日記

2000年03月01日(水) 【雪と光と】

 【雪と光と】
それはある土曜日の、午後3時。
会社がお休みだった私・北原笑美子は、家を出て、近所にある行きつけの
パン屋兼喫茶店“小さな家”に向かっていた。
3月だと言うのに日本列島には寒波が押し寄せて来ていて、私は冬のコートを
着てブーツを履いて、まるで真冬の格好をして、歩いていた。
吐く息が白くて、頬にあたる空気は氷みたいに冷たい。
世界がいつもより透明度を増しているように目に映る。

途中、灰色に曇った空から、はらはらと雪が落ちてきた。
ふと立ち止まって手を広げてみると、私がはめていた赤い手袋に、白く細かい
雪の結晶が、かすかに降り積もっては溶けて消えた。
空を見上げて。舞い散る氷の結晶に一瞬見とれる。
静かだ。まるで音の無い世界みたいだ。と思いながら、私はまた歩き出す。
雪が音を吸収するとか、そういうこともあるんだろうか?

坂を下って、見慣れた“小さな家”という名前のその店の白い壁が見えてくると、
いつも、妙にほっとした気持ちになった。
それはたぶん、私だけが感じることではなくて、他のお客さんたちも思っている
ことなんだろうなあ、と。だからあの店は繁盛するんだわ。なんて。
そんなことを思いながら、てくてく歩いて、店の前までたどり着く。

「こんにちはー」
ドアを開くと、カランと乾いた鐘の音がする。
客は、女子大生ぽい女の子たちが数人。窓際のテーブルで楽しそうに幸せそうに
談笑しながら、温かいお茶を飲んでいた。
「あ、エミコさん! こんにちはー」
入り口近くにいた、アルバイトの女の子・りょうちゃんが、にこやかに笑って
迎えてくれる。
水色のタートルネックのセーターがとてもよく似合っていて、この子の爽やかな
魅力を際立たせているなあと思う。
「今日のセーターイイね、りょうちゃん。すごく似合う」
言うと、彼女は少し照れて、笑って言った。
「えー。ありがとうございます。でもエミコさんも白いコートに赤い手袋って
すごいかわいい」
えー、そんなあ。と冗談ぽく言って笑って、カウンターですか? と尋ねる
彼女に頷き、すでに私の定位置となっているカウンターの端の席にまっすぐ
行って、座った。
「いらっしゃいマセ」
氷水の入った小さなグラスを置きながら、ちょっと可愛い口調でカウンターの
中からそう言ってくる加藤直人は、私の5つ年下の恋人だ。
「雪降ってきたよ」
私が言うと、メニューを差し出しながら直人はこう言った。
「うん、雪が降ってきたなあと思いながら外眺めてたら、エミコさんが歩いて
 くるのが見えた。
 なんか、雪ってめちゃめちゃ好き? もしかして」
「え、なんで?」
「なんかはしゃいでる犬みたいな感じだったから。歩いて来る姿が」
「犬は喜び庭駆け回り、みたいな?」
「そうそう」
「なにそれ。失礼なんじゃないの?」
私の台詞にくすくすと笑う。
「ほめてるんですー」
なんて言いながら。
「どこがほめてるのよ?」
私はそう応えながら、まあいいか、と思ってメニューに目を落とす。
そんな私たちの会話を聞いて、直人の隣に立っていた、この店の店長である
ところの藤井くんが、
「なんかエミコさんだけじゃなくて、二人がじゃれてる犬みたいだよ」
と、呆れ気味の口調で言った。それを聞いて、
(・・・それこそほめ言葉ですか?)
と内心思い、私は照れ笑いで藤井くんを見る。
目が合った彼は、さあね、と言う風に肩をすくめて見せた。

「なんかまたメニュー増えてる。バナナケーキ?どんなの?」
気付いた私が、藤井くんの方を見てそう言ったら、ああ、と彼はうれしそうに
頷いた。
「さすが笑美子さん。すぐお気づきで」
「常連ですから!」
威張ってみせる私に、落ち着いた笑顔で説明をする。
「・・・ケーキと言うか、まあブレッド系なんだけどね。バナナブレッド
 みたいな感じ?
 生のバナナをたくさん入れて焼いてるから、甘くておいしいよ。
 生クリームとチョコレートソースと一緒にお楽しみください、というモノ。
 飾り付けに生のキウイとバナナ」
「すごくいい取り合わせね、それ。バナナと生クリームとチョコレート。
 でも太りそう!」
なんだかうれしい気持ちになって笑いながら言う私に、横から直人がメニューを
覗き込む。
「でも、それにする? 太るけど」
「うん、それにする! そして夜に節制するわ。
 バナナケーキとコーヒー。アメリカンで」
「なにそれ。夜に節制できるの?」
面白そうに言う直人に、私は、大丈夫です!と言うように、手をひらひらと
振って。
「女はこうと決めたらやり抜くものよ」
偉そうなフリしてそう言ったら、直人は「ハイハイ」と聞き流し、コーヒーを
淹れはじめた。

昼下がり。外ははらはらと雪が降っていて、でも今にも止みそうで、
空から日の光が差してきていた。
店の中では、BGMにかすかな音で、ピアノ曲が流されていた。
それは、明るくてなつかしくて少し軽いタッチで、でもどこか透明感があり、
神聖なイメージさえ喚起する。そんな曲だった。
どこかで聴いたことがある。
少し考えたけれどわからずに、私は呟いた。
「今流れてる曲って・・・なんだっけ。なんかすごくなつかしい感じがする」
「ええと、ジョージ・ウィンストンの、“JOY”ですね。
 邦題は“主よ、人の望みの喜びよ”。作曲者はバッハだったかな?」
りょうちゃんが私の声を聞きつけて、他の客のことを思ってか、心なしか
低い声で教えてくれる。
「ああ、知ってる・・・もともとはオーケストラの曲だよね?
 ピアノだけにアレンジしてあって、わかんなかった・・・」
「いい曲ですよね」
「そうね。そして“JOY”っていうのも、すごくいいタイトルよね」
「・・・そうですね。喜びとか、歓喜とか? そういうの。必要ですよね」
うん、と頷いて私は、静かにその曲を聴いていた。りょうちゃんも、ちょうど
他のお客を構わずにいてよかった時間帯らしく、私の傍に立って、一緒に黙って
そのうつくしいメロディーに耳を傾けていた。
「・・・意外とクラシックに詳しいよね、エミコさんって」
曲が終わる頃、直人が綺麗に盛り付けたバナナケーキとコーヒーを私の前に
丁寧な様子で置きながら、感心したように、言った。

「むかし、オーケストラ部だったのよね。学生のとき。
 その時にクラシック、結構聴いたり弾いたりしてたから、そのせいかも」
「ああ、前に言ってたね。それ」
相槌を打つ直人に「うん、そう」と頷いて、私はカウンターに頬杖ついて、
外の、淡い金色の光が空から差して来て、雪がきらきら光っているその風景を、
眺めた。あまりにも綺麗で、周りには好きな人たちがいて、一瞬、これは夢?
という気持ちになった。
「・・・しあわせってこういうことよね」
と、思わず口をついて出た言葉に、我ながら驚いた。
直人も驚いたようで、ふと動きを止めて私を見下ろして。
「なに、急に。なんか幸せについて考えちゃうようなことでもあったわけ?」
「いや、無いけど・・・なんか急に言いたくなった」
自分でもそんなことを言い出すなんて思わず、半分ぽかんとした調子で私が
言うと、直人はそれを聞いて、少し優しい目をして。
「・・・ふうん。
 それは、よかったね」
投げやりな感じではなく、その目と同じくらい優しい口調でそう言った。
そして続けた。何か、とても大切なことを言うような声の色で。
「なんか、やっぱり、好きな人と、好きな場所で、おいしいモノ食べるって
 いうのが、人生の基本なんじゃないかと思うんだよね。オレも。・・・って、
 これ、チーフの受け売りなんだけど。
 でもね、そんな風に思って、毎日サンドイッチ作ったりコーヒー淹れたり
 してるよ?」
「それはいい心がけだね」
直人の言葉に、チーフこと店長藤井くんが横から口を出してくる。
「ああ、だから皆、お客さんはこの店が好きなのよね。きっと」
「身に余るお言葉、光栄でございます」
ふざけた調子で一礼してみせる藤井くんに、私と直人は顔を見合わせ、
くすくすと笑った。隣でりょうちゃんも、そんなチーフを見て笑顔でいた。

幸せなんて、長く続くかどうかなんて、誰にもわからないことだ。
時には大きな落とし穴が待っていたり、ずっと苛酷な山登りをしている
気分になったりすることだって、この先に待ち受けていたりもするだろう。
でも、出来ることならば、いつまで続くかわからないこの空気の中に、
どうかちょっとでも長くいられますように! なんて。
そんな、少し切なさを伴った願いが、その時、私の心に浮かんでは消えた。

直人が、りょうちゃんが、藤井くんが、その時同じ気持ちでいたかどうか
なんて私にはわからない。
でも、そのとき私たちの間を流れた空気感みたいなモノを忘れずにいたい
なあと。
この大好きな人たちが、出来ればこの先、なるべくつらくありませんようにと。
そんな風に思う私は、まだまだ子供だし、甘いし、それは勝手な意見かも
しれないんだけれど。
何か大切なものを心の奥にしまうような感じで、そんな風に考えていた。


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