(仮)耽奇館主人の日記
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2005年08月17日(水) 携帯からの日記��

母方の親族、父方の親族が一気に勢ぞろいして、それぞれの新盆を行なった。
私も含めて、総勢四十七名。
「四十七?赤穂浪士だな」と久々のイエアゴー伯父。
「違うよ、透に子供が出来るから、四十八人だね」と私。
「ああ、女の子なんだってな」
「そうみたいだね。名前、オレが考えるんだとさ」
それにしても、疲れた。
送り火をやる頃には、もう、こっくりこっくりと、半ば夢の世界に飛びかけていた。
それで、ほとんど寝た状態で、八時から親族たちとカラオケに行ったのだが、レモンハイ一杯飲んでガックリ熟睡していて、急に目が冷たくなって、すっかり目が覚めてしまった。
目にゴミが入ったわけでもなく、悲しくなったわけでもないのだが、涙が溢れていたのだ。
その理由は。
はとこのささらの歌声に、その歌の内容に、母を鮮やかに思い出したからだった。
サカキもそうだが、母方の女性たちの声色は、伸びに特徴があり、母のそれとあまり変わらない。
つまり、ささらの歌声は、母そっくりだったのだ。
しかも、よりによって、母がカラオケで必ずセレクトしていた歌。
カルメン・マキの「時には母のない子のように」である。
これは歌詞が寺山修司で、寺山の世界が大好きだった母が特に溺愛していた歌だった。

時には母のない子のように
だまって 海をみつめていたい
時には母のない子のように
一人で 旅に出てみたい
だけど心はすぐかわる
母のない子になったなら
誰にも愛を 話せない

時には母のない子のように
長い手紙を 書いてみたい
時には母のない子のように
大きな声で 叫んでみたい
だけど心はすぐかわる
母のない子になったなら
誰にも愛を 話せない

透き通った涙を流すことで、私のなかの新盆は無事、終わった。
今日はここまで。


2005年08月16日(火) 携帯からの日記��

アニメ映画「チリンの鈴」を観た。
私が初めて観たのは、国府台の福祉施設から普通の小学校へ転入する前、シスター・アビゲイルが主催していた「いい映画を観る会」のイベントで、新宿だったかの映画館で、せむしの社長たちと一緒に観たのだった。
同時上映が、確か、シャム双生児のように両手をつなぎあってくっついた、ぜんまい仕掛けの親子ねずみの冒険の作品だった。
で、「チリンの鈴」。
以前、古い日記で触れたことがあるが、鈴をつけたチリンと呼ばれる子ヤギが、母親の仇を討つために、狼に挑む物語である。
しかし、当然、子ヤギのままでは無力だ。そこで、驚くべきことに、仇の狼がチリンを鍛え上げるのである。
そうして、立派な角を生やした大ヤギに成長したチリンは、見事、狼を倒して仇を討つ。
その後、生まれ育った牧場へ戻ろうとするが、牧場の仲間たちはチリンを見て震え上がるばかりである。
帰る場所がなくなったことを悟ったチリンは、悲しげな表情を浮かべて山奥へと消えていく。
子供心に、強烈に、心のどこかに棘が深く刺さった作品だった。
久しぶりに観て、はとこたちの前では、ポケットモンスターの映画以来、大粒の涙を流してしまった。
なぜ、狼はチリンを殺さなかったのか?
今度は、はとこたちが考える番である。
それにしても、こういう作品は、「マダカスカル」よりは、よっぽどためになる。
楽しさもいい加減にしないと、有害ですらある。
そういう意味で、やはり日本アニメは、エヴァンゲリオンもそうだったが、重くて、ウェットな部分があるゆえに、人肌の温かさに最も近い。
いよいよ家族の新盆だ。送り火をしつつ、心を込めてお経をフルで唱えてやろう。
今日はここまで。


2005年08月15日(月) 携帯からの日記��

弾は人を選ばないというけど、弾は幸い私を選ばなかった。
ていうか、ものものしい厳重警備の中、危険をおかしてまで、飛び込む鉄砲玉はいない。
狙撃の際のおとりなら使えるだろうが・・・。
私がヒットマンだとすれば、事務所に帰ったところを狙うだろう。
気が緩んだところこそ、狙い目だからだ。
でも、そのへんは、数々の修羅場をくぐりぬけている親分さんのことだから、私がどうこう言うまでもない。
とにかく、無事に終わってよかった。
「ありがとう、ほんとにありがとう、犬神さん。これで義理が果たせたよ」と親分さん。
「いやいや、どういたしまして」と私。
「そうだ、折り入ってお願いしたいことがあるんでさ、おりゃあ、日蓮宗なんだけれども、犬神さんとこに改宗出来ねえかな。はっきり言って、あんたに惚れたよ」
「そいつは、先祖代々の墓に背を向けてもいいくらいの惚れ方なんですかい?はっきり言って、今のあんたは、感激で気が動転してまさあね。もちっと頭冷やして、それでも考えが変わらねえんだったら、またいらっしゃい」
結局、防弾チョッキは着なかった。
だって、スッゲー暑いんだもん。それに、着たら着たで、落ち着いてお経が唱えられねえしな。
だから、ミスラ君に、背中にサンスクリット語で護身の呪文書いてもらった。
調子に乗って、耳なし芳一みたいに、全身にも書こうとしたけど、やめた。
夜は、風呂入ってサッパリした後、散歩がてらに従弟のケンタが入院している柳橋病院へ行った。
ケンタと二人で、分室、つまり「庵」建設の話をした。
将来の私の終の棲家になる家だ。
個人的には、緑と水の美しいところがいい。
夜は、ラーメンと餃子を食って、若武者のお茶を飲みながら、ケンタの嫁、はとこたち、サカキ、紅蜘蛛お嬢様のみんなで、DVDを鑑賞した。
ザック・スナイダー監督の「ドーン・オブ・ザ・デッド」である。
ジョージ・A・ロメロの伝説的ホラー、「ゾンビ」のリメイクだ。
それまでのゾンビはうごうごと足を引きずったりとスローだったのだが、この作品では、猛ダッシュしてくる。
最高にスリリングな映画だった。満足。
寝る前に、本堂と家屋をつなぐ渡り廊下と回廊を、ゾンビの真似して、はとこの二人を追い回してやった。
喜ぶ、喜ぶ。子供はこういうのに興奮するからね。
明日は、やなせたかしが原作のアニメ、「チリンの鈴」を観よう。
アンパンマンのような楽しい作品だと思って観ると、かなり腹にこたえるよ、これは。
重いんだ、とにかく。
終戦記念日だから、ちょうどいいかもしれない。
今日はここまで。


2005年08月14日(日) 携帯からの日記��

覚悟はしていたが、メチャメチャ疲れた。
ポリスメンが警備の打ち合わせに来ていて、その合間の世間話のついでに、「どうせなら、婦警さんも呼んできて」と言ったが、「ブスばっかりだよ」と返された。
サカキと紅蜘蛛お嬢様が来て、参拝客の皆さんに、線香や瓦煎餅を配ったり、お年寄りの代わりに水桶を持って運んだり、色々雑用をこなしてくれた。
今年の春に新しくお墓に入ったばかりの老紳士の愛人とかいう女性が、お骨を出せ、お骨はあたしのもんだとか騒いだので、居間で水羊羹を頬張っていた警部さんを手招きして、女性に背中を向けたまま、親指を背後に向かってぐいっと突き出した。
当然のことだが、いかなる理由があっても、家族以外はお骨を出すことは出来ない。
昔は、下の入り口に取っ手のついた石の蓋があったものだが、今は平べったいつるつるした大理石の蓋で、開け閉めは吸盤で吸い取ったり、ぴたっとはめ込んだりする。
朝の七時から夜の九時まで住職代理を務めたわけだが、へろへろになったカラダが嘘のように回復する魔法の食べ物を食べたので、明日も頑張れる。
ラーメンなのだが、ただのラーメンではない。
お寺の近くの、来集軒という店のラーメンは、シンプルイズベストという言葉そのもので、私が幼少時から慣れ親しんできたものだ。
今時のごてごてしたものより、ずっと変わらない味を、私は何よりも愛する。
ところで、防弾チョッキ、重苦しいし、暑苦しいのだが、何とか改良出来ないものだろうか。
鉄板を取って、メッシュにするとか。
まだ一日目。頑張ろう。
今日はここまで。


2005年08月13日(土) 携帯からの日記��

祖母が大事にしていた市松人形が行方不明。
ケースはあるのだが、中身がない。
実は、小学生だった私があまりにも怖がるので(夜中になると唇が動くとか何とか)、祖母が押入れの奥深くしまっておいたのだった。
それが、影も形も見えない。
正直、後頭部が痙攣するほど、ゾッとした。
ケースの扉が開いていたからだ。
早速、実家の合鍵を持っている親戚たちに、メールや電話をしまくった。
その結果、誰も知らないとのこと。市松人形があったことすら知らないのもいた。
それで、しばらくの間、実家は昼間だけ行くことにした。
こういう時に限って、市松人形の顔が頭から離れない。
今日はここまで。


2005年08月12日(金) 家族の新盆、ヤクザの新盆のこと。

いよいよお盆直前。
今年の夏は、私のばあちゃん、おふくろ、そして創価学会会員だった伯母とその夫と従弟の新盆である。
伯母の家族は一家そろって、死ぬ前と、死んだ後に、私が浄土真宗に改宗させたので、無事、先祖代々のお墓に入っている。
もう一人、新盆の人がいるけれども、こちらは先月に亡くなった、老ヤクザのHさんである。
当日記の「船の中の極道のこと」で触れた人だ。
葬儀は地味だったが、新盆は各方面からつきあいのあった親分たちが集まってくるので、ちょっとした壮観な眺めになる。
お経を読むのは、葬儀に続いて、私である。
住職の従弟、ケンタは、坐骨神経痛に加えて椎間板ヘルニアで入院中だが、ヤクザが怖いので、入院しててほんとによかったなどと喜んでいた。
副住職のミスラ君は、今回はお手伝いという感じ。
で。
親分たちのうちの一人が、抗争中とかで、タマを狙われてるとのこと。
それなら、お気持ちだけで結構、周囲に迷惑だから来るなと言ったのだが、生前のHさんとは兄弟分、迷惑は承知の上、そこを何とかよろしくお願いしますと頭を下げてきた。
しょうがないので、ミスラ君に新宿へ防弾チョッキを買いに行かせた。
巻き添えを食って死ぬなんて真っ平だからである。
お盆でも、ヤクザ同士の抗争というのは、ほんとうに手段を選ばないので、こっちもそれなりの準備はしなくちゃならない。
映画やマンガそこのけのエゲツない手段の数々をいつだったか、檀家の親分さんから聞いたことがあるが、一番笑えたのが、親分たちの宴会の席に、芸人に化けたヒットマンの二人組が、漫才をしながら、拳銃をぶっ放したというものだった。
あいにく、標的は仕留めそこなったらしいが。
お寺は普通、ヤクザでも抗争は避けるものだが、例外はある。
昭和五十年代に、どこだったかのお寺で、葬儀中に、襲撃があったのだ。
「でも、犬神さんは、三十八口径までなら六発食らっても死にゃしませんぜ、いいガタイしてんだから」と親分さん。
「あんたねぇ、そういう問題じゃねえでしょ。そもそも、標的(マト)にならねえってことが肝心要でしょうが。あんたたちのケンカにお寺を巻き込むなんざぁ、地獄にすら行けませんな」と私。
「地獄にも行けなかったら、一体どこへ行くんですかね?」
「畜生か虫けらに生まれ変わるってぇとこでしょうな」
そんなわけで、今年の新盆は、なかなかにぎやか、刺激に満ち満ちたものになりそうである。
ところで、こういう筋の方々から頂くお布施は、全額、老人ホームか福祉施設に寄付することにしている。
ヤクザのお金というものは、穢れたお金である。例え、合法で得たものであってもだ。
それで、寄付することできれいに使い切って、清らかなものに昇華させる。
一度、子分たちから、文句を言われたことがあるが、「てめえらの金がお年寄りや障害者のために生まれ変わってるんでえ、文句あるか!」と一喝してやった。
家族の泥、ヤクザの泥を、きれいな水で浸して、そこから蓮華を咲かせる。それをやってやらなくっちゃあ、坊主なんかいなくてもいい。

・・・・・・

お盆が来るたびに。
祖父が幼かった私に読んでくれた絵本を思い出す。
「蜘蛛の糸」だ。
読み終えた後、祖父はこう言った。
例え、人間に絶望しても、慈悲の心はついえることがないんだ・・・。
そう。
蜘蛛を助けてやる慈悲。
そして、地獄に蜘蛛の糸を垂らす慈悲。
それらは、小さなものも、大きなものも超越した「情」なのだ。
要は、気持ちである。
気持ちでどれだけ、相手につくしてやれるか。
私は絶望しきっても、決して渇くことはないだろう。
今日はここまで。


2005年08月11日(木) 女は猫のこと。

檀家さんのお孫さんから相談を受けた。
十九歳になる短大生のお嬢さんである。
ズバリ、いい男の条件とは何かといきなり聞いてきたので、そりゃあ、おまえさんの人柄によるよ、誰にとってもいい男なんていねえからなと、詳細を話すように促した。
話を聞くと、こうである。
お嬢さんは、いわゆる、恋多き女というやつで、彼氏が一度に何人もいるとか。
しかし、男運はあまりよろしくないようで、全員が携帯チェックしたり、とにかく束縛したがるので、心の底から相手に甘えられないとのこと。
私はニヤッと笑った。
何で笑うんですかと言ってきたので、「いや別に」と言って、「おまえさん、猫は好きかね?」と聞いてみた。
「えっ。ええ、大好きですよ、飼ってますから」とお嬢さん。
「そうかい。女はみんな猫なんだよな。おまえさんなんか、特にな。猫のように移り気で、気まぐれでいながら、その実、甘ったれでよ。いや、別に、猫であることを恥じるこたあねえんだ。生まれつきのものを恥じたってしょうがねえからな。女はそういうもんなんだから。で、いい男ってえのは、猫を可愛がることの出来る男だね。それも野外でな」
それで、お嬢さんははっとしたようだった。
野外で猫を可愛がることの出来る男。
部屋の中で、愛猫を一歩も外に出さないで飼う男と比べて、どちらが人間としてゆとりがあるか、分かったようだった。
相手を束縛せず、自由にふるまわせつつ、求められるがままに可愛がる。
そして、女としての、我儘、嘘、嫉妬などを受け止めつつ、許す。
「そんな、いい男、どこにいるんですか?」
「そいつは向こうからやってきやしねえよ、てめえで見つけねえと。つまり、いい出会いがあるまで、恋を重ねるこったね」
「いなかったら、どうすればいいんですか?」
「いないわけねえだろ、猫をいじめて喜んでる特殊な野郎より、可愛がる野郎の方が圧倒的に多いんだから。要は、おまえさんの眼力なんだよ。いい男か、そうでないか、見極める眼力。そいつは、猫の方がうまくやってるぜ」
ううーんと唸りつつ、お嬢さんは分かりましたと立ち上がった。
「ちょっと待ちなよ、面白いもん見してやるぜ。そこの障子開けてみな」
障子の向こうには、苔むしたブロック塀しかないのだが、私がチッチッと歯の間から舌を出すようにして、舌打ちしてみせると、ダーッと、どこかからか、子猫が二匹飛び込んできた。
障子の開いたところから、尻尾をぴんとおったてつつ、にゃーにゃー鳴きながら私のところへ擦り寄ってきた。
「わーっ、かわいい!」
「野良猫の子供なんだけどね、まだ縁側の下にいっぱいいるよ。で、オレはここに来るたんび、こうして遊んでやってるから、自然になついたわけさね。おまえさんも、心の底から、自然になつける相手を探しなよ、幸運を祈ってるぜ」

・・・・・・

猫とうまくつきあうには、女というものをよく知る必要がある。
また、
女とうまくつきあうには、猫というものをよく知る必要がある。
そして、猫というものは、ほんとうに束縛されることを嫌う。
私は常々思うのだが、なにゆえに、今時の若いのは相手をそんなに束縛したがるのだろうか?
お互いを所有しあって、何になる?
自信のなさのあらわれだろうな、やっぱり。
猫を見てみな、猫を。
自分がどうしたいのかをよく知ってるということに、絶大な自信を持ってるんだ。
自信があってこそ、自由に生きられるからね。
自分自身からも。
そういうこと。
携帯チェックなどという情けないことしないで、達観しろ!
今日はここまで。


2005年08月10日(水) 極道和尚、野坂昭如を語るのこと。

ここんとこ、野坂昭如、自伝、火垂るの墓でアクセスしてくる人がとてつもなく多い。
で、今東光が野坂昭如について書いていたのは一体何という本ですかというメールも来ているので、以下に、屋根裏をひっかきまわして発見したくだりを引用しよう。集英社の、「続・極道辻説法」という本で、今東光がプレイボーイの読者のために人生相談をやっていたものをまとめたものである。

○父と弟の面倒で勉強ができない
 僕は二十歳になる大学二年生。昨年の九月に母が他界し、その後、僕が家事をやり、十歳になる弟の面倒をみている。母の遺言では、弟を親戚に預けるつもりだったが、父が反対したのだ。僕は弟のためと新しい家庭を作るために父に再婚を勧め、父も同意して「一年以内に何とかする」と言ってくれた。しかし、いままでに二十余人ばかり見合いをしたが、全部父の方から断ってしまった。父は「犬や猫じゃあるまいし」とか「子供のために犠牲になってまでも再婚しない」と言っている。友人は「そんな家など出て、独立して働け」と言うけど、そんな無責任な行動をとる勇気もない。このような状態がずるずる続き、最近、僕は、将来に対する不安、勉強の遅れに対するあせり、いろいろな嫉妬などで感情的になり、理性的な行動がとれなくなり、弟に当たりちらすようになってきた。このふがいない八方塞がりの僕に知恵を貸してもらいたい。(浦和市上木崎 匿名希望)

 野坂昭如が十幾つという時、養子にもらわれていった。その時に、三つくらいの女の子をもらったんだ。そのうちで、将来、野坂のカカアにでもするつもりだったんだ。それが空襲で両親がやられた。目の前でおっかさんが焼け死ぬのを見ながら、その妹を担いで野坂は逃げた。それから六甲の麓の芦屋のあたりの断崖絶壁に掘ってある穴で暮した。闇市に行っちゃあ、食料を盗んできて食わしてたんだ。ところが、子供はミルクでも生のまま飲ましちゃあいけないのに、そんなことわからんから、何でもかんでも歯のないうちから食わせたから、胃腸をこわして死んじゃった。それを今でも野坂は、「おれが殺した、おれが殺した」という自責の念を持っているんだ。
 人間て、そういうもんでな。おめえは弟の面倒をみるのがいやさに、おやじを結婚させようとしたり、勉強の邪魔されるんで当たりちらしたりね。これは弱者のすることだぜ。当たりちらしたかったら、てめえのどたまなり、向こう脛なり蹴っ飛ばしゃあいいんだよ、自分で。弟を殴ったり蹴ったりなんぞ間違ってもするなよ、なあ。
 それで「家出しろ」なんて勧める野郎もバカな野郎で、そんなことしたら、弟はどうなるんだい?野坂が十何歳くらいで、その妹を養うために闇市をさまよって、そして養ったというその辛さとか、人間に対する愛情とか、誠実さとか、そういうことを少し考えてみろと言いたい。おやじに嫁を当てがってやったところで、今度はどんな女と再婚するかわからねえじゃねえか。二十何人目の女が、だ。鬼のような女かもしれん。その時に一番いじめられるのは、一番弱者の弟だよ。それを今度はてめえが朝昼晩守ってやらなけりゃいけねえんだ。それこそ、勉強どころの騒ぎじゃねえ。
 何とぼけてんだよ、こん畜生は!?何のために兄貴に生まれたんだ!?全くバカだ。てめえという男は腹立つよ、こういう無責任なことぬかす奴は。

・・・・・・

闇市をさまよった少年の野坂を想像してみるがいい、反戦だの、平和だののヌルいテーマが一片たりともその心に浮かんでいるだろうか?
すべて、人間そのものの情のなかに立ちかえっていくのだ。
情愛、
情念、
情欲・・・
野坂昭如は自分自身の「情」を徹底的に書き出すことで、自己責任を果たしたとも言えるだろう。
そして、今東光もまた。
さらに、今の弟子である瀬戸内寂聴も。
自分自身を徹底的に生き抜くことに比べたら、戦争の悲劇など屁でもないのだ。
ほんとうにそうなのである。
私も前へならえの国民、市民であるよりは、私自身の「情」をしっかりと見据えて生きたい。
今日はここまで。


2005年08月09日(火) 炎天下のダイイングメッセージ。

○暑い。暑すぎる。脳の血管が膨張。

○本業よりも副業が忙しい。お寺(お盆は稼ぎ時)、映画、バンドのプロモ。

○市川の実家にまたカラスが棲みつきやがった。

○おまけに、我が家の屋根裏にコウモリがひんぱんに飛来。

○それなのに、お寺はなぜ野良猫しかいないんだ。

○最近、ちゃんと食べてない。米の飯が食いたい。

○最近、新しい教え子のヴィイがかわいい。

○最近、メッセでウインクするのに凝ってる。

○ハンドメイド・フィッシュアイレンズを作ってみたけど、なかなかいい感じ。

○家庭菜園で毎日トマト食ってるけど、毎日盗むガキがいる(それも大きいのを)。まあ、いいか。

○副住職のミスラ君が作ってくれるインドの冷やしデザートが美味い。

○住職の従弟はまだ入院してやがる。たまんねえっつうの。

○きゅうり、うまく漬かってるかなぁ。

○熱帯魚飼いたいなぁ、アロワナかピラニア。

○花火大会、ちょっとしか見られなかったけど、紅蜘蛛お嬢様とサカキの浴衣の方が目に嬉しかったな。

○運転免許更新したけど、スキンヘッドで写っちまったよ。

○蛇食いたい。精力つけなきゃ。「蛇善」行こう。

○今度、仲間うちでスイカ大食い大会があるんだけど、私の記録は八街産の大玉を四個と半。

○ちなみに二位。一位は仲間のお母さんで、六個。六個だぜ、六個!

○お盆を何とか乗り切って、映画も頑張らなきゃ。

○腹減ったなあー。でも作る気力がねえ。こんな時は、水漬け。

そう、水漬け。これは、戦国時代から伝わる食べ方で、メシの上に、細く千切りにしたタクアンなどをのっけて、水をかけて食べるというもの。
シンプルもいいとこの、素朴な食べ方である。
でも、不思議と、腹が優しくふくれる。
梅干でも可。
猛暑に負けず、頑張るぞー。
今日はここまで。


2005年08月06日(土) 火垂るの墓に思うこと。

昨日、日テレでアニメ「火垂るの墓」を放送していた。
私もあれを見る度に、涙を流すのだが、多くの人のように、戦争の悲劇に押しつぶされる兄妹の悲哀に泣くのではない。
原作者の野坂昭如の、あの作品を書かざるを得なかった魂の奥底を想って、その業の深さに涙したのだ。
あの作品はほとんど、野坂昭如本人の自伝のようなもので、事実、彼は妹を亡くしている。
この幼い妹は、もともと血がつながっておらず、当時少年だった野坂昭如の妻にするために、親族があてがった子と、今東光が書いていた記憶がある。
で、空襲を逃げ惑って、焼け野原の中で、「火垂るの墓」そのままの生活をしていたのだが、野坂昭如は無知ゆえに、病気の妹に食べさせてはいけないものを食べさせてしまい、それがもとで妹を亡くしてしまった。
それで、作家になっても、今東光の前で、酒を浴びるように飲み、「俺が殺した、俺が殺した」とむせび泣いたという。
この罪の意識、潰れそうな胸の中身は、作家ならば、小説という形で昇華させなければならぬ。
そこに、戦争の悲劇などという、世間一般への訴えなぞ微塵もないのだ。
徹底的に個人的なもの。
野坂昭如の魂の奥底をいかに読み解くか。
ただ、それだけなのだ。
それを理解した上で、反戦とカテゴライズするのならいいが、アニメ作品の「火垂るの墓」だけで、野坂昭如そのものが平和の象徴と勘違いしているようでは、戦争そのものを語る資格はない。
今、そういう人が多すぎるので、私は鬼面毒笑するだけだ。

・・・・・・

今日は、広島の原爆記念日である。
もう六十年目とか。
エノラ・ゲイの乗組員たちは、原爆投下を今でも後悔していないと表明しているそうだが、私は率直に言って、今のアメリカは全世界の核ミサイルでもって、地球上から消滅させるのが、最も平和的な諸問題の解決方法だと思っている。
爆弾を落とされて、感情的にならないやつがどこにいる。
・・・・・・叫びなのだ。
私は、昔、母方の祈祷師が口寄せで、被爆者の亡魂を招いたのを見たことがあるが、その叫び声は、当然、反戦への訴えではなかった。
言葉にならぬ、絶叫そのものだった。

多分、野坂昭如は、自らの絶叫を「火垂るの墓」に込めたのだ。
そうして、読み解いていけば、本質的なところで、あなたはほんとうに涙するだろう。
今日はここまで。


2005年08月05日(金) 父よ、あなたは。

昨夜、新しい教え子のヴィイとのメールがきっかけで、オヤジとのケンカを思い出した。
ヴィイと同じ年頃、セブンティーンの私は、ラグビー、美術、ケンカ、エッチに忙しかったが、オヤジからすれば私はひとつのことに落ち着かない、ちゃらんぽらんなハンパ者でしかなかった。
入魂の油彩画を描き上げても、「入選したのか?してない?じゃダメだ。二束三文の値打ちもねえな」とくる。
当然、血沸き肉踊るアツイ十代の私は沸騰する。
「なんだと、クソオヤジ!テメーに絵の何が分かるんでぇ!」
こんな調子で、何かというと、怒鳴り合い、つかみ合い、殴り合いをしていた。
ある時、ヤクザからもらったという、梵字入りの金の指輪を中指にはめたまま、強烈な顔面パンチを食らわせ、大量の鼻血を噴出させたので、ブチ切れた私は木魚でオヤジの頭を思いっきり殴ってやった。
そのまま担架で病院に運ばれる騒ぎになったが、私も別の日、オヤジを狙って延髄斬りを放ったところ、背後の観音像に誤爆して、足の甲を強打してしまい、担架で運ばれるはめになった。
延髄斬りを食らった観音像は、首がもげてしまい、現在でもそのもげた痕がある。
とにかく、何をやっても認めてくれないので、当時の私はオヤジを激しく憎んでいた。
檀家の誰かが死んだら、その新仏さんと一緒に生きながら火葬しようと、半ば本気で計画したくらいである。
でも。
そんなオヤジが糖尿を患って入院した時、こっそり私を呼んで、おまえとケンカしてこそ、おまえのことをかわいいと思うんだ、口喧嘩でもいいから、ケンカしようと言ってきた時、私はほんとうに驚き呆れた。
オヤジはケンカすることで、私を愛していたのだ。
そういえば。
体格的に私より劣るくせに、躊躇のないパンチやキックを放ちつつ、私の殺意のこもった右ストレートを思いっきり受け止めていたことを思い返すと、何と、よどみのない、コミュニケーションであったことか。
弱いくせに、無理してまで、私とのやり合いを愉しんでいたのだ。
父親としての悦楽。
今になって思うと、少しだけ分かるような気がする。

・・・・・・

「男は弱くっても、強くなきゃいけねえんだ。それも、ただ強いだけじゃダメだぜ。何かがなきゃな。その何かはてめえで見つけな」

そう言って、とうとう最後まで私をガキ扱いしたオヤジ。
でも、あえて、そうすることで、オヤジは私を奮い立たせていたのだった。
そういう親子の愛し方もあったわけだ。
全く・・・
年頃の子供として、親はとにかく見返してやりたい相手なのだ。
それゆえに、反抗期というものが存在する。
それをオヤジはガチンコのケンカという形で、昇華させた。
今の若い父親たちは、甘やかしてばかりで反抗期の子供たちにすっかりなめまくられている感があるが、そんな子供はろくでなしに育つに決まってる。父親たちよ、子供の全力のパンチを身体で受け止められる「愛」があるか?
なければ、父親なんてやめてしまうがいい。
むしろ、そんなナヨッた父親のいない方が、ましな子供になる。
そういうこと。
今日はここまで。


2005年08月04日(木) コアな読者さんからのリクエスト��

2004年08月15日(日)
君にデレク・ジャーマンの詩を。
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小学校、中学校、高校、大学を問わず、同窓会に招かれる前に、私は必ず「誰か死んだのはいるかい?」と聞いていた。
二十代の頃は、私特有の毒舌として聞き流されていたが、三十も半ばに突入すると、本当に死んだ者が出てきたので、最初の同窓の死以来、毒舌はきっぱり封印してしまった。

昨日に生まれ、今日を生き、明日で死ぬ・・・

この言葉は、日記を書いていない間に、死んだ高校時代の友人の葬式で読み上げた弔辞の一部である。
親友というわけではなかったが、放課後、たまたま帰り道が一緒になると、決まって、遠回りして、大町自然公園の辺りをぶらぶらしていた仲だった。
当時は、まだ、動植物園がなくて、ほんとうに、鬱蒼とした森林の真っ只中だった。
シャツに緑色の染みが出来るくらい、二人して緑の中に横たわって、足元から腕まで這い登ってくる蟻をじっと眺めたり、風に揺れる百合の花を目玉の奥に吸い込んだりしていた。
「一人でじっとしているのも好きだが、二人でこうしているのも悪くないね」と当時の死んだ友人。
「一人より二人の方が怪しく見えねえだろ」と私。
お互い、ニヤリと笑い合う。
「犬神とそういう仲になるなら、サボテンがいっぱい並んだ温室の中で抱き合いたいね」
「サボテンが好きなのかい?」
「うん。あっちの方が緑が濃いからね」
「ふーん」

後に、二人でミニシアターにて、デレク・ジャーマンの「ガーデン」を観た時は、お互い、顔を見るのも気恥ずかしくて、帰り道はずっと顔をそむけたまま押し黙っていた。
理由は分かりすぎるくらい、分かっていた。
お互いの求めるものが、すべて、あの映画作品に込められていたからだ。
そして今。
生き残った私は、死せる君へ何も恥じることなく、愛を込めて詩を朗読しよう。


天はさらさらと崩れた
千の太陽より熱い炎が
ひばりの歌声をのみつくした
永劫の歴史はここに終わり
粉々に砕けてカオスの彼方へ帰っていった
だからもう始まりも終わりもないんだ
死亡記事も最期の審判も必要ない

発電所は時間通りに始業のチャイムを鳴らす
海辺に立ち並び ブンブンと音をたてて
フィッシュ・アンド・チップスを掲げている
日暮れに私は
川岸の向こうから流れてきた声を聴いた
「通行車はX線の手荷物検査にご協力下さい・・・」
「検査は三回行われます・・・」
なるほど静かな一日だ

私は核のお茶を入れ
入江に迫る嵐にそなえて塀を修理した
九時半にやっと
リッドの教会の向こうに日が落ちる
紫羅欄花が夜風に香る

十時、私はランタンを灯す
青灰色の塀の壁に
明るいピンク色の蛾がちらちら光る
私は本のページをぺらぺらめくり
小象のような咳をする

私は庭を歩く
死んだ友たちの手をとりながら
霜に被われた私の世代に
老いはあっという間に訪れ
冷たく冷たく冷たくなって 友たちは静かに死んだ

忘れられた人々は泣き叫んだのか?
あきらめのため息をつき
無知に小さな声で抗議しながら
冷たく冷たく冷たくなって 静かに死んだ

私はもう言葉もない
私の震える手では
この怒りを表せない
ただ悲しみだけがある
もう言葉はない
冷たく冷たく冷たくなって おまえも静かに死んだ

朝四時につながれた手
街の地下深く
おまえは眠っている
甘く芳しい詩をもう聴くこともない
冷たく冷たくなって 静かに死んだ

マシューはマークとファックし、マークはルークとルークはジョンと ジョンはいま私が横になっている
この寝台で寝た
どうかこの詩をうたいながら もう一度
私の指に触れておくれ
冷たく冷たく冷たくなって 私たちは静かに死ぬ

私の紫羅欄花 薔薇 青スミレ
朽ちた果てた美しき庭よ
来年、また咲きますように
冷たく冷たく冷たくなって 私は静かに死ぬ
おやすみ 少年たち
おやすみ ジョニー
おやすみ おやすみ

              デレク・ジャーマン「おやすみ、ジョニー」


死せる友よ、緑はだんだん少なくなっていく一方だが、私が生きている限り、私たちの緑は青々と輝いている。
今日はここまで。

2004年10月02日(土)
Pinch hitter diary by Mai Futakuchi
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おはようございます。
初めて、代打日記を務めさせて頂きます、「二口さん」でおなじみ二口舞です。
舞は本名ですが、犬神さんはいつもマジで「二口さん」と呼びます。
妖怪の二口女みたく、食いしんぼだからというのですが。
なにそれー。
犬神さんに言われたくないわっっ!
後、娘さんのサカキちゃんには絶対負けてます。
私は一日で三合炊いてますが、犬神さんは一日で一升炊くんですよ!
一升です、一升!
相撲部屋かっての!
だから、犬神さんちに来る女の子たちは、帰る時は体重が増えていると。
オソロシヤ〜。
でも、犬神さんも、サカキちゃんも、デブってるわけじゃないのね。
犬神さんはアメフト選手みたいにゴツイ身体つきしてるけど、そんなにブヨブヨはしてません。脂肪の下で腹筋が割れてます。
こないだ、ふざけてて布団の上からボディプレスをやられた時は、マジ死ぬかと。
サカキちゃんはなかなかナイスバディよ!
最近おっぱい膨らんでDカップになったんだって。うらやましー。
でも、せっかくのバディが常に体育会系のジャージの下ってのは頂けません。
そんなわけで、私が犬神さんちと親しくさせて頂いてるのは、犬神さんの作るごはんが素晴らしく美味しいだけでなく、いっぱい食べても太らない秘術を学ぶためでもあるのです。
まだ少ししか身につけてませんが、みなさんのためにちょっとだけ教えましょう。
スローフードなんですよ、奥さん!
犬神さんはご実家でもごはんを作られていますが、漬物や佃煮、酢の物、梅干などもよく作られていて、まんべんなく、バランスよく食べていらっしゃるんですよ。
それで、何で、犬神さんはよく風邪ひいちゃうんでしょうね。
謎だ・・・
さて、私から見た犬神さん。
犬神さんにぞっこんLOVEの紅蜘蛛お嬢様には悪いけど、私も大好きです。
でも結婚したいとは思いませんね。
それ以前に、犬神さんは結婚しない人ですし(子供は作るけど)。
いつまでも、先生と生徒の関係でいたい。
そんな感じです。
それからそれから〜
私が怖がりだからって、あの手この手で驚かすの、ほんっっとやめて下さいね!
こないだ、南こざと公園の脇を、アヒルたちを眺めながら歩いていたら、いきなり下からぴょーんと出てくるんだもん。
あの時の犬神さんの楽しそうな顔ったら。
ほんっっとムカつく〜。
それではこのへんで、そろそろ帰ります。
風邪治ったばかりなんだから、あまり無理しないで下さいね。
では、私も犬神さんの決め台詞を。
今日はここまで。

2004年10月04日(月)
輝く世界のこと。
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最近、ほんとうに、セックス・ボランティアがらみの匿名メールが多い。
どれも、内容は、私のボランティアに対する否定的な見解を改めよというものだ。
その中に、全身麻痺の身体障害者にだってセックスする権利がある、それを介助するのが私たちの仕事だみたいなのがあったが、私はもはや、あれやこれやと反論する気になれない。
権利があるとか喚く前に、全身麻痺の身体障害者でさえ、立派にセックスできる事実を、彼らは分かっているのだろうか。
セックスは何も、肉体の結合だけではないのだ。
というより、真のセックスは、想像力こそが全てなのだ。
従って、全く動けない障害者の方が・・・・・・
めくるめくセックスを行うことが出来るのである。
詩人ジャン・コクトーは、パーティーの出し物で、自らテーブルの上に横たわって、ペニスを露出し、手を触れずに、射精するという「芸」を披露したそうだが、これと同じことなのだ。
いかに、頭の中で世界を広げられるか・・・・・・
それは、動物的な本能に従ってセックスするという即物的な考え方より、はるかに人間らしい行為ではないだろうか。
従って、人間らしさを奪って、即物的なセックスを押し付けるというボランティアに、私は鬼面毒笑するのだ。

そんなもんより、俺はもっと気持ちいいことを知っている。

ほんとうに、そうなのだ。
セックスは義務じゃない、好きですることだ、だからほっといてくれ、俺の好きにさせてくれ。
実際、若いうちから、重度の小児麻痺で動けない人を知っているが、彼は彼の世界だけで何度も射精している。
そういう事実と直面する度に、私はロシアの幻想文学作家アレクサンドル・グリーンの「輝く世界」を思い出す。
自由に空を飛べる青年が国家権力に追い回されて破滅するという物語だ。
この自由に空を飛べるという主人公は、当然、障害者に当てはまる。
国家権力はボランティアという名の独善的な団体だ。

彼らにとって、私たちの想像力は、理解出来ないがゆえに、自分たちのものさしで押さえ込もうとする・・・・・・

それを尻目に、私たちは押さえ込まれても、死んでしまっても、自由に空を飛びまわるだろう。
魂は自由なのだ。
誰にもその自由を奪う権利はない。
従って、私は永遠にボランティアを否定するのだ。
人間の尊厳を守ると称して、実際は尊厳を侵すその行為を。
今日はここまで。

2004年10月12日(火)
犬神博士、カテキョ始める。
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今回、家庭教師を始めることになりました。
教える科目は英語、現代国語、古文、漢文、歴史・・・ま、文系一般です。
お寺の縁なんですけどね、亀戸の中学生のお嬢さんと、護国寺の高校生のお坊ちゃんのオツムの面倒をみることになったわけです。
会社の帰りに、早速、二人の家へそれぞれ挨拶に行きました。
お嬢さんの方は、英語を中心にスキルアップしたいとのこと。
それで、世界で一番難しい言葉は何だか知ってるかね、我が国の日本語なんだよ。英語の「I(アイ)」なんか、何通りもあるだろう、俺、私、あたし、わたくし、我輩、おいら・・・・・・英語なんて単純なんだ。覚えようと思えば、身につくもんさ、と言ってやりました。
ヒアリングは私の得意な分野ではありませんが、映画スターのトム・クルーズが好きということなので、彼の出演作のDVDをいっぱい貸して、日本語字幕なしで何回も繰り返して観ることをやらせようと考えています。
好きなものから入っていけば、上達は早いですからね。
で、お坊ちゃんの方。
私と同じお寺の一人息子で、仏教大学へ進学することが目標なんだそうですが、肝心の漢文とかが全然ダメ。
これではちゃんとした、生きたお経が読めるわけがない。
耳で覚えるお経は檀家だけのもので、生きたお経というのは、坊主本人がその意味を完璧に理解してこそなのです。
そのためには、当然、漢文をしっかり勉強しなくてはいけません。
そこで、私は最近ニュースで話題になった、西安にて発見された遣唐使の墓誌をあげて、日本人はなぁ、現国は言うまでもなく、古文、漢文ももちろん、読めて当たり前なんでぇ。遣唐使を見たって分かるだろうが。偉くなるために勉強するんじゃねーんだ、勉強するからこそ偉いんだぜ。それによ、勉強をすればするほど、遊びも面白くなるんだぜ。人生を楽しむためにも、それなりに努力しなくっちゃあ、と喝を入れてやりました。
漢文の勉強の仕方はですね、「滅形」につきるんですよ。メッケイ。漢字という文字がね、じーっと見つめているうちに、だんだん崩れていって、意味も何もなくなってしまうんです。それから、だんだん、文字が頭の中で再構築されていって、意味とともにしっかり脳に刻み込まれます。
要するに、文字を一度すっかりバラして、また組み立てるということですな。
プラモデルと同じことでね、見た目だけじゃ頭にそんなに残らないんですけど、ひとつひとつの部品から組み立てていくと、構造がすっかり分かるんです。
そんな感じで、私は英語以外は、祖父にみっちり仕込まれました。
まあ、ほんとは、そんなに頭がいいわけではないんですけど、誰もが私と同じように、興味と好奇心をキープし続けていれば、自然に身につきます。
それでですね、家庭教師の時給の相場はいくらかは知りませんけれど、私は二千円で雇われました。
三時間で六千円。
まぁ、学生さんみたくお金に不自由しているわけじゃないから、別にいいんですけどね・・・・・・。
それよりも、檀家を通じて、私に家庭教師を頼み込んできた現住職の従弟の弁。
「兄貴が直接手をとって教える子供たちが、兄貴の影響をモロに受けるのは確実だから、俺は反対したんだよな」
私の影響をモロに受ける生徒たち・・・・・・なかなか将来が楽しみじゃござんせんか。
ニヤリ。
今日はここまで。

2004年11月04日(木)
白蛇屋敷のこと。
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今回の新潟中越地震で、豪雪地帯特有の、高床式のぶっとい柱の家々はそんなに被害を受けなかったことをニュースで知った時、私は妙高の本家を真っ先に思い浮かべていた。
赤倉山を望む南地獄谷の脇の鬱蒼とした森の中に、大きな切り株のように建っているその家屋敷は、やはり、豪雪地帯特有の高床式の造りである。
中に入ると、まず、大黒柱のでかさ、太さに、圧倒される。
大黒柱だけでなく、どの柱も太い。
雪の重みに耐えるためだ。
寒い時は影も形もないが、暖かくなったり、暑くなったりすると、柱の上、梁の上を這いうねるものが目に入るようになる。
蛇である。
それも、白蛇なのだ。
白蛇が棲みついたのが先なのか、本家が白蛇を祭ったのが先なのかは分からないが、この屋敷では昔から白蛇と共同生活していた。
父は母と結婚する際、本家へ挨拶しに行って、そこで蒸し暑い夏の夜を過ごしたのだが、寝ている布団の上へ数匹の蛇がボタリボタリと落ちてきたのには閉口したと、母のいないところでこっそり話してくれた。
私自身も、何度も蛇の襲撃を受けたので、蛇を含めた爬虫類系は何とも思わなくなってしまった。
本家は、そんなわけで、「白蛇屋敷」と陰口を叩かれたり、蛇にかこつけて、根も葉もない噂が流されたりした。
私が耳にした噂はこんなものである。
「白蛇屋敷」の者たちは、蛇と同じように脱皮するのだと・・・
だから、精力旺盛で、いつまでも若々しいのだと。
そして、蛇のように執念深く、並外れた根性を持っているのだと。
確かに、母方の一族は、執念と根性が見事に融合した性質があるが、それは何もうちに限ったことではなく、豪雪地帯の人々特有の性質だと私は声を大にして言いたい。
蛇はともかく、柱の太い家屋敷はうちだけではないのだ。
私も、子供の頃から、本家で雪下ろしを手伝わされていたから、腕っ節も肝っ玉も大黒柱のように太くなってしまった。
親愛なる読者諸君、雪国の越冬がどんなものか想像してみるといい。
二メートル以上の積雪に被われた家屋敷の中で、じっと、まさしく冬眠のようにひたすら雪解けの春を待つのである。
今は昔ほどひどくはなくなったが、それでも、山の方はいまだに「冬季閉鎖」そのものなのだ。
冷え冷えとした家屋敷の中で、じっと引きこもる・・・
雪下ろしをして、暖を取っての繰り返し・・・
はっきり言って、都会者だと、とてもじゃないが精神に異常をきたすことは確実であろう。
昔の人が雪女に出会ったように、雪の中に何かを見て騒ぐことは請け合いである。
雪国の人間ですら幻覚を見るのだから、都会者はもはや社会復帰がのぞめないほどに壊れるだろう。
従って、母方の一族も含めた雪国の人間は、精神力の強さが全然違うのだ。
家屋敷と同じく、心も太い。
それでも、私の性格を通して、母方の一族に蛇性を認めるのなら、それは多分、雪国の人間がかつて蛇そのものだったのだと言ってしまおう。
這いうねるものが、次第に手足を生やして、鱗を落として、地を歩くものになったのである。
そう考えて、蛇のように執念深く生き延びることが出来れば、新潟中越地震からは必ずや完全に復興出来るはずである。

・・・・・・

見附の伯父は、家族とともに妙高の本家にしばらくやっかいになることになったが、私は伯父が家族とともに行動するのを嫌って、見附で頑張っていたほんとうの理由を知っている。
伯父は大の蛇嫌いなのだ。
ご愁傷様。
今日はここまで。


2005年08月03日(水) コアな読者さんからのリクエスト��

2004年05月25日(火)
引導を渡す。
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ごくたまにだが、いよいよ往生するなというところで、まだ息のあるうちに、引導を渡してくれと、檀家から緊急連絡が入ることがある。
祖父の代では、四十二件、父の代では、十一件、そして従弟と私の代では今日に至るまで、六件を担当した。
檀家の人たちは、昔気質の人が多く、正式な住職の従弟ではなく、「新門さん」と呼ぶ私に引導を渡してもらいたがるので、私も役に立つならと、今までに四件を引き受けた。
そのうち三人は、老人だったが、みんな私の顔をじっくり眺めて、祖父にそっくりだ、祖父にそっくりだと笑って頷いて、私の引導の言葉にじっくり耳を傾けつつ、静かに息を引き取った。
一人は、まだ十二歳の少年だった。
この時は、ほんとうに胸が潰れそうだった。
いくら重い病とはいえ、こんな子供が何故死ななくてはならないのか。
神仏は一体何を考えているのか。
それで、私は、正式なお寺の引導ではなく、自己流でいくことにした。
どうせ、子供に難しい言葉を並べ立てても分かるわけがないから、親御さんたちの了承を得て、病院の病室にて、二人きりになった。
ベッドの上で静かに呼吸する少年。
私はそっと少年の左手を両手で握り締め、こすり合わせて温めた。

・・・君はもうすぐ、夢の世界へ行くよ。

少年の落ち窪んだ、潤んだ瞳が私をじっと見つめ、かさかさに乾いた唇をぶるぶると震わせた。
私は唇の動きをじっと見つめた。

・・・怖い。

私は少年の左手をグッと握り締めた。

・・・怖くない、怖くないんだ。夢を見るだけだからね。そうだ、海へ行ったことは?ある?よし、じゃあ、海へ行った時のことを思い出すんだ。ゆっくり・・・ゆっくり・・・

私も私自身の初めての海を思い出した。
真っ青な海を柔らかく包む白く光り輝く空。

・・・青い海。白い空。砂浜に立って、君は自分の足が波に洗われるのを思い出しているね?波が引く度に、足の裏を流れる砂が気持ちよかっただろう?

少年の左手が私の手を握り返してきた。

・・・気持ちいい・・・気持ちいい・・・これから見る夢は、同じように気持ちいいものなんだ・・・

私は後ろ手で、ドアのところに立っている親御さんたちに合図すると、静かに入ってくるように手招きした。

・・・静かに、ゆっくりと・・・海の中に入って・・・君の身体は、ゆっくり・・・ゆっくり・・・泳いでいく・・・

そこで、少年が口の奥から、ほーっと深い息を吐くと、瞳の中から光が急激に消えていった。
私はゆっくり両手を離し、そのまま合掌して、正式な引導の言葉を唱えた。
主治医が私に向かって静かに頭を下げ、少年の右手を取り、脈をあらため、次に胸に聴診器を当て、静かに瞼を上げて瞳孔をあらためた。
「ご臨終です」
しばらくの沈黙。
何かが破裂したように、わっと響く嗚咽。
私は静かに立ち上がり、親御さんたちに、深く頭を下げ、ゆっくりと病室を出た。
ドアの外では、少年の祖父にあたる、顔なじみの檀家が立っていた。
私の肩に手を置き、低くしゃがれた声で「ありがとう・・・ほんとうにありがとう」と言った。
私は「いいえ」と呟き、そのまま寺に帰り、少年のためにお経を唱えた。

私なりに。
引導を渡す際に。
死に行く者をいかにして静かな心境にさせるかに、最大限の努力をはらうべきだと思っている。
死にたくないとか、死んだら地獄に落ちるとか、色々な想像をして無闇に騒いでしまっては、死んでも死に切れない状態になって、いわゆる、「魂魄この世にとどまりて」という状態になるのだ。
だから、気持ちよく、静かに死なせる。
宗教色よりも、心の状態を重要視するのが私のやり方だったわけだが、従弟は子供相手でも、きっちりお経を聞かせて、その意味合いを説くべきだとぬかした。
そんな四角四面ぶりでは、これから先、檀家の引導の依頼は、私のみに集中するだろう。
私はほんとうは、従弟にもう少し柔らかくなってほしい。
そのために、最近、チベットの「死者の書」を読むようにすすめた。
その本の最大のうたい文句は以下の通りである。

死を学ばんとすることで、汝は生を学べり。

今日はここまで。

2004年06月02日(水)
あめふりこぞうに学んだもの。
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昨日に続いて、会社にて。
私は、ストーリーテリングよりも、映像自体の効果に重点を置く方だ。
それが、夢のシーンを象徴的に使うとかにあらわれてくるのだろう。
小学校の頃は、初めて覚えた写真技術で、父のカメラ、マミヤ製の一眼レフを使って、心霊写真の偽造ばかり撮っていた。
最初の頃は、まだ偽ものと見破られていたが、だんだん精巧なものを撮れるようになったので、いつもクラスメートの女の子や、若い女の先生を怖がらせては喜んでいた。
私の、やりすぎるという性格、凝り性という性格、そして怖がらせて喜ぶというヤな性格は、この頃に培ったものだ。
だが、小学校を卒業する頃になると、さすがに、怖がらせるためだけに写真を撮るという行為もどうかと思うようになって、美術と平行して、真剣に写真、映像を勉強するようになった。
同じく、父のフィルムカメラ、ボリューの8ミリフィルムカメラを使って、お寺の葬式風景とか、三社祭の神輿とか、色々撮影して、基礎を学んだ上で、特殊撮影の分野に挑むことになった。
私は、子供の頃、佐藤さとるの本が大好きだった。
児童文学のファンタジーの御大としての佐藤さとる。
中でも、「あめふりこぞう」は、私に大きな影響を与えた・・・主人公がかたつむりの貝殻の中に入って、様々なものを見るというくだりがあるのだが、あれはほんとうに体験してみたくてしょうがなかった。
それで、カメラを持ったまま、洞窟に入ってみたりなんかして、「あめふりこぞう」の世界を再現しようと試みたりしたのだが、高校生になって、ビデオカメラと出会ってからは、劇的に進歩した。
まず、いちいち現像しなくても、モニターで気軽に再生出来るというのが、一番大きかった。
ビデオカメラを使って、ほんとうに色々撮ったものだ。
サム・ライミ監督の「死霊のはらわた」のオープニングの真似をして、長方形の板の中心にカメラを固定して、板の両端を両手で持って、そのままダーッと駆けていくのを何度も繰り返した。
林の中。朝方の国道の真ん中。路地裏の中。そしてトンネルの中。
小型CCDカメラが登場すると、私は切り落とされた生首からの視点を表現しようと、友人たちの協力を得ながら、マネキンの首にカメラを仕込んで、首を丘の上でゴロゴロ転がしながら、ライヴでモニターの画面をそのまま録画するということをやった。そして、またもや、マネキンの首をラジコンカーの上に固定して、トンネルの中へと走らせてみた。
トンネル・・・穴の中へと突き進む際の映像。
「あめふりこぞう」の世界の快感を再現するために、私は今日まで色々なことをやってきたと言っても過言ではない。
胃カメラを借りて、ドールハウスなどのミニチュア、箱庭などを舐めるように、突っ込むように、撮ってみた時は、一番再現出来たと思ったのだが、照明の問題をクリアすれば、より満足のいく映像が撮れるはずなので、まだまだ試行錯誤を繰り返さなければならない。
アダルトビデオの方では、試験管の中に小型CCDカメラを入れて、女優の膣の中、肛門の中に突っ込んで、なにやらウネウネした生々しいピンク色の映像を展開させるというものがあるが、あれも面白いやり方だとは思うけれど、劣情を催すというよりは、グロいものを見せつけられたような感じで、失笑してしまう。
かたつむりの貝殻の中・・・うねる迷宮・・・空間ごとに変わりゆく世界・・・見たこともない映像を撮ることを追い求めて、私は今日もトンネルに向かって走る。
今日はここまで。

2004年07月07日(水)
七夕の匂いのこと。
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私が難聴を克服するために、会話訓練、音感習得の日々をスタートしたのは、三歳の頃で、場所は当日記で度々触れている、国府台の福祉施設だった。
その中の幼稚部にて、これまた当日記に度々登場する、せむしの社長、ヘレンと同じ学級になった。
幼稚部には、遊戯室という、バレエスタジオのようなだだっ広い部屋があって、そこで音感習得の一環としての、歌、ダンスなどをみんなで学んだものだが、同時に、憩いの場として、毎月、その月生まれの子供たちを主役に、お誕生会を開いていた。
七月生まれは、私の他には、一人しかいなかった。
ヘレンである。
男の子一人、女の子一人なので、ちょうどいいということで、私が彦星、ヘレンが織姫の役で、それなりの格好もさせられた。
遊戯室いっぱいに飾られた若い竹に、みんなで、それぞれ願い事を書いた短冊を吊るし、オープンリールカセットデッキで七夕の童謡をフルボリュームで流し、テーブルの上座に、私とヘレンを座らせ、先生たちやクラスメートたちは、額に画用紙を切り抜いて作ったお星様をつけて、手拍子でお誕生日おめでとうを繰り返していた。
私はその様子を映像として思い出すことが出来るが、ヘレンは嗅覚と触覚のみでしか思い出すことが出来ない。
三重苦なのだ。
聾唖に加えて、盲目なのである。
ヘレンは、有名なヘレン・ケラーからの呼び名であって、当然、彼女の本名ではない。
当時、幼稚部主任だったシスター・アビゲイルは、私とヘレンのカップリングがたいそうお気に入りで、何かというと、私たちをくっつけていたので、自然に私たちはお互いを強く意識するようになった。
幼児同士の異性愛は、色々な意味で、大人のそれを遥かに凌駕する。
思えば、私の嗅覚が敏感なのは、ヘレンとのコミュニケーションをはかる必要上、自分の意志で進化させた結果なのだ。
私はヘレンの見えないものを見ようとし、ヘレンは私の見えるものを見ようとした。
それで、私たちは、七夕の匂いを共有するようになった。
笹の葉の匂いから始まって、天の川の匂いに終わるというものだ。
笹の葉はともかく、天の川の匂いなんて、読者諸兄には想像出来るだろうか?
出来なくても、私たちの間には、天の川の匂いというものが存在したのである。
闇の中で嗅ぐ天の川の匂い。
夜空の中の輝きを肺一杯吸い込んで、瞼をギュッと瞑ると、瞼の裏側にチカチカした火花が現れて、だんだん緑がかった星雲になり、鼻腔にふわりと突き抜けるようなミントのような匂いが広がる。
ヘレンもそんな感覚だと指文字で言っていた。
ある日、私はヘレンの手のひらに指文字でこう書いたことがある。

天の川の匂いが分かるなんて、世界広しといえど、俺たちだけだろう。ほんとうに、俺たちは天の川から来たのかも知れないぜ・・・

その時、ヘレンは、私の指を握り締めながら、私の顔をなぞるように撫で、鼻の頭をしゃぶるようにキスをしてきた。
現在。
私は七夕の匂いというと、笹の葉止まりで、天の川の匂いを嗅げなくなって久しい。
せむしの社長の話だと、現在でも、ヘレンは天の川の匂いを嗅げるらしい。
私は、また、天の川の匂いを嗅ぐことが出来るだろうか?
ヘレン。
七夕生まれだから、今日、お誕生日おめでとうを言わせてもらうよ。
変わらぬ気持ちを込めて。
今日はここまで。

2004年07月11日(日)
お馬さんごっこのこと。
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本日は私の誕生日ということで、色々な方々からお祝いの言葉を頂きました。
ありがとうございます。
常々、私は百三十まで生きると言われてるので、ようやく、一皮剥けたというところでしょうか。
ともかく、一日も早く、立派な妖怪になるよう、精進いたします。

今日は、久しぶりに、紅蜘蛛お嬢様と二人きりで水入らずの時間を過ごしました。
浴衣姿のお嬢様と一緒に浅草を歩き回り、かき氷、ところてんを食べ、顔なじみの旅館でたっぷり休憩してきました。
そこは、いわゆる、連れ込み旅館というやつで、大正時代に建てられたままの雰囲気が個人的に大変気に入っております。
「元々は遊郭だったんだよ」と私。
「ええー、すごい、ここに花魁がいたんですかー」とお嬢様。
「うん、爺さんの妾がここで働いていてね、その縁で、我が家と親しくさせてもらってるんだ」
入り口は狭い格子戸ですが、中はだだっ広く、長い、黒光りした廊下がぐるりと回っており、障子で区切られた部屋を通り抜けると、奥に、洋風の立派な階段が曲がりくねって二階に伸びており、そこから先は黒光りを隠すように赤い絨毯が敷かれています。
私たちは、二階の、「亀の間」に案内されて、そこでまったりしたのですが、お嬢様に私の背中に乗ってもらって、腰を揉んでもらっているうちに、誰もいない二階中の廊下を、お馬さんごっこで闊歩しようということになり、お嬢様を背中に乗せたまま、四つん這いでえっちらおっちらと歩き始めました。
背中ごしに、お嬢様の大きく開いた股の感触を味わいつつ、背中から垂れる、すらりと伸びた白い両足を目の端でとらえつつ、私はニヤニヤ笑いながら、赤い絨毯の上をハイハイしました。
お嬢様は、私の襟首を手綱代わりにしっかりと握り締めながら、子供のようにキャッキャッと笑って、ほんとうに楽しそうでした。
そうして、「亀の間」に戻って、布団の上にうつ伏せになると、お嬢様も私の背中の上にうつ伏せになり、しばらくそうしていました。
「お馬さんごっこは」と私は言いました。「最大の愛情表現のひとつなんだ」
「そうなんですか?てっきり、谷崎潤一郎の『痴人の愛』の真似かと思いました・・・」
「あれはあれ。俺のは俺さ」
私は大きくニヤリと笑いました。
お馬さんごっこというのは。
男女関係に限らず、ある年齢を過ぎてしまうと、屈辱的な形を愉しむ点でSMっぽさが漂うものですが、私は、単に、ある年齢以前に還り、幼児期の心のままに遊んでいるだけなのです。
つまり。
お互い、幼児性をさらけ出せるくらいの仲としての、遊びなわけです。

その後、私たちは、ざる蕎麦を食べて帰りました。
今日はここまで。


2005年08月02日(火) コアな読者さんからのリクエスト��

2004年02月18日(水)
霊感を得る方法のこと。
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どうも最近、私のことを「オカルトおたく」と勘違いしている人がいるらしく、本気たっぷりにオカルト問答を仕掛けてくるのには、正直、閉口してしまう。
彼らは、オカルトかぶれの、おたく止どまりであって、知識を蓄えるだけで、その蓄えそのものに悦に入ることを至上の喜びとする。
それでは、先へ一歩たりとも進めない。
知識をどんどん蓄えるのは構わないのだが、先へ進むためには、知識をすべて捨て去ることも必要なのだ。
確かに、私は、オカルトに詳しい。詳しいけれども、知識を蓄えているうちに、知識のコレクションの無意味さに気づいて、中学時代に買い集めていた、魔術、占星術、宗教関係の本をすべて古本屋に売り払ってしまった。確か、当時で、六万と二千円になった。
そのお金は、当時、JR市川駅の南口にあった裏ビデオ屋にて、トレイシー・ローズやハイアパーシャ・リー、菊地エリなどのビデオのお代に消えた。
はっきり言って、複雑な構図、仰々しい呪文などを知っているだけでは、世界は何も変わらないのだ。
そういう意味で、オカルトはいかがわしい。
しかし、心霊の奥義においては、「汝自身を知れ」という金言がある。
知識うんぬんよりも、自分自身を知る方が、世界を変える道への鍵になるのだ。
自分自身を知るということは、いかに、自分自身を捨て去ることが出来るかということである。
自分自身のすべての、感覚、感情、感触にとらわれているうちは、ただ、知っているという知識のみで、そこから一歩先へ進めないのだ。だから、脱皮するように、すべてを脱ぎ去ってしまわなければならない。
一歩進んで、一歩引いたところで、かつての抜け殻の自分自身を眺めることで、ほんとうに「知る」ことが出来るだろう。
私に、メールで、「どうやったら、霊感を得られるんですか?」と聞いてくる人のために、私は、それが例え、からかいのつもりの悪意によるものであっても、こう答える。

世界を生まれて初めて、眺め渡すような、幼児期の痙攣的な感覚を思い出すことが出来れば、誰でも霊感を得られるだろう。

そのために、何度でも生まれ変わらなければならないのだ。
今日はここまで。

2004年03月07日(日)
正座が出来る女のこと。
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私は人に自慢出来るほど、色々な女を知っているわけではないけれど、どんな女が味がいいのかは知っている。
女としての最高のブランド、新潟女に取り囲まれて、育ち、今日に至るまで生きているので、ロマネコンティ以外のワインを蔑視するような偏見があるかもしれないが、そのへんはご勘弁を。
まず、私は決して、面食いではないことを強調しておきたい。
過去、最高齢で、52歳のご婦人と寝たことがあるし、また、百キロ代の女子プロレスラーともまぐわったこともある。いわゆる、障害者の女の子とも最高のセックスを展開させたこともある。
だからといって、別にマニアックな趣味というわけではない。セックスは縁のひとつと考えているから、一般に美女と称されるものも、そうでないものも、相手にしてきたというだけのことである。
で、厳密な意味で、セックスにおいて最高だったのは、古来より伝説として伝わるカズノコ天井だとか、三段きんちゃくだとかいう名器の持ち主ではなくて、日常的に正座をしている女だった。
学生時代に、一週間を五百円で過ごすような、赤貧生活を強いられた時期があって、その間、浅草のお寺の縁で、柳橋の芸者さん親娘の娘さんの方に世話になっていたことがある。つまり、ヒモをやっていたのだ。
日々、和服をビシッと着こなし、三味線の稽古に励む娘さんで、私より二つ年上だったので、「姉さん」、「(私の本名の頭文字)ちゃん」と呼び合って、ほんとうの姉弟のように暮らしたものだ。
私は学生の本分としての学業に打ち込みつつ、部屋を掃除したり、お風呂を沸かしたり、料理を作ったりと主夫の仕事もこなし、夜のお務めもしっかり果たした。我ながら、気持ち悪いくらい真面目なヒモだったわけだが、その分、しっかり女というものを研究させて頂いた。
毎日のように正座をしている女性というものは、いちいち説明するのも野暮なので、あえて詳しく説明しないが、とにかくアソコの締まりがとてつもなくキツイ。
悲鳴をあげつつ、溜め息をつくくらいである。
いちいち仰々しい名器を伝説として伝えなくても、リアル名器は日常的なところに存在するのだ。
だから、酒の席で、みんなから「いいオンナ」、「最高のセックスパートナー」について意見を求められた時、私は決まって、「正座が出来る女に限るよ」と述べることにしている。
もし、正座が出来るに加えて、性格もよければ、今頃、私はその娘さんと所帯を持っていただろうが、女性相手に色々求めるのは贅沢というものだ。
とりあえず、今回は、アソコで女の善し悪しを判断する、けものくさい殿方のために、私の意見のひとつを述べさせて頂きました。
明日は、心、つまり中身について述べようと思います。
今日はここまで。

2004年04月13日(火)
カルメさんのこと。
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市川の家の家事を分担でやっている、妾の娘婿の弟さんから、相談に乗ってほしいというので、話を聞いてあげた。
「うちの娘がね、陰陽師になりたいって騒ぐんだけど、あれって今でもなれるもんなの?」と弟さん。
私は先日、十二指腸潰瘍と診断されたばかりなので、弟さんがお土産に持ってきた大吟醸の「天狗舞」を、物憂げなまなざしで眺めやりつつ、「映画に影響を受けたからって、そんなもん、いちいち真に受けなさんな。今でもなれるもんではあるけど、野村萬齋さんや中井貴一さんみたいにはいかねえよ」と言ってやった。
「でも、あんたはそういうのに詳しいどころか、祈祷師のお仲間じゃない。娘のお熱ぶりの原因はあんたにもあるんだよ、あんたと親戚だと言うんで、自分もそういうものになれると思い込んでいるんだ」
「バカじゃねえのか。血のつながりがあっても、なれるもんじゃねえ。第一、おまえんとことは、血のつながりがねえじゃねえか。見込み、なおさらねえよ。第一、本物の陰陽師、祈祷師ってのはな、胡散臭さが本業なんだよ。山師、詐欺師、嘘つきと何ら変わりねえんだ。いいのか、かわいい娘がそんな人間になっちまっても」
それでも、弟さんはしつこく食い下がったので、私は行徳の知り合いに電話をかけて、後日、弟さんとその娘が会えるように取り計らった。
「誰なの?」
「カルメさんの縁者だよ」
「はっ?」
「ああ、悪い、知らないか。要するに拝み屋さんだ。陰陽師、祈祷師の民間向けみたいなもんさ。昔、カルメさんという行者がいてな、うちの祖父と親しくしていたんだ。普段は露店でカルメ焼きを作ってるんだが、何か憑き物を落としてくれと頼まれると、九字を切って、呪文を唱えて落としてやってたそうだよ」
「そりゃすごい。いい、いいじゃない。会えるんだ、そんなすごい人に」
「いや、カルメさん本人はもういないよ、とっくの昔に鬼籍に入ってる。会えるのは、カルメさんの縁者で、弟子みたいなもんだった人さ」
それでやっと、弟さんは帰っていった。
私が思うに、多分、弟さんは、娘に私のことを面白おかしく語っていたに違いない。映画の陰陽師みたいなことをマジにやってるとか何とか。それで引っ込みがつかなくなって、泣きついてきたというわけだ。
でもまあ、ナマの拝み屋の姿をしっかり見ることで、ありとあらゆる幻想が崩れ去ることは必至だ。
現実はもっと厳しく、真摯なのだ。
祖父が語るカルメさんの話は、まさしく真摯そのものだった。
本当の拝む力、要するに神通力、妖力、魔力のたぐいは、自分自身がいかにそう思い込めるかで身につくものだと言うのだ。
だから、他人を納得させるためには、人をしてそう思わせるための姿になりきらなければならない。
ハッタリなのだ、要するに。
で、ここがややこしいのだが、騙すつもりならハッタリになるが、騙すつもりはなく、お互い、幻想の世界に浸ってしまうことを目的とするなら、それはもはやハッタリではなくなるのである。
幻想が現実になってしまうのだ。
従って、古言に言うように、神を語ってはならぬという戒めがある。
語ってしまえば、神は神ではなくなる。
語りさえしなければ神は神そのものだ。
カルメさんはそういう人だったと、祖父は話してくれた。
人々はカルメさんの焼くカルメ焼きを食べながら、彼をカルメ焼きの甘さとともに愛した。
ハッタリはハッタリであれ、人々の心を治療したのは確かだったからだ。
本来、すべての宗教、宗教を説く人間そうあるべきだろう。
私利私欲に溺れてしまっては、幻想と現実の区別もつかなくなってしまい、人生は恐ろしくつまらないものになってしまうだろう。
真摯な現実主義者、自利利他の精神に生きるものだけが、幻想の素晴らしさを得られるのだ。
あまりにも現実的でしかない夢を見、他人にも見せてあげられるという至福を。
今日はここまで。

2004年05月21日(金)
泉谷しげるを聴きながら。
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こんな雨の日は、モデルガンを初めて買った日を思い出す。
私が中学二年の時の、梅雨入り前の、濡れた灰色の日だった。
アメ横で買った二千円のウインドブレーカーを羽織って、透明なビニール傘をさしつつ、貯め込んだお小遣いを握り締めて、目黒駅を降り、モデルガン・メーカーのコクサイへ向かった。
目指すモデルガンは、S&W44マグナム。革ホルスターつき。
クリント・イーストウッドの「ダーティー・ハリー」シリーズに憧れたわけではない。松田優作の「処刑遊戯」に感化されたのである。
それと、世界最強の破壊力を持つハンドガンという存在感を、レプリカでもいいから、自分のものにしたいという気持ちが強かったせいもある。
そのモデルガンは金属製で、金メッキが施されてあった。
ズッシリと重い。
自分の部屋で、全裸になり、革ホルスターを両肩から装着し、モデルガンを抜いたり、収めたりしながら、吸い始めたばかりのショートホープを口にくわえて火をつけた。
手首から何かが伝わってくるのを感じながら、私はレコードプレーヤーに泉谷しげるのアルバムをかけた。
流れてくるのは、「春夏秋冬」。

季節のない街に生まれ
風のない丘に育ち
夢のない家を出て
愛のない人にあう

人のためによかれと思い
西から東へかけずりまわる
やっとみつけたやさしさは
いともたやすく しなびた

春をながめる余裕もなく
夏をのりきる力もなく
秋の枯葉に身をつつみ
冬に骨身をさらけ出す

今日ですべてが終わるさ
今日ですべてが変わる
今日ですべてがむくわれる
今日ですべてが始まるさ

季節のない街に生まれ
風のない丘に育ち
夢のない家を出て
愛のない人にあう

となりを横目でのぞき
自分の道をたしかめる
またひとつずるくなった
とうぶん照れ笑いが続く

モデルガンを握り締めて、悦に入ってる自分自身。
我にかえり、私は大きく苦笑いし、煙草をコーラの空き缶の中に捨てた。

現在。
紅蜘蛛お嬢様と娘の榊と私の三人で、カラオケをやった時、榊が泉谷しげるの「春夏秋冬」をセレクトした時は、ほんとうに驚いた。
「おまえ、何でこんなの知ってるんだ?」と私。
すると、榊は大きくニヤリと笑って、「ヒミツ・・・」と言った。
榊の歌う泉谷しげる。甲高い少女特有の声で歌う泉谷しげるは、モデルガンを初めて手にした時の、手首に伝わる何かと同じ感触がした。
今日はここまで。


2005年08月01日(月) コアな読者さんからのリクエスト��

2004年01月17日(土)
センチネルのこと。
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夜中、せむしの社長と電話で話し込んでいて、真間のマンションでまた人が死んだことを知らされた。
そのマンションは、昭和四十年代に建てられたもので、私たちがすぐ向かいの上にある国府台の施設に滞在していた当時は、すでに幽霊マンションとして悪名が高かった。
あまり詳しいことは知らないが、その部屋がある階に誰かが越してくると、決まって、二、三年の内に早死にしてしまうのだ。
その部屋のことを、地元では、「見張り部屋」と呼んでいる。何でも、新築当時は、マンションのオーナーが世話になっていたという宗教家が住んでいたのだそうで、終夜明かりをつけっぱなしで、ベランダから宗教家が決まった方角に向かって拝む姿が毎晩見えることで有名だったとか。
「何を見張っていたのかな?」と私。
「決まってるだろ、俺たちだよ。国府台そのものを見張っていたんだ。俺たちのようなものが身を寄せるような土地は穢れていると考えていたのさ」と社長。
「だが、穢れていたのは、実は本人だったというオチだったんだよな」
明らかにされていないが、何か人の道から外れたことをしでかして、警察に逮捕される前に、部屋のベランダから飛び降りてしまったという。
それ以来、その部屋は封印されたのだが、同じ階に住む者は、次々と枯れしぼむように早く死んでしまったのだそうだ。
宗教家本人の幽霊は目撃された話はないが、何だかよく分からない、圧倒的な何かが漂っているのは、事情を知らない人でも容易に感じられた。
実際、好奇心まるだしで、社長、ヘレン、私の三人でマンションを訪れた、昭和五十二年の十二月某日は、今でも鮮明に蘇ってくるくらい、奇怪な体験だった。
まず、入り口でヘレンがリタイアした。盲目、難聴、唖という三重苦の女の子(「聖女ヘレンの告白のこと」を参照)なのだが、握っていた私の手から、私の胸に飛びつき、ガタガタと震えながら、私の手のひらの上に「怖い。怖い人が見ている」と書いてきた。
社長がヘレンを施設まで送るのを待ちながら、私はマンションを見上げ、例の「見張り部屋」を見つめた。窓には新聞紙が貼り付けられ、ベランダには破れた網戸が立て掛けられている。
何も見えなかったが、私は自分の二の腕から肩にかけて、鳥肌がブツブツと浮き出てくるのが分かった。
確かに、誰かと視線が合ったような感触がしたのだ。
社長が戻ってくると、二人でマンションの中に入り、エレベーターを使うか、階段を使うかで少し考えた。私としては、もしものために階段を使いたかったが、社長の身体のことを考えて、エレベーターを使うことにした。このエレベーターが恐ろしくクラシックな代物で、引き戸式のスケルトン仕様のものだった。こんなエレベーターに乗ったのは、他には、私が生まれた病院と、フランスのホテルだけだ。
今でも思い出すが、あのエレベーターは、ほんとうに鬱な気分にさせる何かがある。スケルトンを通して目に飛び込んでくる、剥き出しのコンクリート、足元、頭上の闇が原因なのかもしれないが、一番なのはやはり、独特の昇降音、震動だろう。
「あれ?確か六階だったよな?何で屋上まで行くんだ?」と私。
パネルから飛び出したボタンのうちの六番をもう一度強く押しても、エレベーターは止まらず、点滅した屋上のRまで上がっていった。
屋上は何もなかった。ただ、溝にタールを詰めた、コンクリートが広々と横たわっているだけだった。
今度は階段を使って、社長を助けながらゆっくり降りて、六階を目指した。今、思えば、何という無鉄砲なことをしたのだろうと、我ながら呆れる。
六階に降り立つと、まず、感じたのは、澱んだ空気の据えた匂いだった。
「『見張り部屋』は端っこだったっけ?」と私。
「うん、一番端っこだ」と社長。
その時、突然、鼻の奥から何かが垂れてきたので、鼻水かなと鼻を手の甲でぬぐったら、手の甲が真っ赤に濡れた。鼻血だったのだ。
それだけで十分だった。
「もう出よう。これ以上はさすがにヤバイ」と私。
社長を助けながら、今度は足早に階段を降り、エントランスを真っすぐに横切り、マンションの前に飛び出し、ほうっと一息ついた。
そこで、出し抜けに、社長が囁いてきた。
「屋上に着いた時、どんな気分になった?」
私は社長の顔をじっと見つめ、「いや、別に」と言った。社長の顔は真っ青だった。
「俺は今すぐにでも飛び降りたい気分だったぜ。こんな身体だから幸い、満足に動けなかったけどね」
正直な話、印象に強く残っているのは、鼻血を出した「見張り部屋」のある六階ではなく、エレベーターに勝手に連れて行かれた屋上だった。
溝にタールを詰めたコンクリートの先にある風景。
当時は何でもないように思うことにしていたが、今は、宗教家が飛び降りたのは、実は部屋のベランダからではなく、屋上からだったと確信している。
ベランダよりも、屋上からの方が、国府台が見渡せるのだ。
その国府台に向かって、現在も、事情を知らぬはずの人たちが身体を踊らせるという。
「そんな危険なマンションをほったらかしにしておくのもどうかと思うぜ。オーナーと仲介の不動産屋は殺人罪に問われてもおかしくないよ」と社長。
電話の受話器のすぐ側で、私はニヤリと笑った。
「全くだ。映画なら、オーナーと不動産屋が実は悪魔崇拝者で、呪いをかけて、投身自殺を誘発させることで生け贄を捧げてることになるだろうな」
「ほんとにそうかもしれないぜ。でなけりゃ、あんなボロいマンションに何で今も住人が越してくるんだ?」
私は鼻血を出した感触を思い浮かべながら、ふうっと溜め息をつき、何ともなしに呟くままに言った。「『見張り部屋』があるなら」我ながら、自分の抑揚のない低い声にびっくりした。「誰かが見張っていなくちゃいけないんだ。ずっと、これから先もね」
最近、幽霊マンションのすぐ隣の小高い丘に、新しいマンションが建てられ、その一部が売り出されている。新聞のチラシに部屋のベランダからの景観の写真が載っていたのだが、一番手前に例の屋上が見えたので、私は思わず唇を歪めてしまった。
今日はここまで。

2004年01月22日(木)
賽の河原のこと。
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帰命頂礼世の中の定め難きは無常なり
親に先立つ有り様に諸事の哀れを止めたり
一つや二つや三つや四つ十よりうちの幼子が
母の乳房をはなれては賽の河原に集まりて
昼の三時の間には大石運びて塚をつく
夜の三時の間には小石を拾ひて塔を積む
一つ積んでは父のため
二つ積んでは母のため
三つ積んでは西を向き
小さき手を合わせ郷里の兄弟我ためと
あら痛はしや幼子は泣く泣く石を運ぶなり
手足は石に擦れただれ指より出づる血の滴
身体を朱に染めなして
父こひし母こひしとただ父母の事ばかり
云うてはそのまま打ち伏してさも苦しげに嘆くなり
あら恐ろしや獄卒が鏡照日のまなこにて
幼き者を睨みつけ
汝らが積むあららぎは歪みがちにて見苦しし
こうては功徳になりがたし
早々これを積み直し成仏願へと叱りつつ
鉄の棒を振り上げて塔を残らず打ち散らす
あら痛はしや幼子はまた打ち伏して泣き叫び
呵責に隙ぞ無かりける
罪は我人あるなれどことに子供の罪科は
母の胎内十月のうち苦痛さまざま生まれ出で
三年五年七年をわずか一期に先立ちて
父母に嘆きをかくる事第一重き罪ぞかし
母の乳房に取りついて乳の出でざるその時は
せまりて胸を打ち叩く
母はこれを忍べどもなどて報いの無かるべき
胸を叩くその音は奈落の底に鳴り響く
修羅の鼓と聞こゆるなり
父の涙は火の雨となりてその身に降り懸かり
母の涙は氷となりてその身を閉づる嘆きこそ
子故の闇の呵責なり
これら罪科のある故に賽の河原に迷い来て
永き苦患を受くるとよ
河原の中に流れあり娑婆にて嘆く父母の
一念届きて影映ればなう懐かしの父母や
飢えを救ひてたびたまへと乳房を慕ふて這い寄れば
影はたちまち消え失せて水は炎と燃え上がり
その身を焦がして倒れつつ絶え入る事は数知らず
中にも賢き子供は色よき花を手折りきて
地蔵菩薩に奉り暫時呵責を免れんと
咲き乱れたる大木に登るとすれと情けなや
幼き者のことなれば踏み流しては彼此の
おどろのとげに身を刺されすべて鮮血に染まりつつ
ようやく花を手折りきて仏の前に奉る
中に這い出る子供らはえなを頭に被りつつ
花折ることも叶はねば河原に捨てたる枯花を
口にくはへて痛はしや
仏の前に這い行きて地蔵菩薩に奉り
錫杖法衣に取りついて助けたまへと願ふなり
生死流転を離れなば六趣輪廻の苦しみは
ただこれのみに限らねど長夜の眠り深ければ
夢の驚くこともなし
ただ願はくば地蔵尊迷ひを導きたまへかし

昨日の「雪下ろしの思い出のこと」で、「賽の河原」とはどういうものですかと問い合わせがあったので、上にその全文を写した。元々は、青森の恐山に行った時、ごぜのおばさんが三味線で唄っていたものを、メモして、自分で漢字を当てたり、意味の通るものに仕立て上げたものである。
原文の「賽の河原地蔵和讚」とは、少々異なるところもあろうが、大体の筋は見ての通りである。
この歌を歌いながら、私は雪下ろしをしているわけだ。
しかし、今の世の中、どうしようもない親に対して、子供たちには何の罪科もないと思うのだが、賽の河原も何らかの変化があるのだろうか。
今日はここまで。

2004年02月01日(日)
フランクに始まり、フランクに終わること。
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1985年、私は高校一年だった。
まだ十年も経っていない、新しい高校だった。それでも、不良グループは蛆虫のように湧き、いわゆるハクをつけようと、他の高校の不良グループと「抗争」という名のケンカに明け暮れていた。
私は美術部に入ったが、体格と腕力を買われて、ラグビー部も掛け持ちした。そのラグビー部の八割が不良グループだったので、私は自然に、不良グループの一員になっていた。と言っても、弱い者いじめはこりごりだったので、殴るのは専らケンカ相手だけだった。
ケンカは我ながら滅法強かった。当時は、百キロ以上のバーベルを頭上まで軽々と持ち上げられたので、シンナーまみれの歯なしヤンキーが武器を持っていても、五人までならまとめて相手出来る自信があった。それに、私は手足だけでなく、噛みつきも使ったので、数カ月も経たないうちに、うちの高校は市内でたちまち頭角をあらわした。
私のケンカ強さに、先輩たちは、そのまた先輩たちを紹介して、暴走族に入らないかと誘ったが、私は、暴走族なんかよりも、絵を描いてる方がいいと言って、きっぱりと断った。
生意気なやつだと思われたが、私のことを「変わり者」だからと、かばってくれた先輩のおかげで、私はグループから一目置かれつつ、放っておかれた。
実際、グループの中では、私は完全に浮いていた。
みんなが映画の話題で盛り上がっているところへ入っていくと、近藤真彦と中森明菜の「愛旅立ち」に感動したとのことだった。私はみんなから観たかと言われたので、観てない、「激愛!ロリータ密猟」なら観たけどと返した。高校生の分際で、ピンク映画ばかり観てて、「激愛!ロリータ密猟」もそのうちのひとつだったのだ。
しかし、この作品だけは、今でも印象が強く残っている。BGMが遠藤ミチロウ率いるスターリンだったからだ。思えば、それがスターリンとの最初の出会いだった。
不良のくせに、近藤真彦の真似ばかりしたがるのもどうかと思うが、私は破壊的なエロスと、スターリン、頭脳警察に酔いしれる16歳を過ごしていたのだ。特に「狂い咲きサンダーロード」、「爆裂都市」といったパンクムービーは、私の部屋で、常にモニターに映っていた。
ある日、久しぶりの「抗争」だ、助っ人に来てくれと頼まれたので、私は原チャリにでっかいラジカセを積んで、現場に出向いた。
学ランを脱ぎ、新日本プロレスのライオンマークの入ったTシャツとボンタンという格好で、ラジカセのボリュームを最大にして、スターリンの「バイ・バイ“ニーチェ”」を轟音で流しながら、殴り合いを始めた。
あれは、ほんとうに、そのまま射精するかと思うくらい、気持ちよかった。
そんな私に、先輩のひとりが文句をつけたことがある。
どうせなら、マッチの歌を使えと。
私は鼻で笑い、あんなクソジャニーズ系でブッ飛べるかと言ってやった。
マッチなんて、所詮、ええかっこしいの、カッコマンだけが理想とする不良像でしかない。当時、病的に流行った「聖子ちゃんカット」のように。
何故、みんなこぞって、カッコよくしようとするんだ?カッコいいことはカッコ悪いことでもあるということが分からないのか?
私は、京成線に飛び乗り、夕闇に沈む上野駅をウォークマンで頭脳警察の「コミック雑誌なんか要らない」を聞きながら降り、アメ横を学ラン姿のままで彷徨い、ションベン臭いピンク映画館に堂々と入り込み、座棺のような座席に身を沈め、スクリーンに目を投げやる。

俺にはコミック雑誌なんか要らない
俺にはコミック雑誌なんか要らない
俺にはコミック雑誌なんか要らない
俺のまわりは漫画だから

俺のまわりはピエロばかり
俺のまわりはピエロばかり
俺のまわりはピエロばかり
俺のまわりは映画のスクリーン

いつも笑いが絶えないのも
そこにいこいがないからさ

頭に来るも何もありゃしない
ただふきでるのは笑いだけ
ただふきでるのは笑いだけ
ただふきでるのは笑いだけ

薄々気づいてはいたが、この年、世の中が完全にイカレていることを知った私は、もっと、もっと、イカレた存在にならなければ、物事を真摯に考えられないだろうと考えた。
そして、現在。
私の青春時代と同年代を描いた映画「ドニー・ダーコ」を観た時、私は不覚にも涙した。
泥臭い少年時代を過ごしてきた私が、「ドニー・ダーコ」の奇妙な物語に感情移入出来たのは、私自身、孤独と狂気についてどれだけ真摯であったかということを思い出したからだ。
あれから、私はどれだけ成長しただろうか。
あんまり変わっていないような気がするが。
今日はここまで。

2004年02月09日(月)
馬に乗ること。
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日曜日は、久しぶりに馬に乗った。
大網まで出掛けて、知り合いの牧場主と一緒に、乗馬の復習をした。
早朝から、乗馬場に入ったので、人も馬も吐く息が白い。
調教師のMさんが、頭に被った迷彩柄のブッシュハットを上げて、私たちをにっこり笑って歓迎し、「彼女を選んできて」と言った。
「彼女」というのは、馬のことだ。
私たちのように、毎日乗馬をするわけではない者は、特定の馬を持てない。従って、練習する馬を選ぶわけだ。
ただし、こちらから選ぶことは出来ない。馬の方から選んでもらうのである。
見かけが気に入っても、馬の方が嫌がったら、振り落とされるのがおちだ。
そこで、私たちは、いつものように、よく磨き上げたニンジンを手に、馬たちと合コンを始めた。
私だけが使うテクニックだが、馬たちの見えないところで、ニンジンをしゃぶって、たっぷりと唾をつけたそれを、馬の鼻面へ持っていって、ためらうことなしに食いつくと、その馬とは、いわゆる「馬が合う」ことになっている。
早速、鞍を背負ってもらって、柔軟運動をした後、せーの、よっと、一気に鞍にまたがる。手綱を持ち、しばらくまたがっていると、鞍を通して、尻に馬の生温かい体温が伝わってくる。
「よし、行くぜ」
私は、右足のかかとで、馬の横腹を軽く叩いた。前進。さらに続けて叩くと、走り出す。
練習のメニューは、まき乗り、半まき、輪乗り、輪乗り変換、蛇乗り、八の字乗り、回転運動、山形乗りがあるが、このうち、私はまき乗りと半まきがまだ出来ないので、しばらく蛇乗りを繰り返しながら、お互い身体を温めて、トライした。
牧場主は、山形乗りを練習している。
調教師のMさんの声が矢のように飛んでくる。
私は苦笑いを浮かべながら、手綱を操りつつ、かかとをなんべんも馬の横腹に叩きつけた。
練習を切り上げ、Mさんにお礼を申し上げて、乗馬場を後にすると、牧場主と一緒にステーキハウスへ出掛けた。
「歯は大丈夫?」と牧場主。
「まだダメ。だから、今日はタルタルステーキにするよ」と私。
そして、それぞれのステーキにかぶりつきながら、私たちは馬よりも人間の方が扱いやすいよなと意見を一致させた。
馬と人間の違いは何か?
人間は余計なことを考え過ぎて、心に隙が出来る。だから扱いやすい。
馬は余計なことを考えなさ過ぎて、心に隙がない。だから扱いにくい。
「俺たちの乗ったのは、メスだけど、うちのカミさんよりずっと利口だぜ」と牧場主。
「そうかい?よく調教されたメス奴隷は、時々、馬と同じく利口になることがあるんだよ。知ってた?」と私。
「そうなの?」
「今度、行ってごらん」
私はナイフを唇に当てて、大きくニヤリと笑った。
今日はここまで。


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