朝忘れ物を取りに出かけるために電車に乗ると
そんなに早い時間でもないのに、
朝の混雑の影響で電車が遅れています、とのアナウンス。

池袋から新宿まで埼京線では1駅なのに
前の電車がつかえています。
前の電車がまだホームに入っていません。
前の電車がまだホームにいるので発車次第・・・・
と何回も信号待ちして止まる。

通勤ラッシュ時なら以前からいつも前の電車がつかえ気味だったけど
10時台の電車でこれではちょっとひどい。

ダイヤ改正の影響だろうか。
昨日は日曜日だったので初平日ということで混乱した?
それとも乗り入れの影響で予想外に混んで
これから毎日こんな調子なのだろうか。
そうだったら、遅れ気味のダイヤで時刻表を作ってくれなくちゃ。


2002年12月01日(日) オフ会

実は昨日、元首都圏マダムが上京したので
久しぶりに大勢集まってオフ会をしました。

ランチの部は都合の悪くなる人が多くて3人だけでしたが、
夜の部は11人でした。

昨日は私は、なんだか速いペースで飲んで早くから酔っ払ってしまって
カラオケボックスではまったく眠ってしまっていたので、
せっかくの機会なのに、その晩帰った人とはあまり話ができませんでした。
ごめんなさい。

でも、いない人や寝てる人は肴になっているとか・・・?

けいはらさん、いつもお世話になってすみません。
皆様ご迷惑をおかけしました。
こりずにまた誘ってください。


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