私季彩々
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”やらなきゃいけないこと”があったのだけど”やったほうがいいこと”に格下げとなった。となるとあっというまに”明日やればいいこと”に。
それもこれも高橋尚子のマラソンから始まった。シドニーも見ていなかったしそんなに興味もなかったのだが走り出してしまえばついつい見入ってしまう。1kmごとのタイムがでてくるというのもたるみがなくていい。驚いた事にほとんどペースが変わらないもの。マラソンというものが戦略的であることを初めて知った。 ガードランナーなどというのも始めてみたが女性と男性の脚の長さの違いが印象的だった。全然違う。ストライドがこれだけ違うのだから脚の回転がものすごく早い。 何より30kmまでの順調な走りの頃は綺麗だった。単純に顔が。彼女はやっぱり走っている時が美しい。国民栄誉賞というのは未だにどうかと思うけれどこれだけ強いと納得するしかありません。
で、その後うとうとしているとあっという間に野球は最終回。長嶋監督最終回。槙原、斎藤のラストと合わさって最高潮に達する。最終回裏は要らなかった。 監督がこれほど前面になるというのも二度とないであろう。しかしながらまぁスター性というのはこういう人のためにあるのだろう。現役時代をほとんど知らない我々でも魅力を感じてしまうということもどうでもいい。 ”我が巨人軍は・・・”ほどの名言はなかったが心のこもった言葉だった。何より顔がいい。その後の3人も、原コーチもよかった。思わず涙ぐむみつつ。斎藤は36だ。わたしともそぉんなに遠くもない。すごいなぁ。 その後も監督はいろんな番組に引っ張りだこだ。
結局テレビで一日を過ごしてしまった。まぁ今日はそれでもいいだろう。なかなか泣ける事もそうはないわけですし。 世の偉業も身近に感じられる今日この頃。それに感動できる間はまだ生きていられるってことかも。
仕事は一日遅れてしまったけれど、よしとしましょ。明日できることは今日しないということで。
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ダイエーありがとう応援セールというのをやっていた。王監督の背番号いんちなんで89円で並んでいたカップめんやレトルトパックを大量に買い込んでしまった。
ダイエーといえば大衆的なスーパーのイメージだが私の場合は違った(過去形)。 私の田舎はもちろんデパートなどはない。大きなスーパーがまぁ買い物に行くなら豪華版だったけれど、玩具や本は貧弱。子供が買い物に行って楽しめるためにはこの二つは欠かせない。釣具や日用品も欲しいところだ。昔は食料品はともかくその他のものはなかなか手広く売っているところはなかった。 となると隣の大きな街へ出かけていくことになる。ここには”長崎屋”と”ダイエー”があった。その後”イトーヨーカドー”ができた。長崎屋とイトーヨーカドーは二階建てで馬鹿でかかった。我が家は何故か長崎屋を愛用していた。 何でもあった。とにかく本屋が充実していた。ゲームセンターで10円片手にコインゲームなどをして安っぽい景品のお菓子やコインを集めていた。パックマンなんかのゲームもここで始めてやったはずだ。そしてひたすら漫画を読んでいた。デパート巡りはこの程度の楽しみも包容力を持って与えてくれた。私にとって”長崎屋”はパラダイスだった。
そんな私にはなかなか敷居の高いところがあった。それは”ダイエー”だ。 ダイエーは長崎屋から駅を挟んで向こう側にあった。子供には駅を超えるのはちょと抵抗があった。さらにこのダイエー、7階もあるのである。エスカレーターで何階も上がっていくというのはドキドキしてしまうのだ。興味のない婦人服売り場なんかをこえて行くのもなんとなくばつが悪い。売っているものも高級感があるように思い込んでいたのだから不思議だ。最上階からの見晴らしも良かった。
何故そう思っていたのかはいまだにわからないが、単に高さがあったからとワンフロアが狭かったからだろう。開放感のなさが何故か居心地の悪さにつながったのだろう。
だから札幌に出てきたときはびっくりしたものだ。ここではダイエーはただのスーパーに成り下がった。今は亡き大通りのダイエーは居並ぶ百貨店のなかで庶民性を発揮していたし、うちの近くのは毎日の買い物に利用している。誰にも恥かしくてダイエーをデパートなどといえない。 今では私にとって居心地の良い店である。
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”並盛り、露だくで” 隣で座る若者が声をかける。お姉ちゃんやサラリーマンも。ご存知吉野家の風景だ。”汁をたくさん入れてね”という意味だが私も実はそうして欲しい。丼物はたれがたくさんかかっている方が好き。基本的に味付けは濃い目が好きなので。 でもどうしてもそういえない。”汁多めにね”とならいえるかもしれないが”つゆだく”という略語を使うことが出来そうにない。 何よりファーストフード店のマニュアル対応が大の苦手な私。吉野家だってできれば入りたくないが安いのにはかなわない。味も好きだし。といいつつ食べ終わったらさっさとでてきてしまう。
なんで”つゆだく”といえないのだろう。床屋で”もうちょっとさこ切って”といえないところに通じるのだろうか。そういえば”お釣りがすくない”というのもあんまり言えないほうだ。 ということはただの臆病者という事か。それに類する事は確かにたくさんある。
では下半期の目標は”並もり汁だく”。それが言えたなら、きっとすすきのの空も打って変わって晴れ晴れとする事だろう。
ああ、なんて私は小心者。マックも吉野家も安売り始めてからようやく入るようになった。でもやっぱり好きなのはその辺の定食屋さん。だって新聞読めるんだもの。
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いつ見たか覚えていないけれどテレビでこんな事を言っていた。
”永遠に動く時計を作る” さてどんなものを想像するだろうか。エネルギーは核分裂。時計程度のエネルギーならほんの小さな核エネルギーから十分に取り出せるだろう。太陽熱や地熱を組み合わせたっていい。 外観は強化プラスティック。絶対壊れない一品にしよう。未来志向のデジタル液晶。 そんなものをスフィンクスの隣にでも立てたら悠久の歴史に佇むモノリスのように我々の文明がなくなっても残るかもしれない。
でも実際にそれを作っている人々は全く別のことを考えていた。うろ覚えなのだけれど、動力は基本的に人力だ。まぁ水車とかでまわすわけだけどそれらが駄目になったら最終的には人力。 強化プラスティックなどない。歯車と石造り。まさに中世ヨーロッパの世界だ。 誤差も無茶苦茶多い。一週間に15分とか。 こんなものを永遠の時計などといっていいのだろうか。
そこは発想の違いだ。物はいつか壊れる。壊れた時に直せなければそれでおしまいだ。その時設計図や何かがあるとは限らない。作った我々はすでに忘れられた存在かもしれないのだから。そんな時は今ある姿を見て補修しなければならない。それには構造は単純なほどいい。 時計は必ず狂う。なんといっても地球は徐々に太陽からはなれているのだから。正確な時計などというのは無理な話なのだ。ならばたまには正しい時を聞いておかなくてはならない。その為の日時計は必ず備えておかなくてはならない。 雨風は必ず強く吹いて建物を破壊する。普通にある素材で直せなくてはならない。今ある文明が1000年後あるとは限らない。
結局出来上がりそうなものは石造りの風車のような時計台だったようだ。
今の技術を持ってすれば1000年くらい動く時計は可能なのかもしれない。けれど悠久の流れの前で維持できるとすればなんなのだろうか。 それは”関心”だろう。人々が集い暮らす街にこそ長針と短針は意味を持つ。その人々が朽ち行く塔を直し支えていく。私の知る限りそのようなものはいまだない。 ピラミッドやマヤの巨大建築物。今そのようなものを作り出す事は可能だろう。問題はそれを歴史たらしめる神秘さを我々が植え付けられるかどうかだ。砂山に埋もれ再び顔を出すというのなら可能かもしれない。
もしその時計塔が永遠だとしたら。幾世代の人々がその塔を見上げつづけるのだとしたら。私はその塔を雲の上からずっと眺めていたい。
それこそが本当の”塔”の姿なのかもしれない。高みを目指すのではなく悠久を指し示すもの。 ただの”塔”なら神様が破壊してしまうのですから。
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2001年09月25日(火) |
明日のパンより今日の感謝 |
キリスト教徒2人の結婚に際してこういう話があった。二人は共に向かい合って生きるというよりもむしろ同じ神様を見つめて生きるんだ、とのことだ。同じものを見て生きること。それが彼らの信仰であり神の前に一人で立つという事が基本らしい。 全ては神のみ手にゆだね、自らが行った事に慢心することなく全ては髪の与えたもうとことというらしい。 人は努力して得たものを自らだけのものとして慢心に陥る。自信がエゴになって周りを見下げてしまう。比較が生まれる。競争が格差を生む。 それらを解決する手段は自らには何もなく罪だけがあることを認め、全ては神の御技と感謝する事だという。 素晴らしい。が、そこに自分が見えない。というのは私だけなのだろうか。 彼は勉学にいそしむ。彼女はそれを支える。何故彼は勉学にいそしむのか。それは神を知ることだからだ。では何故彼女は彼を支えるのか。彼を愛しているからだ。 生きることは神を知ること。生業は神への賛美。まことに美しい。
しかし私にはわからない。何かをしたいと思うことはエゴなのか。そのための努力は常に堕落を生むのか。自立した個人というものはいったいなんなのか。
彼はまさに支えられている。学びたいことを学ぶ。それを今後の収入へとつなげることも考えずひたすら学ぶ。それを妻が支える。美しいがそれが独立した個人なのか。夫婦は二人であっても一人づつだと彼らはいった。助け合いは美しいし、助けられるということは互いにとってうれしい事だ。
よくわからない。彼の現状が二人を引き裂く事になるなら彼は勉学を全て捨てる用意があるという。それが真実なのだろうか。彼女のなかに知りたいことややりたい事が出来た時に生活は支えられるのか。
私は本当に俗っぽい。一つ思うことは二人で生きるときにどちらかがどちらかに尽くすという状態が固定してしまう事が怖い。”妻は夫に従い・・・”と牧師さんはいった。古い言葉だからとは思うがそれはどうなのだろう。
現在二人とも収入がない。これからどうするのかなどは何も考えていないようだ。そんな二人に不安を持ってしまいつつもその先を聞く気にはならなかった。彼らにはそんなことは不安に当たらないからだ。
その状況は本当にうらやましい。明日のパンより今日の感謝。そういうことなのだろうか。
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”平服でおいでください”とのことだったので本当に平服で行ったらみんなフォーマルだった。かぁるい乗りだろうと思っていたら厳格な形式だった。全てが的はずれななかでそんなことはどうでもよくなったのは、今日式を挙げた2人の信仰が本物だった事と祝福する人々の心が澄み渡った当日の空と同じように曇りないものだったからだろう。
新郎は私の後輩で波乱万丈な経歴だ。途中大学を何度も休学した。行動もかなり突飛だった。学校での意義を見出せずに悩んでいるのかな、と思っていたがその程度の悩みではなかったようだ。生きるということ、知るということ、愛するという事全てについて悩み壁にぶち当たっていたようだ。 私はそのことを知らなかった。一度相談を受けた事があったが、日をずらして会いましょうという事にしたがそれっきりだった。 そんななか彼はキリスト教に光を見出したようだ。式当日配られた冊子は二人の馴れ初めや友人の冷やかしに溢れた一般的なものではなく、信仰を告白できずに悩む男と、信仰というものに初めてであった女がどのようにして愛し合い、神の前に全てをゆだねるに至ったかを綴った告白の書だった。
生きるということに真剣に悩む人がいる。そのことにきづかずにいた自分に情けなさを感じる一方で、そんな私を尊敬する先輩の一人として真っ先に挙げてくれた事に心から感謝したい。そして同じ悩みにさいなまされながら生きている私が避けて通っている現実に真っ向から向き合っている彼と、それを支える妻となる女性に賛美を。
心から信仰を告白する人々の笑顔の前に私はなす術がなかった。聖書の言葉にはどうしても引っかかるものがあったりして牧師さんの言葉を全て賛美する自分はいない。しかしながら惹かれるものは十分にあった。
”こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私達を受け入れてくださったように、あなた方も互いに受け入れなさい”
信仰と生涯の愛と仲間に恵まれし二人へ。本当におめでとう。
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2001年09月22日(土) |
吉日の高き空に寄せて |
タオルケットを一枚追加した。 熱帯魚水槽のヒーターランプが点灯するようになった。 ユニクロでセーターを買った。 長袖の肌着にした。 いつも少しだけ開けていた窓を閉めた。 吉野家のお茶がとてもおいしかった。 バイト先のアイスコーヒーがなくなった。 車の送風が時に暖房になる。 空が抜けるように青くて雲ひとつない。
天高く馬肥ゆる秋。 なのにベルトの長さを少々短くした。 久々に服を買った。1900円だけど。 少しだけ髪を切った。もっと切ればよかった。 3年ほど使ってないコンタクトレンズを入れてみようかと悩む。
メッセージカードを昨夜作った。 ”恵み深き吉日の青空に寄せて” まさにぴったりだ。よしよし。
”わが行くみち いついかに なるべきかは つゆ知らねど 主はみこころ なしたまわん ” 賛美歌463番
今日は可愛い後輩の結婚式です。
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朝外に出ると急に肩がすくむ。雨が小康になったとたん急に冷え込んできた。峠は雪が降るかもという。気分はほとんど冬だけどいまさら一枚取りに家に帰るわけにも行かない。 バイト先に行くとすでにマフラーを巻いている人がいたりした。みんなから避難集中だが京都出身者には十分な寒さだろう。セーターにマフラーくらいが丁度いいくらいだ。 この冷え込みで紅葉はさらに色づいた事だろう。
雨の中を一時間以上歩いた。傘に当たる雨音に何故か心が落ち着く。急に強く降ったり止んでみたり。蛇口から漏れる音はとてもいらつくけれど雨音には変化するリズムがある。そのリズムは頭の中で同調して歌が返ってきたり、デジャブがやってきたりする。
シンギング・イン・ザ・レインが流れたり。傘をたたんで踊ってみたい。 赤い傘が浮かんできたり。雨上がりの空に飛び上がれそうだ。 水たまりの中に妖精がいるかも。映る鏡の世界に入り込めそう。 柄が何故か人の脚。からかさお化けとお友達になれるかも。
そんな愉快な徒歩のたびも突然横からやってくる車の飛沫に現実に舞い戻ったりする。まぁそれもいいか。派手な音もなかなか素敵だ。
そうして大粒の飛沫を浴びて目的地へ。雨はまだまだ盛り。クーラーがヒーターに化けた。 北はもう冬の足音を響かせた秋モードです。
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同時多発テロ事件の展開はどうなるのでしょう。ラディン氏に国外退去を勧告とかいってるニュースがあるけれど、よく聞くとかなりあいまいだ。といっても、ここまできたら振り上げた拳をどこかに降ろさなきゃいかんだろうけれど。 考えてみれば、すでに出来レースであってアメリカに追随する以外道はない。日本の情けないくらいの追随姿勢は仕方ないとはいえ、どうにかならないのだろうか。せめて、アメリカ支援などという言葉は使わないで欲しいものだ。
今回は日本人も犠牲になっている。私達の国は、このような事態が例え起こったとしても他国までいって報復する事は出来ない。霞ヶ関のビルが倒れて数千人が死んだとしても、自衛隊もだせない。なんせ軍隊がないのだから。 それが悪いといってるんじゃない。戦争を放棄するというのはそういうことだ。”戦争は悲惨だから放棄した”などという感情論的解釈は通用しない。むしろ”戦争で解決できると考えるのは時代遅れだ”というスタンスが欲しい。解釈論ならばそのようにすべきだ。
今回の事件は、明らかにアメリカのダブルスタンダードだ。古くはイギリスのダブルスタンダードが中東問題を産んだように、今回も根本はそこにある。ラディン氏もタリバンも、かつてはアメリカの支援を得ていた人々だ。 皆そのことはわかっていてもいえない。政治家なら当然だ。でも言い方はある。臨時立法などという姑息な言い回しよりも、日本が主体だったらどうするのかを示すべきだ。それがアメリカと異なるのだったら、別々のアプローチを取ればいい。後方支援はしかたなくとも、拡大解釈を許さない姿勢を持つ事。何より水面下で中東問題の改善に取り組む事だ。真っ先に哀悼の意を示したパレスティナの事を誰も取り上げない。彼らの支持を取り付ければ、テロの大義名分は消え去るというのにだ。無力化したアラファトだって、使い様によっては互いに利用できる。
日本は先進国にあって、宗教色の極めて薄く過去の問題を持たない国だ。そして戦争を放棄した国だ。そのことは他国から見れば誰も信じないだろうが、それは事実だ。日本で同じ事が起きても、この国は軍事的報復をしないだろう。憲法に書いてあるからではなく、今の日本人はそうはしないということだ。それは誇ってもいいことだ。理解はされなくとも。
だからこそ可能性がある。 エルサレムの聖墳墓教会の鍵は、イスラム教徒が持って数百年になる。キリスト教徒の各派が牽制しあって、誰にも持たせたくないからだ。宗教はかつて寛容だった。しかし積み重なった悲劇を神の試練と崇めるには、人々は小さすぎたのだろう。一神教の寛容さは多神教のそれよりも狭いのは確かだ。しかしそれでも寛容さはある。 それらを備えた人々は、世界にそうはいない。日本はその一つである事は間違いないと、私は思うのだが。
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2001年09月19日(水) |
枯ることを忘れて咲きし竜胆よ 雪に眠らん吾とともにあれ |
リンドウの花がだいぶ枯れてしまった。彼らは日が出ている間開き夜には閉じてしまう。だからあんまり花を見ずに終わってしまった。多年草というからもうしばらく楽しめると思っていたが、さすが値引きしていただけあってもう盛りは過ぎたのだろう。冬を越すという話だけれど来年も楽しめるのだろうか?
今年は3つ山に登った。今までの山紀行と違って風景や花を愛でるというものになった。そのなかでも可憐さと美しさでは”リンドウ”が一番だった。カメラ写りも申し分ない。3種類ほど見たがあの深い藍色は何者にも変えがたい色だった。彼らは山によって微妙に色合いが違った。どの山でも頂上近くにあって長く咲いていた。 黒岳に雪が降ったそうだ。先日歩いた赤岳途中にもリンドウはたくさんあった。紅葉に添う藍色は山に踏み込んで愛でる価値がある。 そんな彼らは枯れることを知らずに雪の下に眠るのだろうか。風強く凍てつく峰は粗い雪氷に一旦つつまれる。敷き詰める氷の花模様に閉じ込められた藍の花は少女の眠り顔のように美しすぎるのではないだろうか。
ハイマツ覆う高山の一角は朱色に染まるナナマカマド。連なる針葉樹の緑に埋もれた山肌はやがて染まる広葉樹に一時主役を譲るだろう。そんななか春とも秋とも区別できない花々は長き冬に染まる。次に会えるのは8ヶ月も先の話だ。
桜前線を心待ちにする私達は紅葉前線を真っ先に送り出す。ナキウサギの声も聞き収めです。
枯ることを忘れて咲きし竜胆よ 雪に眠らん吾とともにあれ
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2001年09月18日(火) |
昔、天使だった哀しい私達へ |
哀しみをたたえた天使が人となったときこの地に足跡が残る。振り返れば埃にまみれた街並に、ふとあらわれた靴跡。傍観者から生きる者へと変わったとき、足跡には魂の重さが加わる。
ふと年下の人と映画談義になったとき、彼は”ベルリン天使の詩”のことを話し出した。ヴィム・ヴェンダースの有名な映画だがメジャーな映画ではない。私が多少映画好きだった事を知って恐る恐る話題に載せたようだ。 私がこの映画を観たのは高校生の頃。映画館が数件しかなかった街でこんなマイナーな映画を観れたのは地元の映画サークルの特別上映だった。滅多にない機会と思っていってはみたが、正直よくわからなかった。けれど映像の美しさと雰囲気の良さに惹かれてまたいつか見たいと思いつつ日が過ぎた。
天使は傍観者。いかに優しさと慈しみと平等をたたえていても自らの足で生きることができない。それを”哀しい”というのだろうか。”哀しい”と”悲しい”の違いを私は良くわからない。天使が哀しい存在だとすれば、人は全て昔天使だったのかもしれない。だとすれば人は全て優しくて哀しい存在だ。 時に足跡が残らないほど生きている実感を持てないときがある。そんな時はもしかしたら背中に翼があるかもしれない。そうならば一時自分から離れて舞い上がってみるといい。人のそばに寄り添う哀しい存在に気がつくかもしれない。 彼らは子供達には見えたという。
”子供は子供だった頃 腕をブラブラさせ 小川は川になれ 川は河になれ 水たまりは海になれ と思った
子供は子供だった頃 自分が子供だったとは知らず すべてに魂があり 魂はひとつと思った
子供は子供だった頃 なにも考えず 癖もなにもなく あぐらをかいたり とびはねたり 小さな体に大きなつむじ カメラを向けても 知らぬ顔”
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2001年09月15日(土) |
吾児背負いリタイア告げる父親に”まだ登るんだ!”と勇む子の声 |
北海道の紅葉は大雪山系から始まる。見頃としては来週あたりなのだが、ヒマは今週しかないので出かけることにした。前日にキャンプ場について夜まで飲んだ後、今日見物と相成った。 目的地は銀泉台という北海道で車でいけるところでは最も高いところ。車はすでに数十台あって交通整理が行われていた。山の紅葉はまだ三分というところだが黄色い木々がまとまるところには見事。その一絵だけで十分満足なのだが晴れ間が見えるいい天気。更なる紅葉を求めて赤岳頂上を目指す事にした。 赤く染まるナナカマドが緑のハイマツ上に点々と島をつくっている。山腹は赤い斑点をのせて裾へと降りるがその眼下は今だ緑の森。絶景の中この森一面が紅黄緑で染まる姿を浮かべながら2時間足らずで頂上についた。トレッキングとしては申し分のないコースだ。
途中いくつかの家族連れを発見。一番元気なのは女の子。元気に登頂。駄目なのは男の子。”まだ頂上じゃないの?”と連呼。2時間の歩きは単調に過ぎたか。彼はしばらく山には来ないだろう。
第二の家族は子供ふたり。うち一人はまだ赤ちゃんでお父さんのお腹にくっついている。もう一人は5歳くらいの男の子だ。おとおさんご苦労様。 最後の急登を前に家族は断念。赤ちゃんを抱えてでは無理だろう。そんななか、”どうして頂上に行かないの?”を連呼。”もうここが頂上なのよ”とのお母さんのたしなめももちろん通用しない。微笑ましさに華やいだ原色の色彩に潤いをたたえたような波紋が私達にも広がってきた。彼はまた山に登るだろう。
子供の頃の登山なんて往々にしてつまらないもの。そんななかであった有望な彼に山の魅力を吸収して欲しい。
”頂上なんてどこだっていいのさ、坊や” 素敵な素敵な家族でした。
吾児背負いリタイア告げる父親に”まだ登るんだ!”の勇む子の声
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アメリカのテレビかと思うほどテロ事件一色の報道だ。当日はほとんど徹夜で見入ってしまったからライブの出来事がいかに緊迫したものかわかる。少ない情報を繰り返し伝え、確定できない推測を繰り返し、訂正は気がつかないうちに行われる。まさに混乱である。テレビというメディアが一瞬をどれほど引き伸ばして報道せざるをえないのか、常に映像と音声を流しつづけるという困難さを知る日々だ。
テレビも新聞もなかったら。
日が昇り日が沈む。腹が減り飯を食う。職場で人と会ってその話に驚くが合間の言葉では詳しい事はわからない。関心を惹起させるほどの話術でもない。そのまま仕事が流れていく。 彼は自らの家にある本に読みふける。妻の言葉に耳を傾け、犬の散歩に季節のうつろいを見る。
私が付き合った人の中にそんな人がいた。テレビはない。カーテンもない。曇りガラスから差し込む光は淡く、彼女は日とともに生活していた。けれどその寂光の中でも眠りについていた。不思議な雰囲気をもつ彼女に私は恋焦がれてしまった。
世の流れは絶えずして激変と暴落と殺戮に満ちている。映像は絶え間なくコメントは詰問的で無責任、夜は喧騒に満ち常に忙しく世界を飛び回る。
今テレビを消して電話を消して。ネットワークはこの窓から動かない。 その時私はどうなるだろう。その孤独に耐えられるだろうか。
曇りガラスの部屋は遠くなって随分長くなりました。
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バイト先の専門学校で狂牛病の話となった。北海道で飼われた牛から発病したという人畜共通伝染病。新聞でその記事を読んでいた私は聞き耳を立てていた。
伝染病というからには病原体がある。一般には細菌だったり原虫だったりウイルスだったりする。細菌や原虫だったら体内で増殖するわけだけど細胞分裂というわかりやすい増え方をする。ウイルスの場合は遺伝子のコピーを増やして増殖する。人の細胞分裂を借りて悪さをするわけだ。まぁこれらは全て”遺伝子”が直接関わっている。
しかしこの狂牛病は良くわからん代物だ。何よりこれはただの”たんぱく質(プリオン)”。遺伝子をもっていないのだ。生命の設計図である遺伝子なしに増殖するこいつはなんなのか、実のところわかっていない。多分、宿主の遺伝子に働きかけて普通に体にある正常なたんぱく質を異常な”プリオン”に変えてしまうらしいといわれている。とにかく今までの常識では考えられない代物だ。学者の間ではウイルスが発見された時と同じくらいのインパクトがある。
中枢神経を長い潜伏期をかけて犯すといわれる。潜伏期が長いというのはやっかいだが巧妙だ。エボラ出血熱のようにバッタバッタと倒れていけば限局的に集束可能だから。エイズとエボラならエイズのほうがはるかに怖い。 ではこの”プリオン”はどうか。伝染性という点では脳神経に手を出さなければ大丈夫らしい。出したとしても感染力はかなり低いようだ。
しかしながらこの病気は羊では”スクレイピー”といわれ鹿や他の動物でもよく知られている。人でも発症がなかったわけではない。急激に増えたのは硬膜の移植による。牛からの伝播はまだ霧の中といえる。 では何故こんなに牛で増えたのか。それは羊が牛の餌になってしまったからだ。脳も含めた枝肉が高たんぱくの飼料となった。食物連鎖が人間の手で変化して、今までほとんど無視できた病原性が指数関数的に上昇したと考えるのが妥当だ。
エボラ出血熱も猿と人との生活圏が異常接近したと気に現れる。生命の歴史をみればこのような寄生体ともいえる生命体は宿主といい折り合いをつけてきた。宿主が死ねば自分も死ぬ。だから宿主には長生きしてもらわねばならない。エキノコックスはキツネの体なら何の悪さもしない。人の体に入ってしまうとどうしていいかわからず成虫になれずに迷走してしまうからいけないのだ。
中には共生関係に移行するものもいる。私達の細胞に必ずあるATPを作るミトコンドリアは動物遺伝子にはない全く別のものだ。彼らは生命誕生の時代に共生関係になった寄生体という考え方もある。
未知の空間は意外とそばにある。 生命の歴史を考えればいつかはそれらと折り合いをつけていくことができる。ただその時間は人の感覚では長すぎるし遭遇の機会を作っているのは人間だ。同時に”折り合いをつける時間”も削っているわけだ。
もし人類が滅びるとしたら、このような遭遇はおおいなる危機である。
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2001年09月12日(水) |
彩りを競いし森の精達も溜め息もらす青き実りよ |
森は秋の気配を見せて黄色みがかってきた。虫も少なくなってきて多少歩きやすい。花はアケボノソウやアケボノスミレくらい。けれどアケボノソウは美しい。 まぁ単調といえば単調だがそこかしこに隠れた実りの秋がある。名は忘れたが木の枝に見事な青の実をみつけた。双眼鏡で見ると空の青を濃縮して空気中の水分を薄くまとったような絶妙な色合いだ。そんなものを見つけられるのも師匠がいてこそなのだけど。
”色の表現ってのは外国語のほうがしっくり来るのはなぜなのかなぁ” と師匠のお言葉。
日本語の色というものはどことなく具体例に直結する。桃の桃色、葉の緑、海の青、火の赤。山吹色に紅色。日本人の感性の豊かさを表しているようだけど、その束縛から離れてみたい色に出会ったときに自分の表現力のなさに哀しくなってしまう時がある。 で、エメラルドグリーンとか・・・・。とにかくカタカナの色の言葉の豊富さにはあきれ返ってしまう。誰がつけたのだろう。油絵や水彩の絵の具売り場の前に立つとその数に圧倒されてしまう。ぴったり来る色に会えたりすると本当にうれしいものだ。その色に名前があるということに驚いてしまう。多分由来はあるのだろうけれど私にはわからないから難なく受け入れてしまう。なんて素直。
初めて手にした8色の絵の具セット。ほんとは12色セットが欲しかった。でも赤青黄があれば全ての色が作れるはず。だけどなかなか難しい。混ぜれば混ぜるほど明るさは落ちる。全部混ぜれば真っ黒だ。そう考えると白という色は独立した系ということになる。 でも私達が見るのは光の反射。光は赤緑青からなる。全部混ぜると透明だ。絵画の世界と写真の世界は似て全く異なるアプローチという事になる。
今ある青を心に留めたい。それを伝えたいとなると既存の単語は邪魔になる。”百聞は一見に如かず”とはいえ名聞を作り出す事は人の技である。言葉であっても絵であっても、時には音楽であったとしても。
彩りを競いし森の精達も溜め息もらす青き実りよ
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北海道は集中豪雨で豊平川の河川敷も水に浸ったところもあるようだ。さて今夜は台風関連で大わらわだと思ったら・・・・。
飛行機がビルに突っ込んだ? 2機目? ペンタゴンにも落ちた?
台風にユースなど吹っ飛んでしまった。嫌気がさしたのか、台風さんもあっとういうまに東にそれたようだ。
それにしても・・・・。 アメリカにとっては湾岸戦争なんかどうでも良いほどのインパクトだろう。ハイジャックから特攻までほんのわずかな時間。巻き込まれた人命はものすごい。これほどの事を現地調達でやってのけるとはまさに盲点だろう。テロリズムは下手な要求などせずに命を投げ出せばこんな事もできてしまう。悲しみしか生まない事はわかっていてもあまりにも大きい。
ただではすまないだろう。アメリカは確信だけで戦争を起こすだろう。相手がグループだろうと国境を越えて攻撃を仕掛けるだろう。
台風は急にハリケーンになって電波を占領してしまった。猛烈に荒れ狂っていく様子。
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帰宅は豊平川の堤防の上を走る。堤防上の表示には増水注意とあった。街の明かりに暗く浮かび上がる川面は波立って、低い流音を響かせていた。 私はその音になんとなく引かれて河川敷へ降りた。誰もいない自動車教習所のコースを抜けて行く。街灯に浮かび上がったうち捨てられたスクーターがまだ走りたそうだった。 川下へと伸びる道は自転車を快適に走らせる。階段状の堤防には点々と佇むカップルがいて、なんとなく邪魔しているような小心さに急かされてペダルを強く踏み込んだ。あっというまにいくつかの橋をくぐる。2つくぐれば良いというのに。 広場もパークゴルフ場も過ぎる闇に吸い込まれて河川敷はいよいよ狭くなる。しばらく絶えた人気に心もとなさがましてきた頃に川辺の柵に寄りかかるカップルがいて初めて親近感を持ってみたりする。 川はちょっと荒れ気味。100年前は渡し守も健在な開拓期の暴れ川だったという絵をみたことがある。 向こう岸には渡れない。橋を渡るには堤防を登らないといけないがそんなスロープはない。また一つ橋をくぐる。 街のネオンは住宅街の高層住宅から漏れる明かりとなった。道はいよいよ川と近くなって近づく堤防は視野を狭めた。月は半月。空で一番明るい。 ようやく見つけたスロープは荒れた砂利道で草が生い茂っていた。押しながら登ると一瞬風が吹きぬけた。緩やかに曲がるカーブから車が向かってくる。久々に見たような気がした。
高々30分の漂流はこうして終わった。川は私の知らない街へと流してくれた。たぶん東に流れてたはず。でも、ここはどこだろう。 その答えはあっさり見つかった。信号には”北1東23”。碁盤の目の札幌はそう簡単に遭難させてはくれないようだ。
ようやく家路へ。とはいっても私はその後しっかり迷子になった。いくつになっても方向感覚はないらしい。ま、そのおかげで漂えるなら良しとしましょうか。
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2001年09月08日(土) |
移りゆく夏の香りを隠す葉に主なき蝉のからの音響く |
※昔の文を転載して加筆してみました。季節はずれの夏一首に寄せて
明日汽車でちょっと遠くまで行く予定。とはいっても距離にして340kmもあって、乗ってる時間は7時間くらい。さてどうすごそうか、とおもっていると、ちょっと昔をおもいだした。
高校の3年間は汽車通だった。毎日毎日よく乗ったもんだ。朝はとても混んでいて入り口のデッキでつぶされていた。そんななか、次の駅ででっぷり太ったおばあさんが、ものすごくでかいガンガラをどんと積み上げた。40×70×30cmくらいもあるアルミの入れ物を3つ。ただでさえ狭いデッキが、おばあちゃんとガンガラで潰れてしまう。ほんとに憎くらしかったものだ。 あるとき、おばちゃんがそのガンガラを開けた。中からは砂浜の香りとともに、ホッケやらタラやらが出てきた。そして、途中の駅で待っている、これまたおばちゃんに売っていくのだ。お代はあとでねー、てな感じで。 今になって思う。あのおばちゃんは、たぶん戦争中からずっとこんなことを続けていたのかもしれない。旦那さんを亡くして、女手ひとつで子供を育てていたかもしれない。車窓を流れる風景を、もう数十年も見続けていたのかもしれない。そんなことはないのかもしれないが、学生ばかりの汽車の中で、あのおばちゃんの時はどんなふうに流れていたのだろう。私が生きてきたよりずっと長い時間をしっかり生きてきたはずだ。
こんなとこで何をしてるのだろう? 家ひとつ見えない無人駅に降りる人をみて、そう思うこともある。明日私は、その駅のひとつを目指すのだ。私はどんなふうに映るのだろうか。どんなふうに生きてきたのだろうか。
明日汽車に乗る。4年前にのった時は、深緑の鈍行だった。窓はさわやかな暑い風を吸い込んで、形ばかりの扇風機が申し訳なさそうにまわっ、て夏に気持ち良く負けていた。
まだ私はひよっこだ。なんとなく焦っている自分。勝ちにいっている自分。でも空元気してたって鈍行ではしかたない。各駅停車で乗ってくるもの全部を楽しみにしよう。
気持ちよく負けてみたい。なんたって長旅なのだから。
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道北のはずれの駅。椅子が数個入れば一杯になる小さな駅舎。木造の造りは長の風雪に耐えたように、黒くいい色をしていた。 すでに駅は地域の役割を国道に取られてしまっている。荒れた雰囲気の中、わずかに添えられた花が、この駅を拠り所にする人の影を伝えていた。 ホームには数本の木が枝を伸ばしている。冷夏の北海道はこの駅にも降り立ったようで、蝉の音一つ聞こえない。 誰もいないホームに寄りかかる。木漏れ日に目をやると、葉陰に蝉の抜け殻があった。葉と共に揺らぐ飴色の殻、葉の緑、木漏れ日。それらが一緒になって溶け、つかの間目が眩んだ。夏の音が木霊した。
ホームには渡る風が足元の草をそよがせるだけだった。柵の青いペンキがやけにまぶしい。
その年の夏はその一瞬だけだった。永遠に残る一瞬だった。
移りゆく夏の香りを隠す葉に主なき蝉のからの音響く
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雨の中歩いた。50円で買った傘が大活躍だけどけっこう濡れてしまった。
私の通勤の道すがらにはちょと通りにくい交差点がある。創生川通りを南に下って曲がった先にあるところだ。左折信号あり、直進信号あり、直進右折信号あり、左折信号なしという本当にわけわからん交差点で横断歩道はないのだがここを渡るとだいぶ早い。 まずは車の隙間を突いて中央分離帯まで行く。向かいの通りはまだまだ車が切れない。後ろも再び走り出す。となると間に挟まれる。これがけっこう怖い。 分離帯といってもほんの少しなのだけど何故か50cmほどの円柱形の台がある。ここに避難という事になる。 直進車と右折車のライトがまっすぐに向かってくる中、この台の上で向かい合う。イメージとしては交通整理の雰囲気だがなんの権力もない私はとてつもなく無防備だ。 ライトの向こうはシルエットに沈み何も見えない。中には確かに人が居るけれど何の感情もみえない。鉄の塊はすぐ目の前まで突っ込んで右へとまわっていく。無感動の塊が私のほんのすぐそこで右へ、直進へと別れていく。ここは国道。最も交通量の多い道だ。 ライトの海の中かろうじて浮かんだ島に浮かんでいるようなものだ。彼らの前ではなす術はない。来ないとはわかっていても顔はこわばる。狭い台の上に立ち上がると豊平川にかかる大きな橋の上には私へと向かってくるライトが鈴なりに走ってくる。絶え間ない圧迫感と心もとない足元は波打ち際の砂のように足元から崩れてて彼らのほうに引き戻される感覚が呼び起こされる。
そんななかゆっくりと彼らは止まる。ただの赤い光に従って。そんなに素直な群れだったのだろうかと一瞬唖然としていると待機中の車が私に向かって、そして左へと曲がっていく。私は止まった車と曲がっていく車の間をそそくさと渡っていく。
ただそれだけの交差点。あぁ、どうしても説明できないこの複雑さ。ここを通る度、ちょこっとよぎる胸のざわめきのひとかけらでした。まる。
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2001年09月06日(木) |
本は宝。映画は夢。音楽は友。 |
感動というものはけっこういいかげんなものだったりする。例えばある本は10歳で読んでわけがわからなくて20歳で熱く感動し、30間近になってなんだこりゃ、となったりする。ある映画は一回目は理解できなくて3回目でようやく筋がわかって5回目で納得と感動がやってきたりする。一介聴いて感動したCDが2回目では妙に冷めてそのままお蔵入りになったりする。
感動が最初から死ぬまで持続するとしたら、それは生涯の一冊だったり一枚だったりするのだろう。 例えば”ドラえもん”。一生テレビで見つづけると誓った少年時代の思いは今となってはのび太のわがままに腹を立てたりする。ネームバリューに押されて無理して感動した晩年の黒沢明には世間の評判を聞いてようやく無理が溶けたりする。悲しい時に買った”自分発見”の本を改めて開くまでもなく表紙を見ただけで耳を赤くしてしまう。宮沢賢治はその深さを知りたいと思いつつ、いつも途中で挫折してしまう。 まぁいろいろとあるものだが今後の期待を込めるものも含めて本棚にあるものはこれからもとっておきたいものばかり。冒険をしていないというのもあるけれどまぁいい買い方をしているほうだ。漫画もさすがに青春ロマンス物は売ってしまったが残っているのは恥かしさも込みでやっぱりとっておきたい。
こんな事を考えたのは”風の谷のナウシカ”のコミック版を読み返したからだ。正直映画は内容が濃すぎて不完全燃焼という気がしててコミック版こそ本道と思っていた。まぁよくある”原作びいき”である。けれど休載に休載を重ねたこのシリーズは途中のほうから訳がわからなくなってついていけなくなってしまった。 で、久々に読むと・・・・、深い。全然ハッピーエンドというわけではないし終わり方も本当に良かったかどうかわからない。わかった気がするのは”生きる”ということは計画どおり行かないしすべきものではないということか。 とにかくこの年になってようやく理解が深まった。ただそれだけのことだけどそれはとってもうれしいこと。
今わからなくたって、今感動がなくたってとりあえずフンフンと心の隅に残しておけばいい。時は満ちるってこと。本は宝。映画は夢。音楽は友。そんなところでしょうか。
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世にはミニコミ誌というものがある。同好会誌というものから喫茶店主や映画館の情報誌から詩が印刷されていたり。とにかく紙に書いてしまえば立派なミニコミ誌だ。さてそれをどこに置こうかというのが問題になる。 書店に置く訳にもいかないし街頭で配るのも的外れ。喫茶店の主人なら店にも置けようが一介の詩人や歌人にはそんな場所もない。
札幌では今はどうだか知らないが、シアターKINOという映画館も階段に映画パンフレットと並んでいろんなミニコミ誌が並んでいた。そんななかに同級生の詩集があったのにはちょと微笑。マイナーな映画チラシとの相性もなかなか良かった。開演時間を待って並んでいる間にこれらの誌面をみながら思いを形にして伝えることのうれしさとはずかしさに想いを馳せた。ここに並んでいるのはそんななかで精一杯背伸びをした熱い想いだ。例え静かで地味な誌面だったとしても。
そんなことを思い返したのは、我が森の師匠が毎月B5の紙一枚に”歩来朗だより”というものを出している。丁寧な手書きの文字に森でであった花や鳥のこと、森の香りを伝えてくれるものだ。 それは単に想いを伝えるということだけでなくこの森を守りたいという想い。様々な利害と惰性と化した管理の狭間で一花一樹を愛でる目を持つ人にはいらだつ面も多いだろう。融和な顔立ちからは思いも寄らない熱さが誌面からにじんでいる。
一枚一枚に込められるもの。仲間を求めるもの。ただ伝えたいもの。守りたいもの。戦いの狼煙。あふれる感情がつまったものたち。 それらの精神はネットの世界にも通じる。けれど彼らのほうが厳選されているようにも思える。それは伝える努力と印刷という手間がそうさせるのだろう。何より手書きは暖かい。
個人の目のなんとあついことか。真実は八百万の神様の数だけある国なのだから目を向ける価値は十分にありますよね。
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久々に駅のホームにたった。暮れていく郊外のホームはまばらで、夏服の中高生達の白がひんやりとした空気に映えて、空気の蒼をひきたてた。 数分後にやってくる汽車を待ちながら、柵に寄りかかる。体温を奪う金属の感触に心地よさを感じる日は、今年はなかったなと思い返してみたりする。
汽車に乗ることは高校三年間の日常だった。1時間に一本あれば上等の汽車は、北海道では珍しくわりと混んでいた。朝の通学はぎゅうぎゅう詰めの満員。一度乗った東京の満員電車に引けを取らないものだった。今思えば、東京に就職しても何とかやっていけたかもしれない。学生の賑やかな会話が錯綜する中で、樽前山の季節のうつろいをボーっと眺めていた。山裾はなだらかで、冠雪すると見事な帽子をかぶる。秋が深まる季節、葉を落としたセピア色の森と良く似合う。あせていながらも山は凛としていた。そう、思い出すのは秋色だ。
今日私の前には、30階もあろうかというタワー型のマンションがそびえている。明かりが漏れているのは数件しかない。不思議と、対面の窓の中心一列だけが明るい。ホテルなどでたまにやるメッセージを、このマンションの窓で書いてみたらどうだろう。札幌へ向かう駅のホームで少し顔を上げると、短いメッセージが浮かび上がる。雪降る早すぎる夕闇に浮かべるなら、とっても純情なメッセージが似合う。そう、目の前の制服カップルあたりに似合いそうな。
ホームには岩見沢に向かう汽車がやってきた。赤に薄黄色のライン。車内は青い地のボックス席と、出入り口付近では横に伸びる座席。北海道では古くから走る旅情味のあるディーゼルだ。私が学生の頃乗ったものと同じ型。”キサ”と側面に書いてあった。 私が座るのはボックス席ではなく入り口付近。ボックスは友達仲間で占領する賑やかな閉じた空間だったが、通路を挟んで向かい合う席ではお互いが他人。顔を上げると、山裾を広がる街並と乗客の顔。たまに合う視線をどことなく避けて、流れる街の灯りを眺めていた。家の光が街灯へと変化して規則正しい点滅が窓を流れていく頃、乗客はほとんどいなくなる。窓はいつのまにか闇の鏡となって私を映し出す。空席になった向かいの席には、私と隣に座っている人がいる。森に入る頃、その姿はいよいよ鮮明になって、私は私と向かい合う。時にどきまぎ、時にうざったく、醒めた目に戸惑う頃再び街灯が流れ出す。私が降りるのはそのすぐ後だ。
汽車は発車した。わたしもこの汽車に乗ったことがあったかも知れない。見送るすぐあとに、札幌行きの列車がすべりこんできた。乗り込んだ列車に座席を探したが、全て進行方向を向いていた。
窓にうっすらと映る私。斜め向きの顔はどこか私以外のほうを向いているようだ。灯りはだんだんと賑やかになって札幌駅へ着いた。
大分昔によんだ吉本ばななさんの短編小説で、列車の中での話があった。隣に座る人物と会話をするというものだ。その人物は自分の心を反映して老人に代わったり美女に代わったりする。主人公の彼はきっと前を見据えていた事だろう。窓に映る姿をみて、その人物の存在感を隣に感じて。
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2001年09月03日(月) |
改革に対するまとまらない思い その1 |
世は改革の掛け声高いけれど何も変わってない気がするのは気のせいだろうか。 最もよくわからないのが、民営化、外部委託、出向などの言葉だ。民営化や委託によってコストが下がるというのはどういうことだろうか。内部でやるとそんなに効率が悪いのか。確かに仕事を集約化すればコストは下がるだろうけれど。それが子会社だったらなんの集約化にもならない。 結局は残存する人々の既得権(=高水準の給料)を維持するためという事にならないだろうか。 私が役所にいた頃の保健衛生部門は再編の嵐が吹いていた。無理もない。戦後すぐにできた衛生関連の法律を主なよりどころにして今だに仕事をしているのだから時代についていってなかった。近代設備の衛生管理の時代に排水溝にねずみ防止の網を張ってね、といってても始まらない。どうしてこんなにもっていたのかもわからない。 そんな中でも職員は真面目に仕事をこなしていた。零細の業者相手に丁寧な仕事をこなした。みんな真面目なのだ。仕事はなんとしてもみつけてくる。自分の仕事の必要性を何とか見出して一生懸命にこなす。決して自分の仕事が時代遅れになっているとは認めない。認めたら存在できなくなるからだ。だから仕事は肥大化して既得権と化す。考え方を変えればこれほど楽な仕事はないからだ。 大きな企業にしろ特殊法人にしろ公務員にしろ自分の仕事の社会性を認識できる位置にいなければ既得権の上にあぐらをかくことになる。誰が自分の仕事と報酬を分け与えるなんてことをするだろうか。 フリーランスの仕事。腕一本の職人。農協組織のない農業。いらないといわれれば何の保証もなくなる人たちも多い。 一方で彼らは多くの保証を持っている。健康保険に雇用保険。会社が倒れても退職金や公的資金で建て直し。保険制度はいつまでたっても破綻しないというのならぶら下がっていたほうが楽に決ってる。今のほとんどのリストラはこの幹にしがみついているばかりにみえる。 資本主義の世の中だ。年功序列が裏切られたといっても仕方がない。経営者も労働者も自分がどういうパイの中にいるのか見直してみるべきだろう。すでに若者の価値観は金銭的報酬から離れてきているとは想うのですがね。
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画面も見ずにテレビのチャンネルを変えると懐かしい声が聴こえてきた。ギルバートオサリバンの声。振り返ると少々ふけたおっさんがキーボードを弾いている。声は全く昔と変わらない。 ベスト版のCDを一枚持っているだけだけどとっても好きな人だ。といっても唄っている英語はほとんどわからないので結局好きなのは曲調と声なのだろうけれど。 彼の曲でいちばん有名なのは”Alone Agein”だろう。ちょこちょことCMに使われたりアニメの主題歌に一瞬使われた事もあった。洗練された曲と少し寂しげな雰囲気もどことなく日本人受けしそうな感じだが、詞の内容はかなり深いといわざるを得ない。冒頭から”教会の屋上から身を投げよう”などというのだから。淡々と深い孤独をうたった曲で最後はお母さんをなくしてさらに孤独が深まるという詞だ。とてもCMやらに使える内容ではない。言葉がわからないというのはある意味では幸せな事だと想ったりする。 そんなことでこの曲をカラオケなどで歌ったりしたものだ。盛り上がるものではないけれど多少聴かせられるものだったりする。しかし詞の意味合いが心に染みるようになってくるとそうは歌えなくなってきた。
洋楽にはそういうものがたくさんあったりする。新しいものはよくわからないけれど、QUEENの曲などは正直訳わからん。名曲”ファイナルカウントダウン”などは火星に行こうぜ!という内容だったりする。マイケルジャクソンだってボンジョビだって。メジャーなところもかなりいろんな詞を歌っている。
そう考えると日本の歌というものがどうしても狭すぎる様に思えてしまう。全てがあまりにラブソング過ぎる。好きなんだけれどね。 ”スキヤキ”の特集をやってたりするけれど、もしこの曲が日本だけで留まっていたとしたら今の評価があるのだろうか。語り継がれる歌は世代を超えるし様々な種類の歌から生まれるはずだ。果たして今そういった環境があるだろうか。
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