私季彩々
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2001年10月31日(水) 藍空の冷気集める合鍵を差し込めぬまま外で君待つ

 無造作に鍵束が投げ出されている。

 いつも、朝どこに鍵を置いたかとバタバタしてしまう。玄関、ズボン、テーブル・・・、あらゆる可能性を紐解いてもでてこない時は、前日帰宅時の様子を思い返す。買い物袋をなげだして、熱帯魚に餌をやって、すぐに布団に倒れこんだ、などなど、いいかげんな私生活にほとほと嫌気が差す。けれど、長年続いたこの悪習もすでに計算に入っていると見えて、不思議とぎりぎりに見つかって、何とか間に合うようになっている。人間なかなかうまく出来ているものだ。

 現在ついている鍵は4つ。家と車と会社2つ。皆様はいったいどれくらい持っているものなのだろうか。
 以前にとんでもない人がいた。合鍵を30くらいブラブラさせている女性だ。学生時代の話だが、男友達の部屋の鍵を勝手に拝借して合鍵を作ってしまうのだ。そして勝手に入り込んでしまう。ほとんど犯罪の世界だが、みんな彼女には寛容で(というか少し哀れみもあって)しばらくして落ち着いた。
 彼女は他大学の学生だったが、何故かうちの大学のサークルに入り浸って、そっちにはほとんど行ってなかった。唯一といっていい人間関係の場所に、反動的に解放したかのようだった。受け入れられた証が”鍵”だったように思える。
 一つの鍵なら恋人の合鍵のようなものだが、それが30ともなれば、その意味合いがないことははっきりする。じゃらじゃらと鳴らす鍵束は彼女なりの安心の証だと思える。ここの場所は私がいてもいい空間だという事の証。

 いつしかその矛盾も消えて鍵束はなくなった。そうしなくてもいられることに気がついたようだ。それ以前に、そんな彼女を許した連中というのがすごいなと、今になって思う。

 鍵を開けるのはけっこう勇気のいる事だったりする。預けるのも渡されるのも。お互いの間にあった扉でわかりやすかった距離のとり方も、その鍵を開けた途端に綺麗に交わるわけではない。そこから始まるという事かもしれない。

 鍵束に鍵は4つ。見える鍵は4つ。他にはまだあるのかな、私には。

 藍空の冷気集める合鍵を差し込めぬまま外で君待つ Home&Photo


2001年10月30日(火) 殺す事は学ばせるべき事?

 例えば小学校の林間学校で、チキンカレーを作るとする。”ニワトリを絞めて殺すところから始めましょう”、と先生が言いました。さてどうでしょうか。そんな話題が職員室で始まった。

 ほとんどの子供達にとってそんな経験は皆無であるでしょうし、保護者も先生も同様でしょう。今時そんなことをする事はないと思われる。
 現在60歳くらいの先生達と話すと、そういうことも昔はあったそうだ。30年も昔であれば、動物を食べるために飼っていた家もあったそうで、積極的に関わった子もいたそうだ。
 現在魚すらさばいたことのない子供達に、いきなり命を奪う事の業を強制することはいかがなものか。かえってトラウマとなって残ってしまいそうで少々怖くもある。

 私は田舎で育ったが動物を飼ったことはない。でも魚釣りが好きだったので良くさばいたものだ。学校では蛙の解剖すらやったことはなかったが。けれどあのころニワトリをさばけといわれたら無理だろう。そんな私だが大学に進むと大量殺戮をわりかし平気で行った。馬に始まり牛羊犬猫鶏兎鼠・・・。ほとんどの同期は必要と割り切って。

 ムツゴロウこと畑正憲氏が、どこかの旅で連れて行った羊を殺して食べていた事があった。動物は愛しいが人間とは違う。環境や状況によって命との対峙の仕方は変わるものだ。

 現在のように殺す事が日常から遠ざかった世界というのはやはり幸せな事だと思う。その上で、それを生業にする人がいることを教えるべきであるし自然に知っていくことでしょう。
 そもそも親がやった事もないことを子供に強制するのはいかがなものか。どうせなら子供の前で親がまず行動すべきだろう。

 あ、なんかボーイスカウトの話になってしまった。
 自然や命と対峙する事は親の属性に入るものだと思う。犬をかわいがる事とニワトリを絞める事は矛盾しないという事。一番怖いのは過激な博愛主義だと思ったのでした。
 その時座っていた面々は全て殺した事のある人々だったわけですが。 Home&Photo


2001年10月29日(月) YAHOO ADSL導入完了

 大騒ぎしながらも我が家にADSLがやってきた。YAHOOのBBだがこれが導入までの対応が悪いとネットの世界では悪評判ことかかない。
 私の場合はモデム配達に際するトラブルだ。いろいろ事情があって発送元に送り返されてしまったのだ。再送の手続きがなかなか大変だった。
 まず電話のやり取りが出来ない。対応はメールのみなのだが、その返事はほとんど期待できない。苦情が多くて対応しきれていないようだ。
 インターネットで電話番号を調べたらほとんど話中か無視。状況は散々だ。
 クロネコヤマト経由で連絡してもらったらすぐ電話がきた。一般ユーザーの電話は後回し。これは厳しい。で、電話も折り返し電話をかけますとのこと。不在がちの私はまずでられない。絶対に電話番号は教えたくないようだ。
 結局クレームの処理はクロネコ経由でなんとかなった。正式なやり取りであるメールでは何の進展もなかった。

 そう考えると電話というのは非常に効率的でこまやかな対応といえる。住所確認のやり取りを責任者と一度話せば済むはずなのに、メールのやり取りでは複数回必要になった。おまけに返事は3週間後では話にならない。
 メールは対応するものにとっては便利だけれど、すぐにまどろっこしくなってしまう。電話ならすぐ終わるのに、と思ったらもうだめだ。

 苦情対応って本当に大変だと思うけれど、だからって無視していては信用は失墜する。その点クロネコは見事だった。

 まぁいろいろ愚痴言ったけれど、DSLは快適です。一日30分以上使うなら元は取れますよ。 Home&Photo


2001年10月28日(日) 雨傘天傘八宮

 会社を出ようとすると雨が降っていた。出鼻をくじかれて泊まって行こうかとも思ったが、後輩のロッカーをあさってビニル傘を手に入れた。
 自転車を置いていかなくてはならないから、ちょと気分が悪かったけれど、傘に当たる雨音で回復。私はこの音が好きなのだ。
 開けたばかりのビニル傘には、まず大きな雫が乗る。いくつかの大きな雫が傘の曲面に点々と星座のような図を描き出す。歩みが慎重になる。
 やがて流れ星が現れる。細かな雫がくっつく。国道を流れる車は天の川。移り変わる信号はエキセントリックな満月とでもいえようか。

 歩くにつれて、雫は細かい霧状となる。星座の姿はわからなくなった。傘の骨組みは8つ。天空十二宮とはいわないが雨傘にも宮殿は8つあるということで。
 そんな中、ホテルの明かり、点滅する灯り、流れる車、高層ホテルの窓明かり、公営住宅の明かりetc...。天傘8宮にもそれぞれ主がいらっしゃるようで。

 堤防上の道には誰も歩いていない。雨に沈むアスファルトは暗い。堤防を降りると枯葉がひとひら。いつもはただ地面に落ちるのみだが、濡れた傘にはぴたりと張り付いて離れない。

 そんななか裏通りに小さな一輪の薔薇が落ちていた。

 なんか絵になるハードボイルドな上映終了となった雨の夜でした。
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 ビニル傘 雫の星座 流れ星 プラネタリウム雨天上映

 ビニル傘にドームの街宇宙(まちぞら)広がれり
                   骨組み分けるネオン八宮

 一人歩む 傘に貼り添う 落ち葉かな

 濡れそぼるアスファルト地に残る薔薇 彼の足跡も彼女の香もなし Home&Photo


2001年10月27日(土) 獣医学生初実習

命抱く子宮の脈に手が触れる
     仔を滅さんとする我の手に

生業は非常なりしと知りつつも
     死のメス握る白き小部屋で

我業に敗れしもまた事実なり
     とりあげたる仔可愛く眠れど

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4月21日記

 今日は急に冷え込んだ。外に出て気がついたのだけど、戻るのもめんどくさい。1枚脱いだセーターは置いてけぼりの恨みを残し、我が身は寒さに震えた。そういえば、あの日も半袖の白衣がまだ早い頃だった。

 もう6年も前の話だが、4月の第三木曜日に初めて猫の避妊手術をした。その時別のグループの猫が問題だった。その猫は某教授の飼い猫だったが、いいかげんなことにお腹を開けると子宮がやけに大きい。おいおい、そんなことは聞いてないぞ。と、中にはもう生まれんばかりの子猫が4匹入っていた。
 こういう場合はそのまま安楽死となるのが普通だ。なにしろ引き取り手などいない猫だ。考え方もあろうが獣医の立場で考えるとそうなるだろう。が、それはまだ卵の女学生。帝王切開と相成った。これには結構批判も多かった。

 母猫から完全に離して子猫を育てるのは大変だ。初乳を手に入れるのも一苦労。授乳も数時間おき、排便も刺激しないといけない。1月弱は付きっ切りとなる。保温器代わりの白熱球の明かりの中、彼女彼らはすくすくと育った。が、一番大きいのが下痢をして死んでしまった。
 それからが大変だった。飼い主探しとなるとそう簡単には行かない。生ませた以上は責任を持って育てないといけない。結局2匹は学生の間で何とかすることになった。その1匹は私の友人が引き取った。

 その猫を飼っていた彼女は大家さんにばれて追い出されそうになったが、何とか説得して礼金を払って飼いつづけてくれた。今では彼女にとって何にも替え難いパートナーとなっている。たまたま生きた命が素敵な力を持った。本当にうれしいことだ。
 その猫宛にこの時期に写真集を贈っている。気がつけば、送り先は札幌から広島へと変わった。猫をとても可愛がっていたという彼女のお父さんの訃報が届いた。

 去年はいろいろあって送れなかったけど、生まれてすぐの写真が2枚手に入った。去年の分をあわせて6冊目の写真集となる。私にも6年の時が流れたということだ。
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2001年10月26日(金) 自転車再発見

 2週間ほど前に自転車が盗まれたのだが、行く先々で似た自転車を覗き込んだ。札幌駅の高架下には多分放置自転車であろうものが山と積まれていたのだが、その一台一台を眺めていた。柵越しには一台だけ自転車が普通に泊めてあって、放置と使われている自転車の間にある大きな溝を映し出していた。

 本日の帰り道、そういえば”白線流し”をみたいなと急いでいると、見覚えのある自転車が。色も同じ。お、鍵が一つ壊されている・・・。大阪府高槻市の防犯登録シールが・・・。これは・・・。
 わずか盗まれた場所から数十メートル。あまりに大胆な泥棒さんに遭遇してしまった。急いで帰って鍵を取ってきてかける。とりあえず確保できたけれど、泥棒さんの鍵がかかっててもってくわけにも行かない。

 うーーん。これは警察に行ってみるか。
 近所の警察には誰もいない。パトロール中の看板が出ていた。何もない殺風景な派出所。盗めるとしたら座布団くらいだ。電話を取って事情を説明すると、しばらく経って警察がきた。
 問題なのは、届も出していなければこの自転車がもらい物で、私のものだという証拠がどこにもないこと。数々の状況証拠を並べつつ現場に行った。
 で、あっさり私のものと認定。鍵の壊した後が決定的なのか、いとも簡単に。しかも泥棒鍵まで切ってくれるという親切さでした。しかし、あんなに簡単に切れるんだねぇ。
 その自転車が止まっていた建物の中に犯人がいたわけだがそこまで追求しなかった。まぁいいか。けど、盗まれた自転車をまた乗るというのは嫌なものだ。また盗まれかねないし。

 まぁ戻ってきたのはうれしい事。あきらめちゃいけんのね。 Home&Photo


2001年10月25日(木) 吐く息は降りたる雲か 三ツ星の姿広がりオリオンとなる

 木枯らし舞う、一段と寒い日だ。下ばかり見て歩いていても、舞う落ち葉が自己主張の強い風たちの姿を映し出している。勢い良くカサカサとアスファルトを掻き鳴らす音に遅れて、空き缶の転がる甲高い音がなんとも間が抜けておかしく感じられる。その音は個性豊かで、潰れた姿もまたそれぞれである事がはっきりわかったりする。
 落ち葉の姿も多々あるけれど、やっぱり美しいのは銀杏の姿。扇形に真中に入った切れ込みがなんともチャーミングだ。何より美しいのは、黄色の中に淡い黄緑が混じるところ。まだ染まり足りない葉達も落としてしまう木枯らしは、行き急ぐ秋の姿なのかもしれない。

 深夜の帰宅となった。
 夜になってさらに気温は下がったのか、セーター一枚では寒さもこたえる。曇天の空の下、家路に着く。夜の街には自分の咳払い一つがやけに響く。
 吐く息は白。街灯の隙間に入ると、目の前で霧達が凝集していくのがわかる。灯りの下でそれらはぼやけ、通りの中ほどの暗がりで再び現れる。そんな繰り返しがしばらく続いた。さらに冷え込んだ気がした。息はさらに白くなった。
 手に息を吹きかけて眼を斜め上に向けると、さっきまではなかった星がちらほら見える。南の空には横に並ぶ3つの星達がはっきりと現れて、徐々に深い藍色の空が広がっていく。見上げると、吐く息が目の前に小さな雲を作っては消えていく。その雲越しに空はどんどん広がって、オリオンの姿がはっきりと現れた。

 冬の季節に映える星座たちが高くなる季節。彼らの現れた日の冷え込みは、さらに厳しくなる。
 白い大地にオリオンを眺める季節は、すぐそこになっています。


 黄金地に緑重なる銀杏絵は秋のデッサン木枯らしに消ゆ

 吐く息は降りたる雲か 三ツ星の姿広がりオリオンとなる Home&Photo


2001年10月24日(水) 音消せど光るナンバー壁染めて 闇に隠れし我を捕らえる

 学生さんの机の上に、携帯電話が3つ充電中。男も女も、みんな机の上に乗っけている。さすがに着メロこそ鳴らないが、バイブレーションだって机の上に乗っけておけばいい音が鳴る。バイト先の昼休みも、どの女の子もメールを打っている。

 私は貧乏なので携帯を持っていないが、今時珍しい。そんな私も困った事が2回ほどある。一度は飲み屋で隣に座ったおもろい男女二人と意気投合した折に、電話番号の交換を出来なかった事。これは痛かった。もう一度飲みたい。もうひとつは、公衆電話とか出先の電話からだと電話に出てくれないことだ。かけている相手がわからないと、無視されてしまう。間違い電話などは許されないわけだ。
 そんな目くじら立てなくても、と思うのだが、そうは言ってられないほど悪戯電話やナンパ電話がかかってくるらしい。まぁ、あれだけみんなが電話をいじっていれば、そういうことになるのかもしれない。

 そんな中、固定電話の立場は危うい。インターネット専用という人は少なくない。私に言わせれば、あんな高い料金の電話で10分と話す気が知れないのだが、相手がそれしかもってないとなれば、合せざるを得ない。全く迷惑な話だ。電話料金を見ると、通話料のほとんどが携帯電話相手だったりする。

 携帯とは相手に対してかかるもの。固定電話は場所に対してかかるもの。第一声は”今大丈夫?”か”今どこ?”だ。どこにいるかわからない相手に電話がかかる。この違和感にさいなまれている人は、もはや”古い人”ということだろう。

 留守番電話のやり取りに涙していたドラマも、いつしか走りながら会話する時代になった。空間を越えて走り出した二人が、同じ場所に着いて電話を切る。誰にも邪魔されない、誰がでるか保証されたツール。そんな時代に恋愛の形も出会いの形も大きく変化した。
 そういうわけで、私はその変化に取り残されているわけです。でも、特定の空間を示す番号のもつドラマ性も悪くないなと思う。黒電話時代とまでは言わないけれど、ボタンが光るプッシュタイプのFAXフォンを最近もらって使っています。

 諳んじた番号主は去りにけり かつて訪ねた窓を見上げて 

 ”お帰り”だけ言いたい私は古い人 いつでもつながる電話じゃできぬ 

 音消せど光るナンバー壁染めて 闇に隠れし我を捕らえる Home&Photo


2001年10月22日(月) 並木道 落ち葉集める熊手から流れる音にシンクロする朝

 自転車をなくしてからてくてく歩く日々が復活している。朝の道すがら、時間に余裕があるときは、大通りからすすきのを抜ける。朝ごはん代わりの吉野家が目当てなのだけれど。

 交通量の多い交差点には信号がなく、歩道橋しかない。いつもなら道を横切るところだが,なんとなく気分がよかったので利用してみた。
 いつも地平を歩いているものにとって,数メートル高いところを歩くというのは以外にない。枝垂れ柳のかかる緑残る創生川を越えると,黄色く輝く並木に覆われた大通りが連なる。
 足を投げ出している警官が中にいるのんびりとした派出所前には、落ち葉を集める清掃員の方々が方々にいた。その熊手が通りを掻く音がシャリシャリと心地よい。
 水の止まった噴水前のベンチには,コートをかぶった人が丸まって横になっている。見晴らしのよい秋の朝、彼等の背景には素晴らしい大通りのスコープ越しに、手稲山の紅葉が広がっていた。

 帰り道はやや東側を通る。信号にいちいち脚をとめるのがわずらわしいので中通を通る。車の間をすり抜けて、閑散とした中通りをとおるのが私のお気に入りだ。昔ながらの古い小さなお店や床屋さん、怪しげな中国語が並ぶ輸入雑貨の店があったりと、なかなか楽しい。
 そんな中、いつやってるのだかわからない美術工芸品店の横にしゃれたお店があって、魚河岸近くのヤン衆ぽい雰囲気の中、かっこいい大人な方々が楽しげに飲んでいる。二条通りはすぐそばで、観光客が通る大通りに比べて、中通は閑散としながらも生活臭が漂う。猫達がちらほら。丸まっているがじっとこっちを眺めている。・・・・・。なんとなく邪魔そうだ。しくしく。

 並木道 落ち葉集める熊手から流れる音にシンクロする朝

 身を折りて浅く眠りしベンチの彼に 爽やかな朝は残酷なりしか 

 黒も三毛も一見さんには愛想なし 魚河岸裏の陽だまり通り Home&Photo


2001年10月21日(日) ”くつろげよ”言われて崩し苦笑い わたしゃ正座が楽なのだけど

TVでお父さんが運動会で走っている最中によく転ぶというのをやっている。結論的には足首の可動性や筋肉の弱化の影響とのこと。それを確かめるためには、しゃがんで両手を背中の後ろにのばしたとき転ぶとアウトらしい。そういったバランスの弱化は運動不足というよりも日常生活の変化にあるようだ。
 椅子の生活になって正座やあぐらがない。和式便所はもうない。布団からベットになっている。膝を90度以上曲げる必要がない生活をしているということが原因らしい。

 そう考えると私は全く問題がない。今こうして椅子に座ってパソコンを打っているがその上で正座をしている。食事はテーブルに正座じゃないと落ち着かない。部屋が狭いのでもちろん布団(万年床だけど)。部屋のトイレこそ洋式だが店ではいるときは和式を選ぶ。最近は全て洋式が多いのでやむなく座るが最近その快適さに気がついたところだ。

 葬式のときはしばらくは正座だが、そのうちみんな脚を崩していく。女性でもお尻を落としていく中、私だけがいつまでも正座でいた。
 以前よく麻雀をやっていたころは、一人正座でよくからかわれたが戦績は私がトップだった。
 膝の靭帯を切った時に一番困ったのは、食事のとき正座できないことだった。いまでもあぐらよりも正座のほうがなじむ。そういう性質は何故なのだろうか。結局今でも座り方は正座。飲みに行っても畳敷きの方が落ち着く。

 多分、食事が正座だったからだろう。男であればそのうちあぐらに変わるのだろうが、何故か私は変わらなかった。ご飯をよそって納豆をかきまぜて目玉焼きを並べる。質素な自炊ながら座布団の上でやっぱり正座している私は、田舎の食卓と連続した存在だという事にちょと気付いてみたりする。

 改まっているわけではないのだがそう見られる事もある。敷居を高くしているように思われたこともある。そんなつもりはないのだけれど、しぐさというのはそういうものだ。
 まぁ、そんなこともあったけれど、そのおかげで足首が柔らかいのであれば良しとしましょうか。

 ”くつろげよ”言われて崩し苦笑い わたしゃ正座が楽なのだけど

 本日26時磁気嵐が到来。北海道でオーロラが見れるか? Home&Photo


2001年10月20日(土) "好きです"と告げた私に微笑んで”Hello!”と返す君留学生

 私の通っていた大学(まぁ今も籍はあるのだが)は地方大学だからあまり留学生はいない。とはいっても全部で200人くらいはいるのだろうか(根拠はない)。ざっとみると中国や韓国からの人が多いが、中東やヨーロッパからの人もいる。理科系にはアジア系、文系には欧米の人が多いというのはあるかもしれない。

 彼らはたいてい大学院に留学してくるので、院ならばそこそこ接する事がある。私の教室には30歳くらいの中国からの留学生がいた。お医者さんだけれど解剖の勉強にきていたのだ。他にも30代くらいの人は多く、けっこうのんびりと実験を繰り返していた。最先端の研究をするというよりも、勉強をして基本を身に付けつつ学位を取るという感じだ。まぁ医学部ということで、学位のレベルはそこそこでも十分取れる。結婚してる方が多いが独身の人もいた。

 学部の頃はザンビアから留学生が一人きた。日本人の中に黒い肌の人が一人いると随分目立つ。ほとんど言葉が出来ないからお互い不確かな英語を交えてなんとかコミニケーションをとる努力をした。宴会の時は豚肉を出さないように店の人に頼んだものだ。お祈りはしてなかったのだけれども。
 そういえば、4階の南西の部屋には絨毯を敷いた小スペースがあった。イスラムの方々がお祈りをしていたのだろう。

 外国で勉強するというのはなかなか大変だろうな、と思う。特に言葉がほとんどわからないまま来る方々が多くてその度胸には恐れ入る。中国や韓国だと多少仲間がいるから、そこを支えに積極的になれるようだが、ザンビアの彼は厳しそうだった。私達にも問題はあるのだが。けれど迎える方はけっこう人懐っこい感じというのが彼らから聞いた感想だ。なかには留学生と恋に落ちる人もいるだろう。あいにく私の周りに女性留学生はいなかったけれど。本当に言葉の通じない恋愛というのはどんなものなのでしょうかねぇ。ちょと切なさそう。

 私は結局外国に出る機会がなかったけれど、行ったらどうなるのかなぁ。人付き合いは苦手な方だけれどけっこううまくいったりするかもしれない。殻を破ってみたりする?
 アフリカにサルの友達になりに行った奴とか、インドの山奥に行ったのとか、フィリピンで水牛飼ってみたりしてる奴だとか、やりたいと思ったことはやるっきゃないですな。彼らは結局何とかなっていますから。
 でも私はどうなるのだろう? あ、やばやばっす。あはは。

 "好きです"と告げた私に微笑んで”Hello!”と返す君留学生

 他短歌3首アップ。おちゃらけモード。 Home&Photo


2001年10月19日(金) 祝 黒板五郎 富良野名誉市民 

ほぼ日替わり帳(011019 Vol.157)
 てくてく堤防沿いに歩いて帰った。大抵は歩き出せば体も火照ってくるのだけど今日は丁度いいくらい。国道沿いの電光掲示板は11℃だった。

 堤防沿いはあまり利用価値がないのか、古い旅館やホテルが並ぶ。そんな中、一人の腰を曲げたおばさんが愛想よく笑いかけてきた。こちらも頭を下げる。すると、
 ”お兄ちゃん、いい娘おるんだけれど・・・”
 いまいち押しの弱い客引きに驚きつつも通り過ぎた。すすきのの街中ならいざ知らず、こんな人気のないところで遭遇するとは奇妙な感じ。おばさんというよりおばあさん。なにやらいわくありげな気もするが、まぁ危ない橋をわたるわけにもいかんさね。その気もないけれど。

 東3丁目あたりを北上。西側に目をやると賑やかなすすきのの明かりがちらつく。数百メートル向うには世にも名高き歓楽街だがその勢力範囲はそんなに広くない。このあたりではコンビにすらまばらだ。人影も少ない。
 そんななか壁一面に鈍い灯りが。スポーツ新聞が一面に貼ってある。新聞社の壁新聞だ。イチローだとかアフガンだとか、そんな話題がちらほら。通り過ぎようとして・・・、お?

 ”五郎さん名誉市民”
 おお! 五郎さんといえばあの黒板の五郎さん。富良野名誉市民!
 わが永遠の名作である”北の国から”から5名(黒板五郎・純・蛍・ゆきこおばさん・中畑のおじさん)&さだまさしさんが名誉市民になるそうだ。思わず食い入ってみる。

 今年も何度か足を運んだ富良野はもちろんドラマの撮影地。スペシャルドラマが出るたびに観光熱も上昇していた。それもこのドラマのおかげでしょう。俗っぽい中にも守られるものがあるのはこのドラマのコンセプトを理解していてこそという気がしまもの。

 現在撮影中の”遺言”で最終回とのこと。残念だけれどもやむおえないところでしょうか。でも、終ってしまうなんて・・・、悲しい。思えば、水道を通して感動し、初恋で”れいちゃん”に惚れ、蛍に子供ができて泣き、草太兄ちゃんのスピーチを聞いて鼻水を垂れ流した私だ。これが悲しくなくてなんだというのだろうか?

 で、あらすじを読んでしまった・・・。
 どっひゃー。確かにあれから5年。リアルタイムで日がたっているとはいえ設定が・・・。だって私’98”巣立ち”をつい最近観たばかりなのよ。よよよ。

 とにかく来年夏でおわり。主役は五郎さん。それをわすれちゃあいけないよ、です。

 でも、真夜中に暗がりに浮かぶ中新聞を読む私はさぞ不気味だったでしょう。犬もよけていったしね。 Home&Photo


2001年10月18日(木) 立ち退き勧告来たる

 このホームページをおかせてもらっている無料サーバーからメールがきた。今年のクリスマスでサービスを終了するそうだ。まさか立ち退きを勧告されるとは。世の中大家も大変そうだ。さて、次のお部屋を探さなくてはいけない。

 3ヶ月ほど前に申し込んですっかり忘れていたYAHOO!のADSLから連絡があってモデム等を送るとのこと。私もいよいよブロードバンドか、と思って待っているが一向に届かない。噂どおりの対応の悪さ、どうしてくれよう。

 そういうわけで転居先はどんなお部屋がいいかしら?
 日当たりが良くて景色が良くてコンビニ近くて駐車場もあって・・・・。なんて環境はネットのアドレスには関係ないのねぇ。まぁYAHOOのやつが順調なら広告のない軽いサーバーになるのかな。

 でも環境は私のデザイン。このページ、思いつきで3時間で作って以来全く手を加えていない。名前も我ながらいいかげん。もともと山仲間を増やしたいと思ったものの年に数回でかけるだけの私にはそれほどのコンテンツもないし、花写真もいまいちインパクトがない。日記も実は全然日記ではなくその日の出来事を書いているのもほんとのわずかだったりする。まぁ実はそれがメインだったりするかも。
 ネットを散策してるのターゲットを絞ったシンプルなページに惹かれる私。けれど私は深い趣味もないし書くことは散漫。結局まとまりがない。ないなりにリニューアルしないといけない。体よくおいだされるのだから、捨てるものは捨てて新生しましょうか。

 ということで、追い出される事になりました。それにめげずどこかで生きていきます。わずかづつですがカウンターも回っていますので見てくださる方もいるようで、感謝感激でございます。

 よろしかったらまた付き合ってくださいね。本当に追い出されるのはクリスマスだから気が早いけれどさ。 Home&Photo


2001年10月16日(火) 古下宿 かつてあふれた下駄箱も今は靴なく母は老いたり

寝不足で仕事を終えて途中にある友人の家にトイレを借りによった。ついでにちょと一休みと思ってベットに横たわったら、そのまま3時間寝ていた。なんて迷惑な奴なのでしょう。それでもほっといてくれたあなたに感謝です。

 その友人は今では珍しい古下宿にすんでいる。6畳一間が連なる二階建て。一間9000円と格安だ。そいつは2間ぶち抜きに住んでいるので18000円だそうだ。
 部屋の数は14部屋くらいはあるのだが、住んでいるのは管理人と友人しかいない。今時こんな下宿に住む学生はほとんどいないのだ。と、思うと部屋にはすべて名札がかかっている。
 話によるとすべて誰かが借りているらしい。物置などとして利用しているそうだ。確かに9000円なら利用法も多様に考えられるだろう。

 かつては若い学生で溢れたであろう廊下もいまはただ薄暗い。下駄箱には靴もなく部屋は主はあっても鍵は閉められたまま。かつては陽気だったかもしれないおばあちゃんも笑顔がない。そんな中店子として住んでいる彼は学生を終えて長くなる。

 階段を上るときにはきしむ音が廊下中に響く。ドタバタ走っても気兼ねのなかった頃は20年は以前の話。今ではおそるおそる登るが、きしみは決して消えない。
 かつてはこの音で来客に気がついたのかもしれない。コンクリートの階段にはないドラマがあったりしたのだろうか、などというのは考えすぎか。

 私がはじめて札幌にきた頃にはまだ学生下宿は健在だった。いくつかのなかには多くの友人がいた。そのほとんどが取り壊されてこぎれいなワンルームマンションになっている。
 世には10000円で暮らせるなら暮らしたいという人もいる。そのためにも古い建物も是非残してもらいたい。東京ならば夢をおいつつ古長屋に暮らす若者もいるだろう。けれど地方ではそんな環境もなくなりつつある。確かにこんな部屋に住もうなどという人は随分少なくなっている。
 廊下には人はなく冷たい。きしむ音が反響する。これから冬になればさらに厳しくなるであろう。必要なのは人の温かさなのだけれども。

 古階段 きしむ音色で飯を盛る 賑やかなりし下宿屋の朝

 古廊下 ドッタン賑やか2号室 ミシリとか細い音は5号の子

 古下宿 かつてあふれた下駄箱も今は靴なく母は老いたり Home&Photo


2001年10月15日(月) わが人生の名言とは? 

 中途半端に午後の時間が空いたのでぷらぷら歩いた。遅い昼飯でもと通りを歩いていてもめぼしい飯屋はどこも暖簾が閉まっていてランチタイムも終了してしまっている。あるき疲れた先にあったBook Offの黄色い看板をくぐる事になった。
 古本屋でまず見るのは植物本と山の本。値段が張る本なので100円で買えればもうけものである。1冊手ごろなものがあったので入手。北海道文学散歩というのもGet.。本情報のほとんどない私は地域史的なものにも関心がある。
 そのあとは文庫本探しとなる。といっても作家をほとんど知らないので決ったものばかりに目が行く。今回は寺山修司を3冊。”ポケットに名言を”他。

 ”花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生さ” 井伏鱒二
 (花發多風雨 人生足別離 の訳)
 どうしてこれがこうなるのだろうか。生きた言葉と乾いた肌触りがこたえられない。

 ”君は、小さい時サンタクロースを信じ、大人になっては神を信じるんだ”
 ”そしていつも想像力の不足になやむんだ” (野いちご)
 神か想像力か。想像力の中で神を見出すのか、神の前で想像力などは一切邪魔なのか。最近私が思う疑問だ。聖書に全て書かれていると私の友人はいう。彼が寝食を忘れて学ぶ神学とは既知のものを紐解くだけなのか。そこに想像力は必要ないのか。信じるものを定めなくては、方向性の定まらない想像力は堕落していくだけなのか。

 三浦綾子さんも最近はよく読む。彼女は生粋のキリスト教者だ。
 ”復讐心は神にゆだねなさい それは神の御技です”
 人が制御できないものは持つべきではないというのなら合理的だ。しかし私達はそれを放棄できないまま数千年の文明を生きている。キリスト教盛んなかの国でこの言葉の意味はどれほどの重みを持つのだろう。武力行使を容認する議会決議で、ただ一人反対を表明した女性議員がいたそうだ。

 読みふけっていた私の耳に”♪ミニモニ携帯リンリンリン〜♪”。
 今が盛りのミニモニの曲。脱力感とおかしさで肩がちょっと震えた。
 ”名言を必要とする時代は、もっと不幸だ”(ブレヒト 英雄論)
 間違いなくミニモニは名言でも名曲でもないがまぎれもない現在であり無垢である。

 ”小さい子供が初めて笑うとき、その笑いは全然何を表現しているものでもない。幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい。”(幸福論 アラン)

 あっという間に読み終えてしまいました。
 寺山氏といえば”明日のジョー”の主題歌だ。その程度の私にも詩人の魂を感じさせてくれる破天荒さに惚れ惚れ。
 この本を開くときには常にミニモニが浮かぶ事でしょうがそれもまた許容してくれる事でありましょう。 Home&Photo


2001年10月14日(日) ”暑いね”とセーター脱いで佇めば秋街隠す陽だまりに居り

 薄手のパジャマでは部屋の中でも寒くなってきた。外ならば一枚はおいたいところだ。
 たいして服も持ってない私だから何か着るものをと探してみたがパッとしたものがない。セーターを引っ張り出してみたが一枚しかない。で、ダンボールをがさごそやったら秋物が少し出てきた。
 引越しの折、しばらく着ないだろうとしまいこんだものだ。あの頃からそんなに経っていないつもりだったが一季節過ぎ去ってしまったわけだ。

 街を歩くと黄色い落ち葉が目立つようになった。ススキノでは落ち葉を集める清掃員の方が忙しそうだ。そんななかちょっと派手目のお兄さんお姉さんが胸を張ってあるいていく。これからお帰りなのでしょうか。

 同じ街、同じ道を歩くと季節の移ろいがわかる。けれど日々連続的だとついつい気付かないまま過ぎてしまうもの。一旦止まること、振り返るのも悪くはない。
 てくてく歩けば体は暑くなる。一旦止まってセーターを脱ぐ。背伸びをする格好になる。一瞬視野が隠されて再び開ける。一緒になって流れていた人並みが自分の横をすり抜けていく。空が高い。

 ”暑いね”とセーター脱いで佇めば秋街隠す陽だまりに居り Home&Photo


2001年10月13日(土) 意味知らねど惹かれし響き”ケツァール”は神の鳥ぞと聞きて得意気

 意味もわからないけれどなんとなく耳に残る単語というものがある。特に外国語だったりするとなんとなくわかった振りをして実は何にもわかっていないなんてものも多い。

 こうやって日記まがいのものを書いていると、パソコンに向かってさぁ何を書こうかと構えてしまう。書き始めれば10分だがその始まりがなかなかでなかったりする。そんなときに意味もなく浮かぶ言葉達がけっこうある。

 ”プロヴァンスの空の下で” さてそんな爽やかなところにいったことがない。
 ”ラピスラズリの青ききらめき” アフガニスタンを思い起こすか。
 ”ディーヴァの微笑み” 女神様はいずこなのでしょうか。

 カタカナの下に何故か言葉が連なるのが私流。でもその先がつながらない。言葉遊びのようなものでそのカタカナの意味するところを実はよく知らない。響きが好きなだけなのでしょう。そうやって空転しつつネットサーフィンは同じ所をぐるぐるしてる。

 最近浮かぶのは”ケツァールの鳴る丘で”。”ケツァール”とは何の事かさっぱり知らないが、ボケらとしている時に頭に浮かんでは消えていく。果たして意味のある単語なのかもわからない。けれどなんとなく高貴そうでいい響きではないか。
 で、便利なインターネット。検索をかけてみるとヒットしまくりです。なんとマヤ文明から神と崇められる美しい鳥の名前だというではありませんか。

 極彩色のケツァール舞う丘で私は何を聞きたかったのか。あとから深層心理に問い掛けてみるのはフロイト以来の下衆な勘繰りでしょうが、どこかで聞いた言葉が私の心の奥からコンコンとノックを繰り返していたのかもしれません。意味なく浮かぶ言葉が神の鳥だなんて、なかなか私のセンスも捨てたものではないじゃありませんか、っていってる時点で器量が小さい。

 そんな単語はけっこう多いはず。知ったかぶりせずに調べるにはネットは便利です。
 でも調べてから言うのもなんですが、知らないままというのも悪くないかも。勝手な想像力で世界を構築してしまうのも素敵。わたしにはそこまでの力はないですが、アン・シャーリーだったらどんなおしゃべりを聞かせてくれるでしょうかね。

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2001年10月12日(金) タリバンはただの悪者なのか?

 アフガニスタンの問題は複雑なのはもちろんなのだが報道姿勢がとても気になる。
 爆撃が始まった日は全ての番組を中止して特番となった。深夜にもかかわらず木村太郎が現れてほとんど24時間出ずっぱりだった。その後はあっという間に沈静化だ。
 その後はどこが破壊されたのどんな武器が使われたの特殊部隊とは何かだの。確証もない推測だけを繰り返して同じことを何度も何度も繰り返してばかりだ。
 そしてタリバンだが、いったいどういう組織なのかを示したものはほとんど皆無だ。いかにひどい連中か、人権を蹂躙しているかという事が繰り返される。

 アフガニスタンを語るならせめてソ連侵攻あたりから総復習しなくてはならない。誰が誰を支持してきたのか。何故内戦が起きたのか。どのように内戦が集束したのか。
 私がこのようなことを書くのはこの事件以前からJMMで取り上げられたアフガニスタン国連高等弁務官の山本氏がかかれているメーリングリストを読んでいたからだ。
 山本氏によるとタリバンはイスラムの秩序を確かに行き過ぎた形で守るも、数年間で”治安”を回復してきた人々だという。レイプや略奪が吹き荒れる内戦を収め秩序を回復した。彼らが支持されたのはそのためだ。原理主義の色彩は強かったがそれはもともとアフガニスタンにあった風習だったわけでさして問題ではない。女性の人権問題もこれから進展させていい問題だ。数年前はどの町にもレイプの嵐が吹き荒れていたのだから。
 何よりタリバンを指示したのはアメリカだ。武器を与えたのもアメリカ。もともとタリバンとアメリカの仲は悪くなかった。
 さらにまずかったのはアメリカが興味を失った事だ。そして原理主義憎さでタリバンも一緒くたにしてしまったことだ。ここまで介入しておいてその後の政権についても考えずにタリバンすら承認しなかった。経済封鎖は続いた。ここからおかしくなっていった。
 タリバンは孤立化し原理主義の傾向を強めた。バーミヤンの大仏を破壊したのが決定的だった。

 国の基本は治安だ。殺人や暴行がまかり通る国は国とはいわない。アフガニスタンはそこから始まったのだ。そこに西欧的な人権や経済感覚を持ち込もうとしても仕方がない。彼らは大国の干渉の悪夢からようやく抜け出しただけだった。彼らなりの手法で。
 冷静に見ればわかる事もある。国連に加盟しようと努力もしていた。
 山本氏は述べていた。彼らは信仰厚く信頼できる連中だ。過去に見られた独善や利己的な連中ではない。今彼らが行う清貧さと誠実さはアメリカには理解できないかもしれないがこの地で必要なのはこれなのだ、と。

 アメリカ人は何故自分達がそんなに嫌われているのかわからないという。そんなアメリカ人に最も近いのはイギリスとアメリカだ。報道の稚拙さは飛びぬけて日本のようだ。
 歴史的背景を比較的詳しくやった番組はETV8ただ一本だと思う。やるのであれば武器弾薬の輸送がどうこうとくだらない討論番組をする前に歴史を紹介して欲しい。

 冷静になるというのは、そこから始めるべきなのだ。 Home&Photo


2001年10月11日(木) 腕時計君が進めた10分を忘れて走る我は遅刻魔

 私は普段時計を持ち歩かない。というと嘘になるか。時計をポケットに入れておくくらいだ。だから良く忘れる。腕時計なんだからすればいいじゃないかと思うが、私は痩せているので時計が似合わないのだ。重たげなリストバンドをしてるようでいかにもかっこ悪い。

 時計を持ち歩くようになったのは中学の頃。何故か街にきた質流れ市で売ってた500円の時計だ。デジタルの安っぽいものだが当時の私には時計を持ち歩くという事が大人な気分だったので思わず買った。デジタルの方が高級感もあるなどと思っていたのが当時だ。500円で高級感もあったもんじゃないけれど。

 高校に入った頃は汽車通だったから時計は必需品だったはず。けれどほとんど見た記憶がない。私の時計非依存症はこの頃からのようだ。
 だいたい約束の時間や発車の時刻というのは”ここを何分前に出ればつく”という事がわかっている。だから30分かかるとすればその場で時計を確認すればほぼ間違いなく着くわけだ。余裕を見ておけば、現地の本屋で立ち読みしてればいい。
 それでも遅れるときはある。その時は1時間後の汽車に乗ればいい。別に急ぎの用があるわけでなし。鷹揚に構えれば時間なんて何とかなるものである。

 そのためか、未だに出発時間を信用してしまう癖がある。途中道に迷ったりするとアウト。まぁその場合は時計があったって駄目なわけだけれど。
 時刻が必要な時は誰かに聞く。連れ合いに聞くのが一番多い。その連れ合いも時計を持たない人だったりするとお互いあせってしまったりする。世にはけっこうそんな人がいたりするからうれしい。うれしいといいつつ映画の時間までいちいち本屋の時計を気にしてしまう。タイムリミットがあるってのはせせこましいじゃぁごぁいませんか。過ぎたら過ぎたで何とかしましょう、というおおらかさが欲しい。

 そうはいっても大人なら時間感覚は重要。けれど懐中時計を買ってみても壊すし無くすしで私は駄目人間。そういや今はみんな携帯を時計代わりにしてますな。あ、私携帯すら持ってにゃい。
 でも道すがらのテレビ塔の時刻表示は見ております。出勤時刻まであと15分、やばやばです。

 素敵な時間は長くゆったりと。でも始まりの時間までゆったりしてては素敵な出会いもままならないようで。私のこの癖もそろそろ直さないといけないのでしょうか。って、もう手遅れ?

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2001年10月10日(水) 三度目の願いは星に届かねど 月は拾わん今宵二十三夜

 真夜中に昇る月に願いをかけると叶うという。

 願いを唱えるというのはなんとなく夜が似合う。ひそやかな願い。怪しい願い。切望にも似た願い。そういったものは月明かりの薄く射す鎮守の森にこそ良く似合う。

 願いとは苦悩も含む。弱い自分や他力な自分、勝手な自分を棚に上げつつ、そんな自分を知ってるだけにどこか後ろ暗くも一心に願う。そんな時背中を叩かれたら飛び上がってしまうことだろう。
 水御いのように一心不乱に神に祈るやり方もある。どうにもできない望みを苦行に託して祈る。今時そうはないだろうが、切なさ伝わる月夜の柄にこそ良く似合う。
 一方で涼やかな風渡る河原で膝を抱えて座る二人が、相手の幸せを互いに願う時もあろう。

 言葉にならない秘めたる想いを供えるならやっぱり月の女神様だろう。太陽に願いをかけるというのも健康的過ぎて”何言ってるの”と諭されそうだ。人は弱きもの。ご都合主義の願いだろうかお月様にお願いするくらいなら許してくれる。
 日の出ている間は一生懸命働き月の出ている間は足りない弱い私の荷を預ける。どれほどの願いや苦悩をお月様は抱えているのでしょうか。

 月は満ち欠ける。現れる時もばらばら。たまには一人になりたいとでてこない時もあれば、太陽を追ってさっさと沈んでしまう事もある。太陽は毎日出て働け働けとせかすのに、癒しの女神様はなんと気まぐれな事か。願いくらい聞いてくれたっていいではないか。忘れてしまったって文句はいいませんのに。

 そう。お月様だってそうそう甘やかしてはくれないのだよ。その代わりご機嫌のよい日はあるようだ。
 ”二十三夜待ち”
 真夜中の子の刻に登る半月を待って願いを唱えればお月様はフンフンと聞き届けてくれるみたい。これから欠け行く月にと不審に思うなかれ。”朔こそ満つ”というではないか(本当か?)。

 せっかくのチャンスにはとっておきのお願いを。あんまり俗っぽいのは他の日にしておきましょう。寛容と感謝。無の境地とは行かないまでも、そこから始めれば女神様も喜んでくれるはず。時間は大丈夫。流れ星ほどせっかちではありません。流星にかける願いはせいぜい二度までで、3度目を祈る頃にはほとんど連中は消えていて願いだけが宙に浮いてしまいます。
 もしかしたら二十三夜は漂う言の葉達を月が拾い上げていく夜なのかもしれませんね。

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2001年10月09日(火) 生徒さんと接すること 

 一日に3つの仕事を掛け持ちする羽目になった。アルバイトの身というのはなんとも中途半端だ。
 朝7時から病理のお仕事で顕微鏡で癌の判定をする。今日は乳癌が多かった。かぁるく癌だなんていってしまうが、その診断で悲嘆にくれる飼い主さんが増えるという事だ。事実は事実だが命の宣告というものを担っている事が現場から離れると一気に希薄になってしまう。
 次は専門学校で講義。何故か食品関係を教えている。前期のテストの解答を行う。テストが終われば興味がないといわんばかりに半分以上が寝ていて悲しい。学生さん、貴重な時間をもったいないね。私も力は足りずとも一生懸命やってるんですが。人間教育をやるには時間がなさ過ぎるけど、私はこの仕事かなりすきなんよね。
 次は中2の家庭教師。非常に出来が良い生徒さんでとても楽。すでに高校入り口のレベルがあったりする。勉強の面白味をかじっているというのは強い。ネットのリンクのようにあらゆる方面へ関心が飛ぶ。何と何がつながるわからないという事を理解していることが大きい。

 ”何が必要で何が必要でないか判断する事は容易ではない”
 私の格言の一つだが、若くしてだれてしまう人は勝手に判断をしている場合が多い。これは無駄だ、これは役に立たない、時代遅れだ。そんなことを言いながら何もせずに机に伏してしまう。無駄話に花を咲かせる。携帯電話のメモリーをかちゃかちゃとする。

 私がこの学校で教えているのは、面白くないといってやめた一年間の実務経験のおかげだ。何の役にも立たないと思っていた経験がちょっとした収入につながった。そこで貴重な人にも出会った。教壇にたつという面白さと学生に対峙するという厳しさも知った。

 高校までのぬるま湯から飛び立ち自らの意欲と相向かう厳しさ。つい最近まで高校教諭だった講師陣ももう手取り足取り生徒さんを教える事はしない。意欲あるものに知識は流れていく。
 それでいいとは思わない。より興味を換気する方法を模索しなくてはと思う。しかし週に1日行くだけの空間で横断的に学生さんと接するのはなかなか容易ではない。

 自ら学ぶ意欲を持つという事。それが身についていなければなかなか厳しい世の中だ。学校というパッケージのなかでその意欲を持ちつづけることは実は難しいように思える。

 モラトリアムという現代病からいかに脱出するか。
 それはやはり現実にぶつかるしかないだろう。挫折、感動、無力感、優しさ。いくつかを繰り返すより仕方ない。
 教壇で彼らを見るたびにそのことを考えてしまうのです。ああ、全然整理がつかない、このことには。私自身がまだまだモラトリアムだからなのでしょうけれど。 Home&Photo


2001年10月08日(月) 逝く人と飲まんと並べし杯に 偲ぶ影落つ更待の頃 

 昨日、アフガンのニュース速報を見ながら”あの月のとなりに土星が輝いてることなんか誰も気がつかないんだろうな”と思っていた。そしたらそれを見ていた頃がまさに土星食のその時だった。一日間違っていた。大馬鹿です、はい。
 月曜日未明というから、日付的には火曜日だろうと思っていたら・・・。なんてこったい。

 土星食とは月に土星が隠される現象だ。なんてことはない。けれど、この現象が前に見られたのは30年前の話。けっこう珍しいのだ。輪をもつ土星が月の明縁に隠れて、半分、3分の一と消えていく。それが再び、段々と現れていく。ただそれだけのことだが、短時間にみればなかなか乙なものだ。そんなものにも喜べるというのは、マニアックながら素敵なことだと思ってしまう。

 こんな例もある。満天の星空の中、月が浮かび動いている。とすれば、月は多くの星々を隠しては現れるだろう。これを”掩蔽”という。では月の縁を接するように通る星もあるだろう。これを”限界線”という。限界線は月の縁を通るため、月の山に隠れた時には消えて、谷に差し掛かると現れる。こうして短時間に明滅を繰り返す(かもしれない)。こうして月の起伏を調べたりする。
 そんな公的機関があったりする(これだけしてるわけではないが)。今では積極的にこんな事をしているわけもなく、アマチュア観測家の密かな楽しみになっている。それも悪くない。

 でも一番大切なのは見上げること、詠むことかなと思う。皆既日食を海外まで見に行ってカメラに収める事に熱中してしまい、肝心な空を一度も見上げなかったという情けない話も多々ある。そんなことよりあの時見上げた星空、波間に揺らぐ月光の帯、満点の星を動く人工衛星、仲間と酔っ払って見た薄明、恋人と見た湖面の三日月の方がずっといい。

 既望、立待月、居待月、寝待月、更待月、朔に望月。日々満ち欠けていく月に様々な名前を付けたご先祖様はさぞかしロマンチストだったのだろう。そんなご先祖様に負けまいとはるかな惑星に目を凝らしても、やはり見えるはおんなじ美。星々の世界は悠久の流れ。違うように見えて実は同じものを見ていることにこそ感動があるのかも。

 新鮮な心と探求する目。共に交錯してこそ目のピントは自在に変化する。近視の私も遠視のあなたも、立ち返ればおんなじ眼を持っている。それでも感動がなくなったら月の名前を思い出してみればいい。なんと深く淡く想像力を刺激することでしょうか。

 今宵は更待月。亡き友と静かに飲むとしたら、月明かりが差し込むまで一言もないかもしれません。

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2001年10月07日(日) 歴史は夜動く?

 高橋尚子凱旋帰国のニュースのすぐ後に、シカゴマラソンで世界新記録が出たとの報道が。なんともタイミングの悪い話だが世の中そんな例はとても多く感じる。そういえば彼女の世界新記録のその日に長嶋監督の東京ドーム最終戦だったし。連鎖反応というのはなんとなく因縁深い。

 サッカーも大善戦だ。というより終始リードしていたわけだし後半は押していたといっていい。最後に取られた同点の2点目は一瞬の隙だった。実力ではまだ及ばないといったところかもしれないがシュートも多く好セーブもあって期待をつなげるゲームだった。

 深夜のスポーツ中継はよい。CMも少ないし解説も控えめで的確だ。ギャーギャー騒ぐ連中もいない。スポーツ中継はテニスが一番好きな私だがサッカーも悪くないですな。

 深夜テレビというのは最近はあまり見ていないが一時期は随分こった。F1に凝った影響もあってだが同時間帯の番組は面白かった。”やっぱり猫が好き”、”子供欲しいね”、”カノッサの屈辱”、”カルトクイズ”あたりが私の時代だ。
 他にもNNNドキュメントやFNSドキュメンタリーなど、かなりの秀作が放映されていたりする。ドキュメント好きの人間にとって教育と深夜は要チェックだ。

 そんななか今日は”われめでポン”が放送とのこと。麻雀徹也生中継だ。私はこれが好きで見入ってしまう。明日は休みだしちょっと覗いてみようかと今夜更かししているわけだ。

 と・・・・。
 急に各局ニュース番組に。アフガニスタンで対空砲火? ブッシュ大統領演説? 攻撃開始の声名? 空港が爆撃?

 世界は夜動くという事か(日本だけだけど)。かくして麻雀中継などとのほほんとしている私は急にリアルタイムな世界情勢に組み込まれる。爆撃に震える都市がある一方、これから中継する予定の麻雀卓を囲んでいる人々が平和ボケ日本にいたりするわけだ。

 お笑い番組が突然ニュースに変わる。アメリカ大統領が不滅の自由のための戦争を宣言する。正義の戦争だと述べる。義務と犠牲を述べる。自由と平和は全てを凌駕するという。神がアメリカを祝福するという。
 カードは切られた。自由と正義と書かれたカードの裏側には同じ文句が書かれている。そこにはアラビア語でジハードと書かれている事だろう。

 戦争は正義ではないしまして平和でもない。敬愛する塩野七生さんの言葉を借りれば必要悪だ。実行する人間が短気か気長かということで、問題に力で蹴りをつけるということだ。今回は随分と短気だった。遅かったようにも思えるが一月たっていない。

 などということを私なんかが言ってしまうのだから、テレビとは恐ろしいもの。アナウンサーの後ろでは綺麗な女性が机に向かってあわただしい。

 書く事ないなぁ、と思っていたらこんなに長くなってしまった。

 テレビではアフガニスタンの空に月が綺麗に浮かんでいる。そのすぐ横に明るく輝く土星があることに目を止める人はいないだろう。
 今日の27時30頃、土星食があります。 Home&Photo


2001年10月06日(土) 茶碗蒸浮かぶなるとはご挨拶 待つは甘栗想いの底で

 後輩が栗を持ってきた。いとこが農家でピーマンやらししとうやらいろんなものを持ってきてくれるのだが近所の親戚が農家というのはうれしいことだ。艶やかな緑から落ち着いたこげ茶色へと季節は移っている。
 渋皮はとるべきなのだろうが、めんどくさいのでそのまま口に放り投げる。甘味が十分ではないためか、渋皮の苦味とあいまってこの方が甘く感じられる。久々に食する優しい甘さだ。
 栗といえば茶碗蒸。銀杏を主張する人もいるが断然甘栗だ。我が家の茶碗蒸はしいたけ、鶏肉、なると、そして栗だった。栗は重いので下に沈む。最後の最後に楽しみにしていたものが現れるというのが私の嗜好にあっている。ついでにチャーシューは最後に食べる。
 以前、突然茶碗蒸が食べたくなったのだけど作り方もわからなかった。多分とき卵にだし汁を加えたものだろう。鶏肉としいたけはあるし・・・。あ、栗がない!栗は必須だ。ということで瓶詰めの栗を買ってきて挑戦してみた。マグカップにアルミホイルで蓋をした。蒸し器なんて当然ないから、鍋に水を浅く張ってその中にざると適当な蓋をいれた。こうするとマグカップが鍋の中で浮いてくれた。
 出来は上々。苦労の末できた茶碗蒸はふわふわで、手抜き自炊しかしなかった私には数少ない傑作だった。あまりにうれしかったので当時付き合っていた人のところへ持っていったら、あまりの意外性に驚いて涙を浮かべていた。そういう感動もあるのでしょう。

 茶碗蒸でちょっとした感動。肉じゃがに弱い男達。ありきたりでも意外と手を出さない事というのは新鮮な感動があったりする。一人でほくそえんでいるだけではもったいない。

 カレンダーには”食欲の秋”とあった。初物は栗。栗色の思い出。今茶碗蒸を届けられる人がいないのはちょこっと寂しいですが。ほほ。

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2001年10月05日(金) 冬切望にはまだ早い 

 札幌近郊はまだだけれどもう少し足を伸ばせば紅葉が盛りだという。日本一早い紅葉を観てきた私はそれで満足したのか出かけようという気にはならない。そんなことをしているうちに葉も落ちて見通しのいい森が現れてしまうことだろう。
 モノトーンの景色。セピア色の景色。雪まだ降らぬ季節はやけに埃っぽくも見通しがいい。今ある木々の緑もやがては落ちてとおりの向こう側を歩く人々の姿も透けて見えるようになるだろう。
 一瞬の鮮やかな季節は札幌ではどんなだろう。銀杏並木の黄色。ナナカマドの赤は山の紅と同じだが近くでみると木々の肌が大きな面積をしめている事にも気付く。紅葉の赤にみとれてその下にある木々の肌がどれだけ大きいのかという事に気付く。
 そんな森は寂しい季節と思っていたが思いの他賑やかではあるらしい。動物達の足跡が目立つ。葉に隠れた鳥達も姿をあらわす。雪原はどこにだって入っていけるわけだ。スキーはゲレンデを下るためだけではない。

 ちょこっと冬へ早足してしまいました。何もそんなに急がなくたって長い長い冬はあっという間に来てしまう。
 やっぱり今は紅葉を楽しむのが一番です。季節は移ろうもの。今の美は一瞬。
 でも峠は下手をすれば雪。スタッドレスにはまだ早いしな。 Home&Photo


2001年10月04日(木) 自転車失踪暦

 自転車が見当たらない。月曜日に使って以来見ていなかったからその間になくなったようだ。鍵は確かにかけてあった。

 やっぱり盗まれたのだろうか?
 何も貧乏極まりない私の自転車を盗む必要はないではないか。周りにもたくさん、もっといい盗みやすいのがたくさん・・・。ああ、情けない思いを交錯させてさらに惨め。でもどうしてこんな不幸がわが身を襲う?
 天災や不幸。かかり振る災難に身を縮ませながらも神の与えたもう試練と心を振るわせつつ生きる・・・、などというにはあまりに小さな不幸。割り切れるはずもないがやり過ごすには我は貧しすぎる。心も財布も。

 自転車には愛着がある。
 高校の頃、通学先では何度も盗まれた。ぼろぼろの自転車をもらっては直し、また盗まれた。最後の自転車はブレーキがフレーム製のいかにも古い実用車だった。居並ぶ置き自転車の中で異彩を放っていたためか最後まで付き合ってくれた。
 高校時代、地元で乗っていた自転車は空色だった。何故か誰かに目をつけられたらしく、ひどい時には週に一度は針で刺したような穴があけられていてパンク修理の腕を挙げたものだ。一度盗まれた時は母が根気強く探して見つけ出してきた。大学入学時に札幌に持ってきたのだが3ヶ月で盗まれた。
 その後中古屋で買った自転車では、長距離旅行で多分3000kmは走っている。真冬の北海道でも自転車は愛用した。愛しき自転車の一台はポプラ並木まで連れて行って記念写真までとった。その自転車は帰り道にぽっかりあいた穴にはまって前輪が曲がって運命を終えられた。
 その後買ったこれまた中古の自転車もすぐになくなった。
 その後中国の留学生から頂いた自転車も2ヶ月でどこかに行ってしまった。

 私だけなのだろうか。何故こんなにも盗まれつづけるのだろうか。鍵もかけてるし新しい自転車というわけではない。むしろぼろぼろのものばかり乗っている。
 今回の自転車は大阪に帰っていった友人からもらったものだ。寿命はたったの2ヶ月だ。申し訳なくて涙が出てくる。

 話によると札幌の自転車泥棒はとても多いらしい。誰でも一度は経験があるようだ。それにしても私は多すぎる。

 昔の友人で、得意気に鍵のナンバーを当てる奴がいた。わかる人にはあの番号はすぐにわかるそうだ。おまけにワイヤーを切断するてこのような鋏までだして得意気に盗みの経歴を述べやがった。警察に突き出してやろうと拳をしっかり握り締めたのを覚えている。それで友情も終わった。まぁもともとさして厚くもなかったが。

 雪の季節もちかづいているとはいえまだまだ自転車は欲しいところ。
 神様、やっぱり悲しすぎます。 Home&Photo


2001年10月03日(水) 番号と顔 

 パスワードに電話番号。登録番号に暗証番号。世の中何かと自分を証明する番号が要求される。インターネットの世界も暗証だらけ。全て記憶させてしまっているから一度とんでしまうともうわからなくなってしまう。本来はいちいち打ち込むべきなのだろうけれど、それこそめんどくさいし覚えていられないほどだ。
 ということで私の場合は限られたパスワードに統一しているが一度悪用されると全部アウトという可能性もある。まぁ仕方のないところか。それでも個人コードはそれぞれ別だからそこまで覚えていろというのは酷な話だ。

 電話番号などは長くて面倒な話だ。が、今は携帯の時代だから番号などは初めの一回きりの話。その一回すらないかもしれない。恋人の電話番号すら記憶に留める事のない時代だ。携帯のメモリーがすっ飛べば何の手がかりもなくなってしまう。
 友人に親との連絡は携帯だけという人がいた。住所が変わっても特別連絡をしない。携帯なら変更はないわけだ。便利といえば便利。GPSに対応して居場所がわかるなんて時代も近いのだろう。

 人が記号化されてその記号すら見えなくなる時代。自分を守る記号達すら面倒に事欠いて埋もれさせている。気がつけば便利さだけが残るけれど見えないところで何がおきているかはわからなくなっている。
 かけた電話は相手に筒抜けになっていていつ誰がかけたか全てばればれ。インターネットで誰がこのページを見ているのか調べればすぐにわかる(私は知りたくもないのでしていない)。クレジットカードは落としてしまえば誰にでも使える。キャッシュカードの暗証番号はどれがどれだか忘れて間違っているうちにカードが使用不能になってしまう。

 ”私が使ってるのよ! 私よ私! 文句があるっての?”
 などといっても、近所のおばちゃんにつけを頼んでいるわけではない。

 ”誰が私をヴォルグであると証明できる?”

 親もいない。家族もいない。そんななか私が私であるといったい誰が証明できるだろう。番号が証明できるのはただの情報に過ぎない。しかしながら私達はその情報の上で実生活のほとんどを行っているのかもしれない。顔を見るよりも証明書を見ていること、暗証番号の認証通過を確認しているだけの事がいかに多いことか。すでに顔なんてどうだっていい。

 ”私には名前がなかった”
 その呪縛のなんと深い事か。けれどそれは愛しいものでもある。

 携帯にでる名前が愛しい人のものだったらうれしいもの。でも機械を信用せずに番号も覚えておこう。そうすれば携帯がなくても連絡をとれる。まぁそんなものも忘れて会いにいってしまえばいいのでしょうけれど。 Home&Photo


2001年10月02日(火) 今年の雨は多かった? 

たまたま早く仕事がかたついたので久々に遠めの温泉にでかけた。北村という札幌から車で小一時間のところにある鄙びた温泉だ。湯船も二つしかないのだが白く濁った強食塩泉で源泉100%だ。11時まで開いているというのがまたいい。ここまでわざわざ出かける人は少ないから貸切に近い。
 札幌からは田園地帯をまっすぐ伸びた道を行く。途中にある排水路のためにけっこうな段差があったりするので何も知らないとかなりバウンドする。国道ならいざ知らず、水田地帯の一本道を走る時はご注意あれ。

 北村温泉は二軒つながった宿だが遅くまでやっている方は左手だ。地元の方々のカラオケが聞こえてくる。入り口には地元の名産と、今では珍しいゲームコーナーも健在だ。
 まぁ長湯。とりあえず長湯。露天もないのでほてった体を休める場もないのだがわりと気にいっている。湯上りの後ゆっくり新聞を読めるのも良い。同行者には迷惑と思いつつ。
 湯上りの脱衣所で地元の方々の会話。
 ”いやぁ よく降るねぇ”
 ”デントコーンの刈り入れ大変だでや”
 ”こう雨が多くちゃトラクターが大変でなぁ”
 ”去年も多かったけど今年も多いなぁ”

 去年雨多かったっけ? 暑かったのは覚えている。
 雨で困るのは・・・。朝自転車に乗れないことくらいだ。
 土が雨でぬかるむなんてしばらく関心がない。

 日々の疲れの中で地元の温泉で汗を流す。ごく自然な事。入り口付近から響いてくるカラオケもみんな暮らしの中でやぼったくも地に足をつけている。
 暗い村のなか点在する家々の一階にはしっかりと明かりがともる。平らな闇の中には水田が広がる。夏きたときにはサラウンドで鳴り響くかえるの洪水だった。

 今日は雨。小降りながらもアスファルトの水たまりは深かった。

 そして私も一つ歳を重ねてしまいました。 Home&Photo


2001年10月01日(月) 牧歌的北海道まで 

 ”北海道探検記”という本を読んだ。本田勝一という方が書いた本で1960年代の北海道の地方をみたルポルタージュだ。
 知床からパイロットファーム、道北の開拓地などが主だが、たかだが40年前に全く異なる光景が広がっていた。まさに開拓期で、掘っ立て小屋に住んで馬を頼りに暮らす時代が確かにあった。札幌や内地で車が日常となった頃に、米も食えない生活があった。大自然などという言葉は悪魔の言葉であって、闘うことを日常とした人々の姿があった。
 知床峠をこえる横断道路の近くには、たまに廃屋が点在する。納屋だかなんだかわからない代物だが、この本を見るとそれが開拓期の馬小屋兼居間だったことがわかる。そんな家々が、道東の国策パイロットファームには点在していたわけだ。そこでの暮らしは、語るに尽くせないものだったようだ。今、大規模になった牧草地帯は、初期の方々が育て上げたというよりも、その挫折の後にやってきた方々によるものらしい。

 知床は秘境などというものではなく、単なる自然だった。海に生きる人が生業として暮らす。観光という平べったい価値観が入る以前は、ただの人の入らない場所だった。それも今では摩周湖、宗谷岬に並ぶ典型的な観光地になってしまった。

 北海道的なもの、というのは、道外の方と話すのと地元の私達では随分と違うようだ。特に北海道が好きだという方は、典型的な道内観光地には興ざめする事だろう。決まりきった食事と思考の止まったスピーカーから流れる御当地懐メロには、閉口するばかりだ。どちらかというと、車窓から眺める風景に時を忘れるくらいの感覚がいいのだろう。

 牧歌的という言葉は、多分ここ2〜30年ほどの言葉なのだろう。広大な牧草地には朽ちた廃屋があることを覚えていたい。林道の奥には、樺太引揚者の入植跡地があることも心にとめておきたい。妙に開けた草原が廃村となった村で、一番賑わっていた場所が小学校の校庭跡だったことも、大理石の碑だけが覚えているなんてちょと寂しい。韓国からの強制労働で開かれた鉄道は、1年で姿を消していたりする。
 そんななか、松浦武四郎の紀行路がわずかに残っていたりする。北海道では滅多に味わえない歴史浪漫も、こうして辿れば幾つもある。庶民史しかないからこそ深く知るべきだ。

 流れる光景を愛でる事は、とても素敵なこと。そしてさらに一歩、足を止めて眺めると、また趣が違う。そして聴く事、知ること、振り返ること。味わいはつきない。

 私は、旅に浅いも深いもないと思っている。ただ薄皮のように張り付いた”観光地”の縛りからは抜けるべきだと思う。そうすれば、後は玄人も素人もない。そうであれば、次は誰かを迎え入れる事ができるのでしょう。

 今の北海道は悪くないと思う。ただ失った自然と展望の不確かさだけには、危機感があっていい。北海道は世界の歴史上最も急激に開発が進んだ地域だそうです。 Home&Photo


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