愛なき浜辺に新しい波が打ち寄せる
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翌日。ゴールデンウィークが終わって学校が始まる。 『今日、学校終わってから、ちょっと会える? 家に行っていいかな? 話したいことがあって』 真田から連絡があり、郭は驚いた。ゴールデンウィーク中に会ったとき、「中間が終わるまでは会わない。一人で集中してやってみる」と真田は言っていた。それを翻して、わざわざ会って話したいことって? 嫌な予感しかせず、胸の奥がひんやりとした。 Iから、Jの家庭教師の件について頼まれたとき、真田なら断らないと思ったから断りきれなかった、と言ったが、それは理由の一部でしかない。Iに言われた、『苦痛でしかなかったことを、そうでなくするなんて、すごいことだ』という表現を、別のことに当てはめて、しっくりときたのが大きな理由だった。今まで、郭は、淡々と毎日を過ごしていた。業務のように日々をこなしていた。苦痛というほどでもない。いや、苦痛なのかもしれないが、深く考えないようにしていた。とにかく、そこに、喜びはなかった。苦痛らしい苦痛も喜びもない日々。そもそも、日常に起伏など求めていないし、好き好んでと言って差し支えないほど淡々と過ごしていた。色の無い生活。別にそれでよかった。なのに、真田と出会って、近付いて、惹かれて、変わってしまった。世界が色付いた。世界に色が付いてることなんて、ずっと前から知ってたけど、知らない振りをして、どうでもいいと思おうとしていたのに、そうはいかなくなってしまった。ああ、色付いたのは、自分自身か。それが幸せなのかどうか分からない。ただ、自分にとって、すごいことではあった。そういうことを、Iの言葉で、一瞬のうちに思い巡らせてしまった。 話って何だろう。何を言われるんだろう、真田に。付き合うって言ったけどやっぱりやめる、とか。ありえそうなことだ。思い浮かぶと、そうとしか思えなくなる。だとしても、仕方ない。諦めるしかない。諦められるのか。そんな簡単に? 食い下がったりしないのか。でもそんなのみっともないし、何より迷惑じゃないか。そして、世界は、自分は、色を失くすんだろうか。それが不幸せなのかどうかも分からない、なんて。ああ、考えれば考えるほど、霧の中に迷い込んでいくようだ。真意が遠のいていく。茫漠とした空間に放り込まれる。それ以前に、あるのか、自分に、真意なんてものが。霧の中で、あるのかないのか分からない真意などというものを探してる。不毛だ。ぞっとする。日中は、夏のように暑い日もあるのに、何だか薄ら寒い心地がした。何なんだこれは。話したいことがあるって連絡受けただけで、ネガティブに捉えてこのざま。
夕方、真田が郭家を訪れた。真田が来るのを、不安に思いながら待っていた郭だが、ドアを開けて、真田と向かい合ったとき、会えた喜びで胸が高鳴り、熱くなった。最近会ったばかりなのに。一気に霧が晴れてく気がした。真意は、目には見えないし触れられないけど、確かにあるのだと感じる。なんと容易い豹変。 リビングに入ると、座る間もなく、郭は口を開く。 「一馬、ごめん。本当は、あの時、公園で、あんなこと言うつもりじゃなかったんだ」 あんなこと、と言うのは、テストで何位になって、というやつね。唐突だったが、真田にはちゃんと伝わった。真田が話があるといって家を訪れたのに、郭の方が話し始めるという。しかも、二人とも立ったまま。 「うん…。そういう話が出てくる雰囲気じゃなかったもんな。俺、あの時、付き合って、とか、キスしたい、とか、言われるかもって、すごい緊張してたんだ。そしたら、テストの話が出てきて、何事かと思ったよ。でも、屋外だし、付き合ってはともかく、キスしたいはないだろう、って思い直して、俺って馬鹿みたい、って落ち込んだんだ。もしかしたら、からかわれたのかなって、悲しくなったし」 郭に突然謝られて、びっくりした真田だが、引っ掛かっていた件についてだったので、ためらわず受け応える。 「ごめん、ほんとに。でも、からかったとかでは決してなく。あの時、改めて好きだって思って、そう言いたくなったんだけど…、急に言えなくなった。何だか、どんなに好きだと思っても、言っても、上手く伝わらない気がして、それで、咄嗟に、あんなことを…。愚かでした。申し訳ない。後悔して、反省してます」 「いや、そこまで言わなくても」 「撤回させて下さい…ほんとに…」 「うん、それはいいよ。でも、俺は俺に例の条件を課す。これはもう、そうしないと俺が納得できないだけだから、英士には関係ないので、もう気にしないで」 「……」 「英士の話は以上?」 「以上です。許してくれる?」 「もちろん。というか、許すも許さないもないよ。なんか引っ掛かってただけで、怒ってたわけじゃないから。でも、よかったよ。話してくれて、ありがとう。 じゃあ、俺の話を聞いてくれる? バイト先で起こったことなんだけど」 真田が話したいことって、バイトのことだったのか。郭は、何だか気が抜けた。 「一馬が話があるって言って家に来てくれたのに、先に話しちゃってごめんね…。あと、立ちっぱなしでごめん。座って。何飲む?」 「あ、立ったままだったな。じゃあ、お茶もらえる? あと、別に急いで話すようなことでもないから、全然」 そして真田は、昨日あったことを、要約して話す。 「そんなことがあったなんて…。大変だったね。怪我がなくて本当によかった…」 郭は、かなりびっくりしてる。 「ナイフを見たとき、怪我するかもしれないな、って思った。後から振り返ったら、場合によっては、命の危険もあったよなって。それで、俺は、思ったんだ。人生、なるべく、悔いの無いよう生きないと」 そこで、真田は一呼吸。 「英士、キスしたいんだけど、してもいい? 別に今すぐじゃなくていいし、当然、嫌でなければ、なんだけど」 迷いや恥じらいは、一切感じさせない口ぶりだった。コーヒーを頼んだ客に、お砂糖とミルクはお付けしますか? と聞くくらいの自然さだった。 「…嫌なわけないよ…」 郭は、ガーン! となる。真田から言うのかっていう。しかも堂々と。なんかもう自分が情けなくてがっくりくる。しかし、郭は、何とか自分を奮い立たせ、 「もう触ってもいいの?」 「撤回済みだし、いいよ。そもそも、触れ合ったことで気が散って勉強に身が入らないなんて、この先が思いやられるよな」 「じゃあ、今すぐ」 郭は、真田の肩に手を置いて、額にそっと口付ける。真田は、 (おいおい、おでこかよっ!) って、心の中で盛大に突っ込むんだけど、額の後、鼻に、頬に、そして唇に、顎にまで、優しく口付けられて、夢見心地に。 「俺は、一馬のことばかり考えてしまう。朝から晩まで。それでも足りずに、夢にまで見る」 郭は、真田の手に、自分の手を重ねる。 「何それ、えろい夢?」 「……そういうのもあるし、そうじゃないのもある」 「俺は昔から夢は見ないというか覚えてないたちなんだけど、それはそれとして、俺も、いつも、英士のことを、英士とのことを、考えてるよ。今までのことを思い返したり、この先のことを思ったり。 俺達、これから、どうなっていくんだろう」 「どうなりたい? どうありたい? 一馬の望みが、俺の望みだ」 郭は、言いながら、この期に及んで主体性がない…と自己嫌悪。でも、本心だから仕方ない。 真田は、郭の指に、しっかりと自分の指を絡ませる。 「俺は、これからも英士を好きでいたい。言葉でも行動でも、それを伝えたい。同じくらい好かれたい。好かれる価値のある自分になりたい。好きで、好かれて、好き合ってるって実感したい。身も心も。英士にも、実感してほしい。付き合う、なんて表現じゃ、曖昧過ぎる。恋人同士になりたい、ってことなんだ。…あーーー、さすがに、ここまで言うと、照れる…!」 あっ、今更、赤面。そして、真田の言葉に、郭はまた、ガーン! ってなっちゃう。打ちのめされる。ここまで率直に言われたら、もう自分が何を言ったって、何をしたって、敵いっこない。完敗じゃないか。全く。 「…参りました…」 「参られても。だって、まだ、これからなんだよ。始まったばかりだと思うんだ、俺達」 「そうだね…」 「あと、ほんと今更なんだけど、俺、男だけど、それはいいの?」 「今更だね。あと、その問いは、自分自身に返ってくると思うけど。一馬はいいの?」 「うん、いい。いいというか、俺は、英士じゃなきゃ駄目なんだよ、最初から」 あーあ、ガーン、の次は、ジーン、が来るね。泣けそうだよ。 そんな話をしているうちに、結構な時間が経ってしまい、真田はそろそろ帰ることに。 玄関で、 「今日は急にごめんな。話聞いてくれてありがと」 「いや、こちらこそ」 「また、テスト終わったらな」 「…うん」 そこで、郭は、もう一度キスしたい、って思う。抱き締めて口付けたい。さっきみたいな緩やかなやつじゃなく、情熱的なのを。…いや、無理。できない。言えない。もうそんな雰囲気じゃないし。そんな自分がもどかしい。駄目過ぎる。 じゃあまた、と言って、はにかんだような、少しぎこちない微笑みを郭に向けてから、真田はドアを開けて、家を出る。その表情が、とても好きだと、郭は思う。表情がっていうか、真田全部が、全体的にすごく好きだ、って思う。相手の全部なんて知らないし、この先どんなに長く深く付き合ったって、理解できない部分もあるだろう。それでも、今、知らない部分も含めて全部好きだと、好き過ぎると、思わずにはいられない。心が恋に飲み込まれてる。なんと愚かな。でも悪くない。それにしても、もう一度、キスしたかった。ああ、もう、ほんとに。飲み込まれた心が、溶けそうになりながら渇望してる。みっともない。みっともなくて構わない。今から追いかけるか。それはさすがに引かれるか。 そしたら、インターホンが鳴った。郭はまだ玄関に居たままだったので、反射的にドアを開ける。真田が、気まずげに、 「ごめん、忘れ物したみたい。ハンカチが、」 言葉の途中で、郭は真田の腕を引き寄せ、強く抱き締めた。真田のすぐ後ろで、バタンとドアが閉まる。そして、キス。最初のよりずっと深く唇を合わせた。 「…びっくりした…」 「俺もびっくりした。願いが天に届いたのかと思った。一瞬、神様的な存在を、信じそうになったよ」 「何の話だよ…」 「好きなんだ、ほんとに。俺の方が、好きなんだよ」 声が掠れてた。情熱が滲み出てる。 「…英士…」 全身熱くなって、頭の芯まで痺れてしまう。もうテストとかどうでもよくなるよね。って、それは駄目か。
ちょっと私の日常の話も。なんやかんで、なんか忙しいです。いつも何かに追われている感じが…。そんな日々の中、日記(ではなくなってるけど)に何書くか考えたり、実際に書いたりするのを楽しんでおります。妄想は楽しいけど、それを形にしようとするとめんどくさくて、でも何とか形にしてみるって、思うようにはいかないけど、面白いです。
「郭先生、何かあったんですか?」 家庭教師先でのこと。勉強が終わり、帰ろうとしたところを、J母に引き止められ、お茶とお菓子をいただくことに。郭は、さっさと帰りたいんだけど、毎回断るのも気まずいので、たまには。 先のJの言葉に、郭はふと我に返った。さっき、意識が別の方向にいってた。それを見抜かれたのだ。それにしても、先生と呼ばれるのは、未だに慣れない。 「いや、何もないけど」 「心ここにあらず、って感じですけど。彼女とケンカでもしたんですか?」 郭が何か答える前に、J母が、「こら、何言ってるの」と娘をたしなめる。 「別にいいでしょ。そんな気がしたから言っただけ」 「ケンカなんてしてないよ」 郭が何食わぬ様子で答えたので、Jも母も、おっ、という顔になった。スルーされるだろうと思っていたから。 「先生、彼女いるんだー。D高? 同じクラス? 美人?」 「やめなさいよ。先生を困らせないの」 「別に構いませんよ。別の高校で、美人というよりは可愛い感じ。はい、この話はもうおしまい」 適当に流せるのに、何を答えてるんだか。と、自分に呆れつつ、また意識が別のとこにいきそうになる。 帰り道、郭は、しみじみと、失敗したな、と思う。Jの質問に答えたことではない。そんなことはどうでもいい。真田にしたお願いについてだ。言った瞬間から、失敗だって分かってたけど。大失敗だった。時を巻き戻したい。そんなことできるわけないけど。何であんなこと言ったんだ。すごく後悔してる。触れないのがつらいんじゃない。いや、つらいけど。でもそれは大した問題じゃなく、表面的なものだ。自分の愚かさが、真田を苦しめてる。それが問題で、それが問題だとわかっているのに、解決策を見出だせないのが問題だ。
ゴールデンウィーク最終日、真田は9時17時のシフトだった。これはかなり疲れるよ。でも今日が終わればしばらく休みだと思うと、なんだか寂しい気持ちにもなる。今夜からは勉強に専念できる…って、あー、気が重っ。休日のコンビニは、朝や昼のピークはないが、暇な時間というのもあまりない。しかし、3時を過ぎ、客足がすっかり途絶えた。今日は、どうしても人手が足りず、普段は三人体制のところを、二人で回していた。一緒に入っているのは、フリーターの女の子、Kさんだ。 「お客さんいないし、ちょっとウォークイン(冷蔵庫)補充してきていい?」 「あっ、俺が行きますよ」 「いいよー。こないだも真田君がしてくれたし。今回は私がやるね。レジが混んだらブザー鳴らしてね」 「はい。じゃあ、お願いします」 カウンター下には、ウォークインに繋がるブザー、バックルームに繋がるブザー、後は勿論、防犯ベルもある。 Kがウォークインに入ってしばらくしてから、一人の女性客が、店内に走って入って来た。相変わらず客はおらず、真田は前陳(商品を前に出す)中だったが、女性の鬼気迫る様子に、ぎょっとした。見たところ二十代半ば。化粧気のない青ざめた顔には不安が張り付き、長い髪は乱れ、部屋着にサンダルで、いかにも何か急なことがあって急いで家から飛び出て来た、といった様子だった。女性は、迷わず真田の側に走り寄り、 「助けて下さい」 と、息を切らせながら言った。真田が、何事かと聞き返す間も無く、今度は、一人の男が入店して来る。ひっ、と女が小さく声を上げた。男は、女と同じ年頃に見え、中肉中背だったが、妙な威圧感があった。無表情で、こちらに大股で近付いて来る。 「帰るぞ」 低い声だった。男が女の腕を掴んだ。容赦ない様子で、乱暴な仕草だった。 「やめて…」 今にも消え入りそうな声で、女は言ったが、それ以上の抵抗をする気はなさそうだった。関わらない方がいいと、頭では思うものの、真田は口出しせずにはいられなかった。だって、女は、助けて、と言ったのだ。 「嫌がってますよ」 その言葉に、無表情な男の顔が、怒りで歪んだ。男は、女を突き飛ばすようにして横にやってから、真田の胸倉を掴んだ。成り行きにしばし呆然とした真田だが、男と向き合ったとき、その男を弱いと感じる。次の瞬間には簡単にのしてしまえる、と思う。単なる空想や楽観じゃない。真田は腕に覚えがあるのだ。小さい頃、可愛かった(らしい)真田を心配した母は、護身術的なことを身につけさせたいと思っていた。でも、まだ幼稚園だしどうしよう、柔道か、空手か、とか考えていたら、たまたま、真田父の部下で、実家が護身術教室をやってる人がいた。彼の一族は、柔道やら空手やらをやってる人が多く、彼自身も長く武道を嗜んできたが、その道には進まなかった。真田は、その人に色々教えてもらったり、教室にも通ったりしてました。まあとにかく、そんな感じで、真田は、幼い頃から中学に上がるくらいまで、ぼちぼち訓練を積んでいたので、相手を倒せるって直感的に感じるんだけど、いやいや、倒してどうする、怪我なんかさせたら面倒なことになって、店に迷惑かけてしまう、と思い直す。穏便に済まさなくてはならない。 男は胸倉を掴んでいるものの、本気で締め上げようとしているわけではなく、ただの威嚇に過ぎない。その手から逃れることは容易いが、真田はあえてそうはせず、 「お客様、どうか落ち着いて、乱暴はお止めください」 警察を呼ぶことになります、と言ったとしたら、相手は怯むのか、逆上するのか、出方が分からない。カウンター内に入れば、防犯ベルを鳴らせるが、今は無理だ。Kはウォークインからまだ出てこないし、客も来ないし、今は自分だけでこの状況を乗り切るしかないようだ。 ふと、今までへたり込んでいた女が立ち上がり、出入り口に向かって走ろうとした。男は、真田を放し、女の腕を再び掴む。咄嗟に男を止めようとする真田に、男は、さっとジャケットのポケットからナイフ取り出し、刃先を向ける。しまった、と真田は思う。男がポケットに手を入れる瞬間まで、凶器を持っている可能性を考えていなかった。刃物を他人に向けている時点で、もう正気ではないだろう。きっと説得しても無駄だ。刃物をめちゃくちゃに振り回されたら、対処しようがない。そうなったら、自分程度の護身術は役に立たない。逃げるが勝ちなのだ。でも、自分が逃げたら、女の人はどうなる。そんなの関係ないとは思えない。 その時、真田は、あっ! と思った。何とか声にも顔にも出さずに済んだのが幸いだ。ウォークインに入っていたはずのKが、いつの間にか、男の背後に忍び寄っていた。そして、手に持った1.5Lペットボトルの水を、男の頭部に打ち付けた。男が衝撃でよろめいた隙に、真田は、男の右手を捻り上げてナイフを落とし、男を取り押さえる。急いでカウンターに入ったKは、防犯ベルを鳴らした。 その後は、何事かと近所の人々が集まるし、警察が来るし、オーナーも慌ててやって来て、てんやわんやだった。 やっと帰宅した頃にはヘトヘトだった。怪我がなくて本当によかった、と、オーナーは今にも泣きそうになりながら言っていた。一人で帰れるのに、母親に連絡を入れられ、迎えに来てもらうことになった。さぞ狼狽した様子で現れるだろうと予想していたが、母親は意外なほどに落ち着いていた。後から聞いたところによると、動揺し過ぎて逆に無になっていたらしい。帰り道、母親は、何度も、無事で良かった、と繰り返し、「一馬に何かあったら、お母さんは生きていけないわ」と、深刻な調子で言った。母がどれだけ自分のことを大切に思って心配しているか感じたが、そんなこと言われても、という気持ちにもなった。たとえ、自分に何かあったって、母親は母親で、何とか生きていかなければならないのだ。逆も然り。親に何かあっても、自分は生きていかなければならない。仕方がない。苦労など知らない子供が何を悟ったように、と大人は鼻で笑うだろうか。でも真田は、強がっているわけでも大人ぶっているわけでもなく、困難な状況になっても何とか生きていく他ないのだ、という思いになっていた。それは真田を滅入らせ、しかし、勇気付ける何かがあった。ふと、郭のことを思い出した。バイト先で何かあったとき、たまたま郭が居合わせる、ということが何度もあった。でも今回は、そうじゃなかった。途中で現れたりしなくて、本当によかったと思う。 その夜、若菜から電話があった。 「おー、一馬! 大変だったらしいな! おっちゃんから聞いたぞ!」 おっちゃんというのは、オーナーのことだ。 「まあまあ大変だったよ」 「まあまあって。余裕だな、おい。さすが、腕に覚えあり。護身術は役立ったか?」 「いや、俺は全然。Kさんに助けられたよ」 一部始終を話し、若菜に質問されるままに答える。 「いやー、怖い怖い。やだな、まじで。俺、絶対やだわ。でも、ある意味、貴重な体験したな。夜勤の人で、コンビニ強盗に遭遇した人いるらしいけどな。うちの店でじゃないけど。深夜じゃなくても、怖いことあるんだなー」 「何が起きるか分からない世の中だよ」 あの男女は、近くのアパートに住んでる恋人同士だったらしい。何故ああなったのか、その後どうなったのか、詳細は分からないが、事態が収束するのを願うばかりだ。青ざめた女の人が元気になるといいし、正気を失った男の人が落ち着いていたらいいと思う。安寧が訪れるのを願ってる。貴重な体験をしただなんて、到底思えないが、散々な目に遭った、とまでも感じない。こういうこともあるのだと、ずしりとした重みが、胸に伸し掛かっている。今回は、出くわした、という感じだが、自分が当事者になる場合もあるのだろうか。実物の凶器ではなくても、刃物のような感情を、相手に向けるようなことが、向けられるようなことが。ずっと憎み合っていた相手ではなく、愛し合っていた相手でも。まさか。そんなことが。 「今回は、神様だか王子様だかのように英士が登場したりはしなかったんだな」 「うん、しなくてよかった」 「あいつ、意外とマヌケなとこあるからな。現れてたら、無駄に怪我してるぞ」 「…そうならなくて、よかったよ」 郭が怪我をする、大怪我をする、例えば自分を庇って。そうなったら、返せない大きな借りになる。もう、好きな人、というより、命の恩人、になってしまう。恋という言葉が、感情が、軽く感じられる枠組みに変わってしまう。 「そうならなくて、よかった」 単純に、郭に怪我をしてほしくない、痛い思いや怖い思いをしてほしくない、という気持ちからだけの言葉ではない。 どうして、ただ好きでいて、その人の幸せを、健康を、願うだけではいられないのだろう。
次のテストというのは、一学期の中間のことだ。真田と郭のやりとりは4月下旬頃。中間まで、一ヶ月程ある。数学で一位、全教科で五位以内、というのは、そこまで無茶な目標ではない。真田はいつも全教科で九位以内に入ってるし、数学では三位以内なんだ。春休みも真面目に勉強してたので、それなりに自信はある。でも、何でもする、と自分から言ってしまった手前、プレッシャーが半端ない。 ところで、郭は、「考えさせて」とIに言ってしまった時点で、もう引き受けるしかないだろうと感じていた。なので、家庭教師のバイトをまたすることになった。 ゴールデンウィークに入り、真田はまあまあシフトが入ってる。バイトがない日に、真田は郭の家で一緒に勉強。一緒に勉強という名目だけど、お家デートだよね、もう。でも、真面目に勉強して、たまに雑談してるだけなんだが。 キリがいいとこで休憩しようってなって、真田は、手土産のお菓子を郭に勧めるが、自分はいいと言い、机に突っ伏す。 「疲れた?」 「うん」 「シフト結構入ってるもんね」 「バイトは全然平気。中間のことを思うと…」 「大丈夫だよ」 「五位以内か…。上手くいけばいけるかもしれないけど、数学はな…、いつも一位になってる子が同じクラスにいるんだけど、ほぼ満点だしな…」 「一馬も満点に近いじゃない」 「うーん…」 「撤回しようか?」 郭は、真田の頭にそっと手を置き、髪を優しく梳く。真田は、ばっと顔を上げ、首を横に振った。 「何でもするって言ったのは俺だし、とにかく、やります」 「はい」 「あと、中間終わるまで、そんな気安く触らないでくれる?」 「えっ」 「気が散るので!」 「気安く触ったわけではないけど」 「まあとにかく、触らないということで」 「幼稚園の時の写真、見せてくれる気になった?」 「まだ言うか。見せる気にならないよ」 「今度、一馬のお母さんに言ってみようかな」 「あっ、それは駄目」 「すぐ見せてくれそう」 「だから駄目なんだって。 そんなことより、女の子なんだってな。家庭教師先の中二の子。結人から聞いたけど、すごい可愛いんだってな」 「…結人は見たことないだろ」 「結人の彼女が知ってたんだって。小学校が同じだったって」 「世間は狭いね」 「女の子と部屋で二人きり…」 「中二だよ。あと、部屋で二人きりじゃない。リビングで勉強するから、お母さんがいつでも様子見れるし」 「三つ下だろ。うちの両親なんか八つ離れてるし」 「それとこれとは話が違うよ」 「あと、否定しないということは、すごい可愛いってほんとなんだ」 「可愛いかどうかという視点で見たことないから分からない。勉強熱心ではある。あと、一馬と同じで、理系が得意だよ。それだけ」 「すごい可愛い女の子と部屋で二人きりって…」 「だから、そうじゃないって」 「気が散るから、この件について考えるのはやめる」 「一馬」 郭は、真田の手を握ろうとするが、容赦なく払われる。 「触らないということで」 「痛いよ」 「悪かった。でも、さっき触らないようにって言ったのに触ろうとするから」 「中間が終わったらいいの?」 「中間の結果が、英士の提示した条件をクリアしてたら」 「してなかったら?」 「期末で頑張る」 「期末終わるまで、というか期末でクリアしないと触れない?」 「そう」 「ほんとに、真面目に、心底、撤回したいんだけど」 「無理。そもそも、英士は俺に触りたいのか?」 「当然だよ」 「俺達って、何なの? どういう関係? 触り合いたい友達同士? 俺、英士のこと好きで、英士も俺のこと好きって言ってくれたけど、好き合ってるってこと? 好き合っているとしても、付き合ってはいない状態だよな? そんなやりとりは交わしてないから。でも、付き合うって何なんだろう。同性だし」 真田はまくし立てながら、自己嫌悪に陥っていく。ただ好きでいたいだけだったのに、どうしたいとか、どうされたいとかなかったはずなのに、郭に多くを求めてる。わがまま過ぎる。さっきから、言ってることが滅茶苦茶だ。イライラして、モヤモヤしてる。嫌われる。嫌われて当然。むしろ、いっそ、嫌われたい? 嫌われるのが嫌過ぎて怖過ぎて、今すぐ嫌われてしまいたい。とか。ほら。滅茶苦茶だ。 「一馬は、付き合ってる状態がいいの?」 「…うん」 「じゃあ、付き合って下さい」 「…はい。…って! じゃあ、って! 言わした感、言わされた感がある…。なんか悲しくなってきた…」 「俺も悲しい。指一本触れないなんて」 「ほんと勉強しよ…中間に向けて必死で勉強しよう…。ゴールデンウィーク明けからテスト終わるまで一切シフト入れてないし」 「一馬…」 「あ、英士、この問題なんだけど、」 「…はい…」
郭が下校しようとすると、校門で、元教え子が待っていた。去年度、家庭教師をしていて、D高に受かった子だ。I君としよう。 「郭先生」 「どうしたの? あと、先生っていうのはちょっと…」 もう家庭教師やってないからな。でも、Iは、呼び方についてはスルーして、 「塾長から聞きましたか? Jさんのこと」 Jさんとは、塾長が、郭に家庭教師をやってほしいとしつこく言ってる、中二の子だ。I家とJ家は近所で、昔から家族ぐるみの付き合いをしている。I母が、郭に家庭教師をしてもらったおかげで息子がD高に受かった、というようなことをJ母に言ったものだから、J母が、郭に家庭教師を頼みたがっているのだ。 「聞いたけど、お断りしたよ。申し訳ないけど、自分の勉強もあるし、」 「郭先生にもご都合がおありでしょうが、無理のない範囲で、Jさんをみてやってもらえませんか? 家庭教師はもうしないと聞きましたが、それが本当なら、勿体無いと思います。僕は、郭先生に教えてもらっているうちに、勉強するのも悪くない、って思うようになりました。それまでは、苦痛でしかなかった。苦痛でしかなかったことを、そうでなくするなんて、すごいことだと思います」 これは、母親に言わされてるのか、本心なのか、どうなのか。Iは、少しも物怖じしない、遠慮のない態度だった。 とにかく無理だと返そうと思っていたのに、 「考えさせてほしい」 と、答えてしまった。
真田が夕方からシフト入ってる日、上がる時間に、郭がバイト先に来る。去年度は、家庭教師帰りに寄ることがあったんだけど、今回は、夜わざわざ真田に会うために、コンビニに来たよ。勿論、公園でマチカフェです。 ベンチに並んで座り、コーヒーを飲みながら、郭は、Iとのやりとりを、真田に話す。 「一馬なら、引き受けるんだろうな」 「うーん…。誰かに必要とされたら、できることなら引き受けたいとは思うだろうけど…」 「断るつもりだったんだけど、一馬なら断らないだろう、って思ったら、なんだか断りきれなくて」 「俺は、断らないというよりは、断れないって感じかな…」 「引き受けたら、一馬と勉強する時間が減るな」 「俺のこと気にしてくれてる? 俺なら大丈夫だよ」 「そう言われると、寂しいね」 「それは、俺だって寂しいけど」 「かなり寂しい」 「…俺の方が、寂しいよ」 「自分の方が、なんて、何で分かるの」 郭はちょっと笑って、真田の手から、空いたカップを取った。真田がお礼を言うより前に、自分のカップと合わせて、ゴミ箱に捨てる。 「ありがとう…」 何で分かるか、なんて。真田は、自分の方がずっと郭を好きだって思ってるから。 郭は、体を横に向けて、しっかりと真田に向き合った。 「一馬、俺に何でもしてくれるって言ったよね。できることは何でもするって」 「うん」 「じゃあ、お願い」 「うん」 郭の指先が真田の指先に触れた。そっと、自然に触れたのに、触れた部分から赤くなって、頭から爪先まで染まってしまう気がした。 「一馬」 いつもは何を考えてるのか読み取れない表情なのに、そのときは、眼が真摯に、何かを物語っていた。何か、が、どのような種類のことなのか、真田には分かる気がした。だから、夜の闇に、郭の眼差しがやたら艶かしく思える。
「次のテストで、五位以内に入って」
郭の言葉は、真田にとって全く予想外のものだった。 「…………えっ!」 「なおかつ、数学では一位になって」 「えーーーーっ!」 指先は、いつの間にか離れていた。
蛇足になってしまいそうですが、続編もやります。まだ見てやるよという方は、またお付き合いお願いします。多分、すぐ終わりますので。それにしても、普通の日記の書き方を忘れてしまいそう…。では、以下、コンビニネタの続編。
高校二年生になったよ。 ある日の夕方、郭家にて。また若菜は暇潰しに来てる。郭は、若菜のことは気にせず、夕飯の準備。 「一馬ってな、幼稚園の頃、一般的に見て、可愛かったんだぜ」 「一般的に見て、って」 「今だって可愛いよ、っていう返しを避けるために、一般的に見て、って付け足したんだよ。贔屓目抜きでってこと。俺ほどではないが、可愛かったんだ。幼稚園入る前は、女の子に間違われることも結構あったらしい。それがどうしてこうなったのか。小学校低学年のときは、まだまあまあ可愛かったかもしれん。しかし、三年の時には既に可愛くなかった。今ではほぼ昔の面影がない」 「コメントの仕様がないよ」 「幼稚園時代の写真が見たくなっただろ?」 「どうせ見せる気ないんでしょ」 「ケケケ。まあ、それでな、昔、一馬の母さんは、一馬が変な人に変なことされたりしないか、すごい心配してて、」 そこで若菜の携帯が鳴り出し、 『早く帰ってきな。ご飯だよ』 若菜姉からだった。 「そんじゃまあ、帰るわ。写真は見たけりゃ本人に見せてもらえ!」 (何なの、こいつは…。いつものことだけど)
それから間もなくの日曜。真田家にて。郭が真田家に来てる。 「一馬って、幼稚園のとき、どんなふうだったの?」 「ん? なんで?」 「結人が、幼稚園時代の一馬がすごく可愛かったって言うから、写真があるなら見てみたいと思って」 「えーっ。何それ…」 「そんなに可愛かったの?」 「普通だろ。それに、園児ってみんなそれなりに可愛いんじゃないか?」 「そういうんじゃなくて、贔屓目抜きで一般的に見て可愛かったって。写真見せて」 「やだよ。そう言われたらやだ」 「今でも可愛いよ」 「…嬉しくない…。 それはともかく。家庭教師のバイトはもうやらないのか?」 郭は、塾長から、受験生じゃないならいいんだろう、と、中二の子を紹介されそうになったんだけど、断った。断っても、しつこく電話がかかってくる。 「中学生はもういいよ」 「じゃあ、小学生とか」 「それはそれで嫌だよ。 今年度は、同学年を一人みる」 「高二を!? 何高?」 「E高」 「俺と同じ、…って、あっ、」 そこで真田は思い当たる。自分のことなんだろうって。 「それって、俺?」 「そう」 「時給払うけど…」 「まだそんなこと言うんだ」 「だって、申し訳なくて。お菓子は、母さんが用意したものだし、俺、英士に何も返せないんだけど」 「そもそも、教えるというよりは一緒に勉強する、という感じだから」 「でもやっぱり、教えてもらうことになるもん。なってるし。俺、何かできることあるかな? 俺が英士にできることって、何なんだろう。できることは何でもするんだけど」 「何でも?」 「うん」 「そんなこと、安易に言わない方がいいと思うよ」 「安易じゃないよ。本気だし、真剣だよ」 それならなおさら、言わない方がいい、というか、言わないでほしい、なんて思ってしまう郭だった。
というような、ゆるーい感じで、しばらく続けます。
2015年04月12日(日) |
どうでもいいあとがき |
ざっくりな形ではありましたが、またU-14ネタを書けて、楽しかったです。改めて、私は若菜が好きなんだと思いました。郭も真田も好きだけど。コンビニネタは一応後日談も考えてるので、そのうち書くかも。ところで、日記に書き出す前に頭に浮かんでいたコンビニネタは、書いたものとは全然違う内容でした。郭と若菜が友達という設定は一緒ですが、真田と若菜は幼馴染みではなく、ただのクラスメイトです。郭が若菜に、よく行くコンビニの店員に『地上に舞い降りた天使』がいる、とか病的なことを言うので、若菜が天使を確認しに行ったところ、クラスメイト(真田)がいる、って気付いて、ところで天使はどこだ? ってなってたら、そのクラスメイト(真田)でした、的な。そんで、郭は、天使(真田)と同じ高校で同じクラスの若菜が羨ましい、ってなって、若菜は引きまくる。そんな感じだったんですが、そこから全く広がらず、方向性が変わりました。 そういや、3月に体調を崩しがちだったんですが、すっかり元気になりました。体調が治らなければバイトやめれたのになー。なんてね! まーぼちぼち頑張るか。
2015年04月11日(土) |
コンビニネタ24(終) |
桜は満開の時期を過ぎつつあった。春休みも終わりに近付くある日、郭は真田をプラネタリウムに誘う。駅からバスで小一時間かかる場所に科学館があり、プラネタリウムの他、館内には色んな展示や体験コーナーがあり、屋外にはアスレチックが広がっていて、小学生がよく行くような場所だ。真田も前に、何度か行ったことがある。真田は、郭に誘ってもらってすごく嬉しいけど、緊張する。それにしても、プラネタリウムって。星が好きなのか? 意外なような、似合ってるような。 「プラネタリウム、好きなのか?」 「いや、そういうわけじゃなくて。こないだ動物園で、ちょっと童心に返った気がしたから、久しぶりにプラネタリウムにでも行ってみようかと思って」 「小さい頃によく行った場所?」 「いや、数えるほどしか」 バスの中でそんな会話をしながら、科学館へ向かう。 無事に到着して、並んでチケットを買い、プラネタリウムに入場したのはいいが、上映後間もなく、真田は寝てしまう。郭の肩に頭をもたせかけて、本格的に眠る。昨夜緊張して、なかなか寝付けなかったのだ。なのに、早起きだったから、ほとんど寝てない。適温で、薄暗く、優しいナレーションと音楽が流れる星の中、眠くなるのもしかたない?
郭が前にここに来たのは、小一か小二の頃だった。家族四人。父、母、姉、自分。姉はプラネタリウムには興味がないと言い、父親と一緒に、屋外のアスレチックで遊んでいた。そうだ、あの時はまだ、父親がいたのだ。母親と一緒にプラネタリウムを見るとばかり思っていたのだが、入り口前で、母は、 「私は、ここで待ってる。一人で見れるわね?」 と言った。どうして? 一緒に見ようよ、と訴える発想はなかった。母は、こうと決めたらこうだ。意見を曲げない。怒ったり、言い聞かせたりして、子供に言うことを聞かせようとするタイプでなはく、言うことを聞かないなら、じゃあもういいわ、となる。郭は、怒ったり泣いたり、大笑いする母を見たことがない。いつも静かな眼差しで、ずっと遠くを見ているようだった。 母親に、分かった、と言い、渡されたチケットを手にして、一人で入場する。上映が終わって出て来たら、母親がいなくなっている予感がした。不安だったが、それほど恐怖ではなかった。なるようになるのだろう、と思っていた。結局、母親は、郭を見送ったときと同じ場所で、座って待っていた。プラネタリウムから出てくる郭を見つけて、穏やかに微笑んだ。安心したが、予想が外れてがっかりした気にもなった。
あの時、作り物の星空の中で、宇宙でたった一人のような気持ちになった。特別怖いとか寂しいとかはない。ただ圧倒的な、自分は一人である、という気持ち。そして、星空と溶け合ってしまうような不思議な感覚。孤独で、安らかで、息苦しいような、自由なような、心細いような、怖いものなど何もないような、何とも形容しがたい…。あの感覚を、今でも覚えている。夜寝る前に、ふと思い出すことがある。あの感じが訪れないものかと、記憶をなぞり、プラネタリウムに心を飛ばそうとするが、思い出すことはできても、再現されることはない。またここに来れば、あんな感覚になるのだろうかとも思っていたが。 (全然ならないな) あの時、心が星空に吸い込まれてた。でも今は、ただの景色でしかない。 あの感覚が訪れるのを期待してたのか、訪れないのを確認したかったのかも分からない。そんなことより、肩にもたれかかっている温かい重みが気なってしかたない。真田の髪からか服からか、清潔な香りがする。そんなことで、胸が締め付けられるなんて。 (本気で寝てる。口開いてる。あ、よだれ出そう) 上映が終わり、ライトが点く。それでも真田が寝てるので、郭は真田の肩をそっと叩き、 「一馬、終わったよ」 「……えっ…、あっ…!」 「よだれが…」(嘘。実際は出てない) 「わっ!」 真田は咄嗟に、袖で口元を拭った。 プラネタリウムを出て、科学館の窓から外を見ると、雨が降っていた。夜には雨になるという予報だったが、まだ正午なのに。 「ごめん! ほんっとーにごめんなさい!」 真田は平謝り。館内にあるカフェで、ランチ中。外が雨のせいで、中は混雑していて、カフェも満席だった。 「いいよ。眠くなるの分かるし」 「いやいや、ほんとにもう…。もう一回見ていい!?」 「見たい? また寝るんじゃない?」 必死なのが可愛くて、つい意地悪言ってみたり。 「もう寝ないよ!?」 「もういいよ」 真田は、郭が呆れてるのかと焦ったら、 「笑ってるし…」 「だって、面白いから」 「面白いって…。俺はもう、申し訳なくて、恥ずかしくて、穴があったら入りたい、とは、正にこのこと…」 「つまらなかったよね。付き合わせてごめんね」 こんな言い方したら、さらに恐縮するって分かってるけど。 「そうじゃなくて!!」 「いや、ほんとに、いいんだ。一緒に楽しみたかったわけじゃなくて、ただ、隣にいてくれるだけで充分だったんだよ。だから、気にしないで」 「う…」 これは本心なんだけど、真田は慰めだと受け取る。 「待ってる人もいるし、食べ終わったらすぐ出ようか」 そんなわけで、さっさとカフェを出て、見るともなく館内の展示を見て回る。真田は、居眠りのことを気にし続けてて、意気消沈気味。 まだ外は雨。本降りだ。雷注意報も出ているらしい。 ざっと見終わったので、その辺のベンチに腰掛ける。館内は、子供たちで賑わっていた。窓から外を見ると、レインコートを来た幼児や、傘を差した子供や、その親達が、ぽつぽつといた。帰ろうとしてるわけではない。中遊びに飽きて、雨でも外で遊んでいるのだ。付き合う親は大変だ。でも、幸せだ。今は、大変だという気持ちの方が大きくても、後になって振り返れば、あのときは幸せだった、と思うはずだ。 「今度は一馬が行きたいところに行こう」 「ううん、というか、その気持ちは嬉しいんだけど、また今度、来ていい? ここに。このままだと、一生悔いが残るので…」 大げさな。でも、本心だった。 「じゃあ、また、機会があれば」 「よろしくお願いします…。これに懲りずに…」 「また寝たら面白いのに」 「ええっ!」 郭って、こんな軽口叩くんだ。真田は少し意外に思って、でも、気安い感じがなんだか嬉しい。 「英士って、結構意地悪なとこあるんだ…」 「そう。結人から聞いてない?」 「聞いてたけど。でも、ほんとは…、やっぱいいや」 「何? 続けて」 「…ほんとはすごく優しいってこと、初めて会った時から分かってる、って言おうとしたんだけど、恥ずかしくなって止めた」 「よくそういうこと言えるね。本人を前にして」 「だから止めたのに、英士が言えって言うから!」 あ、今、一瞬、暗い空の一点が光った。しばらくの間。低い雷鳴。外にいる親子達が、慌てて館内に向かって走っている。 「雷が…」 「怖い?」 「まさか。割と好きだよ。小さい時から」 雷鳴が止み、雨が少し落ち着いた頃、もうすることもないし、間もなくバスの時間なので、帰ることにする。 帰りのバスに乗車中、また雷が鳴った。 「昔、雷が鳴ると、雷様におへそを取られるよ、って、母さんがよく言ってた」 バスの窓から外を見ながら、真田が話し出す。 「うん」 「あれって、雷が鳴って雨が降って気温が下がったら、へそを隠すことでお腹を冷やさないようにするため、とか、へそを隠すと前屈みで低い姿勢になって、雷に打たれにくいようにするため、とか、そういう意味があるんだってな。他にも謂れがあるみたいだけど、昔は、ただただ不思議で、謎だった。母さんは、俺が怖がると思ってたみたいだけど、怖いより、なんで? って感じで。どうやってへそを取るのか。取ったへそをどうするのか。へそを取られたらどうなるのか。疑問だらけだったよ。気になり過ぎて、取りに来たらいいのに、って思った。雷が鳴ったとき、『雷様、俺のへそ、あげてもいいよ』って心の中で思ったことがある。あげるとき、あんまり痛くなければいいな、とか。当たり前だけど取りに来なくて、ちょっとがっかりしたりして。 …しょうもない話だろ。ふと思い出したって、人に話すほどのことじゃない。だって、どうでもいいだろ、こんなの。でも、話したくなったんだ、今、初めて。ほんとはずっと前から、誰かに話したかったのかもしれない」 「まだある? しょうもない、どうでもいい話。俺は、もっと聞きたい」 「うん、また今度。いつか英士もして、しょうもない、どうでもいい話を」 しょうもなくて、どうでもよくて、尊く、大切な話だ。君に話したい。君の話を聞きたい。 バスを降りると、いつの間にか雨は止み、雲間から少し日が差していた。 このまま帰るのは惜しいような気がして、コンビニの側の公園へ向かう。地面には、桜の花がいっぱい張り付いていた。スニーカーに花びらがくっつく。桜の木は、緑の葉っぱがちらほら見えてきている。桜が終われば、葉桜の時期だ。 何も言葉はなかった。でも全く気詰まりじゃなかった。相手もこの沈黙を苦にしてないことが分かった。相手の気持ちが分からないどころか、自分の気持ちすら分からないことがあるのに、どうしてこういう瞬間が訪れるのだろう。気持ちが重なっているように感じられる瞬間が。そんなのただの妄想。幻。希望…。 あ、このタイミングだ、と郭は思った。今なら言える、と。言える? 何を? そんなのはもう、明らかだ。でも…。 そしたら、真田が、 「俺、好きなんだ、英士のこと。多分、コンビニで初めて会ったときから。でも、だからって、どうしたいとか、どうしてほしいとかじゃなく、ただ、このまま好きでいさせてほしい、好きでいたい。って、こんなこと言われても、困るだろうけど。だから、言わないほうがいい、言うべきじゃない、って思ってたんだけど、でも、やっぱり、言わずにはいられないような気になって…」 それから先はもう言葉が続かず、真田は黙る。しばらくの間があった。やっと、郭が口を開く。 「俺は、一馬を喜ばせたり楽しませる自信がない」 その言葉に、真田は、郭の困惑を感じ、覚悟をする。 「つまり、俺は、一馬を楽しませたい、喜ばせたいという気持ちがある。一馬に笑顔でいてほしいし、幸せな毎日を送ってほしい。そう思ってるんだけど、どうすればいいのか分からない。つまり、好きなんだよ。好きなんだけど、どうしたらいいのか分からない、ってことなんだ」 全く、ほんとに、スマートじゃない。かっこ悪い。不本意過ぎる。好きだ、ただその一言で済むのに。 真田は思わず、しゃがみ込んでしまう。郭は結局何を言おうとしてるんだろうと不安になりながら聞いていたんだけど、「好きなんだ」で、全て飛んだ。 空が急にまた暗くなり、雨がぽつぽつ降ってきた。すぐに雨脚は強くなる。郭は、折り畳み傘を差し、真田の方に傾けて、自分もしゃがんだ。 「なんか、泣きそうなんだけど…」 少し掠れた声で真田が言った。 「…そう…」 「ほんとに?」 (何が?) 「ほんとだよ」 「もう一度言ってほしい」 (何を?) 「…好きです…」 「…………」 長い間の後、真田はただ、 「はい」 と。 (俺にだけ再度言わせるのか。いいけど) 春の雨が、傘からはみ出た郭の肩を、背中を、びっしょり濡らしていた。
おしまい。 24回まで、お付き合いありがとうございました!
春休み中、「ちょっと宿題教えて下さいな」って、若菜が真田の家に来る。学校では春休みの宿題は特に出されてなかったので、真田は、えっ、ってなる。 「塾の宿題だよ」 「彼女と一緒にしたらいいのに」 「彼女、俺以上にできないんだよ。できないもん同士でやってどうなる? 方向音痴同士で迷宮に入るのと同じだろ。迷いまくるだけ。入り口に戻ろうにも戻れない。地獄じゃん」 「それは恐ろしい…」 「そうそう」 そんなわけで、真田は若菜の宿題を手伝う羽目に。そういや、小学生の時も、夏休みの宿題を手伝わされた記憶がある。 「よっしゃ、終わった! 一馬、よくやった!」 「はいはい」 「それで、どうよ最近、英士とは」 「急に話が変わってびっくりした」 「付き合ってんの?」 「何言ってんの?」 「だって、チョコ渡して、動物園デートしたって聞いたら、付き合うことになったの? ってなるだろ」 「そういうんじゃない。そもそも男同士だから」 「何を今更。一目惚れのくせによく言うわ」 「…結人、お前、ほんとに…」 「お、何? 反論あんの?」 「反論したところで、言い負かされるのが目に見えてる…」 真田はしゅんとして、俯いてしまう。 「えー、何だよー、俺が悪者みたいじゃん。心配してやってんのにさ」 「心配してくれるのはありがたいけど。…英士にも言ってんのか? こういうこと」 「言ってるような言ってないような」 「言わないでほしい」 切実な声色だった。 「何で?」 「何でって、迷惑だろ。嫌がられるよ。困らせるし。気まずくなる。たとえ冗談でも。気持ち悪がられる」 そしたらもう自分は…、そう思うと、絶望的な気持ちになる。絶望? そんな大げさな、とも思うけど、拒絶されるのを想像すると、心が凍り付くようだ。 「ひどいな。お前、その思考はひどいわ。英士に失礼だろ」 「…!」 そこで真田は、動物園に行った帰りのことを思い出す。郭とぎこちなくなってしまった件を。 「あと、ほんと今更だから。迷惑なら、最初からかけ続けてるじゃん。英士はそれを迷惑とは思ってないから、もし多少は迷惑だと感じてても、それでもいいと思ってるから、受け入れてんだろ。お前こそ、言わないでほしいね。英士の気持ちを台無しにするようなことはさ」 真田は、若菜に何か言おうと顔を上げるんだけど、結局口を閉ざして、また俯いてしまう。結人はこれ以上言葉を重ねず、真田が何か言うのを静かに待ってる。でも、真田は沈黙し続け、時間は過ぎていき、 「そろそろ帰るわ」 「…うん」 「ありがとな、宿題。助かった」 「うん」 帰り際、玄関で。若菜は、言おうか言うまいか、少しだけ迷ってから、 「お前は昔から、自分のことダメだと思ってるみたいなとこあるけど、全然ダメじゃない。真面目で賢いし、バイトも頑張ってるし、意外と根性ある。でも、お前がそうじゃなくても、勉強頑張ってなくても、バイト引き受けてなくても、俺は、いいと思うよ、お前のこと」 英士だってお前のことをいいと思ってんだよ、っていうのは、心の中で付け足した。そんなの俺が言ったところで、と思ったから。 若菜が出てって、ドアが閉まった後、真田はちょっとだけ、泣いてしまった。
その翌日。塾帰りに、若菜は郭とエレベーターで一緒になる。若菜が、11階(郭家)ボタンを押す。郭が、5階(若菜家)ボタンを押そうとすると、 「あ、押さんでいい。お前んちでちょっと暇潰すわ」 「……」(嫌そうな顔) 「何だよ。もう暇だろお前」 そんで、郭家に当然のようにお邪魔して、勝手知ったる様子で手を洗い、テレビを点ける。 「自分の家かのように…」 それで、ほんとに自分ちかのようにリビングでくつろぐ若菜。 「俺、思うんだけど、一馬って頑張ってるよな。バイトも勉強も、お前へのアプローチも。よくやってるよな」 「何が言いたいの」 「『俺も好きだ』って、言ってやりゃいいじゃん」 「俺『も』、って、一馬から好きとは言われてないけど」 「おーやだやだ。そんなん、明らかに好きだろ」 「…」 「俺さー、ずっと前から、英士はきっと一馬を気に入るだろうなって思ってたんだよな。だから紹介してやろうと思ってたんだけど。そしたら、一馬の方が先に、英士を気に入っちゃった。 一馬からじゃなきゃ、駄目なのか? 一馬が先にお前を好きになったから、告白するのも一馬からなのか? お前も好きなのに? 何で? プライド? そんなんくだらねーと思わんの?」 「…けしかけるね…」 「だって、面白いから! というのもあるけど、俺は、頼まれてんだよ、母さんからも、一馬の母さんからも、一馬のことよろしく、ってな。実際は特に面倒みてないけど、主にからかってるんだけど、でも、たまに思い出すんだよな。昔のことを。そういや頼まれてたなーって、なるんだよな。でも、もう、後はお前に任すわ」 「…任すとか言われても」 「よろしくー」 「何で、俺が一馬を気に入るって思ったの?」 「それはな…」 若菜は、こんな奴だけど、意外と物事の本質を見抜いていたりする。だから、凄いことを言う気がした。郭の胸のモヤモヤを、パッと晴らす、鋭い光のような。 「カンだ」 「カン?」 「そうだ」 「期待した俺が馬鹿だった」 「そうそう、馬鹿なんだよ。プライド高くて、怖がりで、意気地無しなんだよ」 「……」 自分なりにまあまあ勇気出して歩み寄ったりしてるつもりだけどな、って郭は思うものの、口で若菜には敵わんので、ここは言い返さない。 「神様にも王子様にも程遠いぜ」 「それは確かに」
つい最近の、若菜と彼女の会話。 友達と友達を結び付けてやったんだぜー、とか、若菜は彼女に話します。変なふうにではなく、自分の友達と、また別の友達の間を取り持って、三人で仲良くなったぞ的な。直接的に若菜を通して知り合ったわけではないけどね。 「何で取り持ったりするの?」 「何で? なんか合いそうな気がしたから」 「私ならしない。だって、合わなかったら気まずいし」 「合わない場合は仕方ねー」 「それに、その友達同士の方が仲良くなっちゃったら、どうするの?」 「どうするのって、今まさにそんな感じよ?」 「えっ! そんなの寂しいよ!」 「えっ」 (寂しい? 俺が? その発想はなかった。そして実際全く寂しくない) 若菜は、郭が孤独というか、他人には心を開かないように見えて、真田もまた、そういう部分があるって感じてた。別にそんなの本人の自由だし、性格なんだろうけど、寂しくないのか? って思いがあった。真田が郭に惹かれて、郭もそれに引っ張られるように惹かれている様子を見て、これでお互い寂しくなくなるんじゃないか、って気持ちでいた。そのことで、自分が寂しくなるとか、全然考えてなかった。 「結人君って、意外とお人好しだよね」 「それ褒めてる? けなしてる?」 「当然褒めてる! そういうとこ、すっごく好きだよ!」 ラブラブですな。 それにしても。寂しさを抱えて生きてきて、もうこの人がいれば寂しくない、という人に出会って、相手も同じように思っていたとしたら、それは素晴らしい、奇跡のような結び付きだけど、それで寂しさから逃れられるなんてことはないよね。
桜はもう見頃です。一緒に桜を見たい、という思いは、真田も郭も同じなのに、お互いなかなか言い出せぬまま、春の雨と風に、桜の花は散らされていってる。
次回で終わりのつもりですが、長くなったら二回に分けます。
電車から降りて帰路に着き、別れ際、 「あの…」 真田が、迷いながら、何か切り出そうとしてる。 告白されるんだろうか、と、郭は身構える。それは不安? 期待? 「こういうのって、迷惑? 迷惑なら、やめようと思って」 こういうのって、どういうのだ? 真田がこの手のことを言うかもしれないというのは、想定外ではない。でも、実際言われると、がっくりくる。 「迷惑だと思ってるのに、動物園に付き合うほど、暇じゃないよ」 郭は、自然と不機嫌な調子になってしまう。 「…ごめん!」 真田の慌てた様子を見て、郭は、しまった、と思うが、もう遅い。真田は、すっかり恐縮してしまっている。 「いや、こっちこそ、ごめん」 迷惑なんかじゃないって言えば済むことだったのに…。 なんとなくぎくしゃくしたまま「それじゃあ、また」となってしまう。
数日後、合格発表。教え子は、無事、見事に合格。郭は、肩の荷が下りた気になる。当然嬉しいが、それ以上に安心が大きい。教え子も保護者も泣いて喜び、郭に大感謝。これで落ちてたら恐ろしい雰囲気だったろうな、と、郭は不吉なことを考え、ちょっと寒気がした。保護者と教え子から塾長に電話がいってるだろうが、自分からも電話する。 『いやー、よかったよかった。英士君、本当にありがとう。こうなると、僕は信じていたよ』 真田の『信じる』とは、全然重みが違って聞こえる。 「いえ、本人の努力と、ご家族のサポートの結果ですから」 『またまたご謙遜を。来年度も期待してるよ』 「いえ、次はもう考えてません。自分の勉強もありますし。今まで色々とお世話になり、ありがとうございました」 『いやいや、君なら大丈夫だよ。実はもう、次の話があってね、』 適当に流しつつも、引き受ける気持ちはないことを伝え、電話を切る。 ああ、なんという解放感。でもそのすぐ後に、どっと疲労が伸し掛かってくる。達成感が訪れるのかと思っていたら。それはともかく。早く知らせたい。誰に? それは勿論。言ってた通り受かったよって。そしたら、きっと、自分のことのように喜んで、安心してくれるのだろう。 今日は、真田がバイトの日だ。郭は、直接言いたかったので、行っていいかとだけ連絡してから、真田がバイト上がる頃にコンビニへ。3月も、もうすぐ下旬、春が近付いているはずだが、昼間でもまだまだ寒い。風が強い日も多いし、つい最近は雪が降った。しかしその夜は、そこまで寒くなく、風もなく、穏やかだった。春はそう遠くないのだと感じさせられる、静かな夜だった。もうすぐ春休みです。 真田は、こないだ別れ際に、ちょっとぎこちない空気になったことを気にしてて、自分が郭を不愉快にさせてしまったのだとしょんぼりしてたので、連絡を貰ったとき、ホッとして嬉しかったのと同時に、会ったら何て言おうって不安になってた。それ以上に気になるのは、合否のこと。どうだったのか。もう分かってるはず。連絡くれた時に明かさなかったのは、よくない結果だったからなのか。とか色々考えちゃう。 まあそんな感じで、バイト後公園でマチカフェ。 「受かったよ。一馬の予想通りだね」 「…!!」 おめでとう、とか、やったな、とか、これで安心だな、とか、おつかれさま、とか、祝福の言葉も労いの言葉もいくつもあって、いい結果の場合もそうでない場合も、何て言うか考えてきたはずなのに、いざとなると、感情が高ぶって言葉にならない。 「よかった…、ほんとに…」 そう言うのが精一杯。 「うん、よかった。ホッとしたよ。ありがとう、一馬」 「えっ、俺は何も」 「こないだ、受かるよ、って言ってくれたとき、なんだか救われた気がしたんだ。それに、こうやって公園でコーヒー飲んだり、一緒に勉強したり、雑談したりするのが、癒しになったというか。動物園も楽しかったし」 「えっ!」 「どういう『えっ』なの、それは。信じられない?」 「…じゃあ、信じる」 「じゃあ、って…」 郭は、なんだか呆れて、でも、不愉快とかでは全然なく、しょうがないな、って感じで。結局、そういうところも真田の美点だと感じてるんだ。 「あの、こないだ、なんか変な感じになっちゃって。改めて、ごめん」 真田は、ほんとに悪かったとは思ってるんだけど、何が悪かったのかは分かってない。 「いや、俺が悪かった。ずっと気にしてた? ごめんね」 「ううん、英士は悪くない」 もう、直接的に言わなければ伝わらない、って、郭は思った。自分こそ、単刀直入に言うべきだ。でも、言ったところで、そのままの意味で受け取られるとは思えない。今更ながら、郭はそう思い至り、呆然とする。 公園の桜の木、蕾が膨らんで、先が薄く色付いてきている。一緒に見れるだろうか。満開の桜を。散りゆく桜を。桜の季節が終わっても、ここで一緒にコーヒーを飲めるのだろうか。 「…とにかく、何はともあれ、よかった! おめでとう。おつかれさま」 あ、やっとちゃんと言えた、って、真田は満足。こないだのことは郭はもう気にしてないみたいだし、改めて、合格してよかったー、って気持ちが高まってきて、上機嫌です。 「…ありがとう」 なんかもどかしいけど、このままでもいいような気がしてくる郭なのでした。ちなみに真田は、郭に告白するつもりとかないよ。困らせるだけだし、せっかく友達っぽくなってきてるのに、それが台無しになる! って思ってるから。
それから間もなくの、若菜と郭の会話。 「よーよー、まんまとチョコ貰っただろ、一馬から」 「まんまとって。見知らぬ女の子からチョコを貰う義理はないけど、一馬から貰う理由はあるから」 「タダで勉強みてるしな」 「それは別にいいけど」 「ところでどんなチョコだった?」 「何で?」 「俺もついでに貰ったんだが、一馬が、俺のと英士のとで差をつけたのか知りたいわけ」 「ぶしつけだね。普通、気になっても聞かない」 「お前に遠慮とかあるかよ。で、どんなだった?」 「普通のだよ」 「俺だって普通のだよ?」 差はつけてません!
そういえば、教え子の推薦入試は駄目でした。それは想定内なので、一般で頑張るのみです。
ところで、真田はほんとお返しなんていらないんだけど、お菓子でも物でもなく、ほんとに何でもいいなら、希望があります。しかし言いにくいよな、っていう。 『お返し何がいいか、考えてくれた?』 郭にわざわざLINEで聞かれるし。 『ほんと何もいらないので、お気遣いなく…』 『そう言われても、俺はお返ししたいんだよ』 『いや、ほんと、申し訳ないので』 『そう固辞されると、ちょっと傷付くような』 『えっ! ほんとは希望があります』 『じゃあ単刀直入にどうぞ』 チョコ渡すとき回りくどかったからね! 『一緒にどこかに行ってほしいです』 『行くよ。どこでも』 真田はどこか、って言ったけど、行きたい場所はもう決まってる。それは、まあまあ近場の動物園なんです。 入試は、3月の初め。それが終わればいつでもいい、と郭が言うので、3/14に近い日曜で日程は決まり。デートやん。ちなみに、合格発表は3月半ばです。動物園行く日は、発表の何日か前。あ、そういや、学年末テスト終わりました。真田は、英語も国語も納得のいく結果でした。
動物園は、駅から電車で数十分、そこからバスで数十分くらいの場所。規模は小さめだけど、この辺で動物園といえばそこだけなので、土日はまあまあ賑わってる。二人が行った日曜も、それなりに混雑していた。家族連れが目立つが、カップルやグループもいる。全体をのんびり見て回ってから、山羊やら兎やらと触れ合える広場で、餌やりとかする。そこは、幼児や小学生連れの家族が多かった。 「小さい頃、ここに来るのが好きで」 広場の中にあるベンチに腰掛ける。それまで言葉少なだった真田が、穏やかに話し出す。郭は静かに相槌を打ち、先を促した。 「モルモットや亀を撫でたり、山羊や羊に餌をやったり、そういうのが楽しかったんだよな。そしたら、親は、俺がすごい動物好きで動物園好きなんだと思っちゃって、それから、色んな動物園に連れてってもらったよ。全国、北から南まで、色々。でも、どこも、それほど楽しいとは思えなくて、いや、そのときは普通に楽しかったんだろうけど、帰ってからはあんまり思い出せなくて、疲れたなーって感じで。結局、今でも記憶に残ってるのはここだけだし。でも、母親に、『楽しかったね。次は違うとこに行こうね』って笑顔で言われたら、うん、って笑顔で答えるしかない。 ほんとは、ここでよかったんだ。ここがよかった。でも、そう言えなかった。言えばよかった、って思うけど。言わなくてよかった、とも思う。 …って、ごめん。何の話だって感じなんだけど」 「いや、」 郭は真田の心の、柔かい、傷付きやすい部分に接している気がした。きっと誰にも見せない、普段は隠しているような部分に。真田の言うことを、他愛無い感傷的な思い出話だと、贅沢な悩みだと、以前の郭なら取り合わなかったかもしれない。でも今、郭は、自分でも意外なほどに同情していた。同情なんて柄じゃない。でも、しっくりこなくても、同情としか他に言い様がない。まだ小さかった頃の真田の、傷付きやすい心に、同じように小さい頃の自分の心が、寄り添おうとしている、そう感じた。だからこそ、気休めは言えなくて、静かに話を聞くことしかできない。でも、これだけは言っておきたくて。 「また来よう。いつでも、何度でも」 「…ありがとう」 本当に、心からの。真田のありがとうは、いつだって、本当の、心からのだ。ずっと知ってた。でも、改めて、思い知った。 動物園を後にし、バスに乗る。帰りのバスは混み合っていて、二人共立っていた。近くの席で、小学校低学年くらいの子供とまだ若い母親が、持たれ合って眠っている。微笑ましい、でもどこか切ない。もう決して戻ることのない幼少期。戻りたくもないが、戻れないからキラキラして見える。幻の輝き。でも真の輝きも混じってる。真の? もう目には見えない、手に取れない、記憶の中を探して、欠片を見つけ出した気がしても、次の瞬間には色褪せてしまう。 バスを降り、電車に乗り換える。電車はそれほど混んでなくて、余裕で座れた。 もうすぐ入試の合格発表だという話になり。 「合否が分かるまで落ち着かないけど、入試はもう終わったから、結果を待つしかない。今回駄目だったとしても、二次募集があれば再挑戦できる」 郭は、自分が冷静なつもりだが、話しているうちに、やはり落ち着かない、ほんとは不安なんだ、という思いになってくる。それが真田に伝わったのかどうかは分からないが。 「受かるよ、きっと。適当に言ってるんじゃなくて、ほんとに、俺は、そう思うんだ。俺がそんなこと言ったって、気休めにもならないけど、でも、信じてるんだ」 そう言った真田の目が、口調が、あまりに真摯だったので、郭は心を打たれる。 「信じるよ」 教え子を、自分を、今までの勉強の積み重ねを、受かることを、そして、真田の言葉を。
三学期が始まり、日々が過ぎていきます。郭は、あれから一度(1月下旬)、コンビニに行ったよ。事前に連絡してからね。真田は、連絡受けたときすごい緊張しました。当日も緊張しつつバイトしてた。一緒に入ってた人に、「何かあった? 大丈夫?」って心配された。それで、バイト後、マチカフェしました。15分くらいの時間なんだけど、話のネタに困ったらどうしよう、と心配になった真田は、冬休み明けテスト(まあまあよかった)を持っていくという所業に出た。15分でどうしろと。郭は、やや困惑したけど、出来る範囲で対応しました。そして真田は、後悔しました。普通に近況報告をし合ったらよかったと。ほんとにな。 2月に入ってから。学校で若菜に会った時、 「そーいや、そろそろ英士の誕生日だぞ」 「えっ、何日?」 「2/15だったな」 違う。1/25です。 「そうなんだ」 違うけど。 「バレンタインの次の日だな」 「あ、ほんとだ」 「あげるのか、チョコを」 「えっ、いやいや、それはないだろ」 「だよな」 「うん」 「でも、もし、英士にやるなら俺にも寄越せよ。バイト紹介してやったし。俺にも感謝の気持ちを示した方がいいぞ」 「バイト紹介してとか頼んでないけど!?」 「けど、よかったろ。結果的には」 「…まあ、そう言われたらそうなんだけど…」 「ほらな」 そんで、真田は、あーどうしよー、チョコ、あげるか? いや、それは変だろ。いや、変なのか? 変な意味であげるんでなくて、いつもありがとうございます、って気持ちなんだけど。そして、誕生日おめでとう、みたいな。いや、誕生日には絡めない方がいいか。あげるのか。あげないのか。あげるとしたら、ほんとにあげられるのか。あげられたとしても、…引かれる?
それから間もなく、郭から連絡があり、今度の土曜の予定を聞かれる。その日は2/17とかそれくらいの日です。バレンタインも郭の誕生日も終わってるけどそんなに経ってないという日。真田はバイト早出で、12時まで。郭は、夕方からバイトなので、昼から一緒に勉強できるね、ってなる。学年末テストも近付いてきてるし。郭が、よかったら家に来てって言うから、お邪魔することに。ちなみに、郭の家庭教師のバイトは、大詰めというか佳境というか、慌ただしい状況です。D高は公立。教え子は、願書受付を終え、一応推薦も受けることにしたが、それは受かるとは思ってなくて、もし受かればラッキーくらいのもの。あと、滑り止めの私立の入試も近付いてる。子も親も、ピリピリしてるし、どうしても郭は巻き込まれてしまう。なので、郭はまあまあ疲れてる。 よかったら昼ご飯も一緒に、ってことになり、12時に郭がコンビニに迎えに来て、近くのラーメン屋とかで食べてから、郭家へ。 それで、英語を中心に勉強するんだけど、途中で真田はハッとなる。勉強を教えてもらえるのは本当にありがたいし、嬉しいんだけど、もっとお互いの近況とか語り合ったり、雑談したいって思う。今更だけど。勉強を教える人、教えられる人、というんでなく、友達になりたいんだ。郭にしてみたら、真田は既に友達なんだけどね。 「あの、英士、ちょっと休憩していい?」 「うん、そうだね」 そんで、真田が手土産に持って来た、母の手作りのガトーショコラを食べることに。 「雑談していい?」 「もちろん」 郭は苦笑。雑談するのにわざわざ了承得るなんて。 「こないだ、バイトで、お客さんにF病院の場所を聞かれたんだ。その人は、車だったんだけど。ちゃんと説明できたよ。そしたら、すごい感謝されて、自分でも納得のいく案内が出来たっていうのもあって、すごい嬉しかった」 「そうなんだ。よかった」 「F病院以外にも、この近辺でめぼしい場所は、まあまあ説明出来ると思う」 そんで真田は、ルーズリーフに地図を描き出す。 「ここが駅。それで、これが駅前通りで、ここがD高。国道がこうで、ここに、うちのコンビニ」 真田が迷ったり間違ったら、郭が、「H寺はもうちょっとこっち」とかって、書き足したり訂正したりする。その時、真田は、郭のペンの持ち方を見て、あ、俺と一緒だ、って思う。それで、この辺りの地図が完成。 「できた!」 この地図、大事にしよう、って真田は思った。郭は、真田が満足げなので、なんだか嬉しい。 「家庭教師のバイト、忙しい?」 「忙しいというか、それなりに大変だね。本当に大変なのは、本人とその保護者なんだけど、責任を感じるし、引きずられるね」 「そっか…。大変だね…」 「正直、思ってたよりしんどい」 真田は何と声をかけたらいいか分からず、困惑する。 「一馬は偉いよ。バイト中、結構楽しそうだよ」 「えっ」 楽しくはないけど!? 「夏に見かけたときは、このバイトは大丈夫かって、不安な気持ちになったけど、それもなんだか懐かしいね。すっかりちゃんとした店員になって」 「いやいや、まだまだです…」 「そういう謙虚なとこ、いいと思うけど、もっと自信持ったら。余計なお世話かもしれないけど。バイトのことだけでなく、勉強に関しても、集中力あるし、一緒にやってて有意義だよ」 「そ、それは、どうも」 郭に褒められて、真田は、当然嬉しいけど、思ってもみないことなので、衝撃的というか。アワアワしちゃう。 そんでまた勉強に戻って、いつの間にか夕方になり。郭はこの後バイトがあるから、そろそろ出る支度をしないといけない。 「じゃあ、そろそろ」 と、郭が言ったので、真田は急いで帰る準備をして立つ。 「あ!」 思い出したように言ったが、ほんとは、いつ言おうかとずっとソワソワしてた。 「何?」 「こないだ、ていうか一昨日、誕生日だって、結人から聞いて。おめでとう」 「ありがとう。一昨日じゃなくて、先月だけど」 「先月!? 2/15じゃなく!?」 「1/25だよ。別にどっちでもいいけど」 数字の並び違うやん。真田は謝るけど、郭は全然気にしない。そもそも真田悪くないしな。 「その、それはそれとして、ちょっと言いにくいというか、どうするか、いいものか悪いものか、悩みに悩んだんだけど」 「うん」 「…先日、バレンタインというイベントがあり、その日は女子が意中の男子にチョコを渡すという習わしとなっているけれども、告白の手段や機会となるのに限らず、家族や友人間で、感謝の気持ちを示すのにチョコを渡すのが普通となっていて、」 「くれるの? チョコ」 「わー!」 「違った?」 「いや、そう、いや、そうというか、あげてもいいですか、という話。もちろん、変な意味ではなく、日頃の感謝の気持ちを込めて、です」 「謹んで頂戴します」 それで、真田は慌てて鞄からチョコを出し、お渡しします。手作りじゃないよ。市販品です。 「ありがとう」 「いや、こっちこそ、なんか、ごめん。あの、当然、お返しは不要なので」 「いや、するよ。美味しいお菓子を日常的に食べられる人にどんなものをあげたらいいか悩むから、希望があれば言って。お菓子じゃなくてもいいから。何でも。考えといて。それで、そろそろ時間だから、俺も一緒に出るよ」 「あっ、ごめん! えーと、…バイト、無理しないで。って、俺が言ったところで何にもならないんだけど」 「いや、元気出るよ。ありがとう」
クリスマスが終わったと思ったら、年明けるよね! 真田は郭に年賀状を出してます。若菜にも出してるけど。真田からの年賀状、宛名(筆ペン)の達筆ぶりに、郭はびっくりする。字が綺麗だと思ってはいたけど、ここまでとは…という感じ。真田は硬筆も書道もやってたよ。背筋を伸ばして姿勢よく宛名書きをしてる真田が思い浮かんできて、郭は胸があったかくなった。メッセージはシンプルで、硬く、 『去年は大変お世話になり、ありがとう。今年もよろしくお願いします。返信不要です。』 返信不要、と書いてるけど、郭は返信を書きます。ペンの持ち方に気を付けてね。
若菜から、グループトークにLINEがきた。 『明けたなー、おい。初詣とか行くか? 明後日あたり。H寺(近所の寺)あたり』 『午前中なら行けるよ』 と、真田。真田は3日、午後からシフトが入ってる。 『悪いけど、3日は予定有り。二人で行ってきて』 と、郭。その日は、郭の姉が一年ぶりに実家に帰って来る予定なのです。姉は母親と折り合いが悪いので、郭に会いに帰省するようなものだ。 郭は一緒に初詣行けないんだ…と、真田が残念に思ってると、若菜が、 『じゃ、英士はいつなら行ける? なんとなく明後日って言ったけど、別に3日じゃなくていいし。日程調整するか』 『とりあえず3日行ってきたらいいよ。俺は、いつなら確実に空いてると言えない状況』 家庭教師のバイトが大変なのかな、入試近付いてきてるしな、と真田は察し、若菜も同じように考えてるんだけど、そこには特に突っ込まず、じゃあまたなー、という感じで会話終了。
そして、3日。真田と若菜はH寺に現地集合。特に有名ではない小さな寺だが、かなり混雑していた。並んで待ってからお参りを済ませる。 「何て願ったんだ? 願い事によっては、神様にお願いするより若菜様に助けを請うた方が成就率上がるぞ」 「何て願ったと思ってるんだ?」 「英士君と仲良くなれますよーに☆彡」 「全然違う。俺は、 旧年中はおかげさまで無事に過ごせ、ありがとうございました。本年も健康に過ごせるよう、どうかお見守り下さい、 って願ったんだ」 「受けるわー」 「普通だろ。お前はどうなんだよ」 「ヒ・ミ・ツ」 「イラッとする!」 「さーて、おみくじでも引くか!」 「俺はいい。あんまりよくないのが出たらテンション下がるし」 「えー、なんだよー。お前のその言葉に俺のテンションが下がったわ。引くけどさ」 若菜様は大吉ですよ! そんな感じで、適当に初詣を終え、真田は一旦帰って昼ご飯を食べてから、バイト先へ。今日は13〜17時勤務です。4時半頃、客足が一旦途絶えて暇になったので、ゴミ箱を見に行くと、大散乱です。あーあ…、と思いながら片付ける。なんか、真田、ゴミ捨てよくしてるね。ゴミ捨てって、しない人はしないですからね。気付かないのかやりたくないのか、言われなきゃしない。自分から進んでやる人がいたら、その人ばかりがやることになったりします。真田、偉いね。そんな高校生いるんか。ゴミ置き場から真田が戻って来ると、店の前に郭がいたよ。 「あっ、英士!」 「おつかれさま。今、用事が終わって、帰りなんだ」 真田は、用事というのは家庭教師だと思ってるけど、郭は、姉を駅まで見送りに行った帰りです。 「初詣、行ってきた?」 「うん、かなり混んでたよ」 「だろうね。俺は、ちょっと、今から行って来ようかと。毎年行くわけではないんだけど、なんとなく、今年はさっさと行っておきたいなと」 「俺も一緒に行っていい?」 真田は思わず言ってしまうんだけど、言った後で、しまった、ってなる。変に思われるよなって。 「午前中に行ったんだよね、H寺」 「…うん、行ったんだけど、もう一回行こうかなって」 「一馬がいいなら、一緒に行こう」 「ありがとう! って、あっ、まだ終わるまで15分くらいある!」 「いいよ。公園で待ってる。コーヒー淹れてもらおうかな。いや、今日は紅茶にしようか」 「ダージリンティーとロイヤルミルクティーがあるよ」 「ダージリンで」 「お砂糖はお入れしますか?」 「無しで」 「かしこまりました!」 紅茶はボタン一つじゃないよ。お湯にティーバッグを入れるんだよ。 そんなわけで、郭は、真田がバイト上がるまで公園で待ってる。ところで、郭は、真田に会いたくてコンビニに来たわけだが、真田は、たまたま寄っただけだと思っています。そして、郭は、真田がそう思ってるとは考えてない。郭は、真田からの好意を感じ取って、それに応えるつもりがあると言動で示していて、それが相手に伝わっている、と思ってるんだけど、真田にしてみたら、自分の好意を感じ取られているかもしれないとは思いつつも、受け入れられるなんて想定外だし、郭が自分に対して優しいのは、親切で責任感が強い人だから、という考えでいます。 「お待たせ!」 真田は、バイト終了後、慌てて公園へ。急ぎ過ぎて、着替えを忘れそうになったほどです。気付いたけど。 「おつかれさま」 郭は徒歩だったので、真田は自転車を押して歩く。 「あっ、年賀状、ありがとう。なんか、ごめん、返信してもらっちゃって」 「いや、こちらこそありがとう。達筆だね。心得があるの?」 「硬筆も習字も、昔、習ってたことある。でも、全然…」 そこで真田は、習い事に通っても続かなかったことを思い出し、息苦しい気持ちになる。 「嬉しかったよ、年賀状」 「…俺の方こそ…」 「直すよう、気をつけてるよ、ペンの持ち方」 「そうなんだ」 とか話してるうちに、H寺に着く。午前中は混雑していたが、少し前に日の入りとなった今、参拝客はまばらだ。閉門時間は18時。もうそんなに間がない。 朝お参りしたときは、なんとなく力んでしまった真田だが、今は静かな気持ちで目を閉じ、手を合わせられた。祈り終え、目を開けて、ふと郭を見遣ると、自分の方を見ていたので、少しうろたえてしまう。そしたら郭が、静かに微笑んだので、真田はなんだか安心して、照れながらも微笑み返す。なんてお願いした? なんて会話を交わすこともなく、でもお互い、少しはそんな思いを持っていた。その後は速やかに帰路に着く。 帰りには、すっかり暗くなっていた。自転車に乗って先に帰っていいよ、と郭は言ったが、真田は、途中まで押して帰る、と答えた。 「次は英語を勉強しようって、自分から言っといて悪いけど、なかなか日程の都合がつきづらくて」 「家庭教師のバイトが大変なんだよな? 俺のことは全然、気にせずに。ほんと、申し訳ないので…」 「いや、一馬は、別にもういいと思ってたとしても、俺が気になるというか、俺が一緒に勉強したいんだ」 郭としては、まあまあ勇気を出して言ったよ。しかし、なんという親切なお人だ、神様仏様…、と、ますます思われてしまっただけです。そして、真田は、すごく嬉しくて感動するんだけど、やっぱりなんか悲しいんだよな。切ない、というやつです。 「ありがとう…」 もうそれしか言えない。 「でも、しばらくは、なかなか難しいと思う。だから、」 また落ち着いたらね、って続くのかと思ったら。 「また、バイト先に行っていいかな。たまに、一緒にコーヒーでも飲めたら嬉しいんだけど」 「…もちろん!」 「じゃあ、連絡するよ」 「うん」 連絡するよ、とか言われたら、ずっと携帯が気になっちゃうよ。LINEの着信音が鳴る度に、もしかして! ってなっちゃう。気になり過ぎて、もういっそ携帯を手放したくなるよ(混乱)
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