【別れと夜桜】 「大学の桜が、夜もライトアップされててキレイだよ」 会社帰りに、いつも寄っているパン屋兼喫茶店“小さな家”にて。 いつもオーダーしているカフェオレなど飲んでたら、ふいに、その店の前にある 白翠女子大の方を指差し、直人がそう言った。 それは見ないと損ですね? ということで、その日、私は夜桜見物をしてから 家に帰ることにした。
閉店後、その店の二階にある、直人と店長・藤井くんのお宅にて。 私は今日は上がらずに、玄関先で直人のことを待っている。 上着に空色のパーカーをはおった後で、ごそごそと冷蔵庫の中を物色しながら、 直人が聞いた。 「なんか飲み物持っていく?」 「じゃあビール」 「まだちょっと寒いよ。て言うかビールって、買いに行かないとないかも」 「ビールとか、いつも飲まない?」 「うーんそんなに・・・あ、カクテルバーがあるからこれでいいか?」 「充分、充分」 にこにこ笑いながら私のバッグにカクテルバーを2本無造作に入れ、私達は ちょっとしたピクニック気分で学校に向かう。 「夜のピクニック?」 くすくす笑って言う私に、直人は「それもイイよね」なんて相槌を打つ。 「でも、つまみが無いね」なんて言うから、 「大丈夫! 会社でおやつ食べた残りのチョコレートがあるから」と、笑って 言った。
そして徒歩3分。 女子大の入り口、道路から門までつづく坂。 そこには満開の桜が、夜の中でなまめかしくうつくしく、並木のようになって 続いていた。 「・・・ほんとだ。すごい」 「ね、ちょっと感動的でしょ」 得意げにそう言う直人に、私はちょっと笑って頷く。 「大学の中、入る?」 そう聞かれて、私は驚く。 「入れんの?」 「入れるよ。まだ8時半だし。サークルしてる子とかいるだろうし?」 「まあ私たちも大学生って言っても通用するだろうしね」 そう言ったら、くすくすと笑って。 「オレは圏内だけど、エミコさんはわかんないけどね」 「なにおう?」 少し、肌寒くて。なんとなく、自然に直人と手をつないで歩いた。 暗闇の中。ライトアップされてかすかにひかる、舞い散る白い花びらの下。
桜。桜。 実は夜桜には、ちょっと痛い思い出がある。 直人と出会う少し前。私には別に付き合っていた人がいた。 その人とダメになった季節は春だった。 最後にその人に会ったのは、こんな風な夜桜の下だった。 たくさんの花びらが、舞い散り、風に踊っていた。 暗闇と、花びらのうすいピンク。 ライトアップされた木々、青みがかって光る夜の道。 今にも雨が降りそうで、空に月は出てなくて、暗い暗い闇だった。
むせかえる。 花の匂い? 桜にそんな、匂いなんてないはずなのに。 でも感じた。別れを前に、私の五感は冴えていた? 雨が降る直前の。 土の匂い。水の匂い。水気を充分にふくんだ空気の。
ざあっと音がして風が吹き。 はらはらと花びらが。舞い落ちる。 夜風と、白くうつくしい、無数の花びら。 夢幻の。無限の? はてなく遠い夢みたいな。 (夢?) 信じられないと心は呟く。声にならない私の声を、あの人は理解しただろうか。 伝わらなかっただろうか。 あのとき。 静けさを壊すように、「じゃあ」と彼が言った。 「さよなら」 と私の声が、うつろに花びらの間をぬって響いた。その声で、音で私は現実感を 取り戻す。 (夢じゃない。) そして私と彼の間が、果てなく遠いことを私は理解した。 そう、二人はものすごく離れてしまった。 私たちはもう二度と会わない。・・・会わないのだ。
そうやって別れた。絶望的な気持ちで、涙すら出ないような気持ちで歩いて、 そのまま家にまっすぐ帰る気持ちになれなくて、初めて“小さな家”に入った のはその夜だった。
あのときは。 また誰かを好きになるとか、思わなかった。 でも今、私は直人と手をつないでいる。隣には直人がいる。 一緒にカクテルバーなんか、飲んでいる。笑っている。しあわせな気持ちで 笑顔でいる。 「桜の下ではさ、気が狂っちゃうって言わない?」直人の声。 「小説だよね。ちょっと昔の」私の声。 夜の闇に静かに響く。 直人はソルティドッグを飲んでいて。私はテキーラサンライズを飲みながら。 「たぶん、キレイすぎるから?」 そう言って、直人と目をあわせる。 そうしたら。少しの沈黙の後で、彼は言った。 「なんかさ、匂いを感じない?」 一瞬、沈黙する。 記憶。忘れかけていた記憶。 たしかにあの時、私は匂いを感じた、そのことをふいに思い出す。 「・・・花の匂い?」 「そう。桜に匂いなんてないと思うんだけど。変だね」 静かに、でも確かな口調で直人は言った。 価値が。 あるとかないとか、そういうの。関係ないとも思う。 今こうしてるだけがすべてだと、そんなことだって思う。 でも。私たちは。 涙が出るような一瞬を共有していると思った。
・・・それが夢でも現実でも、かまわないんじゃないか?
変じゃないよ。と。 それだけを、一生懸命に言って私は、その甘いお酒を一口飲んで、泣くのを こらえた。その小さな感動を、気持ちの動きを、自分の心の中に、大切に しまいながら。
|