私季彩々
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2004年05月31日(月) 鹿手術

 鹿の手術に立ち会う機会を得た。

 その鹿は役所から運ばれてきたらしい。体の半分の数箇所に擦過傷が多数あったとのこと。袋角が切り取られたオスで、根元からかなりの出血があったよう。極めつけは右腰角部の膨瘤で、腹壁ヘルニアとみられるものだった。
 私が行った時にはすでにヘルニア部の縫合は終わるところだったが、腹圧が強く、縫合部も30針くらいに及ぶものだった。どうしても閉じない部分から大網膜が幾度もはみ出てきて、ヘルニア孔の閉鎖は困難を極めた。正直見切りで縫い合わせたといってもいい。
 その後、皮下の筋層と皮膚縫合を任された。とはいえ、複雑に裂かれた筋層を縫合するのは素人には難しい、が任された以上はしょうがない。多分この辺とこの辺が、と予想をつけて大きく縫い合わせ、細部を詰めていった。筋層だけで50針、皮下でも30針近くになった。筋層の縫いあわせで怪しいところもあったが、なんとか。特に筋層と平行に糸を掛けた場所は、収縮に耐えられるか自信がなかった。
 縫い方は、先生の1.2倍ほどかかっただろうか。大分短くなった方だ。同時に、術部は大きいが、大動物の方が手術は面白いなと感じた。

 手術は、看護学生40名の中で行われたのだが、最後まで注視していたものはほんの一握りだった。命のやり取りをしている中、それを取り巻く怠惰な空間と安心感。執刀医は術後経過を悲観し、縫合をしている私は素人もいいところという状況を誰一人感じ取ってはいなかった。

 学生時代、誰もが対象動物を殺してしまうかもしれないという恐怖感に駆られていた。補助は居るとはいえ、歳もそんなに離れていない院生だった。今は現役の臨床医ではある。だが、他人事になっている。医師と看護師との関係はそういうものではないだろう。動物の世界はまだまだこれからである。

 とはいえ、学ぶ機会をまたまた頂いて本当にありがたい。これほどありがたいということを、金を払って買っている学生が放棄している悲しさ。古今東西、同じことが繰り返されているとはいえ、私も大なり小なりそうだったとはいえ、哀しいことである。
 鹿はたぶん、野性に帰ることは無いだろう。

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 で、6月5日、彼はまだ元気に生きておりました。ありゃぁ。 Home&Photo


2004年05月26日(水) 叱責と本音

私は猫を「こいつら」と呼ぶようだ。
 え、そんな言い方をしていたっけ、と不審に思っていたが、言われてから意識していると、やはり言っている。私のこれまでの生活では全く問題が無かったのだが、急遽大きな問題になった。

 別にお金を取っているわけではない。あくまで慈善でやっている治療行為であった。が、保護団体を通じての話で複数の人間が関わっている。動物愛護団体である。
 突然押しかけてきて、この点をこっぴどく叱りつけられた。看護師や上司の前でだから正直たまらなかったが、仕方の無い状況だった。まったく情けない。
 しかし、そういうものだというのもわかる。飼主にとって動物は何より可愛い。それを「こいつら」呼ばわりされるのはむっとくるだろう。しかも治療費はタダである。何もいえない。だったら私が言ってやろうという方が現れたわけだ。会の代表者である。
 他にも、この飼主は家で35匹の猫を飼っている。「そんなに飼ってるのですか。」と聞いた一言も、先の言葉に重なって傷つけられたそうだ。悪循環とはよく言ったものである。

 私はこのことに感謝しなければならないし、実際とても感謝している。と同時に、客商売としての診療に当初から抱いていた合わなさを感じる。
 世話になっている先生に、「獣医としての尊厳を守りつつ、前向きに捉えなさい」とありがたい言葉を頂いた。今回の件はやはり全面的に私が悪い。しかし、そこに関わる人々と私の基本的な考え方の違いもわかった。それを大人らしく埋めていくのがプロなのだろう。

 人が24時間プロであり必要はないだろう。そういう状況でそういうプロでいられること。それを学ばなくてはならない。幸い私はその道のプロではないので、まだ叱責という形で受け入れることが可能だ。もしこれがその道であれば、風評悪評で御飯も食べれなくなるわけだから。

 それでも、しゃしゃりでてきた会長さん、その正義感ぶりは大嫌いです。こればかりは私の本質ですから、ここでだけちょこっと勘弁して本音。 Home&Photo


2004年05月24日(月) 拝啓、たぬき様。

 ネットの世界の片隅で文を書きつつ結構経っているようだ。

 今の私に特段の変化はないが、世はそこそこと流れている。身近な知人は入れ替わり、仕事は変わり、テレビ番組も変わっている。私の時代にヒーローだった、最前線だった人々も気がつけば入れ替わっている。目に映る人は変わっていく。その背景にある景色はそう変わっていないというのに。

 人の読み物を多く拝読して安心と刺激を頂戴しているが、その中で素敵な人々が消えていった。儚くも純粋な文字たちとの繋がりが消えてしまうことに、哀しみを込めつつ感謝の思いが募る。

 今日、もう何年にもなる大学時代の同期との銭湯通い。結局変わっていないのはここだけなのかなぁと思いながら、無邪気に笑う子供達の声に目を瞑った。

 そういえば、多くの素敵な女性達が結婚したりして筆が遠のいた。ある意味孤独な世界であるこの空間。その空間が消えたりまばらになったりすること自体が幸せの証でもあるのだろう。皆様、本当にお幸せに。

 と、いうことで、京都のたぬき様。久々のちょっと酔っ払ったついでにお話しました。良い話が聞けて何よりです。ぁぃぁぃ。 Home&Photo


2004年05月09日(日) 哀しい雨

 道路はとうに雪など無い状態になっていたが、延期を繰り返しつつ、冬タイヤを夏タイヤへ交換しに実家に帰った。が、途中支笏湖で猫を忘れたことに気がつきUターン。車内がそういえばやけに静かだなと。車に乗る時にちょこっと置いておいて、そのまま放置。90分かけて戻ると、どなたかが脇に寄せて置いてくれた。猫ちゃんごめんよ。
 で、予定を3時間以上遅れて帰省。食事もあらかた終わっていて、少し飲みながら親と話した。

 その中で、お隣りの話が出た。アルツハイマーがだんだんひどくなっているとは聞いていたが、車に乗れないほどになったとのこと。で、車を封印したのだが、それに怒って夫人を殴るようになってしまったとのことだ。それで、長男の家に一時預けているそうだ。その方はとても車が好きな人だった。今の関心事は車だけの様子。
 そして、母が新聞記事の切抜きを差し出した。17歳の未成年女子を買春して逮捕された記事だった。そこにはその長男の名があった。仕事は懲戒免職になったとの言葉が添えられた。
 そのおばさんは、とても体の弱い人だった。夫が呆け、息子が逮捕。釈放はされ、起訴は無いようだが、もう実家には帰れないという。どこまで事件の事が広がっているかわからないが、田舎町で誰も気がつかないのではと思いつつ、新聞に実名が載っているのも確かである。検索すると、2ちゃんねるに中傷の掲示があった。

 性を売り買いする。その誘惑に駆られた時、18歳未満という壁にどれだけの意味があるのか。身分証明を求めるものでもなかろう。その一線に引っかかって大きなものを失った知人。これが他人であれば一蹴ものだろうが、彼の昔の幼顔を思い浮かべると苦しくてならない。記事に載っていた年齢は、私の記憶と比べてあまりに不釣合いだ。

 夫と長男。でも一つだけいいことがあったのよと言っているそうだ。次男の就職がようやく決まったと。

 翌日、小雨が混じる中、隣りの様子を見た。庭木よりも芝生を大きく取った庭。元気な子供達が自由に遊べるように、だろう。確かにそうだった。奥にはガレージと一体になった車庫。そのどちらも色褪せて、禿げた芝が目立つ。部屋のどの窓もレースがかかっていた。

 その家のすぐ前から、黄色い帽子を被った子供達がバスに乗っていった。きっと、幾つの子供を持っている親でも、その光景の中に自分の子の過去を見て、送るのだろう。

 哀しい雨は、その後少しだけ強くなった。 Home&Photo


2004年05月08日(土) ハウスがけ

 畑には先日、じゃがいも、大根、セロリ、みょうがを植えたり蒔いたりした。捨てられていたビニルハウスのビニルを土に敷いて(マルチと言うそうだ)、保温効果を期待した。

 で、今日はハウスがけをした。骨組みだけのハウスにビニルをかけるのだが、それだけでもいろいろ要領がある。まず、あれだけの構造物がふきっさらしの平地を抜ける風に耐えられるというのが意外だったが、固定は意外と簡単で、鉄の杭だけだった。もちろん螺子を切ってあるのだが、それらにワイヤーを張ってハウスのビニールを紐で押さえつけている。意外と簡単なものだった。だからこそ応用できるのだろうが。

 温かな日差しの中、横に仔山羊達がはねる中、仕事を仲間とするというのは素敵なものだ。「室内でずっとする仕事に魅力を感じない。農家の嫁になりたい。」という学生も一人連れてきてみた。甘いと言われようが、その考え方に一理あると思える人は多いだろう。彼女は牛すら触ったことがない。

 お仕事を手伝って、契約を超えてハウス内の一角を分けてくださった。トマトとスイカとメロンに挑戦しようと盛り上がりつつ、素敵な一歩は笑いながら進んでいる。いや、素敵。 Home&Photo


2004年05月02日(日) 犬のプロその1

 犬という生き物にはさほど興味がなかった。犬派猫派と問われれば、猫派と答えた。実際猫はこれまで2匹飼っている。
 どちらかというと、冷めた人間像に憧れた時期が長かったためか、猫的なものに惹かれていた。だからといって犬が嫌いなわけではなかったのだが。

 それが、何故だか犬づいている。シェパードとか、ラブラドールとか、可愛い雑種達とか。それに伴って、アジリティ−(障害物競走)、家庭犬服従訓練(いわゆる「しつけ」)とか、それを大まじめにやっている超一流の人々やハイアマチュアを見る機会に恵まれ、見る視点も変わってきた。可愛いだけや、産業としてだけ見るよりも、ずっと奥が深いのである。
 尻尾を振っていれば喜んでいる、というのは確からしいが、彼らは結構疲れやすい。生態から考えれば当然なのだが、持久派というよりはスプリンターだ。おまけに移り気だ。集中力はそうは持たない。サービス精神は大性だから、疲れが溜まっても気がつきにくい。ついでに忘れっぽい。
 これら性質をわきまえると、犬との付き合い方はかなりドライになる。メリハリが付く。集中力を高めた犬達の動きは素晴らしく、それを指示する訓練士もまた機を捕まえる鋭さを磨いている。

 もののみちには様々な一流があって、それはそれで美しいものだ。一方で、それらは純粋すぎて何かを捨てているようにも思える。聞いた訓練士の話では、彼らは犬を一つ二つと数えることも多いとのこと。バリケン(犬の持ち運び可能なケージ)から出すのは1日15分と訓練の時間のみ。もちろん訓練=遊びなのだが、犬と一緒に暮らしを愉しみたいという層とはまた別次元の話だ。その接点がさらに広がっていけば、欧米並みの犬社会がやってくるのだろう。

 社会性を持った動物は数多いが、人の暮らしにこれほど入り込んだ動物はないだろう。そういった動物である犬を、大きな1BOX車に何匹もつれてやってくる人々。アマチュアは愉しみつつ厳しく、プロは際限なく先鋭で厳しく。

 先日、半年齢というラブラドールと関わった。室内犬だったが、市役所に持ち込まれたそうだ。血統書もある元気な人懐っこい犬。

 なにはともあれ、犬は人に関わってこそ幸せである。そういう歴史をもった我々の友である。そういう世界を見る機会を得たことに、単純に感謝している。
 そうして、部屋で猫と戯れるのは格段に幸せである。 Home&Photo


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