私季彩々
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2001年08月31日(金) 雲上の露天風呂


 夜は厚い雲をまとっていた。夜はなかなか明けなかったが、ようやく白んでくる頃には小雨交じりとなった。ようやく車から出て露天に向かうと先客が一人。地元のおじさんがいた。水着を着ていた。
 私はそんなこともお構いなしで全裸で風呂へ。透明な湯に浅くて拾いお風呂。湯船からすぐに滝のように湯が流れ落ちていくいいロケーションだ。小雨は目の前の乳白色のゆらぎからしみでてくるようで、この空気を湯に溶かせばあの映像そのままに再現できそうな、盲目のファンのおろかさを一人追及してみたりした。
 湯は源泉53度とかなり集め。水を引き入れてぬるくして入る。地元の方と話をすると毎日きていらっしゃるとのことだ。
 半身浴でしばらく待機。初めはさだまさしを頭に浮かべていたのだがそんなものもどうでも良くなった。ただ足を伸ばしてゆったりする。頭を軽く寝かして天空を見上げる。手はだらしなく力を抜くと自然と斜めに開く。目は明けているのか閉じているのかわからない。空近い山の中腹に湧く秘湯に抱かれて私服のときを過ごした。
 つすいて地元の夫婦が2組。みんなここで朝入浴するそうだ。観光地化されながらももともとは地元の方々のふれあい場。きちんと捨てられたごみを拾ってから服を脱ぎだした。みんな水着着用。
 雲上の秘湯も人々の営みで永らえる。そんな楽園の静寂は朝の一時だけのようだ。みなさん、いくなら夜と朝の間です。きっとコロボックルが案内してくれる事でしょう。 Home&Photo


2001年08月29日(水) 過去形にある未来

 あの頃見た夢のように
 街外れの鄙びた扉を開け放とう

 螺旋の石段駆け上って
 青満つ空へでたならば
 柵だって道を開けるはず

  あの頃見た映画のように
  爽やかな風吹く塔に登りたい

  ふきっさらしの尖塔で
  きらめく海を眺めたら
  空だって飛べるはず

   透明な水色に 透明な空色に
   眼下の街はパッチワーク

   風は髪と戯れて
   日の光を筒にして
   燦々の曲を奏でるはず

    あの頃みた光景は夢の光で溢れていた
    けれどよくわからない
    ”あの頃”っていつだろう

   過去形で済ませてしまう
   けれどただの過去なのだろうか

 あの頃 この頃
 私の頃 あなたの頃
 時を越えた普遍の想い

だからいつだって空は飛べる
 夢見る頃に終りはないの
  時には誰かの夢の中にだって飛べるのだから
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2001年08月28日(火) 水風船しぼみし頃や秋暦

 夏祭りにもらったヨーヨー(水の入った丸い風船)がすっかりしぼんでしまった。夏祭りに買ってもらったヨーヨーがしぼむ頃に夏休みが終わってしまうと子供達は感じるのだろうか。そもそもそんな感傷に浸るほど子供達に余裕はないかもしれない。宿題も溜まっているだろうし、とカツオ君を思い出して苦笑してしまった。
 北海道の夏休みはお盆開けで終りだから本州の感じ方とは違うのだろう。海!とはしゃぐ事は私の場合はほとんどなかった。それは夏らしい日本海側の一部だけでほとんどの北海道人にとって夏は一瞬の出来事のように過ぎ去ってしまう。札幌にきた時にはその暑さに面食らったものだから東京なんかではとてもやっていけないのだろう。

 お盆開けの今も暑い日々が残っているけれど風の匂いはもう秋だ。祭りの夜に丸々と膨らんだヨーヨーはオレンジの屋台テントの下で色とりどりに水に浮かんでいた。そんななか多くの子供達や恋人達が鈍いながらも心地よい音をたてながら川沿いの道を微笑みつつ歩いていたはずだ。そんな彼女らの部屋にも私と同じしぼんだ風船が残っているのだろうか。

 秋は食もあれば芸もある。そんななか夏の余韻をみせる者たち。
 季節はうつろうもの。心の中で灯篭とともに送り出すのがいいのでしょうかね。


 水風船しぼみし頃や秋暦


しぼんでしまったヨーヨーは秋風の中 Home&Photo


2001年08月27日(月) うれしいことば

 専門学校の講師会議というものがあった。まぁ試験期間が始まるからその打ち合わせという事なのだが5000円の収入となる貧乏人にはうれしい企画だ。
 専門学校というのは奇妙なもので講師はほとんどの場合委託、というか非常勤。専任はほとんどいない。授業の裁量もほとんど自由でいいかげんといえばいいかげんだ。しかもみんな定年になった方々ばかり。しかし長年一線で仕事をしてきた方ばかりなので若々しい。経済的にも余裕があることもあってかみんな仕事を楽しみにしてきてるのでほんわかとしている。
 そんななかに私が入ると両親ほど離れた方々と話をする事になる。正直親と話すのが苦手な私はここではけっこう饒舌。実は年配の方々とはなすのはかなり好きなのだ。親が聞いたら驚くだろうなぁ。
 で、そこには我が森の師匠がいる。会うのは1月半振りだ。おなつかしや。

 で、師匠が一言。
 ”いつから来るの? 君がいないと昼休みが退屈でねぇ”

 うれしいお言葉、ありがとうです。いくつになっても相手が例え美女でなくてもこれ以上うれしい言葉はありません。
 そういえば夜のふくろうを聴きにいこうとお誘いを受けていたのだが日曜の都合があわなくて伸び伸びになっていた。花の季節はもう大分終わってしまったけれど、紅葉見物でもご一緒していただこうかしら。
 花もいいけれどうれしい言葉はもっといいですね。

※今日の金子みすずのドラマは細かい説明を省いた丁寧なつくりが良かった。松たかこさんは和服も似合う。彼女の短歌もとても感性溢れるものと聞いているので是非読んでみたいです。 Home&Photo


2001年08月26日(日) 呼び水はレモンティー 

 ちょこっとお勉強にと会社に出かけて4時間。夜はすっかりふけてしまった。誰もいない会社というのは浮気するようなテレビもなければやさしく包み込んでくれる布団もない。気分が乗れば時間はあっという間に過ぎてしまう。

 たびたび飲んでいたレモンティーのカップには甘ったるさを表して底にのり状に固まった残りがあった。さて帰ろうかと思いつつカップに白湯を入れてのみ干す。塊が溶けてほのかに甘さが口に広がった。
 もう一杯白湯を入れて開け放った窓からさっと湯を捨てた。もちろん下に人はいない。しばらくしてからアスファルトに水が当たる音がした。時間差を感じるちょっとした違和感が不思議だった。

 で、外に出ると雨。今さっきまで降っていなかったはずなのに。湿り始めたアスファルトからむせ返った空気が上へと舞っている。不意にやってきたタクシーのライトが照らすとしっかりとした雨のラインが浮かび上がった。

 さっき放った湯が呼び水となったのだろうか?

 だとしたらなかなかたいしたものではないか。一杯の湯から大地を湿らせる雨が生まれるなんて。
 ちょこっと魔術的な想像をしてみると近所のホテル街もいかにも怪しい。魔女の何人かがその辺で気だるげに杖を振るっているかもしれない。

 などと馬鹿なことをいったところで雨は雨。自らが読んだ雨の中を自転車に乗って帰る羽目となった。ほほほ。
 嘆いてはみたけれど豊平川を離れる頃には随分小ぶりになった。所詮私の魔術はこんなものってことでしょね。 Home&Photo


2001年08月24日(金) 今はもう聴けない 

 私の車は10年落ちの車で当然CDやらMDなどはついていない。カセットテープはあるけれど今時CDからテープに落とすのも気恥ずかしい。そこで今までとっていたテープを持ち込んで聴くのだが当然10年近く時代をさかのぼる事になってなかなか楽しい。

 ユーミン、谷山浩子、YMO、TOTO、QUEEN、ZABADAKなどなど訳のわからん組み合わせとなっていて若い子を乗せるときはなんとなく気恥ずかしくてFM専門となる。そんななか延々と聴きつづけていたのが渡辺貞夫のベスト版だ。
 高校の頃ようやく普及してきたCDプレイヤーが我が家にもやってきた。それで初めて借りたのがこのCDだ。めちゃくちゃ感動。奮発してメタルテープを買ってダビングした。しまいにはSAXまで買ってしまうほどほれ込んだ一枚だった。
 そのテープは今にいたるまで聴きつづけ車に乗るようになってもずっとかけていた。ドライブにも最高にいい一枚であった。
 しかし酷な車内環境だからそのうち伸びる事は想像に難くなかったのだけどズボラな性格が的中してついに間延びするようになった。あれだけ聴いてれば当然だけどついに来たかという感じだ。
 すでに空気のようになっていた音楽がテンポを失ってしまった。知らず知らずにテープのボタンを押しても返ってくるのはゆがんだ波ばかり。音を意識してしまっては音楽にはならない。そう思うとこのテープは私にとってサティが目指した音楽という事になるのだろうか。
 エリック・サティは個人的にはフュ-ジョンの祖だと思っている作曲家で現代曲っぽいピアノ曲はファンも多い。彼はある展覧会で客が絵に見入っている中、自分が作曲した曲を流したという。そしてその曲に気がついた人がいたことに深く嘆いたという。彼は誰も気がつかない音楽を目指していたそうだ。

 思い出したのは”大きなのっぽの古時計”
 ”今はもう動かないこの時計”
 止まってしまった時という完了形の感覚が呼び覚まされた気がしてならない。それは”悲しい”というよりも”哀しい”で、それよりも”寂しい”ということだろうか。

 言葉をかけるとしたら”長い間ありがとう、ご苦労様でした”というところでしょうかね。 Home&Photo


2001年08月23日(木) ネオンテトラにうってつけの日?

 古道具屋で水槽セットを買ってはや一月超。貧乏な私はいろいろ安物を買い揃えつつ肝心な魚には手を出していなかった。まずは水草をと思ったのだけど、水草を育てるにはパワーフィルターというものが最適らしい。しかし、私が買った中古セットのフィルターは上部フィルターというもので相性は良くないらしい。しかも水草はとっても高い。

 そこで私は田舎で水草を取ってきた。北海道の低い水温で生えているものが熱帯魚用で育つかどうかはわからない、けれどただ。生きのいいのがなかったのでとりあえずしょぼしょぼ。これがうまくいったら富良野でみつけたキャンプ場横の小川から水草たくさん持ってこよう。あそこのは生きが良かった、けれど2週間前だからまだあっかなぁ?
 札幌郊外の西丘水源地に水草を見に行ったのだけど全くなかった。この点では我が田舎のほうが優勢。けれど富良野の小川にはたくさんあったなぁ。多分千歳あたりに行けばもっとあるんだろうけれど場所がわからん。富良野までガス代払っていく価値あるかいな?
 でようやく我が水槽にはみすぼらしい水草が少し。けっこう枯れてて勢いがない。そりゃそうだ、栄養源はまるでない環境で二酸化炭素も溶け込んでいない。多分駄目だろうと思いつつ液体肥料をちょこっと加えてみた。さて結果やいかに?

 さてさて、いいかげん魚もくわえてみようとネオンテトラ10匹498円也。実際手にとって見るときらきらしてて素敵。うんうん、なかなかいいぞ。
 で、水槽へ。一匹だけなかなか袋から出ないので強制退去願いいよいよ開幕。
 が・・・、みすぼらしい水槽なのに60cm級だからけっこうすかすか。10匹程度では全然わからん。しかも背景が壁の白なので蛍光色が目立たない。るるる。

 やはり貧乏生活に潤いは遠い。けれどま、気長に行きましょう。なんせ魚への投資はまだ500円。水槽他にかけた費用5000円。一番高いのは液体肥料の1000円という体たらく。普通にそろえたら30000円ではきかないだろう。
 安くそろえるというのは楽しい事だ。一生その路線で行こう。ま、路線変更するほど収入過剰になることはないでしょうけれど。よよよ。

 50匹くらい群れててもいいくらいだ。他の魚も欲しいけれど群れているのもいかったし。やっぱ背景の水草はもっと欲しいと思いつつ。青と赤のストライプに思いを馳せつつネオンテトラちゃん、仲良くしましょうね。 Home&Photo


2001年08月22日(水) 2日おくれのお墓参り 

 田舎に帰る途中は深緑の森を通る事になる。札幌から支笏湖へ至る道は国道とはいえ途中に民家はない。走りやすい道だけど、途中峠のような急カーブもけっこうあったりする。九十九折の道を抜けると、深い水をたたえた支笏湖が現れる。恵庭岳もくっきりと見えて、荒々しい山頂の岩肌を見せている。
 札幌に近く最も身近な行楽地ではあるが、羆も多いし森も深い。そんな探求しがいのある大自然を苫小牧側に抜けると、なだらかに下る一本道が続く。高校生の頃の強歩遠足で延々と歩いた道だったりする。深夜通るとおばあさんが追いかけてくるという伝説の道だ。抜かされると死んでしまうらしい、こわひ。

 苫小牧市街に出る直前に霊園がある。そこに私の父方の墓がある。お盆も2日過ぎた日にちょこっと寄ってみた。
 わずか2日後だというのに誰もいない。一応週末だから少しはいるかと思ったのだけれど。緑の中にお供え物と花でどことなく華やかな墓苑のイメージも、緑と大理石のコントラストにカラスが舞うとても沈んだ雰囲気だった。盆以外ならこんなものなんだろう。
 車を誰もいない駐車場にとめて歩いた。お墓は2段目の奥にある。黒い石にキリストの言葉を書いたものや、卒塔婆のみの墓があったりでお墓も様々だ。線香すら用意していないのでお墓の前に立ってもばつが悪く、周囲を散歩してみることにした。

 塩野七生さんの著による”ローマ人の物語”によると彼らのお墓は街道沿いの賑やかなところに立てられたそうだ。旅人が休憩するところがお墓の横で、そこに刻まれた文を読んでなごんだとのこと。
 ”おいおいそんなにいそいでどうするんだい。君もそのうちここにはいるんだ、どこへいったって同じことだぜ”、なんていうユーモアに溢れたものらしい。

 さて日本では、そうはいかない。合い並ぶ墓石の中に、手入れのされていない卒塔婆のみの区画があったりする。いつからあるかわからないワンカップが痛々しい。永代管理の名のもとにある墓苑ではこのような形はつらい。石の空間に、このような朽ち行く木は似合わなく思えた。そんななか墓石に刻まれた贈名に目が行った。たいていのものは古くな亡くなった順に並んでいるが、ほとんどが”童女 二才”などというとても若く亡くなった人たちで始まっていた。明治や大正のものも多い。そのあとに昭和後半の70歳以上の方々が並ぶ。私の実家の墓石も同様だ。墓石を作った伯父が「早くなくなった姉2人を真っ先に弔いたかった」と言っていた気もする。同じ想いで墓を建立した方々も多いのだろう。そんななか贈り名のない墓標もあった。
 ”日露戦争にて戦死 ○○○○戦士”
 仏式の贈名もないが、この形が名誉という事だろうか。一連の流れの中で、この平和そうな北海道の墓苑の中にも歴史の楔が残っていた。
 賛美歌の一説を刻んだものもあった。仏式もキリスト教も一緒というまさに日本的なごった煮の宗教観は、世界に誇るべきものだと思ったりもする。

 で、一回りして我がご先祖様に合対面。ごめんなさい手ぶらで。ふがいない私をどうぞお導きください。

 そして実家へと旅立った。思えばお供え物の残りなどどこにもない。やけに綺麗な墓苑だった。そういえば、カラスが増えてるからお供え物は持ち帰るようにいってたっけ。
 おっと。それよりも去年はそれ目当てで熊が出たんだった。危ない危ない。人気のないお墓で熊にあったんじゃ、葬式のひまなくすぐ納骨じゃあできすぎだ。ま、それもいいかね。シンプルで。”鳥葬”というのもあったそうだから”熊葬”もいいかも。 Home&Photo


2001年08月21日(火) 地球家族2001

 私はごくたまに写真集を買う。しかしほとんどがプレゼント用なので手元にはない。そんな私が自分で買ったものがある。”地球家族”という本だ。
 ”世界30カ国の普通の暮らし”
 ”申し訳ありませんが、家の中の物を全部、家の前に出して写真を撮らせて下さい”
 世界各国の統計的に平均的な一家の写真を撮る、というものだ。さらに家にあるものを全て家の前に出して、家族とともに写すというものだ。アフリカのマリでは土壁の家で物は壺や鍋などの炊事具ばかり。
 キューバでは失業中だけど普通に物はある。冷蔵庫は随分古めかしい。
 アメリカはいかにもいい家族という4人がカントリー風の立派な家具と家族の写真に囲まれている。車が2台と犬が一匹。
 モンゴルではパオの中に全てがある。大事なものは先祖代代の仏像。
 ブータンでは仏式の道具だけ。
 日本はいかにも普通の一家。一戸建ての東京住まいだけど他のどの国よりも物が多い。
 ボスニアでは銃弾が突き抜けた医学書を大事にする父。護衛の兵士が写っている。

 この写真集は1994年にでたもので写真集というよりも、書かれているデータやコメント込みで世界の普通が表す本当の今をダイレクトに、そしてたたみ込むように伝えてくれる。どれもその国の普通。幸せの形も”物”という尺度でみれば日本が最も豊かだけど伝わる言葉や雰囲気からは単純な図式では図れない。そんな本をまた引っ張り出したのは、今回その当時の家族を再訪した番組を、NHKで放送していたからだ。

 ブータンでは”成功は求めない”といった父親が”息子のために成功したいがその方法がわからない”という。村に電気がきた。息子は病で倒れた。当時の満足すべき環境が文明の訪問とともに外との”比較”にさらされる。
 キューバでは”最も大切なものは家族”といった夫婦が離婚している。
 日本は不況のなか家族が話す言葉がばらばらになっている。退職後の人生を悩む父。一番大切なのが携帯電話と答える娘。そんななか7年間に新しく増えたものは買い替えも含めて数百点。家は変わらなくても中のものは溢れかえる。それでもまだ欲しい物があるという。

 今回放送された人々のその後は、どこか日が斜めに当たっているように思えた。発展途上であっても満足していた人々が不安におののく。溢れかえるものにどこかひずみが生じている日本。当時の本では、どこにも家族が一番大切という姿勢がどの写真にも垣間見れた。ヨーロッパやアメリカにはその姿が良く映っている。何故その姿が日本では見れないのだろう。一家族だけならわかるけれど、私が普通と見る日本でも、やはり同じような写真を撮ると思う。

 ボスニアの家族は戦争を乗り切って同じ部屋に住んでいた。母は死に娘は離婚した。父親はいう。”今は戦争が終わっていろいろ考えられるようになった。しかし先は闇の中で何をしたらいいのかわからない。戦争の時は生きることだけを考えればよかった。”

 普通という世界の本当の背骨となる部分が今日放送された通り病んできているのだとしたら、それは本当に危険な事だ。日本はそんな中、物質的快楽にどっぷりつかっている。間違いなくこれは幸せな事。けれど物貧しき国々を見て「私たちは豊かだから感謝しなさい」といわれても実感は湧かない。この国でなんとなく閉塞感を感じている人々は、ボスニアで話すお父さんと本質的には変わらない気もする。

 ブータンの村に電気が行く事は本当にいいことなのか。けれどそれは絶対に止められるものではない。だからそれはいいことなのだろう。そのために起こる”比較”という脅威にはどう立ち向かうのか。それは電気を生み出した当時の発明以上に難しい難題だが、我々世代が取り組むべき事例だ。現在論じられている政治も経済も技術も全ては100年前の積み上げに過ぎない。もうそろそろ世紀の発明が必要になっている。

 なんてちょと考えすぎか。もうすこし幸せが積み重なった家族もみたかった。いないわけはない。総じて幸せになっていると思う。続きは本を買うことにしましょ。 Home&Photo


2001年08月20日(月) 故郷で憂う私 

 帰省をするたびにつらいことがある。

 私の故郷はまぁ田舎だ。人口は2万人と北海道としてはまぁ多いほうかもしれないがそれでも田舎には違いない。今すんでいる札幌とは比べ物にはならない。
 自然が豊か、というのは街中ではそうも感じられないけれど少し歩けば森が広がっている。自然休養林の小川に行けば水草が漂っている。一緒に散歩した親からは”こんなところもあったのねぇ”との声が漏れる。定年間際の父と母は夕刻に二人で散歩をするのが日課となっている。家から30分の往復の間にちょっとした湖畔につける。近所だってそんなに車が走るわけではない。歩くには悪くない街だ。
 犬でも飼ったらと思うのだが動物好きなのに飼おうとはしない。しかしながら私が以前札幌で隠れて飼っていた猫を実家に預けたところそのままいついてしまった。その猫を散歩に連れて行って満足している。
 近所のどんぐりの木の周りは芝を張って広場になっていた。私が小さい頃秘密基地を作っていた藪も盛土もすっかりなく3メートルくらいの小高い山があるだけだ。そこに嫌がる猫を抱いて登った。家もまばらなその周囲には犬達を連れた子供や女性が散歩をしている。我がデブ猫はその犬達を高台から恐る恐る眺めながら身を伏せて早くかえりたいと主張している。昔登ったミズナラがかわらずに元気だ。富良野や道東のような北海道的な広がりはないけれど適度な街ともいえるだろう。平凡ではあるけれど段々その良さもわかってきた。庭はいくつもの鉢が飾られてガーデニングと小さな畑が堅実でつつましい暮らしを飾っている。

 そんななか予定を切り上げて早く札幌へ戻る事になった。私が小さい頃からわずらっている喘息の発作が出たからだ。横になると息苦しさが際立つので眠れない夜を過ごす事になる。呼吸がとても苦しい。この症状は帰省すると7割くらいの確率で現れる。札幌ではほとんどないから実家にアレルギーの原因があるかもしれない。病院では動物がアレルギー元だというので飼っていたインコをやめてそれ以来動物を飼ってこなかった。田舎だから環境だってこれ以上どうこう出来る訳ではない。そんなに重い症状ではないとはいえ札幌でなんともないことがどうして実家に帰ると起きるのか理解に苦しむ。

 迎える実家に帰ると症状が再発する。両親にとっては辛い事だと思う。私もとても辛い。でも仕方がない。

 どうしようもないことってある。どっちにもやさしい気持ちが憂いになってしまうことも。私はこの病と付き合っていかないといけない。そこそこうまくやっているとは思うけれど、このことだけは、とてもつらい。 Home&Photo


2001年08月17日(金) 照れ屋でもうれしいものさ

 ファーストフード店というのはなんとなく苦手で滅多に入らない。それでも最近たまに利用するのはマクドナルドが半額になってからだ。今日も利用してしまった。

 買い物というと普通はレジをとおってお金のやり取りをする。丁寧な店員さんもいれば通り一辺倒な人もいる。どちらかというとその方が気が楽かもしれない。もちろん素敵な笑顔がちょこっとあれば言うことはない。けれどあんまりにこやかにされるのもちょと戸惑ったりしちゃう。

 その典型がファーストフード店だ。マニュアル対応とはいえ対応がすこぶるいい。気後れしてしまうのはサガだからしかたないのだけど。でも今日のお姉さんは素敵だった。笑顔も素敵。札幌大通り中心部のお店だから激戦区なのだろうけれど。きっと人気があるだろう。わたしなんてかえって近寄れない気もするが。
 お釣りをくれる時に両手でそっと手をつつんで渡してくれた。ちょっとやりすぎなような気もするがうれしいサービスではある。それにしてもどうして女性の手というのはあんなにもひんやりしているのだろうといつも思ってしまう。
 ひとつ気になったのはカウンターの内側が高くなっていることだ。店員さんの方が高くなっていてなんとなく威圧感があった。

 そんなことはどうでもいいけどやっぱり丁寧な対応とはうれしいもの。せわしない店内に長居ができない性質な私はさっさと店を出たけれど少し幸せな気分だったのさ。 Home&Photo


2001年08月16日(木) 赤い光は溶けゆく灯り

 お盆も過ぎれば急速に涼しくなるはずの北海道だけど暑い。道草を食った夏が汗をかきつつ”おまたせ!”とやってきたようでどことなく秋に入っていた風景と空気が合っていない。からっとした暑さはなく蒸していて日も夏のそれよりは傾いて赤みを帯びているように思える。恨めしく思っているのはすでに終わった大通り公園のビアガーデンだけでもあるまい。
 この時間になると眺めれた月も厚い雲に覆われて見えない。すでに地平の下で寝てもいるだろう。ビル屋上にあるクレーンの赤色等が綺麗に点滅し都会の赤焼けた空にアクセントをつけている。

 先日富良野へ行った時に見上げた空は見事だった。中心地から数キロ離れただけで天の川を渡る白鳥も見事に浮き上がった。数万規模の街でもまだまだ空は美しい。
 ふと部屋の電気を消してみた。モニターから漏れる光は狭い部屋を蒼く浮かび上がらせた。空は赤味を増して少し陰鬱だ。

 降るような星の下では道はかなり見分けられる。目というものは自然光をしっかりと捕らえる事ができるのでしょうか。今見る外の光景は減光した赤色光で捉えたように心もとない。そのなかにたくさんの人の寝息が潜んでいる。
 都市の光。都市の闇。蒼く照らされたこの部屋も赤の雲間に溶けているのだろう。弱い光はあっという間に間延びして赤の波長へと帰ってしまうからでしょうか。そう考えると力強いのは星の光なのかも。星が消えたと嘆く空は実はほんの少しだけ。弱々しく拡散する光が赤から無色へと変わる直前に雲に映る。寄り集まった無垢で無知な人の姿。

 けっこうこの灯りもすきかも。
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2001年08月15日(水) 戦中生まれの父から想起する私

 終戦記念日とのこと。小泉首相が生まれたときは3歳だという。思うと私の父が生まれたときは戦時中だったことになる。そのなかで育ち今日まで来てようやく定年。正直言って地味かつ堅実に暮らしてきた父を見てると戦争を背景に生きてきたなどとはとても思えない。幼年期だから実際はほとんど影を落としていないのかもしれないが、日本の地方で発展の恩恵を受けつつ豊かに暮らしてきたということだろう。

 私の田舎は道南の小さな街だ。公務員の父は安月給ながらも地方としては貧しくもなく堅実だった。まだ家もまばらな場所に家を立てて庭を大事にしていた。趣味は庭いじりと釣り。近所づきあいはあったけれど酔っ払って帰ってくるとかゴルフや何かで家を開ける事もなかった。子供に過干渉することもなかったが冒険はしないで地に足をつけて欲しいと願っていたようだ。振り返ると父がどのような人生を送ってきたのかよくわからない。

 私は働き出して単調な毎日の中にやりがいを見出せずにたじろいだ。満たされたこの時代に更なる満足をどうしたら得られるのかがわからなかった。恋愛や結婚といった普遍的な人間性に寄りかかることができず両立できないと決め付けて他の何かを求めていいかわからずに彷徨った事もある。今もその続きだけれど。
 父の堅実そのものの人生はどうだったのだろう。まぁ波風立たない家庭を築いて仕事は順調。端から見たら申し分ないかもしれないが何か物足りない気がする。こういう場合、子供が孫でも連れて帰ってくれば一番いい親孝行になるのはわかっているが2人の子供は独身でふらふらしていたりする。それも何か物憂げに。

 ”子供は子供の人生なんだからあとは好きにおやんなさい。あとは私の人生好きにやるさ”などといってくれればいいのだけれど親である以上そうはいかないだろう。でも何か個人としてできることがあってもいいのではと思ってしまう。父母である前に一人の人間としての何か。それは責任転嫁なのだろうか。
 私はそれを前にして苦しんでいるところがある。家庭をもって子供を育てることが大きな幸福感をもたらすものである事は承知しているつもりだ。二者択一ではないのだから愛しければそのままくっついていけばいい。そのことは最近になってようやく認められるようになってきた。それから先はなんとでもなるだろう。

 でも父はどうなのだろう。自分のふがいなさや親不孝を棚に上げていうのもなんなのだがいくつになっても幸せの形に寄り添っていたいものだ。それが私達子供だけだったとしたらとても苦しい。

 戦争の苦しさには遠く及ばないけれど豊かさの中で生き方を探す事の苦しさ。苦しいことは今現実にある苦しさであって個人にとって大きいも小さいもない。私にとっての8月15日は親不孝と私のふがいなさに向き合う日となった。 Home&Photo


2001年08月14日(火) ファブリーズでは消えない匂い 

 先日ベランダで炭を熾して焼肉をやろうとしたら苦情が多数出てしまった。しかしながら火をつけてしまっているのでいまさらひけない。換気扇を回せば大丈夫だろうと室内にコンロを持ち込んだ。何、ホットプレートだって室内で使うわけだ。炭は炎が上がらない完全燃焼が売りなのだから大丈夫だと友人の忠告を退けてやってみた。
 しかしながらけっこう煙は出ているようで火災警報機が作動するかどうかひやひやもの。せわしなくさっさと焼いてみたもののそのうちビールが回ってよくわかんなくなった。

 それから一週間たって・・・、まだ部屋に匂いが残っている。炭焼きすると肉の汁が煙となって立ち上がるわけだから部屋を燻したことになるなるからやはりにおいが取れない。ここまで残るとは思わなかった。
 消臭剤にしても元のにおいを取るものではないからあまり意味がないし今は窓開けっ放しだから尚更意味ない。何かいいものはないかと思っていたら思い出したのがよくCMで耳にする”ファブリーズ”。布の匂い取りなら壁とかでもいいのかと思い購入。布に限らずいろんなところにかけてみたのだが・・・・。
 あんまり効果がない。うーんやっぱり厳しいか?
 。四六時中部屋にいる私が気がつくのだから外に出たらまわりの人はすぐわかるのだろう。服にも染み付いてるんだろな。困ったな。服には効くのかな、ファブリーズ。

 さてこの部屋どうしよう。お香でもたくかな。匂いには匂いで対抗するしかないのでしょうか。平安貴族の十二単のようにお香でごまかしごまかし。そういえば学生時代の制服はそう滅多には洗わなかった。

 ベランダで炭焼きは駄目だけどホットプレートなら許されるのだろうか?
 不動産屋に是非効いてみたいものだ。それなら買おうかな。貧乏だけど。でも一度注意されると方法変えても厳しいかな。やってる人は他にいないのかなぁ。何かいい方法あったら知りたいなぁ。 Home&Photo


2001年08月13日(月) 十勝岳いってきました(2)

 当初の予定を富良野岳から十勝岳へ変更した。スタートの混んだ駐車場で場所を開けてくれたおじさんが三段山のコースが険しくて面白いといっていたからだ。その言葉通りスタートから急登が続き富良野の風景が美しい。富良野は夕張山地と十勝連峰に囲まれた盆地であって中央に位置する富良野市は水田が広がっている。山腹から望むと高く上った日の光を受けて四角い水面の反射光が個々の彩りを魅せた。
 途中にある三段山のピークを越えると急に荒々しい風景となる。山は深い谷を刻み緑の山腹は一転して茶褐色の火山と化した。ほとんど垂直に見える崩落した岩壁にうっすらと登山道の踏み跡が見えた。ここでであった旭川から来た夫婦はその険しさに帰還を考えていた。
 急登はかなり険しくペンキを塗った岩の目印を一時見失ったがなんとかなった。一息つくと急激に霞が上がってきた。山の天気は変わりやすい。雲の中に入ったのだ。上昇気流にはいった我々は山腹を駆け上がる霧が頂上で溜まっている。残念だが山頂部での絶景は望めなくなった。峰を挟んで富良野側には雲が溜まっていて十勝側は少ない。山が天気を分けている事が良くわかった。
 ここからはほとんど尾根沿いなので登りは穏やかだ。十勝岳まではすぐだった。山頂は賑やかでほんの一瞬少しだけ晴れた。残雪が残る山腹と高層湿原が美しい。帰還は上ホロカメットク経由。活火山の尾根は強い風と貧弱な砂礫の土壌だがイワギキョウが美しい。高山植物の美しさはこのような荒地にあってこそかな、とか思ってしまう。上ホロの避難小屋には青年が一人。ここからトムラウシを抜けて天人峡へ抜ける3泊のコースとのことだ。うらやましい。私は単独行は滅多にしないのだが縦走となると尚更気が引ける。
 ここからは苦もない下山道。ミヤマリンドウが咲き乱れ思いの他見事なお花畑だった。

 途中寄ってみた吹き上げ温泉はなかなか見事な無料露天風呂だった。”北の国から”で宮沢りえと田中邦衛が入っていたお風呂だが観光地化してしまっているのが痛い。はいるなら誰もいない早朝か。けれどそれでも誰かいそうな感じだ。近くの有料の温泉に入ることとした。ふもとは快晴。見上げる山頂は雲が晴れていた。

 カメラもなしにやってきたがなかなか良い山旅だった。久々のテント泊もとてもうれしかった。同行したのはこういうことをしたことのない後輩だったのだが貧乏旅行の楽しみもわかってくれたかと思う。しかしながら年相応の旅の仕方も大事なのかな、との一言。確かにそれはある。一緒に話した人はキャンプ場を根城にしてにんじん工場に働きに行っているそうだ。俗に言う風来坊で確かに憧れもあるのだが30歳も半ばくらい。
 それだっていい。だけどそれがその場しのぎなのか。どこか帰る場所を見つけられるのか。そうして自分を見つけた人もいる。そうなればいいのですけれど。

 歳をとると方向転換が難しい。けれど私にはその気持ちもわかる。いい旅してもらいたい。私もそろそろそのお年。かなり浮世離れをしているけれどがんばってみたいわん。でも山はかわらず質素に通いたい。古傷の膝がおよしなさいというまでは。

 青揚がる峰に鳴るのは虫の声重なる蝉音秋夏伴侶
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2001年08月12日(日) 青揚がる峰に鳴るのは虫の声重なる蝉音秋夏伴侶 「十勝岳いってきました」 

土曜の夜札幌を発って富良野の鳥沼キャンプ場へと出かけた。三笠市の桂沢湖経由で行ったのだが久々に見る満天の星空。車に積んでいた星座早見版が大活躍する事になった。
 迷いつつキャンプ場へ到着。3年ぶりのキャンプ場は何も変わってなく道外からのバイクが多く求人情報がコルクボードに張ってあった。その時使って以来開けてなかったテントも問題なく使用可。久々のテント泊は会社の後輩に譲り私は車中泊と相成った。
 朝5時半に起きるとまだ静か。このキャンプ場の朝はそんなに早くはないようだ。そんな中早くからママチャリに荷物をくくりつける女性が二人。千葉からやってきた学生だそうだ。それだけでもう惚れちゃうほど魅力的な女性です。無人販売所には朝8時におばあちゃんが品物を並べていく。もぎたての小さなトマト6個。100円を入れておいしい朝食に艶やかさを添えた。
 朝は前日冷蔵庫に会った残り物の豆腐ともやしとひき肉、麻婆豆腐の素。キャンプ場の朝は自炊してこそキャンプ。霧雨交じりの不穏な天気であってもこの礼儀は忘れない。はっきりしない天気の中富良野から十勝岳を目指して急な上りを走る事となった。すると今年の夏には珍しい晴れ間が覗く。草むらからは虫の音、森からは蝉の声が聴こえてくる。一瞬の夏模様とすでに濃厚な秋の気配が同居して十勝連峰の峰峰から雲が消え去った。稀に見る好条件。しかし稀というのは予測であって実際はそんなに稀ではなかった。
 (明日へ) Home&Photo


2001年08月10日(金) ついえたちっぽけな楽しみ 

 私が新しい部屋に引っ越してのはベランダが気に入ったからだ。ルーフバルコニーといって奥行きが1.5mほどあるのでかなり広く感じる。不動産屋が”友達呼んでバーベキュー”できますよ。といった一言が決め手になった。アウトドア至高の強い私には都会の真中で焼肉ができるなんていうことはない。これはと思い、契約と相成った。
 未だにガスコンロのない私としてはチョコチョコ炭火を起こして焼肉をしていた。で、今夜も友人を呼んで焼肉と相成った。

 が、火を熾してすぐに苦情その一。それが呼び水になってか苦情その2までやってきてとっても寂しい感じ。折角の楽しみがこれでできなくなった。よよよ。

 やっぱり都会でそれも賃貸でここまで自由な空間というのは無理なようだ。そう考えると、庭のある暮らしに憧れてしまう。今まで具体的に田舎で暮らしたいと思ったことはそうはなかったのだけどこんな些細な事でふと思ってしまった。

 バーベキューくらい勝手にできるところにすみたいなぁ。 Home&Photo


2001年08月09日(木) すれ違い その1 

 借りていた本が期限となったので返しに図書館に出かけた。ネット仲間の夏音さんご推薦の本(清部千鶴子著、短歌新聞社)もメモして出かけた。
 夕張からの帰りに江別にある道立図書館によってついつい借りてしまった。家からは車で40分。返しに行けば何か借りるから2週間に一度通うことになりそうだ。正直蔵書数も少ないしあまりパッとしない。聞くところによると江別市立図書館は最近新しくなってとても豪華だそうだ。ビデオなどもかなり充実しているとのことだが札幌市民は借りれない。この辺のくくりは何とかならないものかな。
 で、本を窓口に返すと何か大騒ぎ。どうやら前回私は手続きをしないでもって帰ってきたらしい。連絡もつかずとても困っていたとのこと。るるる。
 借りたのは”ローマ人の物語”。閉架だったので直接手渡ししてくれた。
 (私)”もってっていいですか?(=借りてっていいですか?)”
 (窓口)”どうぞ(=ここでよんでいってくださいね)”
 意思疎通というのは難しいものだ。

 似たような事があった。職場に内緒で大学院の受験手続をしたときのこと。私は受験票を直接大学へ持っていったのだが教務課へ行くとはんこを押されて”経理へ行って”といわれた。そこでお金を払うと領収書をくれた。私はそれで終りだと思って帰ってしまった。すると大学から職場へ電話がきた。受験票を受理していないというのだ。お金を払ったら教務に戻るのが常識らしい。戻れなんていわなかったのに・・・。
 そうして私の辞職と受験は表沙汰になった。これはばつが悪かった。

 ついでに書くと貧乏人なので授業料免除の書類を大学に提出していた。書類には年収(といってもほとんど0)とか支出予定額とか生活実態調査とか納税照明(これも0)などあまり人には見せたくないものなわけだがそれを人の多い事務室で審査されるわけだ。
 ”収入はないのですね?”とか大声で言われるのは恥かしい。その書類を後ろから覗き込む助教授は悪い人ではないし興味があるのもわかるけれどその時少し嫌いになった。

 話題閑休。意思の疎通は難しい。私はその点人並み以上に抜けてるようだ。こんな例は山ほどあるが大抵その辺でギクシャクして人間関係のひずみが生じる。この辺をうまくすり抜ける方法をご存知の方、100万円払ってもいいからご伝授ください。

 あ、ついでに借りようと思っていた『片山廣子―孤高の歌人』はメモを忘れたため調べる事さえできなかった。結局ただの”まぬけ”ってことね。しゅん。 Home&Photo


2001年08月08日(水) 見上げる? 見つめる?

 照明を探しに行って水槽を買ってしまってからはや2週間。いまだに何もしていない。悩んでいるのはどこに置くかだ。
 私としてはかなり贅沢な部屋に住んでいるのだが2部屋あるうちどちらに置こうかと悩む。一つは台所付きで生活頻度は高くTVもパソコンもある。もう一つは寝部屋で正直ほとんど使っていない。
 水槽を畳敷きの部屋に置くのは避けたほうがいいらしいので居間に置こうと台も買ったのだけどどこにおいてもいまいちしっくりこない。話によるとテレビのそばや遅くまで電灯のついているところは駄目らしい。
 となると寝部屋ということになるのだけれど、買った台が高すぎて水槽を眺めるというより見上げる格好になってしまう。窓際なら格好はつくのだけれど水槽に直射日光が当たるのはよくないらしい。
 とりあえず配置してからと思っても一度水を入れたら動かせるものではない。そういいつつ時間ばかりがたってしまった。
 でもなんで熱帯魚なんか飼う気になったのだろう?
 親しくしていた先輩が大きな水槽を2つ持っていた。10畳にも満たない部屋でだからテレビを見るか水槽を見るかしかない環境だった。それでも留守中の部屋を覗くと蒼い水槽の光がなんとも素敵だった。それが頭に残っていたからだろうか。
 いろいろ考えつつもやっぱり寝そべった時に魚がゆっくり泳いでるくらいが丁度いいかなと思う。とすれば寝部屋。とすれば台が高すぎる。この台はおはらいばこかなぁ。いや、それは貧乏人のプライドが許さない・・・。
 かくして水のない水槽がいまだにでんと鎮座している。全く持って情けない。
 日曜にやってるドラマで渡部篤朗が金魚にむかって独白していた。私もそんなことをしてしまうのだろうか。してしまうんだろうな。だったら膝を抱えて向き合えるくらいの高さが丁度いいのかな。立ち膝だったらあんまり話せなさそうだし見上げるのも首がいたそうだし。
 ・・・・水槽の置く高さってけっこう大事かもしれない。それで住人の心内が読めるかも。
 私の買った台は80cm。狭い部屋には高すぎる。では心の位置的にはどうなのでしょうか?

 ※夕張岳花写真を多数アップしました。けっこう自信作です。いらしてね。 Home&Photo


2001年08月07日(火) 凛とした鷲の舞い 

 山からおりて疲れが出たのでしばらく車の中で寝ていた。虫がぶんぶんとフロントガラスにぶち当たってたけどしばらくたっておさまった。起きた時には車は大分減っていた。帰りは悪路だから明るいうちにと車を走らせた。慎重に走ったつもりだったけど何度か底をすってしまった。

 ようやく舗装路にでると文明のありがたさがわかる。エセナチュラリストは健在だ。緩やかに下っていると道の真中に何か黒いものが。石にしては妙にやわらかそう。するといきなり軽く飛び立ってまた道に降り立った。
 鷲だ。そんなに大きくはないけれどそれでも1m近い。悠然とど真ん中でこちらを見据えている。どくのはおまえらだといわんばかりに。まったく逃げようともしない。車をとめて写真を撮ろうかと思ったが山中で電池を使い果たしてしまった。でもこんな近くで鷲を見る機会などそうはない。独り占めの光景にほくそえみつつ王者の前にひれ伏していた。

 すると後ろから車が猛スピードで突っ込んできた。しかたなく道を譲ると邪魔そうに追い抜いていく。その瞬間鷲は翼を広げて飛び去った。車は一瞬たじろいだようだったがそのまま通り過ぎていった。
 小鳥のように飛び立つのではなく”失礼な!”とでもいうようにゆっくりと舞い上がっていった。羽の一振りで周囲の空気を従えるように浮かび上がった。それから空高く舞い上がり木の枝に舞い降りた。その後姿を消した。

 あたりは何も変わらず静か。幻でも見たかのように。

 凛とした風格をもつ生き物にはそうは会えないものだ。それはやはり近くで出会いたい。これ以上近づいてはいけないと思わせるぎりぎりのところで。
 今塩野七生著”ローマ人の物語”を読んでいる。鷲は確かローマ軍旗の紋章。皇帝の列伝を読んでいるとあの鷲をおもいだした。
 凛とした人に出会いたい。この時代には難しいようにもおもえるけれど。その視線だけで全てを見据えてしまうほどの器量に憧れてしまったのです。 Home&Photo


2001年08月06日(月) レンズと眼 

 仕事柄顕微鏡を眺める事が多い。
 
 某作家が言っていた。
”手術の時どう判断して切除を行うのですか?”
”美しくないところを切除します”
”といいますと?”
”生き物の体というのは”外も中も美しいものです。病変部は見ればわかります”
 もちろん蓄積された経験の上の話だがとてもうんちく深い。

 私の生業の一つは病理判定というものだ。切除した腫瘤が良性か悪性か炎症なのかを判定するわけだが全て”美しくない”連中だ。確かに正常なものとくらべると一目瞭然で構造が破壊されて悲鳴をあげている。
 白血球が集まって何かと戦っているのが炎症。激戦を戦って死んだ彼らは”膿”となって赤く染まり組織という”街並”を破壊している。まぁ戦いが終わればそこそこ復興するわけだ。
 仲間達が閉じこもった殻をつくって肥大していくのが良性腫瘍。外には出て行かないから周囲を侵すことは稀だが馬鹿でかい塊を作ることもある。自己満足の頭でっかちというところか。
 塊を作る場合もあるがどんどん周囲にもぐりこんでいってしまうのが悪性腫瘍。時には脈管系にのってとんでもないところに転移する。彼らを見るとどこをみても同じものが集まっている。核をギョロッとした目玉のように血走らせている。増えすぎる自我を抑えられずに周囲へ溢れ出ていってそこでまた増えつづける。阿鼻叫喚の絵にも似て亡者達がぎゅうぎゅうに群れて手をのろのろと上げうめいているようにも見える。助けを求めてそこにいるものまで引き込んでしまうゾンビのようなものだ。

 ”美しいもの”とは決して単調ではない。それは”癌”である。美は一見単調な繰り返しに見えたとしてもその中に微細で多彩な協調がある。それらが命を作り上げる。

 望遠鏡でみると火星の縞が見える。大きな望遠鏡なら星雲がみえる。光を集めて写真にすると色彩の豊かさに心を奪われる。それらは全て見上げる”目”から始まる。点でしかない光の中にある浪漫に惹かれているわけだ。例え今気がつかなくても。
 虫眼鏡や顕微鏡でも同じ。野の花の美しさが気になる人は一度ルーペをごらん頂きたい。その小宇宙は見事の一言。それだけで普段見る世界がより深くなる。

 レンズというものは素晴らしいものだ。それらによって美しいものや醜いものがよりはっきりする。なによりその経験が自分の”裸の目”でみることを鍛えてくれる。
 そんな私は眼鏡の世話になっている。眼鏡とコンタクトレンズでは星空のコントラストがまるで違う。視力を落としてしまった事は本当に残念でならない。こればっかりは今となってはしかたのないことですがね。 Home&Photo


2001年08月05日(日) ゆったりと流れる時間 

 友人に振られヒマな休日となるはずだったが久々のいいお天気。一人では初めてなのだが予定通り夕張岳へ行く事にした。車は2km以上離れた友人のところへ預けてあるのでそこまで出かけた。朝の4時半。ひんやりとした空気の歩道で寝ているおっさんを介抱するというハプニングものおまけつきだった。

 夕張までは約1時間強。そこから林道を通って登山口は悪路の連続だった。登山口には20台近い車が連なって人気のほどをうかがわせた。夕張岳は蛇紋岩というアルカリ性の土壌が露出しているため固有の高山植物が多く自生しているからだ。その為に盗掘が横行しているため管理が厳しい。入り口には盗掘防止のパンフレットを配る人に加えて携帯トイレを配布していた。山での大小の始末は非常に重要になっていることは個人的にはよく認識している。

 借りたデジカメにはバッテリーが十分になく慎重に写真を撮る。本を片手に様々な本を調べ接写。すみれやシナノキンバイが盛りとなって黄色い空間を作り出していた。これについては整理してアップしたい。

 何より驚いたのは4時間のコースタイムなのに6時間半かけて登ったということだ。今までの私だったら2時間半で登っているだろう。ピークハンターの私がこの鈍足。この事実に感動した。風景を眺め、花を観察して調べ、写真を撮り、道行く方々と花の話をする。ゆったり歩けるという事は感じる事が多くなったという事だ。これはとても大きい事。
 歩くスピードは速い私。それはともすればその場にいる事が居たたまれないからかなと思うこともある。楽しく話す人たちとその感情を共有できない焦燥感。脚は動いても目が下を向いていたりする。そんな私が今日は人の倍近い時間をかけた。おじさんに抜かれおばさんに抜かれた。

 花は思ったほど多くなかった。まだまだ眼が足りないという事ですが。けれど一つ一つの花に感動した。その足の遅さに気付いたのは下山して車に乗ってからだった。

 時計はどこかに忘れてしまってこの2週間ほどしていない。今回一番感動したのはその”時”のことだったのですよ。ほほ。 Home&Photo


2001年08月04日(土) 満月に泳ぐ鯉 

 夜風が冷たくて窓を閉めようとすると、満月が浮かんでいた。やや西向きに開く窓からみる満月は、ビル頂上の赤色灯に程近い。満月の夜は月が時計の短針と同じ動きをするわけだから、もう結構遅い時間だ。

 満月。海は大潮。浜辺で暮らしていたなら潮騒の音と月をもっと身近に感じられることだろう。生活の中に月を入れられたら、とても豊かだと思う。
 ”今日は満月だから潮がひくべやぁ”
 ”満月だからまだまだ仕事できるぅ、月明かりは明るいもんだべ”
 ”月が明るいとイカこないんだ、月に引き寄せられんかな、連中は”

 満月の夜に変身する狼男。女性の生理。街で口説く男も、満月の夜はお盛んだとか。人の生理は多分に月に支配されている。明るすぎる月はどことなく不吉で不安を駆らせるもののようで、本能的なものを呼び覚ますようだ。すすきにだんごにうさぎさんという三点セットがそろえば微笑ましいけれど、夜一人でじっと満月を見上げれば・・・・。

 いつの頃か忘れてしまったけれど、夏の暑い盛りに見事な黒い鯉があぜ道脇の池で泳いでいた。何歳なのか、悠然と。感嘆していたのだけれど、そのうち、夏の暑さもたたってボーっとしてきた。鯉の立てる波紋が、頭の中にまで伝わってきてゆらゆらした。その日の夜も満月だった。何故か満月をみると、その時の烏鯉(カラスゴイ)を思い出します。

 今宵は満月。月とともに暮らしていた頃の暦では、十五夜なのでしょうか。

  幾歳の惑いを映す烏鯉 揺らぐ水面は十五夜の月 Home&Photo


2001年08月03日(金) 上がらない花火をみる

 先週の花火大会の帰りに寄った飲み屋で”ボンボン”をもらった。”ヨーヨー”ともいうのだろうか。丸いゴム風船の中に水を入れたあれである。ひんやりとした感覚とわしゃわしゃという水音がなんとも涼しげで良い。閉店間際の店先で野郎には一つ、女性には2つと配っていた。
 その”ボンボン”もだんだんとしぼんできた。

 今日も豊平川の河川敷で花火大会の予定だったけれど雨模様の天気で流れた。先週も流れたからやっぱりぱっとしない夏だ。そんななか河原を歩いているとわずかだが人影がある。浴衣姿の女の子が二人、河原を通る人に手を振って愛想を振り撒いていたり、なんとも可憐である。ちらほらいるのは階段状の傾斜地にたたずむカップルだ。明らかに流れたとわかる夜にもしあわせそうに並んでいる。なかにはただ前を向いているだけの人もいれば膝枕としゃれこんでいるのもいる。
 上がらない花火と静寂な河原。けれど目を少し上げれば華やかな街の明かりが色を添えている。歓声と喧騒の花火もまた素敵だけど予定にない貸切の会場に座り込むのも悪くはない。恋人達の”間(ま)”はどんな出来事だって素敵に昇華させる事ができるもの。そんなお二人に大輪の打ち上げ時花火とは言わなくとも線香花火の一本をプレゼントしたくなります。憎らしさは敢えて押し留めて、大人だし。何より風はほとんど秋ですし。

 ボンボンが張りを失ってしぼむ頃には盆も暮れるかな。残暑などどこ吹く風で秋はすぐにやってくる。
 日曜の天気予報は週間予報を裏切って晴れとのこと。まだ元気な”ボンボン”はてるてる坊主ということかも。

 雨模様今日の花火は上がらない闇満つ河原寄り添う二人 Home&Photo


2001年08月02日(木) 夢の宿がたっていく 

 ついつい夜更かしをしてしまった。知り合いの人たちが最近続々と宿を開いている。旅の好きな人々の集まりで、仕事を放って旅歩いていた人々が見事な宿のオーナーになって頑張っている。好きなことを続け、歳をとってきたときに何らかの形を作りたいと思うのだろうか。旅人と宿の亭主というのは延長線上にありそうだから、結婚したりよい所を紹介したいなと思うようになればこういう形になるのだろうか。

 旅というのはいろんなところに出かけるタイプが多い。近所だったり読書だったり内的なたびももちろんあるけれど。ネパールの山中だったり北海道の森の中だったり。そんな中はまっていく人々は出会った人々に触れ合う事ができた人たちだ。楽しい事は人に教えたくなるもの。そういう人たちの宿は本当に居心地が良さそうだ。

 けれど彼らにあんな素敵な建物がそう簡単に建つとは思えないのだけれど。お金があったとは思えないし。いや、やる気になればなんとでもなるものなのか?
 そうだとしたら心強い。もちろん地道にやってきたことは生きるだろうけれど、そうでなくたってなんとかなる。人生始めるのに遅すぎるって事はない。なんたって平均寿命世界最長のこの国で守りに入ったって先が長すぎる。
 北海道のどこかに自分の小屋を作りたかった。基板が札幌になってしまったけれどそれはそれで捨てがたいしやりがいもあるし大切だ。都市だって捨てたものじゃない。ならばどこかに別荘でも建ててみよう。今借金100万円だけど。よよよ。

 参議院で当選した枡添要一氏がいいことをいっていた。”構造改革とは80歳まで生きられる時代に60歳までしか生きられないシステムのままでいる今の状態を打破する事だ”と。

 少々飛躍ししているけれど私もまだまだ生きなきゃいけん。迷いながらも大切な木の芽をみつけながら。自立した価値観を信じて、見つめていけたならきっと素敵な年寄りになれるはず。 Home&Photo


2001年08月01日(水) オアシスに潜む惑い 

 内地では記録的な猛暑だというからそうなのかなと思っているが、北海道は冷夏なのではないだろうか? 山に行こうと天気をいつも気にしているのだが平野部でも雲が多い。山に行っても小雨交じりだろうからと敬遠しつつほぼ一月たってしまった。今週もだめっぽい。

 水槽を買ったので、熱帯魚でもそのうち飼おうと熱帯魚屋さんに行ってみた。薄暗い室内は少し蒸し暑い感じだけれど、全面に並んだ水槽からこぼれる青く揺らぐ光が異次元にいるようなうつろな感覚を引き出させた。水槽の中を泳ぐ色とりどりの小さな魚達は私の姿に反応してすばやく集まって泳ぎ去っていくが、すぐに何もなかったかのようにゆらゆらとまわりだす。なまずは小さな水槽からはみ出すほど大きく、お腹の白をさらけだしている。エンゼルフィッシュが優雅な横顔を見せて次の瞬間には薄い後姿をちょと小ばかにするようにみせる。アルビノの白い子エビが底をのんびりと歩いている。太古の古代魚が口をあんぐりと開けて見下ろしている。
 水槽上から静かに循環する水の音が鈍くこだまする。昔聴いた気のするエアレーションの音がない。揺らぐ水草は一つの宇宙を抱くようにテトラの群れを包み込んでいた。

 私は何度も同じ所を眺めながら行ったり来たりしていた。どこも同じ空間に訳のわからない連中がいる。きれい、かわいい、グロい、おかしい。いろんな形容詞が舞う中で共通してるのは”こいつらなぁんにも考えてないねんなぁ”というところ。そのうち私も考えなくなっていた。

 確か去年くらいだったか、NHKのシナリオコンテスト佳作だかで”オアシス”というのがやっていた。途中から見たのだけど何故か妙に心に残っている。深夜繁華街で開いている熱帯魚屋にやってくる人々を淡々と描いた作品だ。じっと覗き込む会社員。話し掛けるOL。悪態をつく年配者。こっそり水槽を叩いている上品な女性。そこに通って店員と交流する女性役は管野美穂だった。

 青く光る水槽には気付かないほどはかなげに自分が映っている。ゆったりと泳ぐ彼らの眼にも私が映っている。その姿を天井から魚眼レンズで眺めたらどう映るのだろう。
 この空間は間違いなく異次元だ。私はこの空間に一時囚われた。通路は閉ざされた私であって水槽の水は連なる外であった。

 私の部屋には空の水槽がある。その水槽に水を入れる事が少し怖くもなった。いえ、一つなら綺麗で癒されるでしょう。けれどたくさんの水槽にいつも囲まれるというのはとても怖い気がしてしまったのです。

  蒼い蒼い惑いの海に囲まるる 合わせ鏡の眼に映る我 Home&Photo


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