お友達を呼んで誕生会をするなんて、去年まではする気もなかった。 誰を呼んで誰を呼ばない、っていうのも面倒。プレゼントなんかで気を使わせ、お金を使わせるのもなんだか。何よりも、そんなときのパーティメニューを考えつかない。 大体、誕生日なんて、親がしみじみ「ああ、良くぞここまで育ってくれた。よくここまで育てたぞ、偉いぞ自分」って思うためのイベントでしょう。
と思ってたけど。いつだか息子が「ぼくは本当に皆に好かれているのか、たまに心配になることがある」ってつぶやいたりした。 すわ、クラスでいじめ?とか一瞬どきどきしたけど、よく話をきくとそうでもなかった。 ただ、夫がそれをきっかけに、心配して。 「運動にも団体行動にもそれほど興味がないあの子は、ともすると孤立しないだろうか。いつも遊んでいる仲良しの子には毎年誕生会に呼んでもらっているのに、うちで呼ばないのはまずいだろう」って言い出して。 そんなことで付き合いやめられてしまうような友達なんてむしろいらないんじゃない?実は私はメンドクサイのよ。っとも思ったけど、ここは現実問題として考えてみた。 息子に「今年は誕生会に友達呼んでみる?」って聞いたら、彼はぱっと顔を明るくしたんだよね。 なんだそうか、今までごめんね。考えてみたらもう、親よりも友達が大事な歳であるべきなんだよね。 私が子供にぜひとも望むもの、それは「親よりも友達が大事」ってためらいなく思える生活だから。
で、さあて。お昼に何を出そうか。そしてそもそも誕生会とは何をして遊ぶのか?あれこれ悩んでしまいました。 結局メインはホットプレートでお好み焼き。あとは手でつまめる細巻き寿司(実は冷凍食品を解凍するだけのがある)と、枝豆、鶏つくね、卵焼きとか。ほとんど手間もかけず、テーブルセッティングでお祝いっぽくした。 お好み焼きは思いのほか、よかった。やれいまひっくり返し時だの、マヨラーだからもっとかけてとか、会話の間がもつのだ。 本日は雨の中遠路はるばるお集まりいただき誠にありがとうございます、とかしこまって乾杯の音頭をとったら、男の子達も鈴をころがすような声で笑うんだねえ。「はるばるじゃねえよー、すぐそこじゃーん」 ちょっとしたことですぐうけて笑いあうのが可愛い子たちだ。 とくにこっちがゲームをお膳立てしなくても、子供達はすぐなんとかかんとか自分たちで楽しく遊んでいた。 ケーキもスポンジ台は冷凍食品で買っておいて、そこにテキトウにコーヒークリームやらクッキーやらで飾ったらそれらしく。 お誕生日会って案外、ちょろいかも。無事に終わってああ良かった。 息子も私以上に、友達が楽しめるか気を使ったようで、まあホスト役も良い経験でしょう。
パパと娘は二人で科学館にデートに行っていたので、家族でケーキを食べたのは夕食のあとだった。
昔、どこかで読んだ何かの本には、人がどうしてこの世にくるのかとか書いてあって。それ曰く、 前世でやりのこした宿題をたくさんやりにくる。少しでも誰かのために生きて経験値を上げる。 そのレベルアップに一番効果的な試練を受講できる環境を自分で選んで生まれる。 だから実は子供のほうが、宿るべき親のお腹を選んで来てくれる・・・。んだって。 じゃあ虐待されて死んでしまう子はそんな親をわざわざ選んだって言うのか?って思えば怪しい説だ。 けど一つの考え方として、そんなふうに考えてみたい時も確かにある。 うちの子は、こんな私たちを選んで来てくれたのか?となると、ごめんね?こんなアバウトな親を選んでありがとう。というか身が引き締まる思いが致します。
(バザーが終わってもなんだか忙しい。PTAでもちょっとした懸案事項があるし、幼稚園でママ達がお料理したり、来週は息子が友達呼んで誕生会を開きたい(らしい)ことから、メニューやらプログラムやらどうしよう。そして来春の謝恩会の出し物の準備が早くも始まろうとしている。)
学校時代は。(これまた遠い過去の話だけど) 同じ地域とか同じ歳とか、受験後は同じ偏差値とか、同じ学部とか、でまとめられた人々と一緒にいた。 そしてなんとなく出身校や在籍校がついてまわる。就職してもそうだった。
しかし主婦ともなると、そういうくくりは意味がなく、歳も地域もガッコも職歴もかなりばらけて、いろんな人と出会える。 親になると「何歳の女の子と何年生の男の子のママ」、で見られることが多い。 ここでほんとに問題になるのは人付き合いの姿勢、それだけ。子供にも、大人にも、どう接しているのか、評価の基準はそこ。 夫へのいろんな交渉の仕方、実家や婚家との付き合い方、辛口な忠告の腹への納め方、部屋の片付け方、お隣さんへのおすそわけの仕方、 すぐ泣く子の本心の読み方、兄弟げんかの仲裁の仕方、長い待ち時間での子供達の遊ばせ方、やる気の出させ方、 親子お楽しみ会の余興の決め方、お誕生会のメニューのつくり方、上手なランチの企画の仕方、PTAの委員さんへの仕事のふり方、 そんなの教科書よんでも書いてない、そういうことがうまいか下手か、そんな情報をどうやってもらうかあげるか、それが問題。 ・・・そういうのがいい。
でもたまになんかの拍子に、出身校の話になることがある。すると落ち着かない気分。 通っていた学校が、ヘンサチが比較的高いところなので、たいてい「アタマいいのね」といってもらえる。 それが微妙に嬉しいのと、後ろめたいのとで、この程度のことを嬉しがった自分が恥ずかしく、どんな顔していいのか、わからない。
正直言って小学校から中学校までの成績はとても良かった。高校も、文系科目に限れば、良かった。 記憶力がそこそこ良かった。今はオオボケだけど。 たしかにその時の私は、「アタマよかった」(過去形)かもしれないのだ。 机上の、それも興味のある科目のベンキョウだけ、好きで得意で、そんな私を見て親族一堂は満足し、偉いねと言った。 そう言われている自分もそれでいいのかと錯覚して満足した。 でも人付き合いはヘタだし、人の気持ちにも鈍感だし、遊び方もわからないし、思いつくアイデアもなく、判断力もなく、指示待ちで、 世の中や人中に起こっていることのほとんどを何も知らない、知る努力もしなかったし、 心のヒダを深くするような何かをやる為の時間を、単語覚えに費やしたという、時間配分だけの問題で、 やりたいことや夢に向かってそのために努力して大学に入ったわけじゃなくて、 電車の切符を手に入れることが目的で、向こうについたら何がしたいのかわからないままで、 でもとりあえずこの速くて立派な乗り物に乗れば近道、間違いないだろうと思って、乗ってたけれど。 ほんとうの中身は薄っぺらで、大学ではろくに勉強もしないで、意味なくとった資格で履歴書だけが飾られ、 これでお見合いの条件は無事に揃ったと喜ばれ、そこに無批判に乗って安心することに甘んじてずっと生き永らえてた。 でも、もとが怠け者なので、叱る人が居ないととたんにアンテナも鈍ってラクに流れ、向上心もなくなっちゃう。 これのどこがアタマがいいとか賢いとか言えるのか・・・。
でもこの切符のお蔭で確かに生活できている。これを子供にも無事に授けたいというのはオヤゴコロのひとつだと思う。 そこ止まりで満足してはいけなかったし、いけないんだ。私が感じるような、後ろめたさを、子供には味わって欲しくない。 でも成績は良くなって欲しい、難しいところだな・・・。
幼稚園バザー。このどこにでもあるありふれた行事。 しかし、うちの園のこのバザーは、関わる者に独特の思い入れを喚起する行事だ。
どうしても大地震が来るとしても、せめて11月8日のこの日までは絶対に来て欲しくない、毎晩そんなことを願って寝ていた。 なんでここまでバザーバザーって言ってるのか、みんなも私も。
小さな園だから子供も親もすぐ親しくなって、盛り上がる。 全てママ達の渾身の手作り。売り物も、子供むけのアトラクションも。 遠い昔に置き忘れてきた学生時代のノリを、今呼び戻そうとするかのように。 面倒なことと、疲れることと、楽しいことと、アタマと身体を使い切ることが混ざりまくっている充実感。
この夏秋は、みんながそれぞれ普段秘めていた力を出しまくり、 この不器用な私でさえ、やったこともない手仕事にはまり、 「はじめての○○」とかいうテキストと首っぴきで、下手ながらよそにはない商品を量産した。 とにかく不器用だから、時間がかかるかかる。 それがいったい誰に買って貰えるかは別とすれば、 編物もビーズもリース作りも、私に未知の世界をみせてくれたバザー。 現役最後のバザーだから、悔いのないように楽しみたくて、やれることはやろうと思った。 学校役員の仕事など引き受けなかったら、もっと何かやれたかもしれない。 子供達はお互い預かったり預けたりしてみんなで協力するのが当たり前のような毎日、 でも子供をないがしろにはしないように、本末転倒にはならないように、と頭では気にしていたけれど大丈夫だったかな。 「明日はいよいよバザーだねっ。」と笑顔でしゃべる娘に安心させられたけど。
前日は母にびっちりお世話になって子供を預けて準備に加わった。 当日は売る・買う・食べる、自分の限界に挑戦するつもりで借金までして。 お腹にもかなりきている。もっと胃が大きければなあ。 手芸品の買い物総額推定約12000円。(これだけあれば10日は生きていける金額か) 飲食したもの・・・焼きそば、カレー、ホットドッグ、ケーキ、クレープ、麦茶、オレンジジュース、あったかい紅茶、カルピス。 ほかに食べきれなくて持ち帰った食品。 娘は夫が一手に引き受けて遊ばせてくれた。可愛いアクセサリーを作れて満足していた。 片づけして帰ったのは夕方。だけどまだ委員さん達は残ってた。 夜はメイクも落とせないまま気絶して寝てしまった。
いろんな人にお世話になったけど、特にバザー委員さんの今までの仕事ぶりには頭が下がる。 私なんかは結局、自分がやりたい・楽しみたいところだけつまみぐいして忙しがっていられるけれど、 委員さん達は、そんな我々をまとめつつ、細かいところまで具体化しなきゃならない、責任もあるし、気が抜けない。 中でも委員長さんとなると、神様のような忙しさだ。 私は毎年のようにバザー委員さんに憧れてしまう傾向にあるんだけれど、今年の委員長さんには前から心惹かれてて 今回で決定打をうたれてしまい。 「華もオーラも無い」って自分でおっしゃる人だけれど、とんでもない。 ちゃんとものの仕組みを整理できる有能さを、ひけらかすこともなく、フェアに気配りできて、 あんなに忙しいのに風邪まで引いて、細いのに倒れそうで倒れず、優しいから、 バザーが終わって改めてわかった。私がここまでバザーに思い入れることができたのは、現役最後の年だからってだけじゃなかったんだ。 この委員長さんがいたから。そうなんだ。ああどうしよう。心はもうすっかり。
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